44. 覆水返す盆なくて離別の一歩
ひとつ屋根の下に住んでいても、片方が仕事に忙殺され、片方が相手を避けていれば、顔を合わせずに生活するのは容易だった。
もちろん食事はこれまで通り用意していたが、いったん千結から遠ざかるようにした途端、ずるずるとその習慣は続いてしまった。
初めは、以前と変わらぬ態度へ戻ろうと梨生は努力した。なんでもない振りをして、千結とはこれまでと同じく“友達”であろうとした。しかし、彼女の顔を見て、声を聴き、自分のなかにぽっかりと空いた穴の存在を認識すると、それは難しかった。己の脆さに辟易としながらも、梨生は千結とどうにか普通に話し、笑顔を浮かべようとした。けれども穴はしくしく痛み、やがてじくじくと膿んでいった。
そのうえたまに顔を合わせるときがあれば、梨生のぎくしゃくした態度を取りなそうと千結が無理をして普段より明るく振る舞っているのがわかった。千結らしからぬ、上ずった声の調子やこちらの心情を推し量るような視線を受けて、梨生は「そんなことしてくれなくていいのに」とますますみじめさを味わった。
しかし、部屋に一人帰ったときや仕事の合間のふとした瞬間、千結の目のあの
もはや、自分の気持ちが彼女へ伝わってしまっていたかどうかなんてどうでもよかった。それはあまりにも明白だったし、その結果二人のあいだに生じた居た堪れなさは慌てて穴埋めされようとしている。屈辱的だった。
――そうするうち、元通りに戻る努力をするのも、千結から同情されるのにも疲れ、梨生は彼女がいないときを見計らって素早く居間やキッチンで用を済ませるようになっていった。
そうした日々がどれほど続いたか、カーテンの隙間からこぼれる光が思いのほか春めいて感じられた朝。その丸みを帯びた日差しを布団の中でぼんやり感じていたら、慌ただしく朝食を摂る気にもなれず、梨生は普段よりも長くベッドで過ごした。年度末に向け、梨生の職場も多少は忙しさを増している。出勤する前から憂鬱だ。電話の一本でも入れて突発的に休みたい気もしたが、ひとつため息をついてのろのろと起床する。
そうして居間の扉を開けたら、
「おはよう、梨生」
千結がいた。面食らって梨生は口ごもり、
「――早起きだね」
とだけ返した。目を逸らして冷蔵庫へ向かう。牛乳を取り出しながら、これはあの日の朝みたいではないか、と思って梨生はなんとなく嫌な予感を覚える。そのとき、まさに背中側から、決然とした千結の声がかかった。
「梨生、今日何食べたい?」
「何って……夕飯?」
背中を向けたまま、ぼそぼそと梨生が訊けば、
「うん、私、梨生の食べたいもの作るから」
千結はきっぱりと応じた。その言葉の意味するところがすぐには捉えきれず、梨生は振り返った。いつもうんと帰宅が遅い千結が夕食の支度をするのは難しいのではないか。まともに彼女と視線を合わせることへ居心地の悪さを感じつつ、梨生は訝しげに問うた。
「……今日は有休でもとったの?」
「辞めた、会社」
「えっ?」
素っ頓狂な声を上げた梨生に対し、千結は淡々と告げる。
「正確には、すぐには辞められないから溜まってた有給をいったん消化してる。引き継ぎだとか諸々整理して正式に退職できたら、今後はフリーランスになって在宅で仕事するつもり」
十分考え抜いたうえでの決断なのだろう、迷いのない顔をした千結を前にして、梨生は驚きのあまり絶句した。
すると千結はにわかに気弱な表情になり、早口で言い足した。
「家に長くいるぶん家賃は多めに出すし、今まで梨生がやってくれてた家事もちゃんとする。これからは料理だって頑張るから、……だから」
顔を歪め押し黙った千結を呆然と見返し、それから、「そんな必死な目をしなくても」と梨生は胸中でつぶやいた。千結には似合わないその目つきに、無性に苛立ちを感じた。自分の最近の態度が彼女にそんな表情をさせているのも理解できて、どうしようもなく不愉快だ。背を向けて、短く応える。
「――わかった。今は時間ないから、家帰ったらまた話そ」
そしてコップの牛乳をひと息で飲み干し、梨生は洗面所へ向かった。
