#46. 岐れ道
沈黙を保ち続けるスマートフォンを前に、私はじりじりと返信を待っている。
今夜の夕飯には梨生の食べたいものを作る、と伝えていたものの、彼女の希望はまだ確認できていない。送ったメッセージには既読マークすら付かない。
ベランダの大きな窓から射す太陽光が、夕方のそれになっていく。
しんとしたダイニングルームでハーブティーをひとくちだけ啜る。これを飲みながら、私となんでもない話をしていた梨生。それぞれが座る席は暮らすうち、なんとなく決まっていって。梨生の場所は今、空席だ。嗅ぎ慣れたお茶の香りと湯気の温もりが、私の胸を詰まらせる。
梨生に近づこうとすればするほど、梨生の心を解きほぐそうとあがけばあがくほど、彼女は遠のいた。
全てを正直に打ち明けずとも、本当の気持ちを態度で示していけばいいはず、という私の卑怯な打算はまるで見透かされ、彼女の心はますます硬く閉じていくようだった。
どうしたらいいか、もうわからなくなっていた。
慣れない料理をするには時間がかかる。やっぱり返事はまだなくて、でももう作り始めないと彼女の帰宅に間に合わないかもしれない。
――梨生が好きな食べ物ってなんだろう。
私は、彼女が何を好きなのかよくわかっていない。それに初めて気がついた。梨生は、私の好物や苦手なものをちゃんと知ってくれているのに。
よく彼女が作ってくれた料理があった、と思い至る。ふわふわの卵と肉と、いつもちょっとずつ異なる野菜。いつだったか、この料理は何というものか尋ねたら、「残り物を卵でとじただけだから、名前はないよ」と困ったような笑顔を浮かべていた。私にも作れるだろうか。冷蔵庫の中の豚肉と野菜をいくつか切り、卵を溶いて、具材を恐る恐る炒めているあいだに、あ、いつもキクラゲが入っていた、と気が付いて戸棚を探していると、コーンポタージュのスープ缶を見つけた。これなら、とほっとした瞬間、焦げ臭い匂いが鼻をついた。慌てて火を止めても遅く、唯一作れそうだった炒め物は台無しになってしまった。壁の時計を見上げれば、そろそろ梨生の終業時間が迫っていた。こうなったらコンビニで出来合いのものを買うしかない。
換気扇を回しつつ、買ってきた料理を皿に盛り付ける。なんとか体裁の整った食卓の上にコーンポタージュを添えるべく、缶に記された調理手順を熟読してから牛乳を鍋に加えていく。彼女はだいたい定時退社のはずだから、あと少ししか時間がない。――梨生からの返信はまだないけれど。不安に焦る心をなだめて、ゆっくりスープをかき混ぜ続ける。
子どもの頃、二人でよくコーンポタージュの缶を分け合って飲んだ。何も怖くなかったあの頃。隣にいるのが当たり前で、手を繋ぐのになんの躊躇もなかった。会わなくなってから再会したときにも、寒空の下でこのスープは私たちを繋ぎ直してくれた。どうか、と言葉にならない祈りを込めながら最後にひと混ぜして、静かにコンロの火を切る。
焦げたフライパンを洗っているそばで、スマートフォンが震えた。飛びついて確認した画面には、梨生からの、『ごめん、残業することになったから遅くなる』という硬い文字が並んでいた。体内の血がすうっと冷えていく心地がした。
遅くなるほどの残業なんて梨生の職場ではあまりないことだった。これは、彼女からの明確な「話したくない」というメッセージだった。
喉がカラカラに乾いて口にしたハーブティーも、すっかり冷えきっていた。
今夜全て梨生に打ち明ける、朝にはそう覚悟を決めていたつもりだったのに、それ以前にこうもはっきりと拒絶されるなんて、予想もしていなかった。それだけ、私が梨生を傷つけてきたということだった。
茫然自失の状態で、付箋に『食べてね』とだけ書き置いて、自分の部屋に帰った。
倒れ伏せたベッドの上で、あの朝の自分の失態をぐるぐると考える。
なぜあんな嘘をついてしまったのか。なぜあんなに傲慢になれたのか。なぜすぐ謝らなかったのか。なぜずっと誠実に向き合わなかったのか。
なんで今まで、好きってちゃんと伝えてこなかったのか。
「…………」
眠っていたわけでもないのに、気づけば部屋は真っ暗で、夜もすっかり更けていた。梨生が帰ってきた様子はなかった。
そのとき、スマートフォンがぱっと眩しく光って震え始めた。期待と恐れに駆られて覗いた画面は、ホンダからの着信を示していた。弱気になっていたところにその名前を見て、なんだか鼻の奥がつんとする。
「――もしもし」
「アワたん、今どこ?」
「家」
電話だから知られるべくもないけど、もし私が真っ暗な部屋でくよくよしてることがホンダにバレたら嫌だなと思い、部屋の電気を点ける。
「アワたん一人?」
「……うん」
