#43. あの子待つすえ顚落自爆の谷間に
やってしまった、勢いで。
そうこれは、自分史上最悪のやらかし。しでかし。ポカでヘマ。
信じられないほどの、大失態。
…………下手うったーーーー!
つい……つい! 魔が差して、あんな悪手を打ってしまった。
最近の、あれ、なんかこれはいけるかも、ありなのかも、と高まっていく期待に続いて。前夜の、あと一歩でどうにかなっていた予感に浮かれて。浮かれるあまりによく眠れなくて珍しく早起きなんかしちゃって。
それで、私は甘い気分にとっぷり浸っていたのに、飲み会での異性の存在をほのめかされて……思わず。
反省はしている。とてつもなくしている。それはもう、消えてしまいたいほど、死んでしまいたいほどに。……吐き気がする。
ただ梨生に嫉妬してほしい、追い縋ってほしい一心で。
梨生から追いかけられることを浅はかにも妄信して、あんな口からでまかせの、世界一くだらない、みっともない、どうしようもない嘘を口走ってしまった。
本当に、自分が信じられないし、許せない。
結果として、私の稚拙な嘘は嘘と看破されることもなく、梨生が嫉妬心を燃やして私を求めることもなかった。
ただただ、心が通い始めたはずの私たちのあいだに、深い断絶を突如生んだだけだった。
……あんなでたらめを咄嗟に言った遠因には、“私は梨生をたくさん待っていた”という自負と、驕りがあった。散々待って、ようやく私たちは高まってる気配なのに、それなのに、他の男の話なんかして何なの、って。
梨生自身にそんな意図があってあんな話をしたわけじゃないくらい、今はわかってる。それに、初め梨生は濁していたのを詳しく話すよう仕向けたのは私だ。
それでも、アルコールに強くない梨生に鬱陶しい理由でお酒を飲ませる男たちの存在そのものが気に食わなかったし、人が好くて流されやすい梨生への怒りもあった。
そしてそこには、私というものがありながらなんで梨生はそんなことしちゃうの、という厚かましい憤りも、確かにあった。
手が届きそうだと思ったらすぐ、所有者じみた気持ちが出てしまった。
なんて傲慢なんだろう。
――だけど、前夜の酔った梨生が色っぽかったから。
もしかして、あんな危うい姿を、会社の飲み会でも他の男に見せているのかと思ったら。そのうえ……「気持ちよかった」なんて感想を梨生がこぼすから。
頭に血がのぼって、私は、今世紀始まって以来の大馬鹿人間になってしまった。
#
深夜の自室、デスクライトだけを点けた机の前に座り、私は頭を抱えている。
仕事を終えて帰宅しても、以前のように梨生が居間で私を迎えてくれることもなければ、自室からわざわざ出てくることもない。隣の部屋はすでに寝静まっているようだ。
あの日の朝の、梨生の固い声と背中を思い出すと、胸が切り裂かれる心地がした。
最低の嘘を口にしている最中から私の頭は真っ白になって、それから、「あ、そうなんだ」と応えた梨生の空っぽな声を聞いた瞬間、体内に氷を詰められたみたいに、恐ろしさが全身を凍りつかせた。
梨生の張り詰めた肩と背中のライン、空虚な声音が、彼女のひびわれた心をくっきりと晒していた。自分の軽薄なひと言によって粉々に砕かれた彼女の心を目の前にして、私は圧倒された。
すぐさま「今の嘘」と弁明しようとしたけれど、撤回と謝罪を口にしようと息を吸った瞬間、後悔と罪悪感と恥がものすごい勢いで体じゅうを満たして溺れてしまい、彼女へ言葉を届けられなかった。
――さらにどうしようもないことには。
後悔に立ちすくむ一方で、私の何気ない言葉によって、いとも簡単にあんなにも痛々しく傷付く梨生を見て、私は彼女にとってそんな影響を与えうる存在なんだ、と感動を覚えたのも事実。
……本当に、私は大馬鹿で、最低のクズ。
早く本当のことを全部伝えるべきなのはわかってる。
でも、足がすくむ。
真相を伝えたときに、梨生にバレるのが怖い。あんなつまらない嘘で梨生の気持ちを試そうとした私の浅ましさ、愚かさが。
どこまでも優しい梨生であっても、とうとう見限られてしまうかも、って。
なにより、あれは梨生の気持ちを人質にした傲慢な振る舞いだった。
「最低だ……」
自分が梨生にしたことへの恥が、真実の告白をどんどん難しくさせた。
軽蔑されるだろう。嫌われるだろう。
少し前なら、すぐに謝れていたかもしれない。でも今は、梨生からも同じまなざしを返してもらえた時間を知ってしまったから。
気持ちが通じ合えた途端に、惜しくなる、怖くなる。失うことが。
此の期に及んで、彼女を傷付けたことそのものをなりふり構わず謝るよりも、自分が彼女に嫌われないことを優先してしまう。
机へ突っ伏したくなるのをこらえて、引き出しの奥からノートを取り出す。不揃いに膨らんだページのひとつを開き見慣れた筆跡を見ると、心臓はあたたかく緩み、同時に切なさで小さく軋んだ。
そのノートには、たくさんの付箋が貼り付けられている。夕食に添えて梨生が私のために日々残してきた言葉たちだ。