満員電車に揺られて会社へ向かっているあいだも、上司が壊したセルの関数をちまちまと直しているあいだも、気分転換にコーヒーを淹れているあいだも、厄介な顧客について同僚と笑いながら愚痴を交わしているあいだも、言葉にならない、もやもやとした感情が梨生の胸にくすぶっていた。頭の隅ではずっと今朝のことを考えている。
仕事をやめるというのは、人生において小さくはない決断だ。千結に、頼ってほしかった。相談してほしかった。
けれども、自分が彼女を避けるような振る舞いをしていたのだ。相談なんてしづらかったに違いない。
千結はずっと忙しく働いてきたが、もう色々と限界だったのだろうか。今朝、「退職する」と述べたあとの、弱々しくも必死だった彼女の目。同居人に相談もできないまま大きな決心をするのは、やはり心細かったろうか。申し訳なさがじわりと募った。
……でも、彼女は自分自身で物事を決められる人だから。きっと、自分の助言なんて必要なかっただろう。
パソコンの隅に表示された時刻をちらりと確認して、梨生はアプリケーションを次々と終了させていった。一応、定時は過ぎている。業務量が増えているこの時期、やらねばならない仕事はまだ残っていたが、このまま集中できない状態で残業をしても仕方がない。残ったタスクは明日の自分へ委ねることにした。……明日の自分が、今日よりも仕事に集中できるかはわからないけれど。
「お先に失礼します」と周りに挨拶をし、フロアの出口へ向かう。途中、別チームの女性のデスクの所で、他部署の男性が立ち話をしているのを見かけた。パーテーションに肘をついて屈託なく笑う男性へ、女性の明るい声が返る。あの二人はどうやら秘密裏に付き合っているらしい、と噂を聞いたことがある。足早にオフィスを横切りながら、梨生はふと思う。
千結の突然の辞職は、もしかして『会社の気になる人』と付き合い始めて同じ職場にいられなくなったからではあるまいか。
「……」
止まりそうになった足を前へ動かし続け、なんとかエレベーターホールに辿り着く。
そうか、と梨生は静かに思う。諦めと共に。
あの日の朝、その存在を知ってから、いずれ千結が誰かと付き合う可能性について考え続け、その状況自体を受け容れる覚悟はもうできていた。しかし、どんよりとした疲労感は広がっていく。
――同じ家に住んでたら、ちーちゃんの帰らない日とか、そういうのがくっきり把握できちゃうじゃんか。
重たい腕を上げ、階下へ行くボタンを押す。
このあと家へ帰れば千結が待っている。彼女の退職にまつわるあれこれを話し合う約束がある。
エレベーターの到着を待ちながらスマートフォンを見れば、1件の通知があった。千結からの『何食べたい?』というメッセージだった。そういえば、彼女が手ずから夕飯を作ってくれるという話をうやむやにしたままだった。返事を打とうとして、しかしどうしても言葉が浮かばない。
エレベーターの扉が開いたのを契機に、梨生は携帯電話を鞄の中へしまい込んだ。一人乗り込んだしんとした箱のなか、頭上で光る階数表示を見つめている。11, 10, 9, 8……
嫌だ、と梨生は思う。
家へ帰ったら、千結から決定的なことを話されるのかもしれない。
辞める理由について。その決断へ至らせた、千結にとって大切な、“気になる”誰かの存在について。
二人で和やかに食卓を囲むことなんて、今の自分にはできそうになかった。その『誰か』と千結のことを笑顔で祝福するなんて、とても。
俯き、自分の爪先に目を落とした。
エレベーターから吐き出されて、あとはもういつも通りまっすぐ駅へ向かうだけなのに、梨生の足取りは重たかった。歩道の端へのろのろと寄り、『ごめん、残業することになったから遅くなる』とだけ千結に返信した。もうオフィスを出ているというのに、こんな返答を行う自分の不誠実さにため息が出た。
梨生はただ時間をつぶすために、ショッピングビルの店舗を歩き回った。欲しくもない服を見て、試着し、1ミリも心が動かされないアクセサリーを手に取っては戻した。ビルの営業時間も終わって最寄駅に着いても、家へ帰る踏ん切りがまだつかなかった。真っ暗な夜道をとぼとぼと歩いて、帰宅路の途中にある公園へふらふらと流れ着く。
久方ぶりに、思い切り走りたい気分だった。何もかも置き去りにして、ただ、風だけを感じたかった。頭を空っぽにして、体に染み付いた動きを本能のままに行い、迷う必要のないゴールへ駆け抜けたかった。
