夜明け

 今日は散々な夜だ――。

 田尻はバイクを走らせながら焦りと後悔で気が狂いそうだった。

 淡路連合の集会は一ヶ月前から日時も場所も分かっていたし、リーダーのテツオから口酸っぱく『集会でヘマをするな』と厳命されていた。

 この日だけは絶対に下手を打てない!

 遅刻なんてもってのほかと、念には念を入れて、田尻は紀夫に迎えに来てもらうように段取りしていたにも関わらず、当の紀夫が待ち合わせに遅れてきた。それも寝坊や用事が長引いたとかではなく、セフレとケンカをして仲直りのセックスが盛り上がってしまったからという理由だった。

 彼女ならまだしも、セフレとというところがなんともスッキリしない。

 ともあれ、まだ時間的に余裕はあったから集会が行われる津名港へ向けて走り出したのだが、今度は田尻のバイクがガス欠に陥り、バイクを押してガソリンスタンドを探す羽目になった。

 ガソリンスタンドは難なく見つかったが、足元を見られたのかボッタクリだったのか、割高な値段に抗議するも論破され、挙げ句財布が空っぽで紀夫から金を借りる借りないでケンカになった。

 手が出る直前まで言い争ったが、時間がないことに気付き慌てて紀夫が代金を払って走り出したのだが、今度は路地から頭を出してきた軽自動車と接触しそうになり、真面目ぶった髭面のオヤジと口論になった。

 この二時間のストレスを発散しないと集会どころではなくなってしまうと思い、掴みかかる勢いでケンカを売りに行くと、なんとも絶妙に会話を外してきて、挙げ句に警察関係者だと仄めかしてきた。

 結構真剣に紀夫が引き止めてくれたのでその場から引き下がることができたが、結局集会には間に合わなかった。

 WSSウエストサイドストーリーズは四大チームの中でも人数が多く淡路島南西部を仕切っている大きなチームだが、そのぶんリーダーのテツオはチームのメンツや他チームへの印象を気にするようで、遅刻の制裁としてテツオから大勢の前でチームをクビにすると言われた。生きた伝説になりつつある憧れの男から、直接目の前で言われたのはショックだった。

 しかし、そんな派手な宣告は淡路連合でのチームの立場のためにやった芝居なのだと、その後の密命で気付かされる。

『真がトラブルに見舞われているから手助けしてやれ』

 これは本当にしくじれないやつだ。

 田尻の顔もかなり引きつっていたと思うが、紀夫の顔もかなりイッていた。

 そもそもの話をすれば、田尻は城ヶ崎真のことはあまりよく知らない。

 まだWSSの正式メンバーではないし、メンバーの知り合いだか友達だかで、チームのたまり場に居るのを何度か目にした程度だ。恐らく紀夫もその程度だろう。

〈どっち通ったと思う?〉

 H・B化した脳に紀夫から着信があり、やや金属質にこもった音声が脳内に響いた。

〈普通なら28号線じゃねーかな。どこに向かってるかで変わるけど〉

 テツオからは『洲本の方へ南下した』としか聞いていないので、真の行き先は分からない。

〈そうだなぁ。この時間に集会以外でガキが走り回るったら、アワイチか?〉

 紀夫は真のことをガキと言ったが、実際のところ田尻と紀夫とはそれほど年の差はないだろう。真が中学生なのは間違いないが、だとしても二歳ほどしか違わない。

 どちらかといえば、夜中に中学生が無免許運転でバイクを走らせている行動を『ガキ』と表現した感じか。

〈鬱憤ばらしで夜中にアワイチか。ありがちだな〉

〈だな。……オンボロのCB400って言ってたっけ?〉

〈ああ。傷だらけでサビだらけのボロだ。古臭いワインレッドのタンクだ。何度か見たことある〉

 生産開始から百年を過ぎても生産されている名車なので田尻も紀夫もバイクの形状は知っている。だが、真の手入れが行き届いていないのか本当の持ち主が管理していないのか、バイク好きからすればかなり惜しい状態のまま真が乗り回しているので、分かりやすいけれど少し腹立たしくもある。

