#41. 熱たぐる 光に溺れる此岸未満


 来てくれるかもわからない場所で、ずっと梨生を待っていた。


 小学生の頃は、梨生がさっさと先に走っていって、遊び場で私をいつも待ってくれていた。中学生になって一緒に駆け回ることがなくなってからは、私たちはうまく落ち合えなくなった。


 それでも、私は梨生を待っていた。待ち焦がれていた。

 何度もそこを立ち去ろうと思った。

 だけど、諦めきれなくて、忘れられなくて、上書きもできないで。

 せめて、梨生が他の人間とどこか別の場所へ行ってしまうまでは、ここにいようと決めた。


 そうして今。

 私がずっとここで彼女を待っていたことに、梨生は気付き始めている。

 私が立っているこの場所を意味を。

 私が誰の隣にいたいのか、誰にいてほしいのかを。



 # # #



 会社の飲み会があるということで梨生は帰宅が遅かった。今夜は私がリビングルームのソファに埋もれて彼女の帰りを待っている。

 テレビもつけず、音楽もかけていないけれど、退屈なんてしなかった。そわそわとした期待が胸にくすぶっているから。

 すでに冷えたハーブティーを口にしても、体がぽかぽかしてくる。形も根拠もない嬉しさが、私の口角を跳ねあげさせ、目尻を下げさせる。行き場のない昂揚感で、ビーズクッションの上を転がり、それに顔をつけてぎゅっと抱きしめた。梨生の匂いがしないかと、息を思い切り吸ってみても、彼女と同じ石鹸やシャンプーを使い、同じ空間で長く過ごしたこの鼻は、もはや私たちの違いを嗅ぎ取れなくなっている。それでも、私の心臓は甘く締め付けられる。



 ――このクッションソファの上で二人並んだあの夜。

 決定的なことはなかった。それでも、“何か”があのとき、私たちのあいだには確かにあった。

 とうとう私の気持ちは梨生に届いたんだと、そう思う。

 そして、それは拒否されることもなく、むしろ……。


 もしかしたら勘違いかも、と怖気づかないわけじゃなかった。でも、その不安をゆっくりと溶かし、心が舞い上がるのを止められないほどには、あれから梨生と毎日交わす声や目線で、少しずつ、梨生からの“応答”を私は受け取っている。

 もうこの想いを隠す必要も、抑える必要もないとわかってから、私は全身でそれを表している。そんな私を見て、私の中にある彼女への想いに気づくたび、梨生は新鮮に驚き、それからぱっと瞳を輝かせる。その瞳が輝くたび、私の想いも燦々さんさんとますます輝いた。

 言葉にして確かめ合わなくても、その煌めきを交換するだけで――私が待ち続けたこの場所に、梨生もとうとうやって来てくれたんだ、ということがわかった。


 嬉しさが、頭のてっぺんから爪先まで巡って、この頃ずっと、私の全身はじんわりぬくまっている。


 もちろん、じれったさだってある。早く私の手を取ってほしい、とも思う。休日出勤まである忙しい日が続くなかで、実際にはろくに梨生と話せていない。……けれど、それでも。

 長いあいだ待ち続けた分、梨生と通じ合えたこの喜びを、ひとり立ち尽くしてとっくりと味わいたい気持ちもある。

 長い長い待ちぼうけのあと、ようやく出逢えて、同じ感情を宿した梨生の瞳と向かい合えている。それを実感することには、たまらない甘やかさがあった。

 抱擁は、まだほんの少し、先でもいい。その目を見ていたいから。




 そのとき、玄関の扉が開く音がした。早足でそこへ向かうと、座り込んで靴を脱いでいる梨生がいた。


「梨生、おかえり」

「――ぁ、ちーちゃん。ただいま」


 振り返ってこちらを見上げ、にへらと笑った梨生の頬は少し赤かった。


「酔ってるの?」

「んん。大丈夫ですよ、見た目より大丈夫なんで」


 まだ靴を脱ぐのに難儀している彼女を手助けしてやったあと、立ち上がった梨生が歩きかけてふらついたのを見てすかさず腰を支えたら、梨生はぐにゃりと体をもたれかけさせてきた。


「ふふ、ちーちゃんは頼もしいなあ」


 元々健康体なことに加えてアルコールでさらに熱くなっている梨生の体温が、私の胸を少し息苦しくさせる。


「――ちゃんと歩いて」

「うん」


 廊下をよたよたと二人で進み居間に辿り着いて、とりあえず梨生をローテーブルの前へ座らせた。


「今、水持ってくるから」

「うん、ありがと」


 私がキッチンでコップに水を注ぐあいだに、彼女は「あつ」なんて言いながらコートを煩わしそうに脱ぎ去っている。コップを手渡すと礼を言って、ごくごくと音を立ててそれをすぐさま飲み干し、「うま」とつぶやいてカウチソファの座面に頭を預けた。ほっそりと長い喉がさらけ出されている。

 その手からコップを取っても特段の反応はなく、このままここで眠る気でいるのか、梨生はかすかに微笑みをたたえ、無防備にまぶたを閉じている。私はその左の二の腕に視線を走らせた。

