変転

「…………ん、うん?」

 鯨井孝一郎くじらいこういちろうの寝覚めは最悪だった。

 野々村美保ののむらみほの自宅で急展開の告白を受け入れ、久々のセックスに気持ちよくなったのは良かったのだが、美保は娘ほどの年齢差がある二十代の女性だ。当たり前のように二回戦三回戦を求められ、運動不足の体にムチ打ってどうにか美保を満足させて眠りに落ちた。

 そこから一時間もしないうちに頭に着信が鳴り続け、無理矢理に起こされたのだ。

「……人使いが荒いのぅ」

 グチを言いながらもノソリと体を起こし、数回頭をかく。

〈おはよーさん。こんな夜中になんでしょね?〉

 回らない頭ながらいつものように軽い感じで電話に応じた。が、電話の向こう側はたくさんの人の声が入り乱れてかなり混乱しているようだ。

〈鯨井さん! とにかくすぐ来てください! 異常なんです!〉

 誰が電話してきてるのか分からないくらい、電話口の女性は慌てているようだ。

〈ちょっと落ち着いてくれ。急患か? 機材の異常なのかえ?〉

〈来てもらえば分かります! 早く来て!〉

 ヒステリックに怒鳴って電話は切られてしまった。

 医療関係者の電話としては有り得ない内容だった。

 鯨井は中島ちゅうとう病院の脳外科・脳神経外科の専属医ではあるが、国生こくしょう大学医学部の助教授も兼ねている。緊急の呼び出しの際は、どちらのどんな要件でどのくらい緊急かを示すのが通例となっている。

 中でも救急で運び込まれる急患なら、事故なのか急に倒れた結果脳神経の精密検査を必要とするのかなどの状況説明は必須だ。また、施設や機材が異常を示した際には、何がどう異常であってどのくらいの範囲に影響が出ているかの状況説明が付加されるものだ。

 鯨井が『緊急』『異常』という単語から『急患か?』『機材のトラブルか?』と問い返したのはこういったセオリーがあるからだ。

 ともあれ、鯨井はベッドから抜け出し、服を着始める。

「……急患、ですか?」

「ごめん、起こしちゃったか? なんか意味不明な電話で呼び出しだよ。さっき寝たばっかりなのにヒドイ話だよ」

「ごめんなさい。欲張っちゃったから……」

 起き上がった反動で小さく揺れた乳房を隠すこともなく、美保は若さゆえの本能を恥じた。

「なに、オジサンの体力が負けてただけさ。いつでも満足させられるように少し鍛えとかないとなぁ」

 自嘲した笑みを浮かべながら美保に顔を近づけ、鯨井は短いキスをした。

「……結婚したら、子供は三人は欲しいんです」

「はは。分かった、頑張るよ」

 ずいぶん先を見てるなと思いながら、鯨井は立ち上がって玄関へ向かう。

 美保もベッドから下りて床からブラウスを拾って袖を通し、ボタンを留めながら鯨井を追う。

「目覚ましのコーヒーが欲しかったけど、また今度だな」

「これからはいつでも飲めるじゃない」

「そうだな。行ってくるよ」

「行ってらっしゃい」

 靴を履き終えた鯨井は、美保を抱きしめ美保も鯨井を抱き返してベッドさながらの熱いキスをして鯨井を送り出した。

 一旦自宅に寄って着替えを鞄に詰め込んで、鯨井は自家用の軽自動車に乗り込む。

 マンションの前を走る国道28号線は、夜が明けてすぐということもあり、車の行き来は少ない。

「嫌な天気だな」

 日が上りきっていないせいかほんのり暗く、薄く広がる雲がなお暗く感じさせる。

 鯨井は軽自動車を東に向け二つほど交差点をやり過ごしてから北に入り、いつものようにファームパークの前を通って中島病院の来院者用駐車場へ駐車した。

 着替えの入った鞄と仕事で使う資料の入った鞄を抱えて病棟に向かっていると、高級外車が何台か病院のアプローチを通って奥の関係者用駐車場へ入っていき、後について走ってきたバイクが二台、来院者用駐車場の入り口あたりに停車した。

