内緒話

 諭鶴羽山ゆづるはさんに建造された新皇居へと至るには、南淡地区賀集生子かしゅうせいごにある大日川ダム沿いの側道から上っていくことになる。

 皇居建設に伴って改修された側道は、地形や勾配から整えていかなければならず、通常の舗装路よりも時間をかけて施工された経緯がある。

 その後に皇居の建設が開始されたため、大日川ダム近辺は過度な開発は制限されていて、幾つかマンションや戸建てが建った程度でまだまだ田畑の割合が多い。

 そのお陰か大日川ダムへと向かう入り口は遠くからでも見通す事ができ、任務に燃える機動隊輸送車が列をなして山道を上がっていく様は勇壮であった。

 しかし、二時間もしないうちにトボトボと南あわじ警察へ帰還する様は、他人事ながら笑える光景だった。

 間を開けずに現れた二組のバイクの集団は想定外の出来事で、野良仕事や通行人など周辺の住民たちも何事かと見守らざるを得なかったようだ。

 ともあれ、田圃たんぼの脇に停めた乗用車を帰路へと向かわせ、後部座席のサングラスの女は、目にした事を簡潔にまとめたメールを脳内から送る。

 賀集生子から洲本本町すもとほんまち地区までは車で三十分というところだが、女は退屈してしまったようで、バッグからガムを取り出して口に入れた。

 ミント系の味と香りで少しは頭が冴えたが、そんな刺激では全然足りなかった。

 国道28号線を東進しているが法定速度は60キロなので、女にとっては景色がゆっくりとしか移り変わっていかないので単調なのだ。

「……ねえ、例の事件って、この辺よね?」

 淡路ファームパークへと誘導する看板を見つけ、思わず運転手に聞いていた。

「ああ、はい。……中島ちゅうとう病院の襲撃のやつですか」

「そう、それ。アレって今どうなってるの?」

 ハンドルを握るのは二十歳そこそこの青年で、スーツに身を包みヒゲも髪型もキチンとしている。

「確か、壊された機械とか玄関の修理が終わったとかで、通常の診察を始めてるはずですよ。亡くなられたお医者さんの代わりも見つかったらしいですし」

「そう。ありがとう」

 興味本位で聞いたこと以上に情報が返ってきたので、女は満足してまた窓の外に視線を向けた。

 しばらくして乗用車は洲本本町地区にあるマンションの前で停車し、後部座席から下りた女は、助手席側から運転手の青年に声をかける。

「助かったわ。ありがとう」

「このくらい朝飯前です」

「いつも悪いわね」

「やめてくださいよ。今は不動産屋の格好してますけど、クイーンの前では洲本走連のメンバーですよ」

「ありがとう。でも事あるごとにアシにしちゃってる。そのうちちゃんとお礼しなきゃ」

 女がサングラスを外して魅惑的な笑顔を見せると、運転手は言葉に詰まる。

「や、やめて下さいよ。車に乗ってる間、二人きりだっただけで満足ですから」

「ウブだなぁ。テッちゃんと付き合ってなかったら、タツヤ君にはのお礼をしてあげるんだけど。ごめんね」

「いいっす。大丈夫っす。クイーンとならって妄想するっすけど、キングへの尊敬とか憧れも嘘じゃないっすから」

「あはは。じゃあね」

 慌てふためく青年を笑いながら、女は助手席から離れマンションへと入ってしまう。

 乗用車は鈴木沙耶香すずきさやかがオートロックを解錠して玄関を通るまで見送り、その場から走り去った。

 基本的に洲本走連は学校の同級生が集まった小チームの集合体なので、平日は学業が本分だ。サヤカのように親の庇護があり私学でそれなりの成績を修めていれば今日のように私用で欠席することもできるが、他のメンバーはそうもいかない。

 ただ、洲本走連の特殊なところは、友達集団の集合体なので友達の兄ちゃんや従兄弟などもポツポツ紛れていて、その中には大学生や就業者もメンバーとして参加している。

 先程の青年は、たまたまサヤカの父親の経営する不動産会社に席を置いている者だったので、営業の合間などにサヤカのショッピングや移動手段となってもらっている。

「ちょっとからかいすぎたかな」

 性欲と敬愛の板挟みでしどろもどろになっていたタツヤを思い出し、からかい半分の誘惑をしてしまってサヤカ自身が昂ぶり始めてしまったことを後悔した。

 エレベーターを降り、自宅に入るとすぐさま衣服を脱ぎ捨ててシャワーを浴びる。

 さっきは冗談半分で言い放ったが、そもそも平日の日中に呼び出している時点でタツヤの事は気に入っているわけだし、テツオの存在が無ければタツヤと寝ることになんの躊躇もない。むしろテツオに導かれた性の世界を、他の男と行えばどうなるのだろうという興味の方が勝ちつつある。