だが、足元はヒールだ。梨生は力強く地面を蹴り出す代わりに、足を引きずるようにして公園の真ん中を横切り、夜闇のもと煌々と光る自動販売機へ近づいた。白い息が浮かぶこともなくなった気温だが、我知らず指はある商品のボタンを押していた。
鉄柵に腰を預け、温かいコーンポタージュの缶を傾ける。小さなそれはすぐに飲み終わってしまったけれど、缶の底にはまだコーンの粒が残っているようだった。缶を叩き、喉を反らしてみても、どうしても粒は回収しきれないのだった。梨生は淡く笑う。
――ちーちゃん、コーン残すの嫌いだったな。
もう随分長いこと、彼女と向かい合って食事をしていない気がする。
もしかしたら、彼女との同棲生活も残りわずかなものなのかもしれない。それを、こんな風に終わらせてしまうのか。
千結を遠ざけながらも一方で、彼女の隣の位置を誰か他の人間に奪われたくない。
自らの幼稚さと、傲慢な独占欲には呆れるばかりだ。しかしながら、千結の笑顔を隣で見る、顔も知らない、彼女が選んだ誰かを、憎いと思うのは止められない。
彼女の幸せを心から喜べない自分が、どうしようもなく悲しかった。
せっかく手作りの料理で自分の帰宅を迎えようとしてくれている親友に、嘘が明らかな冷たいメッセージを送りつけてしまう自分が、腹立たしかった。情けなかった。
一緒に夕食をとれなかったことについて千結へどう謝ろうか、どんなメッセージを送ろうか、虚ろな気分のまま梨生は考えあぐねた。
惑う心を慰めるには、物理的な状態としても揺れているほうが気が紛れるように思い、足はブランコへ向かう。仕事帰りのいい大人がブランコに乗っているのはいかにも訳ありといった風情で恥ずかしくもあったが、もう日が落ちて辺りも暗いし、と梨生はブランコを漕ぎ出した。
青白い光を放つ液晶画面をじっと見つめていても正解はわからず、やがて、祈るような気持ちで連絡先から一人を選び通話ボタンを押す。
コール音が幾度もしないうちに彼女は電話へ出て、懐かしい声で「もしもし」と言った。それだけで、梨生の心はじんわりとほぐされる。
「ホンちゃん、久しぶり」
間髪を容れずに、かつての同級生は明るい声を上げた。
「ドゥ〜! 久しぶり!」
「今電話大丈夫?」
「全然大丈夫だよ! どしたの?」
梨生は口角を上げ、ブランコへ勢いをつけた。
「ん、なんとなく。最近ホンちゃんと話してなかったし、どうしてるかなって」
「変わんない、変わんない。仕事やだな〜ってときと、楽しいかも〜の繰り返しで、なんとかやってるよ〜」
言葉の通り、間延びした喋り方の変わらぬ声が、何百キロもの距離と年月を隔て、梨生にあたたかく届く。
「遠距離の彼とはうまくいってる?」
「うん、変わらず。意外とこっちにちょくちょく会いに来てくれるんだ〜」
「ホンちゃん愛されてるねえ」
「遠距離恋愛なんて無理だと思ったけど、どうにかなるもんだよねえ。まあこれも? ウチの魅力のおかげやんなあ〜」
今は大阪で暮らす彼女は、わざとらしく関西弁でおどけてみせた。梨生が「ふふ」と吐息をこぼすと、ホンちゃんはリラックスした様子で言う。
「ドゥはどぅーなの、アワたんとの生活は。主婦やらされてるんじゃない?」
「そんな。――うん、こっちも変わりないよ」
そこはかとなく沈んだ梨生の声音を鋭く嗅ぎつけ、
「あれ、なんか……君たち喧嘩でもしたぁ?」
ホンちゃんはニヤニヤと楽しげに訊いた。
「――ううん、喧嘩っていうか……」
だが梨生は口ごもり、合間にはブランコが頼りなく揺れるキーキーという音が響く。ただごとではないと察したらしきホンちゃんの声のトーンが、一段真面目になる。
「なになに」
彼女の名を口にしようとして、その些細な行為にすら胸が軋み、梨生はかすかに呻いた。
「……えーと、ね。わたしはちーちゃんとの二人暮らし、すごく……気に入ってたんだけど、もしかしたら、っていうか、もうそれはもちろんそうなんだけど……」
「うん」
「……なんていうか、この暮らしってずっとは続けられないんだなって最近思って……」
「どうして? アワたんはこのまま老後まででもドゥと二人で暮らしたい勢いだと思うけど」
「うーん……なんか、ね」
息を吸って、震えそうになる声を笑い混じりに吐き出す。