 近くにはすでにバイクが二台停まっているので、事故か何かで来院した者の関係者かな?と思いつつ、大して気にせず病棟へと入った。

「おはよーさん。急な呼び出しだな。何があったんかな?」

「鯨井先生! 助かります! も、わけ分かんないんです!」

 外来受付の中もてんやわんやの様子で、鯨井の顔を見た事務員は切羽詰まった顔で訴えてきた。

「おはようございます。鯨井先生にも呼び出しが?」

「おや、萩原先生に高杉先生まで? え、播磨先生までって、はあ?」

 礼儀正しく鯨井に声をかけてきたのは内科の萩原医師。そして彼の後ろには放射線技師の高杉と婦人科の女医の播磨玲美が続いてい、鯨井に軽くお辞儀をした。

 さっき関係者用駐車場へ入って行ったのは彼らだったようだ。

「昨夜の当直は外科の清水先生でしたよね? 何があったんでしょう?」

「電話ではとりとめのない説明で、なんとも……」

「そちらにも? 私も急いで来てくれとだけで」

「なんだかなぁ」

 鯨井だけでなく他の医師たちも充分な説明もなく呼び出されたようで、ますます分けがわからなくなり鯨井は頭をかいた。

「先生方! こちらへお願いします!」

 病棟の奥から普段の業務中では有り得ない声が上がった。

 院内では基本的に大声をあげることは禁止されていて、入院患者だけでなく来院した患者やその家族に不安を与えないため、重要な会話ほど声をひそめる規則がある。

 実際、待ち合いロビーのベンチに腰掛けている数人の男女が不安そうに周りに目を配っている。

 中でもシャツの袖口や襟元を血で汚した茶髪の少年の挙動は、不安や心配にまみれていて、鯨井の印象に残った。

「なんだコレ?」

「真、大丈夫か?」

 鯨井の後にバイクで駐車場に入ってきた少年二人が、茶髪の少年に話しかけているのを目の端に捉えながら、鯨井は他の医師と一緒に病棟の奥へ向かう。

「皆さん、お休みの時間に申し訳ないです。私では意味の分からないことが起こっていて、理解を超えてしまっているんです」

 看護師に通されたのはMRIのモニター室で、制御盤とモニター画面が並んだ縦長の空間に、当直だった外科の清水医師のほか内科や泌尿器科やリハビリ科のトレーナーまで、中島病院のドクターのほとんどが集められていた。

「何があったんだね?」

 内科の萩原医師がまず口火を切った。

「順を追って説明します。まず、午前二時半頃に少年が一人救急外来で運び込まれました。同行していた友人達によりますと、昨夜の二十二時に食事をした際、微熱や頭痛、それから胃もたれか消化不良のような症状を訴えていたそうです。その時は大して気にもせずバイクでツーリングに出掛けたそうです」

「夜中にツーリング? 若いですな」

「鯨井さん」

 思わず茶々を入れてしまった鯨井を婦人科の播磨医師に咎められた。

「ああ、失礼。続けてください」

「オホン。どうやら淡路島一周を楽しもうという流れだったらしく、三時間後に東浦の辺りで一度胃の中の物をリバースしたそうです。同行していた少年はその場で救急搬送を願うかバイクで病院に向かうかで迷ったそうですが、搬送された少年が自力で向かうことを望んだようです」

「なるほどね。無免許だったのかな」

 内科の萩原医師が少し含むように呟いた。

 清水医師はうなずいてから続ける。

「恐らくそうでしょう。それから津名港で休憩をとったそうなんですが、その時は辛そうな表情はしていても嘔吐や排便はなかったようです。休憩のあと洲本市街地まで走って再び休憩で停車したところ、血を吐いていたそうで、流石に危険を感じで当院へ運び込んだ、ということです」

