中島病院研究棟 野々村研究室
旧南あわじ市八木にある
一般的な診療のみならず、入院患者の心情を考えた環境整備をグループで行い、リハビリテーションにも力を入れており、その評価は高い。
淡路島が新都に選定され、リニア線の駅舎が八木地区近辺と決まった際は立ち退きの不安も囁かれたが、淡路ファームパークに近いことや医療施設の移転は住民の不安や混乱を招くことから、リニア駅は少し南に下がった山林へと計画が変更された。
この一件に起因して当時の理事長は高齢者向けの医療から全年齢を対象とした先進医療へと対処し扱う傾向が変わると察知し、リニア駅建設に伴う不動産の高騰よりも先に施設の拡充を決め、ベッド数の増加と医師・看護師の補充、さらにこれまで扱わなかった診療科目の増設を行った。
無論、中島病院グループだけでこういった増設は叶わず、旧洲本市に新設された
当時中島病院単独で医師を集めることも難く、また日毎に高騰していく地価のために資金面でも苦しかったからだ。
対して、国生大学は私立であるから後援の企業や投資家の出資もあり資金面で豊かであったのは言うまでもないが、どこよりも早く新都に大学を新設(それも保育所から小・中・高の一貫教育)するのは相当な冒険で、後々に生徒の確保は約束されているとしても、開校すぐに生徒を集められる『目玉』となる広告塔も欲していた。教育方針よりも全国各地の名だたる教授や著名人に招聘を打診し、彼らが首を縦に振るような設備も整えたかった。その一つが医学部の設置と研究施設と環境の整備だ。
周囲一キロには丘や山林があり、リニア駅が開通して企業やマンションが増えてもファームパークは無くならないだろうし丘や山も切り崩されまい。国の指針としても都市化の計画には自然保護と環境保護が盛り込まれていて、山岳と湖沼に大きく手を入れることは禁じられていた。
無論、資本主義経済にどこまでの抑止になるかは言わずもがなだが、国生大の医学部教授の招聘は、中島病院との提携により環境・設備・資金などの力で成功したと言える。
29インチのモニターに移されているMRIの断層写真を眺める髭面のこの男も、中島病院の新しい設備と国生大学の提示した給料に釣られてやってきたクチだ。
奈良県に生まれ、親の跡を継ぐために関東の有名大学を目指したが二浪し、箔よりもまずは実だと地方のFランク大学に入って医師免許を取得。しかし在学中に脳神経外科の権威・
育成プログラムの修業を待っていたかのように野々村医師から連絡が入り、三年間を野々村医師の助手兼生徒兼後継者として現場に立った。
その後は地方の総合病院を転々としたが、国生大学が野々村医師を医学部の教授として招聘したことに合わせ、弟子の鯨井医師が中島病院の脳外科・脳神経外科の専属医として招聘された。
「あら、またクジラさんは遊びに来てるの?」
「んー? これが遊んでるように見えるんか? 美保ちゃんの目は節穴やな」
白髪が混じり始めた頭をかきながら、鯨井はデスクチェアを回して背後の女性を断じた。
白衣を着て両手にマグカップを持って立っていたのは、この野々村研究室の研究生で国生大学院生の
「そお? クジラさんの執務室は脳外科病棟にちゃんとあるし、もうすぐ日付けが替わるのに残業という感じでもないじゃない」
美保は実習や研修がないからか白衣の前を開けていて、すき間から水色のブラウスと紺のタイトスカートを覗かせている。
五十前で未婚の鯨井には若さ溢れる肢体に目を奪われてしまうが、師匠のお孫さんに軽々しく手を出すわけにはいかない。生足に白のソックスと上履き代わりのサンダルというところまで見て視線をそらす。
「向こうのパソコンはどうもタッチが合わんのよ。それに、こっちの方が資料が揃ってるし、広いし、美味いコーヒーが飲めるしな」
美保が居たのなら白のポロシャツとカーキの綿パンなんかで来るんじゃなかったと思いつつ、美保の持つマグカップを指差す。
「私はクジラさんの奥さんじゃないのよ。髭も剃ってくれないしさ」
美保は半分呆れながら左手のカップを鯨井が座るデスクに置く。
