48. = 凍て解けの花風揺らす隣り合う
千結の本当の想いを抱き留めて、どれほど経った頃だろうか。やがて、そろそろと体を離した千結は、涙を手の甲で拭きつつ口を開く。
「じゃあ、じゃあさ、りおは……」
「うん……」
涙の気配が残る瞳でおずおずとしゃべる彼女は、幼い子どもみたいで可愛らしい。梨生は微笑した。上目遣いになった千結が問う。
「私と……キスしたい?」
「えっ!?」
途端に不安で顔を曇らせる千結。
「いや、あ、嫌って意味じゃなくて、あの、……う、うん」
しどろもどろの返答に千結は表情を明るくさせたが、見つめ合ったまま二人の間に沈黙が降りる。
「…………」
そのうち、眉間に力を込めた千結が不満げに声をあげた。
「キス、したくないの?」
「し、したいです……」
「しないの?」
「……い、今? 待って、今は色んな衝撃を処理してて、心の準備が……」
千結が立ち上がる。何事かを決心した面持ちで梨生を見下ろし、そして、ソファの背に手をかけると、ゆっくり梨生の膝の上へ馬乗りになった。
梨生の髪を一房掬い、それに唇を付ける。
潤んだ瞳で流し目を送った。
「――もう、待てないよ……」
「ちーちゃん……」
その細い腰へ梨生が手を添えると覆いかぶさってきて、絹糸のような髪がさらりと落ちてきた。
千結の白い指が、こわごわ梨生の唇に触れる。二人の瞳には、お互いしか写っていない。
距離と呼応するように二人のまぶたは閉じていき――それから、唇がかすかに触れ合った。
一度離れて、見つめ合う。
つと、千結の瞳から一筋の涙がこぼれた。
それが頬を辿ってあごに至る直前、重力に負けて涙のひと雫が梨生の口許に落ち、ぱたっと弾け、あっ、と梨生は思った。
今この瞬間まで、好きだと言われてもどこかで信じきれなかったし、唇を重ねても現実ではないみたいだった。だが、千結の頬を流れ落ちるその軌跡を目撃し、落涙を肌で受け止めた途端、ちーちゃんは本当にわたしを好きなんだ、と理解した。
その事実に驚嘆しながらごく自然に千結の頬を拭ってやると、彼女も同じく梨生の口許に落ちた涙を拭い去った。
また彼女が身を寄せて、唇が触れる。そのまま何度か、柔らかな接触が続く。梨生の背中がソファの背もたれに押しつけられる。重ねる唇の隙間から吐息が漏れ出て、互いに侵入を誘い合う。初めは恐る恐る。小さな舌先が、つるりと触れ合う。引っ込めては触れ、離れては絡むうち、だんだんと力強く、性急になっていく。
華奢な千結が、梨生をまるで押しつぶすかのごとくのしかかる。愛を注ぎ込むみたいに舌を絡める。梨生の頭をかき抱く彼女の手のひらからその想いが伝わってきて、どうしようもなく梨生の身体は火照った。
唇の柔らかさも舌の熱さも、空気の粒を震わせるキスの音も、全てが夢のようだった。
名残惜しげに唇を離した千結が、梨生の肩口にへたりともたれかかれる。
口づけの最中は夢中で、むしろどこか平常心が保たれていたのに一旦離れてみれば、「ちーちゃんと……キスした!」という現実がじわじわと梨生の頭を支配した。
はぁ、と艶めいた千結の吐息が首筋に当たって、梨生の脳天を貫く。競技場トラックを全力疾走したあとのごとく心臓が跳ねていく。接した体からその鼓動が千結にも伝わって、
「……すごい。心臓ばくばく言ってる」
「それはだって……そうなる、でしょっ……」
彼女は梨生に巻きつけていた腕を解き、梨生の首に触れる。
「脈も早い」
ぞくりとする。くすりと笑む気配がして、ふいに、梨生の首へ柔らかいものが押し当てられた。
「あっ」
高く上げた声が恥ずかしくて背けた梨生の顔を、千結が覗きこむ。
「首、もっとキスしていい?」
「……いちいち聞かれると恥ずかしい……」