 その相手としてタツヤはサヤカの好みを満たしており、サヤカが教え導くことでテツオとは別の歓びを知れるのではと想像してならない。

 そんなことを考えていると、いつの間にかサヤカの手指は自身の体を這い回り、絶頂を迎えるまで丹念に自身を慰めていく。

「やっぱり足りないなぁ……」

 体を拭き髪の毛をブロウしていても、やはり心に残ったモヤモヤが認められた。サヤカは全裸のまま部屋に戻ると、乳房をガッチリとホールドするブラを着け、パッド付きのスパッツを直に履きライディングスーツを着込む。

 グローブとフルフェイスヘルメットを取り上げて玄関へ向かい、ライディングブーツを履いてエレベーターで地下駐車場へ。

 三台並んだバイクのうち、HONDACBR400RRを選んで車道へと出る。

 県道481号線へ出て千草方面から諭鶴羽山地へと上るコースを取り、そのまま峠を越えて南淡路水仙ラインをカッ飛ばそうという考えだ。

 市街地から外れ人家が減ってくると、僅かに残っている田畑の先は木々の間を縫うような細い山道になる。

 さすがに日中であるし対向車に出くわす危険性があるので、サヤカも低速で慎重にバイクを進める。

 何度も通っている道なので、ある程度進むと対向車の危険性が下がるポイントも熟知していて、峠が下りに差し掛かるあたりで背伸びをして安全確認を済ませ、一気に体を縮こまらせてカウルに収め、安全ライディングから攻めのライディングへと切り替える。

 センターラインのない山道を道幅いっぱいを使ってライン取りし、カーブに応じて限界までバイクを倒しこんで駆け抜ける。

 カーブを抜けバイクが起き上がってきたところでアクセルを開け、短いストレートでも攻めの姿勢は貫く。

「!?」

 何度めかのカーブの立ち上がりで、アクセルを開けたタイミングで右奥の森から鳥が数羽飛び立った。

「あっ!」

 アクセル操作に素直なエンジンが回転を上げた直後、飛び立った鳥達を追うように人影がサヤカの目の前に飛び出してきた。

 即座にクラッチを切ってリアブレーキを踏み、暴れるバイクをハンドル操作と体重移動で押さえ込む。

 ドンッ

 音にすればそんな軽い音がしてフロントカウルに衝撃が起き、バイクが左へと大きく傾いた。

 咄嗟の判断でサヤカはバイクから飛び降り、金属がアスファルトを引っ掻く音を聞きながら自身もアスファルトを滑って何回転か転がった。

「…………あ、痛たた。たぁ……」

 幸いにも気絶や意識の混濁はなく、それでも十秒ほど放心していたが、痛みが意識を覚ましてくれたせいで記憶はハッキリしており、カッコ悪くて情けない声を出した自分を恥じる。