さすがに気持ち悪い行為かも、と我ながら思うものの、それでも私へ宛てた梨生の文章を捨てるのは忍びなく、またそれらを見返すのは嬉しくて、こうして付箋をノートにこっそり集めている。
あの日の朝以降も、変わらず梨生は付箋を残してくれていた。梨生から私へ語りかける言葉があるのは嬉しいけれど、大皿に盛られるようになった食事のそばの筆致は、どことなく硬く、よそよそしく感じられた。たいてい描き添えられていた味わいのある絵も、近頃見ることはない。心臓がぎゅうと縮みそうになり、息を吐き出してもっと以前のページを繰る。最近のものよりずっとリラックスした文面と、懐かしい動物の絵に、結局心臓は締め付けられた。小学生のとき交わしていた交換日記から梨生の描いてきたキャラクターの絵だ。
――私があの交換日記たちを今でも実家で大事に保管していることなんて、梨生は知らないだろう。高校から大学にかけて彼女と会えなかった期間、私はあの古い数冊のノートをたびたび読み返していた。
クローゼットにしまい込んだ私たち二人の交換日記を取り出して、幼い頃の、鉛筆を握る力の調整もままならず、強い筆圧で描かれた梨生のそれらの線が紙面に作るでこぼこを、指先でそっとなぞっていた私の時間を、梨生は知らない。
昔よりペンを難なく適切に扱って、
当たり前だ、そんなこと彼女には言わなかったし、自分の想いはずっと隠してきたのだから。
「…………」
息が詰まって視界が滲みそうになるのを、ぐっとまぶたを閉じ奥歯を噛んでやり過ごした。私に泣く資格なんてない。
自分の気持ちを、もっとちゃんと素直に表現していたら、今、こんなことにはなっていなかっただろう。私からの好意を梨生は揺るぎなく信じられたはずで、くだらない嘘を見破って一笑に付すことだって容易いはずだった。
この気持ちをまっすぐ梨生に伝えることによって、拒否されたくない、傷付きたくない、彼女を失いたくないからと、私は今までずっと臆病でい続けた。それなのに、いったん梨生が同じ気持ちを届けてくれた途端、最悪のタイミングで、厚かましくも梨生からの愛情にもたれかかり、驕り高ぶって、恥知らずな振る舞いで彼女の心を砕いた。
しばらく梨生と話していない。朝はこれまでと比べて彼女は随分早くに出勤しているようだし、休日も私が出勤するまで部屋を出てこないか、私が休みの日はどこかへ朝早くから出かけてしまう。
私が今の仕事と職場を選んだ理由には、地方への転勤がなくて梨生のそばにいられることと、技術職であれば、たとえ一人でずっと生きるにしても、万が一女ふたりで暮らすにしても、自分のスキル次第で安定した収入を得られると考えたためだ。でも、この頃ずっと仕事が忙しすぎて、同じ家に住んでいても梨生とはまともに会えない。そのうえ梨生から避けられてしまったら、ひと目会うことすら叶わない。心身をすり減らしながら仕事をしてたって、こんな生活じゃ、意味がない。
梨生の声を随分長いあいだ聴いていない気がする。彼女を喪失するかもしれない、という恐怖がふいに襲ってきて、全身が総毛立った。
大丈夫、と心のなかで唱える。一緒に住んでるんだから、時間はある。
態度で、もう一度徐々に私の本当の気持ちを伝えていけばいい。それなら私の浅ましさが露呈することもない。梨生は優しいから、きっとわかってくれる。
そう、自分に言い聞かせる。
椅子に腰かけて呆然としているうち、気付くと手は自身の髪を触り、束にしようとしていた。ぱっと腕を下ろしかけ、それから、こんな時ぐらいはいいじゃない、と誰にともなく反発心混じりに、私はまた髪へ指を絡めた。
梨生と暮らし始めてからは減っていたけれど、私には、手すさびに髪を編む癖があった。
心細さや不安を感じたとき、髪の毛に触れて編み込んでいると、心が凪いだ。何の恐れもなく、たった二人、まどろみを感じながらお互いの髪を編み合った時間が甦るから。
そうやって、私だけに向けられる彼女の柔らかなまなざしを、無邪気な太陽みたいな笑顔を、世界を自由に泳ぐしなやかな体を、ゴールへとまっすぐに伸びた、誰も寄せ付けない力強い意思の力を、心に呼び起こし続けた。
だから、梨生と会えずにいた期間は、この癖をやめるためにも髪を短くしていた。
――ほら、今はまた髪を長くしているせいで、無意識に髪を編んでしまう。
梨生の指がこの髪を梳いて、まとめ、重ね合わせては、するりとほどく、あの瞬間たちを思い描きながら、一人で髪に指を通してしまう。
梨生が懐かしく感じることでも、“昔”と懐かしがれるほど、私にとっては遠い記憶じゃない。たびたび思い返してるから。
いつまでもそれに一人で囚われているのは辛かったから、断ち切りたかった。
髪は簡単にほどけるけれど、あなたがこれに指を通してはほどくあの手つきだけは、ずっと胸に灼きついて離れなかった。
私の髪を大切そうにすくう彼女の優しい両手を思い出すほどに、自分が彼女に加えた仕打ちの残酷さが、胸を締め付けた。
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