30.【番外編】朝ぼらけの宙ぶらりん


 高校生以来、梨生はぽつぽつと告白してくれる男の子とも付き合ってみたけれど、ごつごつ骨っぽくて皮の厚い手や、朝きちんと剃ってもデートが終わる頃にはざらざらする髭あとにはいつまでも慣れなかったし、ただの友人以上に親密になった女の子についても違和感は拭えなかった。気になるのはいつも、ある子の面影がある人たちだった。横顔が少し似ているな、とかまなざしの投げ方があの子を思い出させる、と思っては惹かれ、こんな風にあの子は素直に笑わないんだけど、と相違点を見つけては気持ちが離れた。

 自分から別れを切り出すこともあれば、振られることもあった。共通するのは、どの人ともきちんと向き合ったという手応えがないことだった。それは相手も感じ取ることらしく、形を変えてみな、「梨生は本当に俺/私を好きなの?」ということを梨生に確認したがった。わからない、というのが梨生の率直な思いだった。そんな感想が咄嗟に思い浮かぶ自分に毎回梨生自身がショックを受けたし、一瞬息を呑むようにする彼女を見て相手も傷ついた顔をした。



 同級生より一年遅れて入った大学では特定のサークルには入らなかった。浪人生は少なくない大学だったが、なんとなく同い年の”先輩”がいるのは梨生にとって居心地が悪く、しっかりとどこかに所属するよりは、知人のいるサークルへたまに足を運んでは無為に時間を過ごしたり、飲み会に参加したりした。あの子と同じ大学でも所属学部のキャンパスの場所は遠く離れていたから、ふいに会う可能性もなかった。

 自分が酒には強くないことをすでに自覚していた梨生はあまりアルコールには近寄らなかったけれど、それでも飲み会の雰囲気は好きだった。酔って些細なことに大笑いしたり泣いたり、いつもより素直になったり大胆になったりする友人たちを見るとなんだか心が安らいだ。そうした間隙にふと、彼女もこういう時間をどこかで過ごしているのだろうか、という考えが過ぎることがあった。それでも次の瞬間には、破顔した友人がバンバンと肩を叩いて狂宴の現実へ引き戻すから、詮ない感傷に浸る時間がないのもよかった。



 大学一年の夏期休暇も近づいたある日、友達の所属する民族音楽サークルの飲み会に紛れ込んだところ、向こうのテーブルの斜向かいに見覚えのある顔があった。向こうも同様に、梨生を見つめながら記憶を手繰り寄せるような顔つきをしている。


「――香織先輩!」「――梨生!」


 二人は同時に声を上げた。中学陸上部の香織先輩だった。彼女は混み合う店内を大股で横断すると、梨生の隣の男子を押しのけてそこへ細い体を無理やり押し込んだ。


「こんなとこで何してんのー梨生!」

「わたし、今年からXX学部入って……あ、民族音楽サークルには入ってないんですけど、たまたまっていうか。香織先輩はえーと、今年四年生ですか?」

「うん。就活も終わったし、久々に羽伸ばすぞーってここに来た」


 この年は四月から企業の選考がスタートしていた。彼女も厳しい競争を勝ち抜いて己のための座をすでに獲得したのだろう。


「やっぱ大変でしたか、就活」

「うーん、まあ……ね。そんなことより酒だ酒! かんぱーい!」


 一瞬遠い目をしかけた先輩だったが、ニカリと白い歯を見せるとビールジョッキを掲げた。



 深夜過ぎに居酒屋を退店して、大学近郊に一人暮らしをしている学生の部屋へ、終電を逃した者や飲み足りない者たちはなだれ込んだ。梨生はまだ急げば自宅への電車に間に合ったが、なにぶん眠りこけてしまった香織先輩の世話役のような立ち位置になってしまっていたので、他の四年生と協力してなんとか先輩をその二次会部屋へ送り届けた。彼女の身体は絞り込まれたアスリートのそれで、見た目よりも重かった。ただでさえ夏の夜の鬱陶しい湿気にべたつく体が、部屋にたどり着く頃には人ひとりを支え続けた重労働でしっかり汗ばんでいた。

 雑多な部屋に各々あぐらをかいて座って話すうち、さすが民族音楽サークル部員というべきか、彼らはどこから持ち出したか、木や竹、皮でできたエスニックな情緒溢れる楽器をいつのまにか手にし、それらを奏で、歌い、床を踏みしめた。途中で隣や階下の住人から怒気のこもった壁ドンをいただくも、それさえドラムのひとつとして彼らは音楽をやめなかった。ゆらゆら揺れて音楽を楽しんでいた梨生も次第に眠くなり、香織先輩へぞんざいにかけていたブランケットの中へ潜り込む。どこの国のものとも知れない音楽を耳にしながら、太陽に晒され続けて色素の薄くなった髪と小麦色の肌を持つ香織先輩の顔を最後に見て、梨生は眠りに落ちた。


 硬い床に体が悲鳴をあげて目が覚めたときはまだ夜明け前で、藍色の闇と静けさが部屋に満ちていた。隣にいたはずの香織先輩がいない。もう帰ったのだろうか。見渡すも、ゾンビのように行き倒れているか、羽織るものもなく寒そうに縮こまって雑魚寝する人々しか見当たらない。ふと、カーテンの隙間からベランダに人影が見えた。這い寄って覗くと、ベランダの手すりにもたれて煙草をふかしている香織先輩がいた。