「ちーちゃん……会社に、気になる人がいる、らしくて……」
途切れがちに述べた梨生に対して、ホンちゃんからは、やたらと質量のある沈黙が返ってきた。その黙り込んだ様子から、ホンちゃんは彼女から好きな人の相談を受けていたのかも、という憶測が生まれ、梨生はひそかに気落ちした。なるべく何でもないように声を弾ませて続ける。
「ちーちゃんが本気出したら、どんな人でもたぶん付き合えるでしょ。……というか、もう付き合ってるかもしれなくて。だから……その人とそのうち結婚か、結婚じゃなくても一緒に暮らすってことになったら、当たり前なんだけど、……この生活って終わりなんだな、って改めて思って……寂しいな、みたいな……」
感情を矮小化している、と自分でもわかっている。寂しい、などという言葉では到底表しきれぬ、凍てついた暴風が梨生の身のうちには吹き荒れていた。
しゃべるうち語気から張りを失くしていった梨生の言葉を受けて、ホンちゃんは神妙に問う。
「――アワたんの好きな人、どんな人だとかって詳しく話聞いた?」
「――ううん」
友達なら、彼女の恋の話を聞いて、応援したり、相談にのったりするのがあるべき姿なのかもしれない。でも、梨生はそれをしたくなかったし、出来るとも思わなかった。
大きなため息と共にホンちゃんは「そっかあ」とつぶやき、それから、
「……ドゥはさあ、アワたんと老後まで一緒に暮らしたい?」
と言った。
「老後? ふふ、わかんない」
彼女の大げさな物言いに少し笑いを誘われたが、あくまで回答を求めるようにホンちゃんは黙っているから、梨生も観念して本音をほんの少しだけ打ち明ける。
「……ちーちゃんにはちゃんと幸せになってほしいから、わがままは言えないよ」
よき友達として恋の相談を聞くことはできなくても、今はまだ自分の気持ちの整理に時間がかかるとしても、彼女が幸せになる未来は、きちんと祝福したい。
ホンちゃんは、静かに梨生の言葉を受け止めてから、ゆっくりと応じた。
「アワたんはさぁ、ドゥになりふり構わずわがまま言ってほしいと思ってるんじゃないかなあ。――知らんけど」
最後、投げやりな調子で付け加えられたひと言に、梨生は思わず大きく口を開けて笑った。
「あはは、ホンちゃんほんとに大阪に染まってる」
「せやろ。――でもさ、ほんとにドゥは自分の気持ち、もっと大事にしたほうがいいよ」
「……ん、ありがと」
それからしばらくホンちゃんの大阪での暮らしぶりを聞いて、電話を切った。
千結とホンちゃんと三人でお泊まりをしていた頃のことを思い出す。あの頃は満たされていた。平和で心地よくて、楽しくて、何の不安もなかった。
自分の気持ちなんて、気付かなければよかった。
#
そっと玄関を開けて人気のない居間に入ると、ラップのかかった食事が用意されていた。なんだ、料理できるんじゃん、と梨生は小さく微笑む。――心なしか、部屋が焦げ臭い気もしたけれど。並んだ料理のひとつには、今しがた飲んだばかりのコーンスープもあり、苦笑が浮かぶ。
千結が居間で待っていなかったことにはほっとしたが、梨生が遅くまで帰宅しなかったことで、この部屋には明らかな気まずさがわだかまっている気がした。
食事のそばには付箋が貼り付けられている。千結の字で『食べてね』とただひと言書いてあった。梨生は後ろめたさを感じつつ、『遅くなったので、明日いただきます。ありがとう』と書き足し、料理の皿と共に冷蔵庫の中へ入れておく。
暗く延びた廊下には、千結の部屋の扉の下から光が漏れていたが、彼女が顔を出すことはなかった。梨生はひっそりとした廊下から自室へ入り、机の前に腰掛ける。ホンちゃんと話したことで、気持ちは穏やかになっていた。久しぶりに聴いた声を思い返しながら、梨生は目をつむった。
――本当の自分の気持ちとは、何だろう。
千結の顔を思い浮かべる。真っ白の頬に、紅い唇が目を惹く、大人になっても可憐さを失わぬ小さな顔。相対する者の本質をじっと見極めるような、静かなまなざし。鈴を転がすような声や、抑揚に欠いたしゃべり方、怖いもの知らずの堂々とした佇まい。
それから、ふわりと笑む様子を。
わたしは、どうしたいんだろう。
千結と、友達以上の関係になりたい? 自分が抱く気持ちと同じものを、同じだけ返してほしい?