 ふうむ、と全員がそれぞれの知識や学識に照らし合わせて考え始める。

 微熱や頭痛から嘔吐し吐血する疾患を探っている。

「待ってください。問題はここからなんです」

 腕組みをしたり顎に手を当てて考え込む医師たちに、清水医師は待ったをかけた。本当に重要な情報はここからなのだ。

 萩原医師が聞く。

「ここからが異常、ということかね?」

「はい。……まずはクランケの現状を見ていただいたほうが分かりやすいかもしれません。ちょっと、ショッキングなので、そのつもりでお願いします」

 清水医師はその場にいる全員を見回してから、少し躊躇うような恐れるような面持ちで、モニター室とMRI検査機器のある部屋との境にあるカーテンを開いた。

「お、おおぅ」

「キャッ!」

「なんだ、こりゃ?」

 なんとも形容し難い光景に医師たちから驚きの声が漏れ、播磨医師はあまりのことに近くに居た鯨井に抱きついた。

 ガラス窓の向こうには、検査台に横たわる人型の物が真っ赤に濡れたままベルトで拘束されていた。

 素直に『人』と形容されなかったのは、皮膚が裂け、骨が露出し、眼球や臓器がむき出しになり、所々から血飛沫を吹き上げていたからだ。

「生きてる、よな?」

 鯨井が播磨医師に抱きつかれたまま窓に詰め寄る最中に、横たわる人型のアゴが割れまた血が吹いた。

「イヤアアア!」

「お? おお、播磨ちゃん、ちょっと奥に行こうか」

 耳元で嬌声をあげられ、播磨医師がしがみついていることに気付いた鯨井は、医師の間を縫ってモニター室の奥に播磨医師を連れて行く。

 そこにはすでに悲壮な顔をした女性看護師が二人縮こまっていて、その二人に播磨医師を託すように押しやる。

 足元にはうずくまって震えている男性看護師も居たが、それも仕方あるまい。

「これは、その、なんと言っていいか……」

「こんな話は聞いたことがない」

「はは、エイプリルフールは終わってるし、ハロウィンには早い、よな」

 冷静沈着な萩原医師も言葉を失い、他の医師たちも戸惑ったり冗談を言ったりして精神を落ち着かせようとしている。

「清水先生、あの状態になってたのかな? ここに来てからああなったのかな?」

「は? はあ、ここに運び込まれて問診の途中で血を吹き出しはじめまして……。この数時間の間に骨や臓器が表層に露出し始めました」

「なるほど。勝手にあんなことになられると、グロいというより、スプラッタ映画並みですな」

「よく、平気で、うぷ!」

 遠くから鯨井の落ち着きを指摘しようとした高杉医師が口を抑えて黙る。

 医師になってから歴の短い彼には少々キツイ状態かもしれない。

「清水さん、一度そこは閉めましょうか。……それと、ここに運んだということはCTやMRIやX線の撮影は済んでるんでしょ?」

 鯨井に促されて清水医師は慌ててカーテンを閉じた。

 隣では磁力線技師が制御盤の操作を始め、萩原医師が腕時計を気にする。

「清水先生、こちらは準備できてます」

「ありがとう」

「ああ、君。外来の受付は一旦止めておくように伝えてきてくれ。通常の診察にはしばらく取り掛かれないから」

「はい」

 磁力線技師と清水医師のやり取りの傍らで、萩原医師が入り口に控えていた女性看護師に指示すると、看護服の左肩から腹までを血に染めた看護師はクリップボードを抱くようにして部屋を出ていった。

 清水医師は技師の手元に目を走らせてから医師たちに向き直る。

「はい。データはあります。いずれも変化が始まってからの物ですが、三時間前のMRIとX線写真があって、先程もう一度MRIを撮りました」

「院内ネットにもアップしましたから、ここのパソコン以外からも見れます」

 清水医師の説明を継いで、磁力線技師が言った。

 本来、病院内のローカルネットワークには特定の個人のデータはアップロードしない決まりなのだが、複数の医師でカルテを共有する場合などにパスワード付きで開示するケースは無くはない。院内ネットにアップすることで病院内のパソコンやH・B《ハーヴェー》で接続して一度に複数人で閲覧が可能になる。