私がベッドの上に座ると同時、ホンダは簡潔に言った。
「ところで、説教なんですけど」
「……梨生から何か聞いた?」
「うん。アワたん、気になる人が会社にいるらしいね〜」
「……」
「で、誰よソイツ」
冷えびえとした声で彼女は言った。
「……」
「ほんと?」
「……うそ」
盛大なため息が、電話越しにノイズとなって届く。それからいつもより数段低い声で、
「なんでさ〜、そんっっなつまんない嘘ついたの?」
「なんか……ちょっと…………」
私は両膝を抱え、そのあいだに顔を
「ちょっと……調子のった…………」
「アワたんって、ほんっ――」
「とに、バカだよねぇ〜……」
と彼女は言い放った。その通りでしかないから、私は返す言葉がない。
「アホちゃうで、バカやで」
「……わかってる」
「――もしかして、泣いとん?」
似合わない関西弁のわりに、いちいち鋭くて癪に障る。
「泣いてない」
今度は声が揺れないようお腹に力を込めて言ったのに、電話の向こうからは、ふふ、と笑う気配がする。いつもなら何か言い返してるけど、今日はそんな元気もない。優しい声でホンダが言う。
「私はね、ずーっと二人を見てきたから、君たちがお互いをだいじに思ってきたのは知ってるよ。それはもう、こっちがじれっっったくなるくらいに。……あ、でも〜、ドゥがアワたんのことを〜、本当にアワたんと同じ目で見てるかどうかは〜……私も自信……っないけどね〜っ!」
最後だけ一際元気に発声して挑発してくるホンダに、それでも私はすがらざるを得ない。
「太鼓判押してよ……」
「ふふ。――ま、今はね〜、シャチハタくらいなら押せるなーと思ってるよ〜」
「……でも、私……」
「うん」
「すごく、梨生のこと……傷つけちゃって……それで……」
「うん」
「もうずっと、梨生……まともにしゃべってくれない……」
「……うん。それこそね、私はまるで親のように君たちのことを見守ってきたからさ、思うんだけど。ドゥってさ〜、鈍感でめちゃくちゃ臆病で、そのうえプライドだけは一丁前にあって、傷つきやすくって。運動はできるけど、アワたんよりよーっぽど弱いよね〜」
容赦のない言いようにむっとして私は抗議する。
「そんなに言わなくたって……」
「アワたんも普段はこーんなにふてぶてしいのに、ドゥに関してだけは小心者で。勉強できるはずなのにすっごくバカで。じたばたするけどどうにも的外れで。ドゥもかなりの不器用だけど、アワたんはさあ。ほ〜んと。救いようがないほどの……不器用だよねえ〜?」
「――はい」
うなだれて返事をした。ホンダは、さっきまでの煽り立てるような調子をきりりと引き締めて、ゆっくり話す。
「アワたんは、思いがめちゃくちゃ強くて、めちゃくちゃ不器用だから。そこ、ちゃんと自分で自覚しておかないと、だいじな人のこと不用意に傷つけるよ」
「……気をつける……」
「うん。――近くにいたって、大切なことはきっちり言葉にしないと伝わらないんだからさあ。ちゃんと話さなきゃ。面倒でも、怖くても」
いつだったかも、こんな風に諭されたことがある。いつまで経っても私は成長がない。
ホンダはぐっと声を柔らかくして、「でもね、大丈夫」と言う。
「ドゥはね、アワたんに幸せになってほしいって真剣に思ってるから」
「……」
「アワたんの幸せってどんなことか、自分でもうわかってるでしょ? いい加減、覚悟決めなよ。アワたんがずっと欲しかった幸せ、ちゃんとドゥに伝えてよ」
「――うん」
「もしも二人がこのまま離れちゃったら、私が東京帰ったとき寂しいからさあ。また三人で仲良くお泊まりしたいよ」
「うん……」
「アワたん。私はね、私の大好きな二人が、二人でもーっと幸せになってくれたら、私もすごーく幸せな気持ちになるだろうなって、そう思うよ〜」
「そうだね……。うん。ほんとに……ホンダ、いつもありがと」
とうとう堪えきれなくて、完全な涙声になってしまった。
「うんうん」
照れくさいから、リップサービスをお見舞いする。
「私も、ホンダのこと好きだよ」
「んふ〜? 私は大好きって言いましたけどぉ〜?」
ここはさすがのホンダで、照れることなくさらなる要求を突きつけてくるから、鼻声のままだけど私も通常運転に戻れる。
「あーはいはい、大好き大好き」
「ドゥより?」
「……」
「ちょお、冗談やんか! 黙らんとって〜無駄に傷つくわ〜!」
こてこてのノリに私は若干引いて、「ホンダ……大阪で頑張ってるんだね……」としか言えなかった。彼女はくすりとして、
「私な、たこ焼き器買うてん。東京帰ったら皆でたこパしよな、それまでに仲直りしときや〜」
と下手くそな関西弁で締めくくった。