 とりあえず動かせる範囲で体を動かし、痛みのある場所を確かめていき、出血や骨折がないかを確かめてサヤカはゆっくりと体を起こした。

 バイクはウインカーやバックミラーの破片をバラ撒きながら道なりに滑っていったようで、サヤカの位置から数メートル先で横倒しになっている。

 当のサヤカは飛び降りてすぐアスファルトに着地して体が滑っていったイメージだったが、何度か転がるうちに道路脇の雑草の生えた土の上に居た。

「……あれ?」

 記憶では右側の森から何かが飛び出してきてバイクとぶつかったと思ったのだが、辺りを見回しても動物などが倒れたりしている気配がない。

「んっしょ。……何なの?」

「……すまぬ」

「うえ!?」

 なんとか立ち上がったサヤカの背後から突然声がしたので、サヤカは驚いて数歩分飛び退いた。

 サヤカが振り返ると少女が立っていて、サヤカが飛び退いたことに驚いている様子だが、立ち姿は棒立ちだ。

 長く伸ばした髪や純和風の顔立ちに加え神社の神官か巫女の様な衣装に、サヤカは思わず幽霊かと疑った。

「すまぬ。急いでいたのでバイクが走っていることに気付かなんだ。なるべく衝撃が無いように蹴ったのだが、あの様なことに。すまぬ」

 長々と弁明するあたり、どうやら幽霊ではないと思い始めたが、少女の服装に乱れがないあたりに違和感が生まれる。

「出会い頭だから仕方ないわね。それより、それってなんかのコスプレ? 怪我してない?」

「私は平気。そちらは?」

「骨折はしてないみたい。打ち身で済んでたら有り難いわね」

 そう答えたもののサヤカは左の脇腹を押さえたままだ。

 その様をジッと見ていた少女は、両手をかざして小声でまじないのようなものを唱えた。

「え? 何してるの?」

「……これで傷は癒えたはず。打ち身や切り傷はニ〜三日で消える」

「そ、そお。アリガトウ」

 半信半疑だが、少女の雰囲気には有無を言わさないものがあったので、サヤカは一応礼を言っておいた。

 少女はサヤカの返事の熱量など気に留めた風もなく、自分の服を摘むようにしてサヤカに尋ねる。

「……その、コスプレとはなんだ? この格好は、変、なのですか?」

 統一感のない言葉遣いにサヤカは吹き出しそうになったが、少女の真面目な様子になんとか堪えて答える。

「アニメとか漫画のキャラクターの服を真似ることをコスプレって言うのよ。ああ、看護師さんとかお店の店員さんの服を真似ても言うわね。その服、変っていうか、なんか昔の貴族とか神官さんみたいじゃない? あんまり街中で見ないよ」

 先程の少女の呪いのお陰か、幾分体が動くようになったので、サヤカは普段友達などと話す感じで質問に答えた。

「このまま街に行くと、おかしいか?」

「おかしくはないけど、目立つかな」

「それは、困る」

 服装といい話し方といい、どこか世間ずれしているとは思っていたが、『困る』と言われてサヤカが困ってしまった。

「どこかで目立たない装束は手に入らぬか?」

「装束って……」

 また古風な言い回しにサヤカは吹き出しそうになったが、代わりに少し面白うだとも思った。テツオへの話のネタくらいにはなるかもしれない。

「じゃあ、うち来る? 着てない服とかあげてもいいよ」

「良いのか? しかし、乗り物も壊してしまったし、何もしていないのに物を貰うのは気が引ける」

「あん。さっき怪我を治してくれたんでしょ? それに使ってない物を必要な人にあげるんだから、無駄がないじゃない」

 言いながらサヤカはバイクに近寄り、タイヤの転がりとテコを使ってバイクを起こす。

 道路上を滑っていった左側面は傷だらけだが、カウルで覆われたレプリカバイクなので運転に必要な機関は壊れていないように見えた。

 セルスターターを押すと、微妙な感じだったので、車体を揺すってもう一度スターターを押すと、ちゃんとエンジンがかかった。

「……スピード出せないけど、とりあえずうちに行って落ち着きましょ」

「すまぬ」

 サヤカがバイクにまたがってタンデムシートを示すと、少女は恐る恐る近寄ってきた。

「私は鈴木沙耶香。サヤカって呼んでくれていいわよ」

「私は、ふ、藤島貴美ふじしまきみ。ど、どうやって乗ればいい?」

「あん。バイクは初めてなのね」

 サヤカは優しく笑って、足を掛けるところとまたがり方を教え、貴美に自身の体に抱きつくように指示してバイクをスタートさせた。

 山道ということと貴美がバイクに乗りなれていないこともあって、サヤカは普段よりも慎重な運転で自宅へと向かう。何よりも一度転倒して路面を滑ったバイクだ。エンジン音やハンドル操作に違和感はないが、どこで不具合が発生するか分からない。ましてや貴美はヘルメットを被っていないのだ。慎重になるに越したことはない。

 バックミラーやウインカーが割れサヤカのヘルメットとライディングスーツが傷だらけなので、道中は周りの目を引いてしまったが、超ノロノロ運転でなんとかマンションの地下駐車場まで辿り着くことができた。

