『――貴方は私に何をお望みで?』
時刻は二十一時。一日が終わった。
「よし、布団でも敷くか」
深川は教室の後ろにある掃除用具入れから箒を出して床を掃き始める。
手伝えという声を右から左に受け流した後、俺はスマホのSNSを開く。
あて先は副部長の松井。種目は短距離。こちらの様子とダンス練の進捗を伝える。
一番のニュースは先程のミーティングでダンスソロパートが平田先輩に決定したことだ。先輩のハングリー精神には脱帽する。誰も異議を唱えなかった。というか、唱えられるはずもない。
その後、適当にメッセージをやり取りし、教室を出ようと立ち上がる。いつの間にか綺麗な布団が敷かれている。
どこに行くのかと訊かれ、東村の件を部員に伝えると言った。
「それ……SNSでよくね?」
一瞬迷ったがここは部長としてしっかり責任ある行動をしようと思った。
「え、ほんと?」
東館三階。三‐一。時刻は二十一時十五分。
出迎えてくれたのは森川マネ。紺のスエットという寝間着姿。
「どっかで上巣ちゃんと密会中じゃないかしら?」
「密会中? ということは二人は――」
「当然でしょ。あんなの、付き合ってますアピール丸出しだよ」
さすがは女の子同士、そのアンテナは伊達じゃない。
密会か、あり得るのだろうか?
上巣さんが保健室に行った時には既に彼の姿がなかったと伝えると――。
「そう言って彼を探すフリしてどっかで会ってんじゃない?」
「ということは、現在上巣さんもいないことになるけど?」
「……う、確かにそうね。伊野神君なんだか探偵みたい」
「え? そんなことないよ。まあ推理ものとかよく読むけど」
「へえ! 私全然知らないや。いつか書いちゃったりして」
「いやいや、無理だって。書いたとしても全然面白くないよ、きっと――」
書いてみたいという気持ちはあるけれど、どうせ俺には無理だ。読むだけで十分なんだ……読書の楽しさを教えてくれた偉大なる本格探偵小説神……でもいつか……その足元にでも跪くことが出来たのなら……。
「…………?」
何か続けようとすればするほど言葉は虚無に消えていく。
森川さんに見つめられ、頭が真っ白になる。第三の女神のオーラが神々しくて。その御前では俺なんて下等生物。天空の主よ、これは試練なのか。
そうだとしたら貴方は――あまりにも。
「じゃあ、おやすみ。もし見かけたら声かけるね」
そう言って。
俺の気持ちなんて見えない塵の如く吹き飛ばして。
第三の女神は慈悲深い笑顔を浮かべて自室に引っ込んだ。
三‐一のドアは、隙間なくピッタリと閉じられた。
部屋に戻る前に一‐六をノックする。
「…………」しばしの沈黙の後。「はーい」
そんな女の子の声。……え、女の子?
次の瞬間、ドアが開かれて。中からひょっこり顔を出したのは。
「国枝さん!」
「あ、伊野神クン!」
なぜ第一女神がこんなむさ苦しい部屋に御降臨中なのか、訊いてみると、
「ダンスのこと、訊いていたの」
「誰に?」
そう言って教室の中にいた一人の『ONE FOR ALL』とかいうパーカーを着た人物を見る第一女神。
「いや、先輩ダンス知らないですよね?」
「何言ってんだぶちょう! 俺はダンサーだぞ」
「ただ言いたいだけじゃないですか」
「いやな、岡本がソロ譲れってきかないんだこれが」
「先輩! 言ってないです。心でも言ってないです!」
岡本はこの合宿でツッコミの経験を山ほど積んでいる気がする。他に上がってほしいスキルが山積みだ。ほどほどにしてもらいたい。
「…………じゃあ平田先輩、お邪魔しました」
「お、おう!」
そう言って第一女神はそそくさと部屋を後にする。去った後の世界は枯れたオアシスのよう。俺は素早く教室に入ってドアを閉めた。
「なんか……邪魔しちゃいました?」
「いや……そんなことないよ。な、岡本」
「は……はい。部長こそ、何かあったんですか?」
そこで東村の件を思い出す。危うく本題を忘れるところだった。
「ほんとにいないのか?」いつになく真剣な面持ちで。「保健室だよな?」
頷き返そうと思った時には既に立ち上がっていた。
「先輩、どこ行くんですか?」
「確かめてくる」
「いや、もう遅いし、顧問から探すなって言われたんで勘弁して下さい!」
「部長」
先輩はまっすぐこちらを見ている。いつになく真剣な表情。
「あまり丸くなるなよ。言われたらお前は裸で三○○流し繋ぎ五本をやるのか?」
「……はい?」
「まあ、すぐ戻ってくるよ。じゃあな」
ドアを開けて先輩は、もう一回振り返って。
「あいつ……後輩のくせに女の子といちゃついているなんて、少しシメないとな!」
*
コンコン、と教室のドアがノックされた。
「ん……誰だ? こんな時間に」
布団を払ってスマホをつける。時刻は二十三時三分。深川の気配が感じられない。どうやら夢の世界に旅立った後みたいだ。仕方なく起き上がり、ドアを開ける。
「あ、部長。すいません夜遅く」
「岡本……どうした?」
ドアを開けると岡本が仁王立ちしていた。暗順応しているとはいえ光が少ない暗闇の中、その姿は妖怪のヌリカベそのものだった。
「それが……」と妖怪ヌリカベ。「平田先輩があの時出て行ってから戻ってこないんです」
「あの時って、俺が東村の件を言いに行った時?」
岡本は頷く。俺が二人の寝室に行ったのは二十一時三十分くらいだった。
「保健室見に行くって言ってたよな?」
「はい……あ、あの」
そこで言葉を切る後輩。
朧げに浮かぶ表情は周囲の闇に匹敵するくらい暗く淀んでいる。何か心当たりがあるのか訊くと、意を決したかのように口を開いた。
「部長が来る前、国枝先輩と平田先輩が何か話していたんです」
「国枝さんと先輩が?」
何の話だろう? そもそも、国枝さんが二人の寝室を訪ねたのには何か理由がある筈だ。その話をするのが目的だったのだろうか。
「話の途中で部長が来て、慌ててやめたって感じでした。そのことと先輩が戻らないのが関係している気がして」
「うーん」
「部長、探しに行った方がいいですか?」
「いや、今日はもう遅いからとりあえず休もう。きっと戻ってくるって。後輩シメに行くとか言って、一緒になって辻さんあたり口説いてんだよ、きっと」
なにせ、平田先輩だから。
筋金入りの女たらしにして、ホストランナーの師匠。
後輩の目なんて気にせず、国枝さんを誘い込んだ可能性だってある。心配するだけこっちの気が病む。
「わかりました」と後輩。幾分か表情が和らいだ気がする。「そうですよね、戻ってきますよね」
そう言って岡本は向かいの自分の教室に戻っていく。
「部長。おかげで楽になりました。明日からダンス練習頑張りましょう。おやすみなさい」
「おう、おやすみ」
後輩ヌリカベと先輩ノッポはこうしてそれぞれの部屋に戻ったのだった。
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