#
どれぐらい経った頃か、玄関のドアがそうっと開く音がした。
部屋を飛び出していって、話そう、説明をしよう、と思うのに、私の体は硬直したままだった。心臓だけがどんどんと、とんでもない速さで打ち続けている。
居間のほうで少しのあいだ梨生の動く気配がしていたけれど、やがてそれは隣の部屋に消えていった。梨生と会えたら話そうと考えていたことは全て散り散りになって、ひたすらに混乱と恐れが全身を支配していた。どうしよう。なんて話しかけたらいいんだろう。笑って、どこ行ってたのって訊こうか。ちゃんと笑えるかな。そもそも梨生は応えてくれるかな。それとも言葉を濁されて、ただ気まずい空気が流れるだけだろうか。そのあと、私は本当のことを伝えられるかな。なんて言おうと思ってたんだっけ。なんて。あ。怖い。もう、今夜は会わなくてもいいかな。梨生も話したくないみたいだし。……でも、これ、いつになったら私たち話せるようになるの。もし、このまま話せなかったら。そしたら。
そのとき、がちゃん、という音が隣の部屋から響いた。はっとして耳を澄ませる。猛スピードで絡まり続けていた思考が吹き飛んで、空っぽになった。浅く速くなっていた呼吸を落ち着けていく。のろのろとベッドから降り、重たい足を一歩一歩運ぶ。
いい加減、覚悟決めなよ、というホンダの声を頭に甦らせて、深呼吸をひとつする。
ドアを静かに開け、梨生の部屋の前に立つ。
まだ、何を言うべきか言葉はまとまっていない。それでも扉をノックしようと腕を上げた瞬間――内側からドアがさっと開いた。
「わっっ!」
思わぬタイミングでの対面に、二人同時、驚きの声を上げた。
「ど、どなに、どしたの」
畳んだ服を胸に抱き、目を白黒させた梨生が訊く。
「あっ、あうん、あ、あの」
心臓が飛び跳ねたまま、言葉が出てこない。
「あのっ……話したいことある」
「……うん」
その場で済ませてしまいたい様子の梨生を促して居間へ入るけれど、彼女は体を守るように着替えを抱き、壁に背を預けている。早く立ち去りたい、少しも声を交わしたくない、と主張するみたいだった。胸が潰れてうまく息ができない。それでも息を吸い込んで、とうとう言葉にする。
「あの、あのね。前に……私が、会社に気になる人がいるって言ったの――」
梨生の顔がこわばる。止まりそうになる言葉を押し出す。
「あれ、ね……嘘、だったの」
ぽかんとした表情を浮かべ、彼女は一言も発さない。無理解の空白を一刻も早く埋めたくて、慌てて説明を試みる。
「う、嘘っていうのは――忙しくてあんまり梨生と話せてなかったし……か、構ってほしくて」
「構ってほし――……」
目を見開いて一瞬言葉をなくした彼女が、ひゅっと息を呑み、
「そんなの、自分勝手すぎる!」
と吐き捨てた。眉をぎゅっとしかめ、鋭く私を見据えた梨生は声を荒げる。
「そんな気軽な気持ちで言うことに、どれだけわたしが――っ振り回すのもいい加減にしてよ!」
「ちが――」
「ちがわないよ!」
初めて見る梨生の憤怒に、体が凍りつく。その目には、怒り、軽蔑、憎しみ、絶望がぐちゃぐちゃに塗りこめられていた。息を止めて見つめ合い、頭が真っ白になる。
「……」
ふっと視線を外した梨生の瞳は、暗く冷たい色をたたえていた。そこに諦観と決意を見て取って、私は咄嗟に死に物狂いで彼女の手を掴んだ。
「っお願い、聞いて。一生の、お願いだから」
ここを逃したら、もうこの人とは一生会えない気がした。
「……」
いつも優しかった大好きなまなざしは、つかの間苦しげに私へ向けられ、そして逸らされた。
「……ごめん、大声出して」
「……とりあえず、椅子、座って。お願い」
ダイニングテーブルの定位置へ座っても、彼女は顔を伏せ目を合わせてくれない。
焦燥と恐怖が急に現実を伴って背中を貫く。
もしかしたら、私は梨生から赦されず、このまま終わってしまうのかもしれない。
二人で暮らすのは、梨生と会えるのは、これで最後になるかもしれない。
親密だった日々をせめて再現するため、結末を少しでも先延ばしにするため、私は囁く。
「――お茶、淹れるね」
「うん……」
色違いの揃いのマグカップを探して戸棚を覗き込んでいる私へ、沈んだ声がかけられる。
「あのカップ、さっき割っちゃったから、ないんだ……」
「……そう」
お湯が沸くのを待つ台所の私と、ダイニングルームの梨生との間には無言しかなかった。
形も大きさもばらばらの二つのマグカップを眺めるうち、不吉な予感がひたひたと体中を満たしていく。小さく震える手を押さえつけ、私は拳を握りしめた。
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