……いや、つまるところ、彼女が幸せそうに微笑んでいれば、それでいいのだ。
足跡ひとつない雪原の、しんと張り詰めた気配をどこか常にまとう彼女が、ふいにふっとほどけるようにはにかむ、彼女のあのうららかな笑顔が守れさえすれば。
彼女の恋を今すぐ応援は出来なくとも。これから千結の隣にはいられなくなったとしても。
ごくたまに顔を合わせて、彼女の幸せな姿を見ることは、この先も出来るはずだ。
この胸にぽっかりと空いた穴もいつかは塞がって、彼女の新しい幸福を心から祝福できるだろう。
――今はまだ、それがいつになるかは皆目わからなくても。
いずれ、その時は来るはず。
それまで耐え忍べばいい。
そう言い聞かせ、梨生はまぶたをゆっくりと開けた。
ぼんやりと視線を向けた先には、いつも使っているマグカップがあった。昨夜ハーブティーを飲み終わって洗おうと思ったとき、千結がキッチンにいる気配がしていたので顔を合わせるのを避け、自室に置きっぱなしになっていた。今夜こそ洗わなければならない。
ふっと感傷的な気分がよぎって、それを見つめる。千結と二人で暮らし始めた頃に、色違いで購入したマグカップだ。あのとき何気なく買ったお揃いのこれは、毎日使用しているあいだに愛着を感じるようになった。梨生は散々時間をかけて千結に似合う色を考えたのに、彼女は悩む素振りも見せずにすぐこれを選んだのだった。オレンジと青。彼女には、瑣末なことには煩わされない思い切りの良さがある。
梨生の口角が寂しげに、かすかに笑みの形を作る。――そう、あれは彼女にとっては些細なことだったのだ。
そんなに昔のことではないはずなのに、随分と懐かしく感じた。あの頃は、自分がこのカップを見てこんなに苦しくなるなんて思いもしなかった。
――でもいつか、大丈夫になるはずだから。
ため息をつき、梨生はカップを取り上げて立ち上がった。するとそのとき、手のなかからマグカップが滑り落ち、床に当たって耳障りな音を立てた。
「……」
足元で砕けたカップを見下ろし、つかの間梨生は言葉を失った。
自分でも意外なほどに動揺していた。気持ちを落ち着けるために細く長く息を吐き、しゃがんで破片を拾い集める。
粉々に割れたわけではない。ごろりとしたパーツを繋げれば、元のカップの形にはなりそうだった。
……だが、それはどうしたって以前通りとはいかないのだ。
愕然として、梨生は胸を詰まらせた。
そして、あっと思ったときには、尖った破片の先でピッと指先を切っていた。小さく浮かんだ赤い血を見て、梨生は天啓のように思った。
あ、やっぱだめだ。
やっぱり間違ってたんだ、ちーちゃんと、一緒に暮らすべきじゃなかったんだ。
これ以上、喪失感を味わいたくなかった。
このまま二人で暮らしていては、どうしようもないほど心の穴は広がるばかりだ。穴どころか、心が千切れてしまいそうだった。そんなぼろ切れみたいな心では、「彼女の幸せを願う」という、“親友”として最低限のことも出来なくなってしまう。
少しずつ彼女が離れていくのを見せつけられ、じわじわと失うくらいなら、きちんと自分の手で決別させたかった。同棲は解消しよう、と梨生は決意した。
絆創膏を指へ貼りながら、この話をどう切り出すべきか思案する。マグカップの破片は、ゴミ袋へ捨てる気にはまだなれず、机の隅にまとめて置いた。面倒で辛いことから思考はあてどなく逸れ、「観葉植物はどうしよう」と梨生は茫として思う。
もらえるだろうか。なんとなく、三人めの家族みたいに感じていた。彼女と離れるなら、せめてあの緑は餞別としてもらっておきたかった。それとも、持っていれば彼女のことを思い出してしまうから置いていくべきか。
シャツの下の古傷が、わずかに疼いて熱を持っている気がした。
――共に暮らさなくなったとしても、この傷はわたしの体に残って、一生彼女のことを思い出させるだろう。
それはつらく、かなしいことにも感じたし、一方でどこか安堵ももたらした。
あの頃、わたしたちは確かに繋がっていた。
隣同士にいられることを微塵も疑わないまなざしを交換して、ためらいなく手を繋ぎ、無邪気に笑い合った。
いつしか、彼女へ抱く気持ちはぐちゃぐちゃに煮詰まって、絡まってしまった。自分ひとりでは、ほどけないくらいに。
だが、彼女と過ごした幸せな時間の欠片がこの体に残るなら、もうそれでいいと思う。
これに
――願わくば、この熱を彼女と分け合っていたかったけれど。
梨生はぎゅっとまぶたを閉じてから、風呂へ入るための着替えを抱き、ドアノブに手をかけた。
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