〈…………なあ?〉

〈んだよ?〉

〈なんでリーダーはあんな奴を助けろなんて言ったんだろうな?〉

〈知らね。なんかコネでもあるんじゃねーの?〉

 紀夫の疑問は田尻の疑問でもあったが、そこまで深く考えてはいなかった。

 真の正体や価値よりも、自分がこのミッションを乗り越えてチームに戻してもらうことの方が田尻には大切だからだ。

 実際のところWSSはバイクチームなので、大昔に流行った暴走族やヤンキーやチーマーとは違い、使途不明の会費や集金はない。ユニホーム的な衣装をあつらえたりグッズを作る際の費用などでメンバーで出し合うことはあるが、無理強いではないし強制もない。

 そもそもがツーリングを楽しむためのチームだし、その費用は自費だ。他所から妨害や縄張り争いを仕掛けられなければ荒事も起こり得ないし、起こらないはずなのだ。

 ただ、バイクや自動車に興味を持つのは十代の男子ならば一定数いる訳で、それに加えて小競り合いや暴力沙汰にも勝利している組織は、十代男子の憧れを集めるに足る魅力がある。

 田尻が憧れている本田鉄郎ほんだてつおは、リーダーシップがあり腕っぷしも強く、数々の噂や伝説を残してきた人物だ。

 そのテツオからの直々の命令は必ず果たさなければ、田尻自身の面目も意地も丸つぶれになってしまう。

〈……分かれ道だな〉

 ONOKOROアイランドを通り過ぎて塩田郵便局の手前の交差点で、紀夫はバイクを止めて呟いた。

 ここから右折して469号線に入れば、安乎あいが・中川原を通って洲本の市街地へ抜けることはできる。

〈相手は中坊だぞ? 西淡せいだんに帰るにしても国道から行くだろ〉

 真の住居は西淡だったと田尻の記憶に薄っすら残っていて、中学生なら地理にも詳しくないだろうし道路事情にも疎いだろうし、行動力や判断能力を考えると脇道よりも大通りを使って地元に帰るだろうという判断だ。

〈確かにな〉

 田尻の考えに納得して紀夫はバイクをスタートさせ、そのまま28号線を南下する。

 ちなみに『西淡』とは、旧南あわじ市に市町村合併される前の地域の名称で、三原川・山路川の河口周辺から津井までの旧南あわじ市西部一体を指し、合併前からの住民には昔ながらの呼び方がまだ残っている。

 しばらく海沿いを走っていると右手側の丘陵が切れて住宅地に差し掛かり、紀夫が田尻に教えるように前方を指差した。

〈追いついたか!〉

 思わず叫んで、田尻は法定速度ギリギリまでスピードをあげる。

〈おい、逃げるなって!〉

 田尻に合わせてスピードを上げていた紀夫は、彼らのヘッドライトに気付いて速度を上げた前の二台のバイクに怒った。

 田尻と紀夫からすればテツオの命令で追いかけているわけだが、何も知らない彼らからすれば後ろから現れたバイクに追いかけられている状態で、追われる心当たりがなければ慌てて逃げるのも無理はないだろう。

〈クソ! 無茶な走り方してやがる!〉

〈この時間じゃなきゃ事故ってるな〉

 深夜一時半の大通りを急加速や急減速で走られると、慣れたものからしたらおっかなくて仕方ない。

〈後ろのやつ、危なっかしいな?〉

〈そうだな。……ちょっと間をとるか〉

 二台のうち先行するバイクはシルエットで見る限り中型に間違いないが、後続のバイクは小型もしくは小排気量のシルエットでタイヤも細く見える。

 また運転技術も差があるようで、先行の中型が小慣れていて後ろはまだたどたどしくスピードにも慣れていないように見える。

 田尻と紀夫が強引に接近して停車を求めるのは容易なことだが、先程のようなチグハグな運転をされると、彼らが事故を起こす可能性とこちらがそれに巻き込まれる可能性も出てくる。