 ――長袖に隠れてるあの傷は、今、お酒で赤く色づいてるかな。


 まだ幼かったあの日、私は「梨生とずっと友達でいたい」と願いをかけた。その願いと共に蹴り飛ばした靴のために、梨生はその肌の上へ消えない怪我を負った。――いわば、私が梨生に刻みつけた傷。

 私が「ずっと友達」なんてお願いをかけて梨生に傷跡を残したから、私たちは友達以上にはなれないのかな、と悔しく、疎ましく思った時期もあった。

 けれど、今はその呪いも怖くない。


 くっつけた体越しに伝わってきた胸の鼓動や、触れ合った指先、瞳の麗らかな輝き。

 私にとって、それは呪いなんかじゃなくて、きっと。



 梨生の二の腕をそっと握って揺り動かす。


「ちゃんとベッドで寝なよ」

「うん……」


 返事をしながら彼女は物憂げに頭を動かし、薄くまぶたを開けてこちらを見た。

 ほんのり朱に染まった細い首を反らした先、ソファへ載せた頭があり、その頬は婀娜あだっぽく上気し、唇はたった今グロスを引いたみたいに艶めいていた。

 流し目の視線は、酔いにまどろんで弛緩しているようでも、野生動物が獲物を前にして本能を剥き出しにしているようでもあった。酒気を含んだぞんざいな呼吸に、彼女の胸は小さく上下している。捕食の意志なんてないとでも示すかのごとく、床の上へ投げ出されている梨生の両手。


「……」


 言葉も交わさず見つめ合っていると、やっぱりその瞳は、茂みに潜んで獲物へ飛びかかる寸前の肉食動物のそれに思えた。ゆらりと匂い立つ獣性にひりつく空気をまるで無視するみたいに、もしくはこちらの油断を誘うみたいに、眠たげにゆっくりとなされた瞬き。まつげにひっかかった彼女の前髪が揺らぐ。

 もっとその目で私を見てほしい。目にかかった梨生の前髪の束をそうっと指先でよける。また、焦らすように長めの瞬き。


 ――触りたい。確かめたい。

 緊張でどんどん冷たくなる手を数回握りしめ、息を吸う。

 言っちゃおうかな。……少し、少しだけ。


 そろそろと腕を伸ばし、彼女の無防備な指先にちょん、と人差し指で触れる。「梨生」と呼びかけた。声がかすれる。咳払いをして言葉を続ける。


「早くベッド行かないと――お、襲っちゃうぞ……」


 言葉だけは冗談めかして、だけど、偽らざる本心を口にした。


「……」


 笑うでも動揺するでもなく、梨生は感情の読めない目つきでこちらを見つめた。

 息を詰める私を見返すうち、梨生の瞳がかすかに揺れて眉を下げたかと思うと、彼女はにへ、と笑って私の頭をくしゃくしゃ撫で回した。


「ちーちゃんに言われても、全然こわくないなー」

「……」


 乱暴なその手つきと、からりと明るい声音は、艶っぽさが入り込む隙を与えない。

 勇気を出して言った分残念ではあるけど、茶化し半分の卑怯な自分の物言いがだいじな一線を超えるきっかけとならなかったことは、正直ほっとした。梨生に頭を触られるのが心地よくて、唇が自然と緩む。

 すると、しばらく髪をかき回していた梨生の腕が気怠げに滑って、私の両肩の上に留まった。がくんと首を落とした梨生は言葉を発さない。不自然な沈黙に、まさか眠ってしまったんだろうか、と思いかけたそのとき、肩を引き寄せられるような力の気配をほんの一瞬感じた。けれど、それはすぐさまかき消えて、逆にぐっと肩を押されて私たちの距離は少し開き、ただちに梨生の腕は離れた。


「……」


 何が、起きたんだろう。

 何も起きてはいない。

 起きてはいないけど、何かが起きかけて、その予感は稲妻みたいな速さで消失した。心臓が暴れている。梨生は俯いたままで、その表情は伺えない。

 静かに梨生が口を開いた。


「――ちゃんと、お風呂入ってから寝ます」


 頬に手を伸ばして彼女の顔を上げさせようか私はひどく悩んで、結局、


「……湯船に入らないで、シャワーだけにするんだよ」


とただ応えた。梨生がぽつりと言う。


「――溺れる心配されるほど酔ってないけど、うん、そうする」


 のっそりと立ち上がった梨生は、脱いだ形のままのコートを置き去りに居間を出て行った。よっぽどその後ろ姿を追いかけようかと思ったけれど、歓喜に私の体は固まっていた。


 梨生の目にさっと走った迷いのような色と、私の肩を抱き寄せようとした衝動の気配を、ぐるぐると猛スピードで思い返す。

 少しでも何かが違っていれば、梨生に抱きしめられていた可能性があった。数ミリわずかにずれた別の世界線において、彼女の腕のなかで感動に打ち震える自分の姿さえまざまざと幻視できた。

 そうならなかったこの世界を恨めしくは思わない。

 梨生の逡巡が、まるごと愛しい。


 わずかに届くシャワーの音を聴きながら、脱ぎ捨てられたコートへひざまずいて顔を押し付けた。深く呼吸をしたら、太陽みたいな匂いが感じ取れた。あんまり幸福だと胸が苦しいんだ、と知る。

 言葉にならない昂揚感が爆発しそうで、顔を埋めたまま、私は「うう……」という呻きを漏らした。


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