「……さあ、どうぞ」

「失礼する」

 玄関ドアを開けて招き入れる段になって、貴美が足袋たび草履ぞうりであることに初めて気付く。

「その辺りに適当に座ってて。着替えたらお洋服を持ってくるから」

「あの……。承知した」

 クローゼットのあるベッドルームへと向かったサヤカに、貴美は何か言いかけたが了解の返事をしただけだった。

 気になることは沢山あるが、サヤカは傷だらけになってしまったライディングスーツを早々に脱ぎ捨て、新しい下着と黒のスキニーパンツと肩の開いたシャツを取り出す。

「……やっぱり普通じゃないみたい」

 クローゼット脇に立て掛けてある姿見で自らの半裸姿を確かめ、打撲の跡や擦り傷・切り傷の跡を触ってみても痛みはない。

 貴美の言った通り三日ほど放置しておけば傷跡も無くなりそうに見えた。

 テツオへの話のネタ以上に興味が湧いてきて、少し楽しくなりながら貴美のためにシャツやズボンを取り出していく。

「お待たせ。……ソファー使っていいのよ? 飲み物持ってくるから、この中から好きなのを選んでて」

 ベッドルームからリビングへ戻ると、貴美はソファーの隣で正座していた。自分と貴美ではここまで生活環境が違うのかと驚きつつも笑ってしまいそうになったが、貴美に用意した服を手渡してキッチンへ向かう。

 この感じだとジュースやコーヒーは刺激が強いと考え、グラスに氷を落としてペットボトルのお茶を注ぐ。

「はい、どうぞ」

「アリガトウ」

 サヤカがセンターテーブルにグラスを置くと、戸惑っているのか緊張しているのか、ぎこちない感じで貴美は礼を言った。

「気に入ったの、あった?」

 お茶を口に含んだ貴美に聞いてみた。

「…………。申し訳ない。見ての通りの修験者しゅげんしゃゆえ、洋服や下界のことをよく知らぬ。なので、どのような物が良いのか判断付きかねる」

 純和風な童顔を申し訳なさそうにしかめる貴美を、サヤカはしばらく眺めてから答えた。

「そうなんだ。……ごめんなさい。シュゲンシャって何か分からないし、下界ってどういうこと? なぜ目立ってはいけないのかしら?」

 サヤカの問いに貴美はハッとした顔になり、一度だけ小さくお辞儀をした。

 それから、修験者とは仏教や神道とも結び付いた自然崇拝を重んじる修行者であることを説き、貴美は諭鶴羽山を信仰対象である御山おやまとして崇め山中で暮らしていたことを説明した。

「私は修行で徳を積み、人智を超えた霊力を備え申した。下界で言うところの神通力や超能力というものがそれ。その霊力は人々の救済に使われるべき物で、加持かじ祈祷きとうなどの依頼を承る。此度の依頼でとある方の暴走を留めなければならないのだが、あいにくと私は戦いは不得手。大阪に住む知人を訪ねるところなのだが、お役目がお役目であるため、隠密に行動せねばならぬ」