 田尻と紀夫は速度を抑えて対策を練る。

〈どうする?〉

〈……しばらくライトを下げといて、追いかけられてないと思わせよう。この先はまた山と海だけの区間が続くから、そんなとこでレースなんかしたら事故らせちまいそうだ〉

〈んじゃ、洲本市入ったあたりの信号待ちで並びかけるか?〉

 この場合の『洲本市』は淡路島中部の五色浜から洲本港近辺一帯を指す旧洲本市ではなく、『西淡』と同じく市町村合併前の洲本平野一帯の市街地を指す。

〈さすが紀夫だな。それで行こう〉

 田尻はサムズアップで相棒のアイデアを讃えながら、小さくなっていくテールランプを見失わないように睨んだ。


「……何だあれ?」

 智明は出したこともないスピードに平常心が乱れたが、バックミラーからライトが見えなくなったので少し落ち着いた。

 少し前を走る真が『急げ』の合図を出した時は、何事かとひどく慌てた。

「平気。…………なわけないけど、あの後じゃ止まるに止まれんだろ」

 かなりスピードを落として片手運転で智明を振り返った真に、オーケーサインで問題ないことを伝えたが、本音はバイクを止めたくて仕方なかった。

 東浦辺りで早くなり始めた動悸は収まるどころかますます早くなってきているし、肘も膝も目に見えて震えてきている。アクセルを握る手もクラッチレバーにかけた指も、感触が曖昧だ。

 何より一番辛いのは、頭痛が激しくなり始めて集中力や思考能力が途絶えがちで、ボンヤリし始めたことだ。

 先程から独り言をつぶやいているのも、意識が無くなりそうで怖くなってきているからだ。

 特に今は右手に山、左手に海で街灯もまばらな闇の中をヘッドライトを頼りに走っている状態だ。

 一瞬の判断ミスで生死に関わる事故を起こしかねない。

「……淡路連合の人らなのかな? だとしても追いかけられる理由が分かんないけど……」

 バックミラーを覗くが今は後ろの闇を写すだけだ。

「でも真がスピード出して逃げようとしたってことは、やっぱりピンチってことだよな」

 十メートルほど前を走る真のバイクのテールランプを見ながら呟く。

 ――あ、ヤバイ――

 急にこみ上げてきた嘔吐感に声も出せず、かと言ってバイクを止めることもできず、しっかり前を見ることと両手両足に力を込めることだけ意識して、無理に我慢せずに吐くにまかせた。

 服は着替えて洗えば済むし、バイクも洗ってやればいい。今はコケずに走り続けて、事故だけはしないようにしないと――。

 それでも智明の操るバイクはフラつくような挙動を見せ、真に振り向かせることになった。


「あのバカ! 合図しろよ!」

 明らかにおかしい智明の様子に真は激高したが、直前に正体不明のバイクに追われて慌てふためいた自分の行動が影響したかもと考え、停車できる場所がないかを探すことにした。

 間もなく右手の山林が途切れ市街地に入る。

「あ、あそこなら!」

 山林が途切れてすぐに28号線から分岐する形で76号線淡路水仙ラインが伸びてい、そちらへ左折してすぐに海水浴場があって州浜橋へと続いていく。アワイチで何度か通った場所だ。

 すぐさま智明にハンドサインを出して、左折の準備を行う。

 うまく信号を抜けれればさっきのバイクをやり過ごせるかもしれない。

 淡い期待と智明への心配をしながら、真はウインカーを点滅させバイクを左折させた。


 洲本の市街地に入り、ビルやマンションの影をバックに街灯の列が規則正しく並んでいる。

〈……おい、どこだ?〉

〈見失った? ……マジかよ〉

 油断させるためにスピードを抑えたとはいえ、視界にあるほぼ直線の国道は遠くまで見通せるのに、それらしいバイクの姿がない。

 丁度信号が赤になったので二台ともバイクを停車させ、田尻はヘルメットのバイザーを上げて肉声で紀夫に話しかける。

「どっかで曲がったか?」

「どうだろう? もう交差点を何個か来ちゃってるからな……」

 耳から入る肉声と脳内の通話の声がダブッて聞こえるのを我慢しながら周囲を見回す二人。

「そのままアワイチコース走ってるとか?」

「トラブル抱えてんのにか?」

 紀夫の予想を田尻は一蹴しようとする。田尻が敬愛するテツオからは『トラブルに見舞われている』と聞いていたから、彼にとってはそちらの情報の方が信頼度は高い。

「でも、アイツらが帰るならコッチだろうし、アワイチなら水仙ラインだろ?」

 紀夫が説明しながら、進行方向を指差し次いで後方の交差点を指差すのを目で追って、田尻は考え込む。

「可能性はあるか。……んじゃ、水仙ラインを十分ほどカッ飛ばして追いつけなかったら、28号線に戻ってブッ飛ばしてみよう。前のは400だけど、後ろは小型だったしスピード出し慣れてなさそうだったから、追いつけるだろ」

「そう、だな。それでいこう」

 小さな会議を終わらせると右折のウインカーを点滅させて、律儀に信号が変わるのを待ってからUターンして76号線淡路水仙ラインへの分岐まで戻り、右折して州浜橋に向かって進む。。