美保は鯨井のボサボサの白髪混じりの頭と口髭とアゴ髭を気に入っておらず、ことあるごとに『似合ってない。剃りなさい』と命令してくる。それでも親ほど年の離れた自分に気さくに接してくれるところを見るに、髪型と髭以外は問題無いのだなと楽観してしまう。
そうでなければ、鯨井の姿を見るやいなやコーヒーを淹れてくれたりはしないだろう。
「あんがと。美保ちゃんを嫁さんにもらったりしたら、世間の一部が騒がしいからなぁ。美保ちゃんはちゃんと年相応のふさわしいイケメン医師と結婚した方がええよ」
野々村教授の後継者争いが囁かれている中、年齢差を顧みずに美保の好意を受け入れるというのはかなりの冒険で、鯨井は本音を心の奥底に追いやらねばならない。
鯨井と美保が付き合うなどとなれば、世間やマスコミが何というか容易に想像できるからだ。
「うん! 美味い!」
「それはなにより」
鯨井の絶賛に素っ気なく答えつつ、美保は鯨井の隣のデスクに腰を引っ掛ける。
「クジラさんは、今日は何時まで居るの?」
「さあな。今やってる調べものが片付いたら帰ろうかとも思うけど。片付くのが遅くなったら、何時間後かには診察始まってまうからな。そうなったら泊まった方が体は楽だからなぁ」
「ふーん。そうなんだ」
「美保ちゃんは? 帰らんのか?」
鯨井の問いに、美保はコーヒーを一口すすってから答える。
「私は研究レポートの資料を探してただけだから、いつ帰ってもいいんだけど。ちょっとこの時間になると、一人では帰り辛いかな。……最近、この辺りって物騒じゃない?」
「まあ、ちょっと乱れてるわな」
もともと都市化の進んでいた旧洲本市の塩屋・港・本町・物部では、遷都に関わる建設や工事は小規模なものが各所で行われている程度だが、
そのため、アチコチに防塵ネットや立入禁止のバリケードが張り巡らされ、重機やトラックや資材がそこここに目立つ。
つまりは暗がりが多く、死角が出来やすく、人通りも少ない。
そういった環境を好むのはいつの時代も犯罪者と無法者で、どんなに警察が見回っても窃盗や強盗や性犯罪などの犯罪が起こり、エネルギーを持て余した若者が起こす騒動は暗闇と死角を選んでいるように見える。
「ちょっと帰るタイミングじゃないでしょ? ほら、私ってやっぱり若くて美人でオシャレだから」
後半は鯨井をからかっているのか、同年代の女性たちから羨ましがるであろう美脚を見せつけてくる。
「美人かどうかはちょっと横に置いておいて、その格好じゃ危なっかしいなぁ」
鯨井には今の若者のオシャレはよく分からないが、美保を一人で帰宅させるのは危険だということは分かる。
ただ、美人の部類に入る容姿だとは思うのだが、鯨井としてはショートカットより背中まである黒髪を首のあたりで一つにまとめる髪型が好みで、残念ながら美保は明るい茶色に染めているし、美保を美人だと認めた瞬間に自制が効かなくなりそうなので横に置いた。
「ボディーガードとまでは言わないけど、髭面のオジサンが送ってくれるなら助かるなぁ」
「ふうむ。それはいいんだが……。美保ちゃんの家ってどこだっけ?」
「ここから牧場の方に下って、国道まで出たとこのマンション」
「あれ? もしかしてうちの隣のマンションか? あんな広いとこ住んでるんかいな。師匠も儲けてるみたいだけど、お父さんも儲かってるんやな」
「私、一人暮らしだよ?」
「そうなのか?」
あえて美保に興味を持たないようにしていたため、住まいを知らないことで美保を落胆させてしまったようだが、ここまで話が進むと送迎するしかなくなってしまった。
「おじいちゃんも優しいけど家賃を持ってくれる程じゃないし、お父さんもおじいちゃんに出させる気はないしね。とはいえ、大学院生を分譲マンションに住まわせる親もいないでしょ。普通に安いワンルームです」
美保は普段研究室では野々村教授を『教授』と呼んでいるが、今は鯨井とのプライベートな会話なので『おじいちゃん』呼びだ。
余人の前で美保が野々村教授を『おじいちゃん』呼びすると、ひどく気を遣った顔をされるらしく、『公と私の使い分けに苦労する』とは美保の愚痴だが、鯨井からすれば美保との関係の近さこそ苦慮せねばならない。
「なるほどな。……ちょっと待ってくれよ……」