顔を綻ばせた千結によって、可愛らしい音を立てて唇が離れてはまたくっつけられた。何度目かで舌が肌へ触れ、次いで唇に挟まれ軽く吸われる。
「ん、……ぁっ」
くぐもった吐息が部屋の湿度を高めるに従い、彼女は梨生の上着をはだけさせた。半袖のTシャツから少しだけ覗く腕の古傷に目を留めた千結が、痛ましげに眉をひそめる。梨生の半袖の内側に指を滑らせて、
「――傷、残っちゃったね」
とつぶやいた。千結は一度目を伏せて黙りこくってから、ひたむきな視線を梨生に据えた。
「……でも、ちょっと嬉しいんだ。私との思い出の痕跡が、りおの体に残ってるみたいで」
そう言って、熱を帯び始めた梨生の傷跡を、ちり、と爪でひっかく。
「ずっと、りおと私が繋がってたみたいで。――ひどいかな?」
燃え盛る炎が千結の瞳に宿っているようだった。その熱に魅入られて、梨生は言葉をなくす。
いっそ恐ろしいほどの蠱惑を湛えた千結の瞳がまぶたにゆっくりと隠されていき、否応なく梨生は喪失感に襲われる。
髪をかきあげつつ、千結が傷跡に口づけを贈った。
再びこちらを見上げた目には、もっと高い温度の熱が灯っていた。傷跡が灼熱のように感じられた。火が燃え移ったみたい、と梨生は思った。
視線を外せずにいたら、彼女は目を合わせたまま舌で傷の形を丁寧になぞっていった。千結のなめらかな紅い舌が、じっくりと肌の上を這う。
「ち、ちーちゃんっ……」
「――すごい。初めて聞く。りおのそんな声」
千結が陶然として言う。
「あ、あ、当たり前でしょっ」
「……嬉しい」
頬さえ赤らめて相好を崩した千結が、Tシャツの裾からふいに手を入れてきた。いつもは冷たいはずの彼女の手が妙に熱い。その手のひらがへそから脇腹を撫でて登っていく。梨生は湿ったため息をこぼしかけ――
「ちょ、あ、い、今はっ、今日はもうだめ、それ以上は、だめっ」
そう喚きながら、千結の手首を掴んだ。
「……散々我慢したのに?」
その手首の細さと視線の艶かしさに梨生が息を呑んだ瞬間、するりと指を絡めて手が繋がれる。
「が、我慢って……」
「幻滅した――?」
心細げな声がして、彼女がすがりつくみたいに覗きこんできた。梨生はぶんぶんと首を振る。
「ううん、違うよ。ただ、こんな、ちーちゃんが……」
熱っぽい瞳が、ただひたすらに梨生を欲しがっていた。梨生は再び目眩を覚える。
「……ちーちゃんが、色っぽすぎて……わたしの理解が追いついてないっていうか……」
「りおは……我慢してこなかったの?」
「わ、わたしは……わたしはそういう気持ち、なるべく深掘りしないようにしてきたから……でもたぶん、わ、わたしも……」
黙りこくった梨生の前に、千結が一本指を立てる。
「じゃあ今、深掘りしてみると?」
そしてその指を、「私と? めちゃくちゃ? キスやそれ以上の何かを? したく?」とひと言ずつしゃべるたび、左右に振った。「もう催眠術みたいなのやめて!」と、梨生が人差し指を握って下ろさせる。
「今は、とにかくびっくりしすぎて、このままだと……ちーちゃんのこと、大切にできなさそうだから……」
もっともらしい台詞は無視して、千結が片手をまたもTシャツの中に潜り込ませ、
「大切にするも何も、今は私がりおの生殺与奪権を握ってるようなものだけど」
そっと指先でブラジャーの端をかすめた。
「そ、そうかもだけど!」
またぞろ千結の腕を無理やり服から強制退場させた梨生は、咳払いをした。
「――今はもう少し、ちーちゃんが好きって言ってくれたこの嬉しさを……しっかり噛みしめたいよ」
その真摯な表情を見つめたのち、千結はため息をついて、
「もう。ずるいなあ……」
と微笑んだ。それから、ぽすんと梨生の胸に収まった。
梨生はその細い背中へそろそろと腕を回す。彼女の艶やかな髪が手に触れたから、指を通してみた。