〈居た!〉

 田尻より紀夫の方が目が利くようで、水仙ラインに入ってすぐの海水浴場の東屋にバイクと人影を見つけて指さした。

 可能な限りゆっくりと近付き、田尻と紀夫はバイクを止めて確かめる。

「おい、お前。城ヶ崎真だな?」

 ヘッドライトを眩しそうに睨みながら茶髪の男が顔を向けた。

「ビビらせてすまんな。これで分かるかな?」

 紀夫はベルトに括り付けていた迷彩柄のバンダナをヒラヒラさせる。

「ウエッサイの人達?スカ?」

 明らかに動揺している真らしい男は、それでも少し警戒は解いたようだ。

「俺は田尻。こっちは紀夫な」

「ああ、田尻さんは一度名前を聞いたことあるっス。ども、真ッス」

 そこまで確かめられてから田尻と紀夫はバイクを完全に停車させ、ヘッドライトとエンジンを切った。

「ようやく捕まえたぜ」

「オノコロの辺りで追いかけてきたのもお二人っスカ?」

「ああ。すまないな。テツオさんからの指示でな? お前らがなんか困ってるらしいから手助けしろって言われてな」

「襲うつもりなんかなかったのに、逃げ出したからこっちが焦ったぞ」

「いや、こっちこそ何事かと思って慌てましたよ」

 突然追いかけられた恐怖から開放されたようで、真は安堵のため息をこぼしつつ苦笑いを浮かべる。

 田尻と紀夫も一時見失って慌てたことを思い出して軽く笑った。

「……それより、何があったんだ?」

「俺らは助けてやれしか言われてないから、何をしていいか分からんのだが」

「はあ。……実は、こいつ俺のダチで智明っていうんスけど、なんか急に体調悪くなったみたいで。東浦辺りで一回吐いて、津名までなんとか漕ぎ着けたんスけど、やっぱり回復してないみたいで……」

「あん? おま、血吐いてんじゃねーか」

「おいおい、体調どころの話じゃねーだろ」

 真が説明しながら視線を向けた先にはヘルメットを被ったままベンチにもたれている男が居て、弱い街灯の明かりでも分かるくらい上着の胸から腹が黒ずんでいた。

「こんな状態のやつにバイク運転させるなよ! 殺す気か!」

「違うっス! 津名まではここまでじゃなかったんス! ここに来てバイク停めたらこの状態で……」

 田尻が真剣に怒っていることを察して真も真剣に答えた。

 二人のやり取りを聞きながら、紀夫はベンチにもたれる男に近付き手首を握る。

「……。ん、まだ生きてる」

「紀夫さん!?」

「コエーこと言うなよ……」

 紀夫が生死を確かめてしまうくらい男の様子は危険な状態に見えたが、真も田尻もそれだけは考えたくなくて避けようとしたことを紀夫はサラッと言ってしまっていた。

「で、どうする?」

 妙な落ち着き方で紀夫は真に問いかける。

「ここまでだと、やっぱり医者かな、と」

「そりゃそうだが。……救急車か、俺らで運ぶか、だぞ?」

 田尻と紀夫は何もやましい事はないが、真とそのダチはまだ中学生だ。病院に連れて行くのは問題なくても、病院に事故や事件性を疑われてしまうと、警察に通報される可能性はある。

「……俺が、運びます」

「ニケツしたことあるか?」

 田尻は念の為、真が二人乗りで後ろに人を乗せたことがあるかを確かめる。

「何度かは」

「なら、いい。俺らが横について支えて走ってもいいしな」

「スンマセン」

「謝ったり礼を言うなら、テツオさんに言ってくれ。俺らはそっちの指示でやってるだけだ」

 それであっても親身な対応だと思い、真は無言だったが深いお辞儀をした。

 そこからなんとか智明を立たせて真の後ろに座らせ、智明の腕を真にタスキがけさせるように回させて、田尻のバイクに掛けていた荷造り用ネットを智明の腕にまとわりつかせて落下を防ぐ対策をした。