 淀みなく一定の調子で話し続けられたので少し眠くなりかけたが、サヤカはなんとか最後まで聞き終え、堅苦しい言葉で分からなかったところだけ確認する。

「霊力って、さっき怪我を治したのもそうなの?」

「そう」

「バイクとぶつかっても平気なのも?」

「……半分は、そう。あとは修行の成果と日々の鍛錬の賜物」

「カジキトウって、お祓いとか、占いってことよね?」

「そうとも言う」

「大阪の知人も超能力者なの?」

「正しくは守人もりびと。私より強力だったと聞いている」

「目立っちゃいけないのって、頼んだ人から目立つなって言われたとか?」

「そう……れは答えられない」

 サヤカは心の中で舌打ちしてしまった。

 さっきの長い説明で一番引っかかったのは『暴走している方』なのだが、『それを留めよ』とことが気になったのだ。

 細かな質疑をテンポ良く進めればうっかり口にするかと期待したが、そこは修行を積んだ貴美の方が用心深く、サヤカより一枚上手だったようだ。

 しかしサヤカはこの出会いは面白いと思った。

『暴走している方』は恐らくテツオの語っていた例の少年だろうと予想がついたし、その少年に関わろうとしている少女ならばテツオの役に立つかもしれないと考えたのだ。

 何より、スパイ映画のような展開がサヤカを刺激してやまない。

「そりゃそうか。言えないよね」

「ん。個人情報保護という決まりがある、らしい」

 貴美の曖昧な認識に笑ってから、サヤカは一つの決断をした。

「じゃあ、服は私がコーディネートした方が良さそうだね」

「……お願いします」

「ん、いいよ。……それと、大阪まで行くんだよね。住所とか行き方とか、知ってるの? お金、ある?」

 サヤカの問いに黙ってしまう貴美。

「じゃあ、私も付き合うから二人で行こうか」

「それは! 申し訳ないから……」

「いいのよ。今、彼氏が京都で修行してるの。ん? 滋賀だっけかな? それを見に行くついでだと思えば、キミちゃんが私に迷惑なんかかけてないでしょう?」

「は、はい。……てゆうか、キミちゃん……」

 ややカルチャーショックを受けている貴美に微笑みかけながら、サヤカは手元のTシャツを貴美に合わせてみる。

「キミちゃんはシンプルで清潔感あるのが似合いそうだね。あ、勝手にキミちゃん呼びするくらいだから、キミちゃんも私を好きに呼んでくれていいからね」

「え、えっと……はい」

「……キミちゃんって何歳だっけ?」

 別のシャツを合わせながらサヤカは質問を絶やさない。

「……十、七歳……」

「わ! 同い年だね!」

 手放しでパッと笑顔を見せたサヤカに貴美はなんと返事していいか分からず、恥ずかしさと動揺で顔が真っ赤になる。

「だから気軽に名前呼んでいいからね!」

「さ。……サッ……チ、ンで、いいですか?」

 切れ切れに絞り出した言葉が受け入れられるかドキドキしながら、貴美は上目遣いでサヤカを見つめる。

「いいよ。サッチンかぁ。初めて呼ばれる呼び名かもしれない。同い年だし、友達になれて嬉しいな!」

 貴美の前で屈託なく笑うサヤカを、一瞬だけ『裏があるのでは?』と疑ったが、今目の前にあるサヤカの笑顔で貴美は全ての疑念を押し流した。

 ついでに『サッチャン』と呼びたかったのがつっかえて『サッチン』になった経緯も言わずに押し流しておく。

「サッチンは、私の友達」

 言いしれぬ感動で貴美は涙がこぼれそうになった。


 旧南あわじ市神代じんだいにある国生警察仮設署。

 昼間の機動隊の大惨敗から数時間が経過し、すでに日も暮れ、報告書を書き終えた黒田幸喜くろだこうきは最上階の喫煙所に居た。

 表向きは報告書をまとめただけに見せているが、実際は高橋智明と鬼頭優里から頼まれた死亡者リストのコピーも済ませておいた。

 とはいえ、管轄外ともいえる現場への訪問や捜査資料のコピーなど、かなり危ない橋を渡った疲労感は止めどが無い。

 だから、というわけではないがついでに有給休暇願いも提出しておいた。

 この十日ほどの間に警察の仕事に限界を感じたり、真相を明かす事の虚無感を抱いたり、高橋智明が新しい国を興そうとしていることなど、黒田が信じたり基盤にしていたことが大きく形を変えてしまった気がした。長くはなくていいから、しばらく客観的に物事を考える時間を欲したのだ。

 ついでに神戸で鯨井と会う予定もある。

「……よっしゃ! 行くか!」

 タバコを吸いきって、数件のメール送信を終えたので黒田は気合を入れ直して立ち上がった。

 そのままの勢いで一階まで階段を駆け下り、仮設署に配属される時に買った中古の自転車にまたがって警察官専用の寮へ帰る。途中でコンビニに寄って晩飯と飲み物を買っておいたので早々に腹に入れ、二泊三日程度の旅支度をして風呂に入る。