指のあいだを滑り落ちる、あの頃と変わらないなめらかな感触。
大事そうに髪の毛をくすぐる、どこまでも愛おしげな指先。
それは、彼女たちの胸をたまらなく震わせた。
梨生は、力いっぱいその身を抱きしめる。
「ちーちゃん、好きだよ」
千結は、黙ってもっともっと強く抱きしめた。
二人の身体は、初めからそういうものだったみたいに、ぴったり一つになった。
息が詰まるほど幸せで、甘くて、苦しくて、ただただ安らぎがあった。
「――ずっと、ずっと、好きだった」
なんで、この子なんだろう、この子しかだめなんだろう。
なんでこんなに、この子が欲しいんだろう。
小さい頃は隣で無邪気に笑っていられたのに、だんだん一緒にいるのが難しくなった。一緒にいるための理由が必要になった。理由を作って一緒にいても、どこかぎこちなかった。
持て余すほどの執着を自覚した。会えなくたってそれは薄らぐことなく、身のうちに巣くっていった。
何度もこの想いを断ち切ろうとした。だが何度振り払おうと、その面影は自分の心に還ってきて、陽だまりの温かさを、夜空の星の澄んだ光をもたらした。
いくら忘れようとしても、上書きをしようとしても、どうしても、どうしたって、彼女なのだ。彼女が、心のなかから去ってくれない。彼女のことを、想ってしまう。
それはまるで呪いだった。彼女という存在が、魂に灼きつけられたかのようだった。洗おうが、汚そうが、無視しようが、どれだけ時が経とうが、それは消えることなく、熱を持って自分と共に在り続けた。苦しかった。いっそ、彼女が憎かった。
だが、心臓を締め付けるその魂の刻印は、同時に、心を温めもした。彼女がこの世界に存在するという事実それだけで、うららかな優しさと慈しみが、確かに全身を包み、自分を生かした。
けれど……いつの頃からか、彼女のなかにある“兆し”を感じるようになった。彼女から向けられるまなざしに、煌めきを見つけるようになった。
信じられぬほど嬉しかったが、間違えたくはなかった。間違えれば、自分はきっと死ぬと思った。
なけなしの勇気を振り絞って、一歩を踏み出してみた。
手を繋ぐことができた。握り返された。
溢れる気持ちを隠すことなく、彼女を見てみた。彼女もまた、自分を見つめ返してくれた。
体じゅうの細胞が歓びに沸き立って喝采を叫び、世界の全てが輝いて見えた。乱反射する光のなかで、幸せに溺れ、舞い上がった。
天にも昇る気持ちで蹴った地面は、しかしながら実のところ奈落に口を開けていて、真っ逆さまに暗闇へ吸い込まれた。
掴んだと思った手は、幻想だったのだ。
――だが、もがき続けて伸ばした腕のその先に、彼女はいた。
何年も燻り続け、囚われ続けたこの想いを手繰り寄せた先に、彼女もまた、長いあいだ同じ熱を宿して自分に恋焦がれていたことを、ようやく知った。
だから、これからは、絶対にこの手を離さない。
二人で、いくつもの季節を共に感じて、共に歳を重ねていくはずだ。
お互い不器用なので、きっと今後も困難はあるだろう。つまらないことですれ違って、すり減って、傷つけ合うことがたくさんあるはずだ。
それでも、言葉にしよう。伝えよう。あなたと一緒にいたい、ということを。あなたの隣はわたしのもので、私の隣はあなたのものだということを。
やっと手に入れたこの幸せを生涯守るために。灯火を、絶やさぬために。
これからも、隣にいられる。今までより、ずっと近くで。
今年もまた、春がやってくる。
「これからも、よろしく」
ふわりと、空気が緩む。
あの子は、結び目がほどけるように笑った。
(完)
微熱の糸が灼きついてほどけないので 東海林 春山 @shoz_halYM
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