美保からパソコンへ視線を移して、鯨井はマウスを走らせる。
「とりあえず必要な資料だけプリントアウトしたら車で送ってやるよ」
「助かるわ、クジラさん」
「三十分程かかると思うから、用事とか支度が終わったら声かけてくれ」
「はぁい」
美保に話しかけてはいるが、体をしっかりパソコンに向けた時点で鯨井の集中力は全て作業に向けられている。
それが分かっているから美保も適当な返事をして鯨井から離れた。
――これが計画的な作戦やったら、まんまとハマってしもうた、のかな――
送迎どうこうのあたりから美保の機嫌が良くなったのが少し気になった。
「さあ、自慢のロールスロイスにご搭乗いただきましょうかね」
キッカリ三十分で帰り支度を整えた鯨井と美保は、中島病院の関係者用駐車場ではなく来院者用駐車場まで歩き、中古の軽自動車の前に居た。
鯨井はリモコンキーでロックを解除し、恭しく後部座席のドアを開く。
確かに車体の塗装はロールスロイス様の深いブラックだが、丸っこくて小さい車体を照らす深夜の街灯の光でも目立つほど雨と埃が白く浮いている。
美保には中古というよりスクラップ寸前の故障車に見えたようで、わずかに口元が引きつっている。
「クジラさん、こんなみすぼらしいロールスロイス見たことないんだけど。たまには洗車しないと、車が可哀そうだよ。彼女が可哀そうだよ」
「酷い言われようだな。俺自身のメンテナンスもままならんのに、車がピカピカなのもおかしいやろ。それより、彼女が可哀そうになる理由が分からんぞ」
自分自身の無頓着を指摘されるのは仕方ないが、五十を目前にして鯨井が独身である鯨井に、車に絡めて彼女が出来ない理由を指摘されても困ってしまう。
「あのねぇ、クジラさん。車っていうのは女性と同じなの。わずかな時間でいいから手をかけたり機嫌を見てあげるだけで、運転手の命令に素直に従うものなのよ。それから、目上のお客さんは後ろでいいけど親しい人を送迎する時は助手席に乗せるべきよ」
「そんなもんかねぇ」
美保の剣幕に押され気味の鯨井は、それでも呑気にアゴ髭を撫でている。
「そうなの。特に、私を乗せる時は助手席にしてくださいな。ハイ! やり直し!」
まるで鬼嫁か女王様だな、などと考えながら鯨井は後部座席のドアを閉じ、助手席のドアを開く。
「へいへい。では、どうぞ」
「ありがとう」
ややおざなりな鯨井のエスコートに、美保はしおらしくお辞儀をして大きなお尻を助手席に突っ込み、長くて肉付きの良い脚を見せつけるように片方づつ座席に入れる。
毎日の残業と時間外の調べもののせいなのか、疲れと睡眠不足のせいか、鯨井は思わず生唾を飲んでしまった。
誰の何に見とれてしまったかを思い出し、軽く首を振り静かに助手席のドアを閉じる。
「……やれやれ」
運転席側へ回り込みながら、今日は美保の作戦にハマッてしまいそうだなと感じ、美保にバレないように気を引き締める。
「……シートベルトした? んじゃ、行きますよん」
変なムードにならないように鯨井はおどけた調子で軽自動車をスタートさせる。
フロントガラスの下半分にヘッドライトに照らされた道路と植え込みが浮かび上がり、少し遠くの工事現場のフェンスが虎柄に反射している。
上半分は防塵ネットで覆われた建設中のマンションやビルが影となって立ちはだかり、わずかなすき間から夜間工事の明かりが夜空に跳ね返って見えた。
「あんなのじゃ星空なんて見えないよね」
「うん? ああ、俺らよりも遅い時間にご苦労様だよねぇ」
「おじいちゃんからは星空が見えるって聞いてたのに、とんだ肩透かしだったわ」
「美保ちゃんは、星空を見たことあるのかい?」
鯨井の師匠が孫を呼び寄せるのに、星空を餌に釣ったのが面白くて美保の話に乗ってみた。
「写真や映像では知っているけど、見たことはないわ。家族旅行でグアムに行ったこともあるけど、まだ小さかったから覚えてないなぁ」
「そりゃもったいないことしたなぁ。クジラのオジサンは奈良のだだっ広いとこの生まれだから、山まで行ったらすごいのが見れたよ」
自慢するつもりはなかったが、鯨井が少年期に見た満天の星空の素晴らしさは伝えたいと思った。