 髪の毛が乾くまでエアコンで涼み、紺色のポロシャツとチノパンに着替えてタクシーで高速バスの乗り場へと移動した。

「……三宮行きは最終しかないんか」

 運行表を見て中途半端な空き時間があることが分かり、喫煙所のない停留所であることに軽く絶望した。

 仕方なく数席だけ設けられている待ち合いのベンチに腰掛けてふて寝する。

「……三十分もあるじゃない」

 近くから聞こえた声に、スケジュール管理を失敗したのが自分だけじゃないことに少しホッとする。

 黒田はふて寝中で目を閉じているので見えていないが、声から察するに若い女性のようで、しばらく迷った末に黒田の二つ隣のベンチに座ったようだ。

 ――ま、それしかないわな――

 電車やバスの待ち時間は、ふて寝かH・Bハーヴェーでゲームやネットサーフィンするくらいしか暇つぶしの手段はない。

 その後は新たな乗客は現れなかったようで、定刻どおりに高速バスがやってきたので黒田は乗車口へ向かう。

 ラッキーなことに車内に乗客は少なく最後尾の席が空いていたので、着替えしか入っていないバッグを奥に放り込んで腰を落ち着けた。三宮が終点なので、これで気兼ねなく寝てしまえる。

「あら?」

「うん?」

 黒田の後ろについて乗車してきた女性が、黒田の一列前の座席に座ろうとして変な声を出した。

「……野々村さん。野々村美保さん、やったかな?」

 少し薄暗いバスの車内なので判別が難しかったが、以前中島ちゅうとう病院襲撃事件の事情聴取などで顔を合わせていた、野々村美保に間違いなかった。

「どうも」

 少し動揺した返事だったが、自身の素性を肯定したので、遅ればせながら黒田も軽くお辞儀を返す。

 刑事と参考人という関係だからか、美保はそのまま座席に座り、黒田とは関わるつもりはないようだ。

 ――そりゃそうやわな。好き好んで刑事と世間話に興じる物好きはおらんわ――

 ましてや夜間に運行している高速バスの車内だ。事件などに無関係な状態であれば雑談もあり得る話だが、黒田も彼女と何を話していいかわからないのだから、あえて関わるものでもないと判断した。