「智明、医者に連れてくからな」

 バイクをスタートさせる前に智明に声をかけ、微かに頭が動くのを見てから真はバイクをスタートさせた。


 智明が乗っていたバイクは一旦放置し、真と智明を病院に送り届けてから田尻と紀夫で回収する段取りになった。

 どの病院に運ぶかも打ち合わせていて、近くならば洲本の病院だが、智明の尋常ではない状態から最新設備の整っているであろう中島病院が最適だろうと決まった。

 三台とも400ccだし三人とも運転には慣れているので、28号線を法定速度で一直線に進み、一時間とかけずに中島病院へと辿り着けた。

「サーセン。あざっす!」

「アホ。駐車場でハイオシマイなんて出来るかよ」

「受け付けまで連れてくから、疲れたら代わってくれ」

 グッタリとして自分で歩けそうもない智明に肩を貸しながら田尻と紀夫は真に声をかけた。

 とても『リーダーに言われてきただけ』ではない対応に、真はちょっと胸が熱くなる。

「俺、先に走っていって病院の人呼んできます! 車椅子借りれるかもだし!」

 真は二人に言いおいて返事も聞かずに病院の入り口へ走っていってしまった。

「ったく、ガキだな」

「頭いいし良い奴じゃねーか」

「だからかな?」

「ああ?」

「リーダーが助けてやれって言った理由」

「……かもな」

 暗いアプローチを走っていって途中転びそうになったりしている真の姿を見ながら、田尻は紀夫の言葉に同意を示した。

 程なくして、真が走り出てきて、その後ろを看護師らしき人物が二人、畳んだ車椅子を抱えて走ってきた。

「ちょっと、待って、ください、よ」

 男の看護師が乱れている呼吸の合間に切れ切れに喋り、車椅子を組み立てていく。

「患者さんを、こちらへ」

 女の看護師も弾む息を押し込めながら、田尻と紀夫の方へ手を差し伸べる。

 まず田尻が智明の腕を外して看護師に託し、続いて紀夫が智明から離れて、智明は女の看護師に抱かれる格好になる。

「いいですよ。こちらに任せて」

 智明が倒れないようにシャツを掴んでいた真に男の看護師が離れるように指示して、智明を後ろから羽交い締めするように持ち上げる。

 すぐさま女の看護師が車椅子の位置を調節して、智明を座らせ、力なくぶら下がった両足を足場に乗せた。

 やや勾配のあるアプローチを男の看護師はゆっくりと車椅子を押して進んでいく。

 真たち三人は運ばれていく智明の様子を見ながら無言で看護師についていく。

「あの……」

「待ち合いで座っててください。患者さんの年齢や状況などを担当の者が聞きに行きますから」

 切羽詰まった感じで女の看護師が告げる間に、男の看護師は車椅子ごと診察室へ入っていく。

 三人は勝手が分からないので、とりあえず待ち合いのベンチに腰掛けた。

「……なんか、嫌な感じだな」

「まあ、血吐いてるからな」

 智明を運びに来た看護師たちの慌てようが、自分達の予想の域を超え救急対応だったので、田尻と紀夫は急に不安になってきた。

 事故でもないし事件でもない。

 真の説明でそう聞いているし、智明の乗っていたバイクにもコケたような傷も見当たらなかったし、真が智明に危害を加えた様子もなかった。

 そんな気配があったならテツオが手助けの指示をしたりしなかったろう。

 今のところテツオへの信頼も真への信用も、覆る要素は全くない。しかし、まるで事件か事故の関係者のように漠然と座らされている状況は、とても居心地が悪い。

「……あの、状況の説明とかは俺が居ればなんとかなると思うんで、お二人は帰っても大丈夫だと、思いますよ」

 控えめに口を開いた真のトーンはかなり低く、放っておけないほど動揺していると思えた。

「そうは言ってもな……」

「あ、ちょっとトイレ」

 真をなだめようとした田尻をよそに、紀夫はスッと立ち上がって歩いていった。

「うん。……お前一人ってのも心細いだろ? ジョーキョー、何だ? 説明か。それが終わるくらいまでは居てやるよ」

「でも、迷惑かけますから」

「そこはアレだ、気にすんな。上手く行けばチームに入るつもりなんだろ? じゃあ仲間になる予定の仲間じゃねーか。迷惑なんて、今度俺らが困った時に返してくれりゃいいんだよ」

「……スンマセン」

 田尻はチームの先輩達から言われたまんまを真に言っただけだが、小さな声で謝る真に気にしていないことを伝えるため、ベンチの背もたれに両ヒジを乗っけて大仰に足を組んで座り直す。