「クジラさんもロマンチックなところがあるんだ?」
「ちょっと違うなぁ」
そう。男と女では星空を見て思うことは全く違う。
「男は星を見ても奇麗とか素晴らしいとか思う前に、野望とか夢とか物語を考えてしまうんだよ。それで何十年も経ってから『あれは素晴らしかった』と思い返すだけの生き物なんだ」
「なにそれ。まるで昔の女を思い出してるみたい」
「あん? ……ああ、確かにな! アッハッハッハッ! 美保ちゃんの言うとおりかもしれん」
美保の直感的な返事に鯨井は一瞬置いてけぼりになったが、夢や野望などという青臭い単語を選んだ自分のセンスは、美保の言う通り『別れた女』を忘れられない女々しい言い回しだった。
この少しズレた会話がジェネレーションギャップなのか、男女の価値観の違いなのか、それとも鯨井と美保の相性なのか、常日頃脳ミソのことばかり考えている鯨井にも分からなかった。
しかし愉快な気持ちにはなっていた。
反して、美保はずっと笑っている鯨井を見て、小娘のズレた発言を小馬鹿にされたと思ったのか、やや不機嫌な顔をしている。
「ごめんよ。馬鹿にしたわけじゃないんだ。着飾った服の中身がすごくダサイパンツだと言い当てられたから、俺が恥ずかしくなって笑ったんだよ。気にしないでくれな」
「ん。もういい」
交差点に差し掛かるところだったので一旦停止のタイミングで美保の様子を伺ってみると、鯨井とは反対の方にそっぽを向けてしまっていて表情は見れなかった。
――本心を隠したい時はヅカヅカ踏み込んでくるのに、本心を晒した時は聞いてくれないんだな――
車中という狭さのせいなのか、研究室で顔を合わせている時とは勝手が違い、真面目とオフザケのバランスが狂ってしまったようだ。
ここ数年の鯨井の迷いが態度として出てしまったのか、決断すべきタイミングが目に見える形で迫っていると感じられた。
鯨井が抱く美保への思いと、美保が向けてくれる鯨井への思いはきっと同じものだ。
だが二人が思いを通じ合わせるためには、野々村穂積教授の後釜争奪戦が大きな障害となって立ちはだかっている。
野々村教授は医師免許を取得してすぐに脳外科手術の先進技術を学ぶために渡米し、沢山の技術や理論を日本に持ち帰って専属医育成プログラムに脳外科と脳神経外科を新設させた功労者とされている。
これまでにも自身の息子や鯨井を含め、膨大な数の弟子を教え育て上げてきた。
医学界からも世間からも名医と称された野々村教授も、現在は肺を患って病床の身となってしまい、年齢も八十歳を越えたこともあり、引退の噂が囁かれ始めている。
世間とは冷たく性根の暗いもので、野々村教授の容態を案ずる声よりも教授職と学会の席は誰が引き継ぐのかという噂の方が大きく広まっている。
その噂の中に鯨井の名前が上がっていることがまた悩ましい。
教授の息子さんの名前が挙がったり、他の弟子の名前が挙がる事に、鯨井はなんの異論もない。むしろ後釜争いなど自分とは無縁のものだと思っていた。
しかしどうやら遷都に際して、中島病院経由で野々村教授が自分を呼び寄せたことが、世間には『教授の信頼厚い愛弟子』とか『教授も認めた知識と実力』とか『次代を担わせるために傍に呼んだ』と映ったらしい。
鯨井からすればたまたま重篤な患者を持っていなかったことと、教授から勉強の機会を戴いただけのつもりで招聘に応じたに過ぎなかった。
きっと野々村教授は数多いるほうぼうの弟子達に声は掛けたはずだし、諸兄はたまたま即座に動けなかっただけに過ぎないはずだ。
さすが野々村の弟子と褒めそやされる脳外科医達は、すべからく難解で重篤な患者達から救いを求められ、身軽に転院出来るはずはないからだ。
鯨井はそうではなかったし、自分の実力は自分が良く分かっている。まだまだ修行を積まねばならない。
「……美保ちゃん、この辺だよな?」
アスファルト舗装される前の砂利が敷き詰まった路地から国道28号線に差し掛かったので、無言のまま窓の外を向いている美保に声をかけた。
新都で再会しなければもう少し上手に付き合えたし向き合えたと思う反面、新都で再会したからこんな気持ちになったとも思える。