「気が利くな。どれどれ」

 モニター室に集まった医師たちはパソコンに見入ったり瞼を閉じて問題の映像を開いていく。

 遠くで何かが割れたり、千切れたりする音がしたが、データの検証に集中している医師たちには聞こえなかった。


「なんか、様子がおかしくないか?」

「うん? そうか?」

 バイクを停めてすぐ紀夫は田尻に話しかけたが、ヘルメットを脱いでいた田尻は素っ気ない。

 そもそも紀夫のバイクに二人乗りして洲本の海水浴場まで向かい、智明が血を吐いてグショグショにしたバイクを運転して戻ってきたので、周囲の雰囲気に気を配る余裕はなかった。

 駐車場から病院に向かう間も、紀夫は車の出入りや奥にある駐車場を気にしたりと落ち着かない。

 対して田尻は疲れが出始めたのか、うつむき加減で通路を進む。

「うえ! 何だこりゃ……」

「は? なんだよ?」

 病院の玄関を入ってすぐ、紀夫は二時間ほど前に自分達が居た時と雰囲気が変わっていることにすぐに気が付いた。

 外来受け付けのカウンターの前には関係者らしい人影がたむろし、受け付けの奥では電話のやり取りが刺々しい感じで行われていてかなり騒々しい。

 また奥の方では看護師や技師らしき人影が慌ただしく行き来し、壁や床や天井に血飛沫のような汚れが出来ていた。

「なんだコレ?」

「真、大丈夫か?」

 ようやっと周囲の異常に気付いた田尻が声を上げ、紀夫はベンチでボンヤリと座っている真を見つけて声をかけた。

「…………あ、田尻さん。紀夫さん」

 かなり呆けた感じで真が答えたが、その目の焦点は合っていない。

 後ろでたむろしていた大人達が看護師に呼ばれてゾロゾロと歩き出し、真は追いかけるようにその集団を目で追った。

 田尻はその中に見覚えのあるオッサンの顔を見かけたが、こんなところに知り合いがいるはずは無いと思い直し、真に視線を移す。

「おい! しゃんとしろ!」

「何があった? アイツ、トモアキだっけ? どうなったんだ?」

 人形のようにベンチにもたれたままの真に、田尻が怒鳴りつけ、紀夫は気合いを入れるために何度か真の頬を張った。

「……なんか、血、吹いてました。……さっき奥に運ばれて。……そっからはよく分かんないんです」

 淡々とした声音で真が話す。

 要領を得ない説明に、田尻も紀夫も顔を見合わせて対処に困ってしまう。

 どうしたものかと周りを見回すと、奥から看護師が走ってきて、受け付けカウンターに立ち寄る。

「内科の萩原先生からの指示です。通常の外来の診察はしばらく取り掛かれないから、来院された患者さんには待ってもらうようにと」

 少し声を震わせながら伝言を伝えた看護師を見て、紀夫はどこかで見た顔だなと気付く。

「あ、なあなあ。アンタさっき聞き取りに来てくれた人だろ?」

「…………え?」

「やっぱりそうだよ。可愛いから覚えてたんだよ。ちょっとだけ良いかな?」

「あ、はあ、どうも」

 紀夫に声をかけられ、状況とは全く異なる誘い言葉に戸惑いつつ、看護師は真たちのベンチに歩み寄る。

 やたら馴れ馴れしく接していく紀夫に、田尻が若干引いているのは紀夫には見えていない。

「なんか慌ただしいけど、どうなってんの?」

 紀夫に尋ねられた女性看護師は、少し怯えるような目を病棟の奥に向けてから答える。

「ちょっと、それは……。患者さんのプライバシーがあるので。言えないんですよ……」