「……ホイ、これでも飲んで落ち着けな」

 トイレに行っていたはずの紀夫が、ペットボトルのお茶を真の目の前に差し出した。

「あ、サーセン」

 紀夫にお茶をもらって初めて自分の喉が乾いていることに気付き、真は素直に感謝した。

「俺のは?」

「あん? あるわけないだろ。さっきのガソリン代も貸してんだぞ」

「ジュースくらいケチるなよ」

「先にガソリン代返せ。話はそれからだ」

「んだと!?」

 やおら気色ばむ二人は前のめりになって険悪なムードになる。

「いやいや、田尻さんのぶんは俺買ってきますから。ケンカしないでください」

「お、そうか? 紀夫、これが男気ってもんだぞ。少しは真君を見習え!」

「ああ? 年下にお情けでおごってもらうお前のどこに男気があるんだよ?」

 収まるはずの言い合いが再び加熱し始めたので、真は両者を手で制する。

「紀夫さんのぶんも買ってきますから、落ち着いてください」

「じゃ、俺コーラ」

「俺はホットのコーヒー。あ、微糖な」

 睨み合いから一転してにこやかな笑顔になった二人に、真はやられた!と気付く。

「……ウッス!」

 苦笑いをしながら真は席を立ち、自動販売機まで歩いていく。

 コーラとコーヒーを買いながら、未来の先輩達の気遣いにこっそり感謝した。


 智明を診察室へ運び込んだ看護師とは別の女の看護師が現れ、智明があんな状態になった状況を細かく聞かれた。

 とはいえ、州浜橋近くの海水浴場で田尻達に話した以上の事は伝えようもなく、十分ほどの時間で聞き取りは終わり、看護師はクリップボードを抱えてどこかへ去っていった。

 看護師からは別段指示などがなかったので、田尻と紀夫は智明のバイクを取りに行くと言い出し、その間に真には横になって寝ておくように言いつけた。

 真も徹夜になってしまった疲れや聞き取りの際に言葉選びに注意を払ったこともあり、二人の言いつけを素直に受け入れてベンチに横になった。

「――緊急だ! 内科の萩原教授と、脳神経科の鯨井助教授に連絡してくれ! 呼べる先生は全員呼んでもいい! すぐに来て欲しいって言えばいい! とにかく異常事態だ!」

 どのくらいの時間が過ぎたのか、慌ただしい足音やドアの開く音、ドラマでしか聞いたことがないような病院内で指示を叫ぶ声に、真は目を覚ました。

 覚醒しきっていない頭のまま体を起こし、周囲を見回してみる。

 と、激しくドアが押し開かれ、看護師五人がコマ付きのベッドを囲いながら病棟の奥へ押していく。

「何だ?」

 運ばれていったベッドには白いシーツがかけられていたようだが、時折赤い液体が吹き出しているように見えた。

 しかも開かれたドアは智明が運ばれたはずの診察室ではなかったか?

 思わず立ち上がってベッドの行く先を眺めるようにした真に、再びドアの開く音が聞こえた。

 そちらに視線をやると、先程状況を聞き取りに来た看護師が、顔や服に血液らしき物を浴びて真っ赤になったままクリップボードを持って病棟の奥へ走っていった。

 一瞬だけ真と目が合ったが、看護師は何も言わなかった。

「……何だ? どうなったんだ? 智明になんかあったのか!?」

 不安が押し寄せ立ち尽くす真に、構う者も説明してくれる者も今は居ない。

 喉の奥がキュッと絞まる感じがして、さっき紀夫からもらったお茶を飲もうとベンチに座り直す。

 500ミリのペットボトルには少ししか中身が残っていなかったが、口に含んでゆっくり飲み下すだけで気分は少しマシになった。

「ふぅ……」

 一つ息を逃して天井を見上げると、煌々と周囲を照らしていたLEDの照明に加え、病院の玄関や窓から朝日のほんのりした明かりが差している。

 梅雨入りが近いからか、夜明けのためか、どこか重苦しい。

「え? な、う、うわぁぁ!?」

 視線を足元に移した真は思わず悲鳴をあげた。

 壁やドアや通路のそこここに血飛沫のような赤い斑点が無数に飛び散っている。さっき運ばれていったベッドから吹き出したものだろうか?

「智明! 智明ぃ! おい!」

 もう一度立ち上がって幼馴染みの名前を呼んでみたが、やはり真に答えるものは居ない。

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