鯨井と美保の関係は、後釜争い以上に乗るか反るかの局面にある。
「左だよ」
「はいはい」
まだ機嫌が直っていないのかと美保の方に注意が向いていたため、国道を東進してくるバイクに気付くのが遅れた。
路地から軽自動車の頭を少し出したところでヘッドライトの光に気付きブレーキを踏んだが、二台で並進していたバイクの歩道側を走っていた方がギリギリでかわして駆け抜けていった。
ヒヤリとした瞬間が過ぎ鯨井はホッと息をついたが、通り過ぎたバイクはエンジンを派手にフカしながら少し先で停まっている。
「こりゃいかんな。美保ちゃん、キッチリ窓を閉めてドアをロックしてくれ」
なかなか走り去らないバイクから、片方がこちらに手を挙げる素振りが見えたので、鯨井は嫌な予感がしてすぐに美保に指示を出した。
返事はなかったが、美保は言うとおりにしてくれたようだ。
次いで通勤用に羽織っているジャケットを脱ぎ、美保の頭に被せる。
「美保ちゃんの可愛い顔を見せるのはもったいない。あとあと厄介事にならないように、ちょっと我慢しててな」
暗い車内だがうなづいてくれたようなので、運転席側のドアがロックされているか確かめてから、鯨井はゆっくりと車を発進させた。
「おい! 車、停めろ!」
車内で準備している間に一人がバイクを下りて歩いて近寄って来ていて、右手を振り回しながら命令してきた。
「やあ! 上手く避けてくれて助かったよ。ケガはないみたいだね!」
「どこ見て運転しとんじゃ、ヘタクソ! 人、殺したいんやったら拳で来いや! やり返したんぞ、クラァ!」
フルフェイスヘルメットで声がくぐもっているが、なかなかのテンションで捲し立ててくる。しかも車を叩いたり蹴ったりしないところを見ると、そこそこ頭の回る相手だと鯨井は判断した。
「ははは。人なんか殺したくないよ。それよりバイクの扱い上手いね。あのタイミングで華麗にかわしたよね。レースかなんかやってるのかい?」
鯨井はハンドルから手を離さずに穏やかな表情で呑気に話をそらす。
「なんや!? そんな話どうでもええやろ! 今はオッサンが俺にせなあかんことあるやろっちゅー話や!」
「そうなのかい? てっきりレースやってるのかと思ったんだけどなぁ。だってさ、ここ三車線だよね? なのに君達は一番左の車線を二台横並びで走っていたろ?」
車内から進行方向を指差すと、フルフェイスの男もそっちを見る。
鯨井の軽自動車のヘッドライトに照らされて、左車線にバイクが二台並んで停まっている。
「だから、なんやねん! オッサンが俺を轢きかけたんは間違いないやろ!」
「轢きかけたは通用しないよ。こっちは時速五キロ以下で、君は五十キロは出してたからね。さっきのとこと停まってるとこのブレーキ跡でバレバレだよ。あ、証拠ならあるからね? ちゃんとドライブレコーダーアプリ使ってるから」
「なん! おま!」
淡々と追い込んでいく鯨井は不器用にウインクしながら自分の目元を指差した。それだけでフルフェイス男に『眼球を通してH・Bに記録した』と思わせた。
「おい、田尻。もういいって! テツオさんが待ってんだって!」
「うっさい! 紀夫は黙ってろ! オッサン、なめんなよ! 降りてこいや!」
鯨井はやれやれとため息をつき、疲れた顔を作る。
「ドライブレコーダー回ってるって言っただろ。あまり言いたくないんだが、あのバイクは君達の名義かい? ナンバーがちょっとおかしくないか? 道交法にも詳しくないようだし、交通違反も犯している。そもそも君達、何歳? 免許持ってる?」
矢継ぎ早にそれらしいことを言いながら、鯨井は視線を鋭くしていく。
「おい、田尻。ほっといて行こうぜ」
「なんやお前? ケーサツか?」
「だったらどうする? 拳でやり合うか? ああん?」
最後はなるべくドスを効かせてしゃくりあげるように睨む。
「チッ! 紀夫、行こうぜ」
「お、おお」
ヘルメット越しでも悔しそうな顔が分かるくらい田尻君は大きな舌打ちをし、足早にバイクへと戻り始め、紀夫君も慌てて追いかけ、バイクの二人組は走り去った。
「…………ふう。美保ちゃん、もういいよ」
「…………」
「美保ちゃん?」