「先輩」


 静かに扉を開けて、その背中へ声をかけた。


「ん。おはよ」


 ふーっと白い煙を吐いて彼女は眠たげに応えた。ベランダに散らばっていた古ぼけたサンダルをひっかけ、梨生も外へ出た。生ぬるい風が吹いている。


「煙草吸うんですね」

「あーうん。今まで陸上のためにいろんなこと我慢してきたからさ。今は取り返すように体に悪いことしてんの」


 醒めた笑いを浮かべて香織先輩は言った。


「……先輩は、どんな仕事するんですか」


 手すりへだらしなく腕をもたせかけている彼女の横顔へ梨生はそっと問うた。


「……ふっつーの、XXっていう文具メーカーの営業」

「大手だ。すごいじゃないですか」

「――ほんとはさ、企業の陸上部入って競技続けたかったんだけど、怪我しちゃったから」

「……」


 寂しげに口元へ笑みを浮かべる彼女に梨生は何も言えなかった。

 先輩は体を反転させ、両肘を手すりに預けると無造作に言った。


「梨生はなんで陸上やめたの? 高校のときいいとこまでいってたじゃん」

「え、なんで知ってるんですか」


 目を丸くする梨生に彼女はにやりと口を歪めた。


「私の陸上にかける情熱を舐めないでいただきたい。あと、有望な可愛い後輩の動向もちゃんと気にしてたんだよ」


 先輩の軽口に苦笑を返し、梨生はしばし黙って考えた。


「――なんでですかね。なんか……高校最後の、関東大会かけた一本を走り終えたら、走るの、ぴたっと興味なくなっちゃって」

「……ふーん。私も……そうだったならよかったんだけど」


 宙に視線を投げてぽつりと言う彼女へ、梨生は息を吸ってから、にこりと笑って提案する。


「アイス買いに行きませんか。食べたいです、奢ってください

「こんなときだけ後輩らしさを強調する」

「昨日、眠りこけてる先輩を誰がここまで送り届けたと?」

「あーはいはい、ごめんね、ありがとう後輩よ、お礼にアイス奢らせてください」



 死屍累々の部屋をそっとまたいで玄関を出る。鍵はかけずともよいだろう。

 ぶらぶらと歩き、夜と朝のあわいの住宅街をコンビニへ向かう。二人とも何もしゃべらなかった。

 眩しいほどの光溢れるコンビニの中で目をしょぼしょぼさせながらアイスを選び、宣言通り、梨生は香織先輩に二人分のアイスを買わせた。

 なんとなくそのままコンビニ駐車場の縁石の上へ並んで座り、アイスをかじった。


「うー顔ぱつぱつする〜化粧落としたい〜」

「体べたべたする。シャワー浴びたい」


 そうして、だんだんと夜が明けて、藍色から紫、ほのかな桜色へと表情を変えていく空を二人で眺めた。ときどき目の前の道を車が通り過ぎる。


「さむ」


 夏だからと油断して半袖のまま出てきたが、朝は思いのほか寒かった。部屋を出るとき、そこらに転がっていたメンズサイズのパーカーをちゃっかり借用してきた暖かそうな香織先輩を横目に、梨生は両腕をこすった。

 アイスを食べながら寒がる後輩をちらりと一瞥して、香織先輩ははたと気づいたように言った。


「猿時代の傷、まだあるんだ」


 そして、何の躊躇もなく梨生の二の腕の傷跡へ指を伸ばした。


「――ん」


 突然の感覚に、鼻にかかったような甘ったるい声が梨生から漏れた。


「……」


 嬌声にも似た声を聞かせてしまった気まずさに振り返って梨生は先輩を見た。肩が触れるほどの至近距離だった。すると、その距離をふいに全部埋めて先輩が唇を重ねてきた。

 先輩のアイスは練乳味だった。


「……え、なんで」


 軽く触れてすぐに離れた彼女へ梨生は呆然とつぶやく。ふっと頬を緩めて香織先輩は前を向き、アイスの最後のひと口を食べた。


「なんかしたくなった」

「……歯磨きしないで寝たんで、口ん中雑菌だらけですよわたしたち」


 平坦に言う梨生の言葉にくくっと先輩は笑った。


「雰囲気ないなー」


 そしてさりげなく、詰めた距離分よりも少し多く離れて、煙草に火を点けた。アイスを食べ終わってもそのまま黙って二人は腰掛けていた。朝の空気をはらんだ風が肌を冷たく撫でる。

 梨生は尻を浮かせて香織先輩へ近寄り、彼女の右腕を持ち上げるとその中へ潜り込んだ。


「ちゅーはしませんけど、寒いんで懐には入れてください」


 先輩は、調子いーなーと言いながら梨生の肩を包み込み、それから、


「吸う?」


と吸いかけの煙草を腕の中の梨生へ差し出してきた。


「なんで先輩は雑菌を交換したがるんですか」

「おまえなー」


 生意気な後輩を抱く腕の力をぎゅううと強めた彼女に梨生は笑い声を返し、煙草を受け取った。ひと口息を吸い込んで案の定梨生は咳き込み、二人は声をあげて笑った。



 そのあと香織先輩に会うことはなかったけれど、眠気と怠さに包まれて、化粧を落としたいな、と思いながら夜明けの街を歩くたび、あの夏の朝の肌寒さと、練乳と煙草の苦い味、毛羽立ったパーカーの温かさを、梨生は決まって思い出した。

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