 バスが発車すると同時に、黒田は背もたれに体を預け、腕組みをして寝る態勢に入る。

 と、バスが走り始めて十分ほど経った頃、女性のささやき声が聞こえた。

「あの、隣いいですか?」

「ん、うん? 別にええけど……」

 断る理由もなかったので黒田は美保の申し出を受け入れた。

 程なく、高速道路上の停留所でバスが停車したタイミングで、キャリーバッグを担いで美保が隣席に移ってきた。

 ただ、黒田の座る最後尾の座席は五人が横並びで座れるタイプなので、美保が一つ席を開けると思っていたら、キャリーバッグを網棚に放り込んで真隣に座ろうとしてきた。

 そもそも窓側の席にバッグを置いていた黒田は窓から二番目に座っている。そこへ美保が網棚に荷物を載せようとすると、黒田の目の前で美保の胸が揺れ、慌てて視線を外す。

「失礼」

 確か調書では野々村美保は二十歳と記載されていたのを思い出し、黒田は男女間の適正距離を保とうと、バッグをヒザに抱えて窓側の席へずれてやった。

「失礼します」

「ええ? ちょっと、近くないか?」

 黒田が開けた席に滑り込んできた美保に動揺し、小声だが思わず抗議してしまった。

 目の前で胸が揺れるのを見たせいもあるが、デニム地のショートパンツからは健康的な太ももがあらわになっているのだ。

「真横じゃないと移ってきた意味ないじゃないですか。内緒話、できないですし」

「内緒話? 俺と? 何を?」

 黒田に合わせるように小声で反論してきた美保の言葉に、黒田は別の意味で動揺する。

 野々村美保の婚約者である鯨井孝一郎くじらいこういちろうの浮気を知る身としては、こんな密着状態で庇ったり隠し通してやる自信がない。

「やだ、私には婚約者がいるんですから、そういう話じゃないですよ」

「お? ああ、そりゃそうだ」

 どうやら美保は黒田の動揺を違う意味に捉えたらしい。ならば、この後にならないように布石を打っておこうと決める。

「せやけど、オッチャンも男やからな。刑事やいうても間違いが起こりかねん。あんまり刺激せんといてくれよ」

 なるべく真面目くさった顔で言ってみたが、美保のリアクションは軽い。

「何かあって困るのはお互い様じゃない。それに、クジラさんと付き合ってるけど、私はオジサンキラーじゃないですから」

「はは。なるほど、そりゃそうだ」

 若干『オジサン』という単語にヘコんだが、なんとか愛想笑いでごまかした。

 ――自分で言うのと相手に言われるんはかなり違うな――

 いつか感じた自分と鯨井との違いを改めて考え始めてしまい、慌てて頭から追い出す。

「……刑事さんは、どこまで行くの?」

「三宮まで。ちょっと知り合いと会わなあかんねん」

 播磨玲美はりまれみの事があるのでさすがに『鯨井に会いに行く』とは言わないでおく。

「ああ、お仕事なのね。普段着だからお休みなのかと思った」

「いいや、急な私用やさかい有給休暇取ったんや。この前の仕事が切り上げになったんもあってな。……野々村さんは、どこまで行くんや?」

「京都までよ。お祖父ちゃんの具合が良くないの」

 理由が理由なだけに、これまでより低いトーンで美保が答えた。

「確か、野々村さんのお祖父さんって高名なお医者さんやなかったか?」

「一応ね。……私には普通のお祖父ちゃんだけどね」

 困ったような寂しそうな、そんな笑顔を見せる美保に黒田は年甲斐もなく慌ててしまう。

 ――鯨井のオッサンが落ちるわけだ――

 感受性が豊かなのか、一瞬一瞬の感情に合わせて様々な表情を見せる美保に、大抵の男は釘付けになってしまうだろう。一見すると平凡に見える彼女だが、その仕草や表情が彼女の全てを魅力的に輝かせていくのだ。