「ぷっ! ぷはははは! クジラさん、役者だね! 警察官だと思わせるなんて、やるじゃない!」
鯨井の被せたジャケットを丸めて抱きながら美保は痛快そうに笑っている。
「勘弁して欲しいよ。俺は小心者なのによぉ」
「よく言うよ。お医者さんだもの、ビビリじゃないじゃない」
「逆だよ。ビビってるから手術前に色々準備して、落ち度やミスをなくす努力をしないと、手術前は手が震えて俺が死にそうになるわな」
医者を完全無欠の超人のように思っている美保に、プレッシャーのない仕事などないと言ってやりたかったが、機嫌が直ったようなのでそれはやめた。
「お疲れ様でした。ちょうどここだから、コーヒーでも飲んでいきますか?」
急な敬語に鯨井は慌てたが、トラブルを一つ乗り越えて落ち着きたい気持ちもあったので、美保の申し出に乗ることにした。
美保の淹れてくれるコーヒーは鯨井の大好物だから断る理由はない。
「謹んでお受けしましょうかね。……え、でもこのマンション、俺んちに似てるんだが?」
「私の住んでるマンションだよ」
「マジか」
微笑みながら見つめてくる美保の表情で、鯨井はすべてを察した。
年齢差や師匠の後釜問題などに左右されず、ここまで追いかけてくれる女性を無下には扱えない。ましてや美保が自分の願望と同じ気持ちでいてくれたと気付いたのだ。ここから先は一本道で、その周辺のことはあとからなんとでもなる。
マンションのいつもの駐車スペースに軽自動車を停め、玄関エントランスからエレベーターで八階まで上がり、一番手前の部屋へ入る。
「ソファーでくつろいでて下さいな」
「お、サンキュ」
美保が車を降りた時から抱きかかえていたジャケットをハンガーにかけ、鯨井にソファーを勧めてくれたので、鯨井は素直にソファーに腰を下ろした。
手持ち無沙汰で室内を見回してみるが、女性の一人暮らしにしては物が少なく、家財はベッドやデスクがある他は鯨井が座っているソファーとその前のティーテーブルくらいだ。
ベッドシーツやソファーのファブリックが明るい色味なぶん、女性らしさを感じるが、自分の部屋と大差ないさっぱりした部屋に変に落ち着いてしまった。
「はい、お待たせ」
「いや、いつも悪いね」
「半分趣味だもの。気にしないで」
「……ん、いつもどおり美味い!」
鯨井が座っているソファーは一人がけなので、美保は鯨井の足元に正座している。
やや見下ろす感じで美保を見ていると、不意に美保が上目遣いに目線を合わせてきた。
「結婚したらいつでもこのコーヒーが飲めるよ」
「ずいぶん直球で来たな」
「だって、何年もはぐらかされて来たもの。やっとこさホームにまで連れ込んだんだから、余計なことはいらなくない?」
笑いかけてくる美保の顔が勝利を確信した余裕の笑みに見えて、鯨井は一瞬苦笑したが、コーヒーカップを置いて美保に手を差し伸べる。
美保はまずヒザ立ちになって誘いを受け、ゆっくり立ち上がって鯨井の右足に腰掛ける。
「こんなオジサンでいいんか?」
「私を子供とは思ってないんでしょう?」
「そりゃあ確かに」
「なら、大丈夫」
「あ、ちょっと待て」
首に抱きついた勢いでキスをしようとする美保を、鯨井はギリギリで制止する。
「先に行っておかなきゃなんだが、このまま新都に居続けられるかは分からない。今の立場や職場のままとは限らない。下手をすると世間からのバッシングや攻撃にさらされるかもしれない。そこは、平気か?」
間近で見る美保の顔に年甲斐もなくドギマギしながら、鯨井はゆっくりしっかりと言葉を連ねる。
美保の気持ちを確かめるというよりは、自分の覚悟を確かめるという意味が強いかもしれない。
「野々村の女ですよ? そんなの慣れっこです」
「それもそうか」
世間の好奇心にさらされていたのは教授の弟子だけではなく、美保や美保の母もつまらない一挙手一投足を週刊誌に取り上げられたことがあるのを思い出した。
「そのへんも含めて、よろしくな」
「はい」
潔い返事のあと、美保から顔を寄せてきて口付けを交わした。
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