緞帳が上がって現れたものは

 大海の澄んだ水面のように全てを受け入れ包み込むその瞳は、悲しみに暮れている。俺たちのその邂逅を、外野の嵐は黙り込むことを知らず、むしろはやし立てる。


『お前はまた何かを期待する』


『そうやっていつも自分は傷つかないつもりか』


『いずれそれはお前の存在を締めあげる無慈悲な鎖となろう』


『否定されるのが怖いなら、そんな口、開かなければいい』


 そんな囁きが明瞭な声となって聞こえた気がした。


「…………」


 一秒、また一秒と時間は不可逆的に流れていく。


「あ、あの……ね、伊野神君」


 聞こえてきた彼女の声はか細く、寒空の下の子猫みたいに小刻みに震えていて。


「……どうしたの森川さん? 国枝さんと一階を探していたんじゃ?」


「う……うん、そうなんだけど、ちょっと言っておきたいことがあって」


「え」


 これが夢なのだとしたら――。


「私ね……」


 どうかもう少しだけ寝かせてほしい。もう少しだけ夢を見させてほしい。


「伊野神君に伝えたいことがあるの。今日の十五時にそこの空き教室に来てほしい」


 訂正。もうどうなってもいい。このまま夢の中で――。「#す@*……」


 小さく紡がれた最後の言葉は外野のせいで聞こえなかったけど、胸の高鳴りがそれを翻訳したかのように、温かみをもって俺に降り注いだ。嵐は恵みの雨となった。今ほど雨に感謝した時はない。


「…………その話って今じゃダメなの?」


「え」


 森川さんは目を伏せ廊下の一点を見つめる。きゅっと結ばれた唇は、外に出ていこうとする言葉をせき止めているようで。


「部活のこと?」


「う、うん……」


 歯切れが悪い返事。今なら他に誰もいないし絶好のチャンスなのに。とりあえず会話を続けようと言葉を繋ぐ。


「そういえば先輩見かけた?」


 首を横に振る森川さん。その刹那、まっすぐこちらを見る。目が少し潤んでいる。戸惑っている俺の姿が映りそうなほど。


「……どうしたの?」


「伊野神君はさ」と森川さん。「すごいよね、部長で」


「え? そんなことないよ。マネさんの方が凄いよ。突然どうしたの?」


「ううん、すごいよ。私だったらプレッシャーでとても。伊野神君、真面目だしね」


 俺の言葉は華麗にスルーされた。


「…………真面目かー。やっぱそう見える?」


「うん。真面目で爽やかで。怒ったことないでしょ?」


 潤んだ瞳。機械的な笑み。


「うーん、そうだね。でもカチンとくることもあるよ」


「そうなの? 全然そんな風に見えないなー。しっかりしているよね。先輩とは大違い」


「先輩? 平田先輩のこと?」


「…………」


「あのさ」


 意を決して問いかける。


「先輩がどこにいるか、知っているんじゃないの?」


「……知らない」


「本当に?」



 じゃあ十五時にね、と言い残して彼女は立ち去った。


 階段に向かう背中が段々小さくなる。空回りしたこの思いを置き去りに――。


 ダッダッダッダ。


 その時。また上履きの音がした。


「あっと!」


「きゃ」


 音の主は深川だった。後ろに辻さんもいる。深川は取り乱した様子でまくしたてる。


「二人とも! こんなところで何してんだよ! 大変なんだよ。もしかして悲鳴聞こえなかった?」


「悲鳴?」


 いきなり物騒な言葉が飛び出す。悲鳴? 何のことだろう。


「ほら! 悲鳴なんて聞こえなかったよね」


 辻さんの言葉に賛同する。悲鳴の悲の字も聞いた覚えはない。


「そ、そうか……まあいいや。それより、大変なんだよ……」


 深川の次の言葉を聞いて血の気が引いた。


「プールで先輩と東村が、その……死んでる」

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