「だいぶ悪いんか?」

「うん。もう、八十近いから」

「……そうか」

 いつの間にか黒田の左肩に寄りかかっていた美保は、心配や不安や寂しさを押し流すように、ひっそりと涙を流している。

 こうなってしまっては黒田はかける言葉を知らず、太ももの上で重ねられている美保の両手に、自分の手を重ねてやることしかできなかった。

「……ちょっと……ごめん……」

「美保、ちゃん?」

 美保が切れ切れにつぶやいたかと思うと、黒田に寄りかかっていた体を滑らせ、黒田の上半身とバッグの間に顔をうずめてしまう。

 ――本来、これは鯨井のオッサンの役目やろ――

 年若い女性の肢体が体に密着していることは、役得といえば役得なのだが、野々村美保を取り巻く人間関係を知っているぶん後ろめたくもある。

 しかし美保に間違いは犯さないと宣言した手前、生殺しのまま三宮までの二時間を耐え忍ぶ。

「……美保ちゃん! 美保ちゃん!」

 いつの間にか黒田のヒザの上で泣きながら寝てしまった美保を揺り起こす。

「……ん。あ、え? ……ごめんなさい」

 目を覚ました美保は自身の無防備さを恥じらい、慌てて体を起こす。

「ええよ。もうすぐ着くから」

「そう。すっかり刑事さんに甘えちゃった」

 顔を真っ赤にしながら照れ笑いを浮かべる美保に動揺しつつ、黒田も笑い返す。

 程なくバスは三宮バスターミナルに到着し、黒田と美保は一番最後に降車した。

「さて、宿を探さないとな」

「この時間にあるかしら?」

 JR三宮駅から元町方面へ歩きながら、黒田はおや?と思う。

「美保ちゃん、宿取ってないんか?」

「うん。夕方に突然連絡が来たから、移動手段の検索で手一杯だったから。刑事さんも?」

 黒田が立ち止まったので美保が引っ張っていたキャリーバッグも静かになる。

「俺はオッサンやから、漫画喫茶でもカラオケボックスでもカプセルホテルでも、なんとかなる思っとったからな。調べもしてなかったわ」

「そういうとこ、クジラさんみたい」

 美保はクスクス笑ってから、すぐ黙ってしまい、目を閉じてH・Bで検索を始めたようだ。

「ダメね。ラブホテルしか空いてないみたい」

「どうする?」

「ちょうど男と女だし、仕方ないかな。刑事さんとだし」

 美保の軽い言い草にさすがに黒田が慌てる。

「ちょっと待て! こういう時に刑事さんはやめてくれ! お、俺も男や。ラブホは、アカン」

「えっと、じゃあ、黒田さん、でいいんでしたっけ? 私に野宿しろってこと?」

「そうは言わんけど……」

 一歩詰め寄って上目遣いに見つめてくる美保の視線から逃れようと、黒田は頭をかきながらあらぬ方を向く。

「じゃあ、女がいいって言ってるんだからいいじゃない。行きましょう」

 顔をそむけたまま目線だけ戻した瞬間を狙ったように、美保はニッコリと微笑んで、器用に黒田の左手小指を握ってさっさと歩き始めてしまう。

「しかし、やなぁ……」

「いいのよ。クジラさんだって好き勝手やってるんだもの」

 黒田に怒っている訳ではないのだろうが、投げやりな美保の言葉に黒田は言い返せなくなってしまった。

 年の差カップルの旅行中だと思われても仕方のない取り合わせの二人は、外観や値段も気にせずに一軒のラブホテルへと入った。

 部屋に着くなり入り口脇に荷物を置いて間もなく、美保は黒田に飛びつくようにして唇に吸い付いた。黒田も本能のままに受け止めて美保をもみくちゃにし、衣服も最小限だけ取り去って体を重ねた。

 獣が獲物を食らうように荒々しい黒田の吐息の中、美保は正直で魅惑的な声を上げつつ「中はダメ!」と訴えた。

 ――俺は何をしてるんや?――

 まだ息を弾ませたままの美保をなだめながら、黒田は猛ったままの男性器に反して一気に冷めていく気持ちに慌てていた。

「こんなことして、良かったんか?」

「……人生、長いんだもん。こんな日があったっていいんじゃない?」

 今時の娘、とは思いたくなかったが、そこまでサッパリと割り切れる美保の気持ちが気になった。

 後始末をしてやりながら聞いてみる。

「最初からそのつもりやったんか? 衝動的なもんか?」

「どうだろう? ……なんとなく、かな?」

 美保は複雑な表情をしながら、モゾモゾと黒田の体の下から這い出ようとしていたので、黒田は体をどけてベッドに腰掛けた。

 美保はあっけらかんと体を起こして、同じようにベッドに腰掛けて服を脱ぎ始める。黒田もチノパンがヒザに引っかかったままなのを思い出して脱ぎ去ったが、美保の裸からは目を反らした。

「意外と真面目なんですね。早かったし」

 この一言に黒田と美保の人間としての幅が表れた気がした。

「俺は、遊んでないだけや。古い人間やと思われるかもしれんけど、セックスは恋愛の延長やと思ってる。刑事っちゅう仕事も遊びを許さん。それだけのことや」

「でも、したよ。私のことを好きになってくれたとか?」

 美保の顔は見えないが、その声はからかっているようにしか聞こえない。なのに、黒田は自分の顔が真っ赤になっていくのが分かって尚更慌てた。

「君は、すごく魅力的や。鯨井のセンセが結婚を考えたんも今なら分かる気がする。バスん中で引っ付いた時に、抱きたいと思ったんも本音や。キスしたら止まらんようになったんも君が素敵やからや。……でも、好きとかは、ちゃう。なんか、ちゃう」

 自分の本心を語っているはずなのに、どんどん言い訳じみてしまうことに黒田は虚しくなっていく。

 ――こりゃあ、高校生より酷いな――

 冷静な分析が頭をよぎった瞬間、美保は黒田に止めを刺してしまう。

「女が抱かれていいって言った時くらい、割り切って良いんだよ。男が一時の快楽で抱くように、女だって清算したいことがあって抱かれに行く時があるんだもん。オスとメスみたいに出会い頭でセックスするなんてよくある話じゃない。理性やルールでセックスしないのは人間くらいのものよ」

 娘ほどの年齢の美保の口から、やたら達観したお説教を受け、黒田の心も体もすっかり縮んでしまった。

「やっぱり堅いんかのぅ……」

「すごく良かったよ?」

「そっちやない」

 若さゆえの食い違いに苦笑しつつ、鯨井と玲美の関係に義憤のような感情を持った自分が幼稚に見えてしまう。

「そっちね。……仕事はそれでいいと思いますよ。でも同意のセックスにルールは作らないで欲しいな。生で中出しは論外だけど」

「君って子は……」

 そういえば野々村美保は医学生だったことを思い出し、改めて自分は医療従事者とは相容れないなと感じた。

 どの人物も、湿っぽく恋愛を語ったかと思えば、動物的にセックスを割り切って考え、やたら達観した理屈で黒田を追い詰めてくる。

「なぁに?」

「……いや。本当に内緒話になってしもたな」

「私が黒田さんとこんなことするのは今夜だけよ。むしろ夢みたいな?」

「こんなエロい夢は高校以来だ」

 黒田はポロシャツを脱ぎ捨てて再び美保を押し倒した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る