「そうなの? まあ、普通じゃないっぽいけどさ。お姉さん、着替えないの?」

「え? ああ、そうですね。ちょっと、時間ができたら着替えるつもり」

 紀夫に指差されてから、看護師は自身の看護服が血塗れなことに気付いたようで、手元のクリップボードで汚れを隠すように持ち直した。

「顔とか手にも付いちゃってる。早めに洗わないと肌が荒れちゃうよ」

 さり気なく女性看護師の手に触れる紀夫を、田尻はポカンと口を開けて眺めている。

 ――なるほど、こうやってセフレ作っていってるのか――

 妙な納得をしつつ、自分には真似できないと思う田尻だった。

「そうね。この格好のままじゃ、何かあったと思われちゃうよね」

「そうそう。さっきまでちょっと震えてたしさ、気になるよ。やっぱり」

「そお? 看護師失格だなぁ」

 紀夫に手を握られながら振り払おうともしない看護師に、田尻はそろそろ口を挟むべきかと、姿勢を変える。

「そんなこたぁないよ。俺にはちゃんと白衣の天使に見えてるぜ」

「ふふ、ありがとう」

 しっかり手に手をとって、とうとう笑顔で見つめ合いだした紀夫と看護師に、田尻の限界が訪れる。

「あのさぁ――」

 しかし田尻が紀夫に意見する前に、病棟の奥で激しくドアが開かれる音が響き、人型の赤黒い生物が飛び出してきて壁にぶち当たった。

「な、なん!?」

 まず轟音に驚いた紀夫だが、壁にぶち当たって廊下に転がった生物らしきものにもう一度驚く。

 赤黒い人型の生物はすぐさま立ち上がり、さっきとは反対側の壁に突進し、ぶつかって再び廊下に倒れてすぐ立ち上がった。

 そして一瞬静止し、頭らしきものをグルリと回してから病棟の玄関へ向けて突進し始める。

「ヒッ!?」

 紀夫と看護師から見ると一直線に自分達の方に向かってくるように見え、看護師は息を詰まらせるような音を出して硬直する。

「こっち来んな、バカ!」

 田尻が真を庇うようにベンチに飛び退くのと同時に、紀夫は看護師の手を引いて抱きとめる。

 獣の咆哮なのか未知の怪物の足音なのか、それとも怪物が走り抜けた風圧なのか、耳が痛くなるような轟音の後にガラスと金属のひしゃげる音がして、待ち合いロビーは静かになった。

「……な、何だよ?」

「イタ、痛いっす。ちょ、田尻さん?」

「うううん……。痛い……」

 田尻を押しのけるようにして真は体を起こし、強烈に痛む額と後頭部をさする。

 押しのけられた田尻も額をさすっている。どうやら赤黒い生物から逃げようと飛び退いた際に、真に頭突きを食らわせてしまったようだ。

 紀夫は、真が押し倒された拍子に真から頭突きをもらったようで、耳の後ろあたりをさすっている。それでも看護師をしっかり抱いているのだから大したものだ。

「なんなんですか?」

「もう、居ない、よな?」

 顔を上げて周りを見回す看護師につられ、紀夫も注意深く周囲を見回す。

「……え? ええ!?」

「なんだよきゅう……うえ!」

 紀夫のあげた大声がうるさかったので、頭をさすっていた田尻がキレてやろうと頭を上げると、待ち合いロビーの様子が一変していた。

「なんじゃこりゃあ?」

 廊下には猛獣が駆け抜けたような足跡がコンクリートをえぐった形でそこここに掘られ、壁には無数のひっかき傷が刻まれ、ロビーに置かれていた観葉植物やブックスタンドはなぎ倒され、天井からは電灯が引き剥がされて垂れ下がっている。

 目線を玄関に向けると、トラックか何かが無理矢理通ったみたいに、玄関の重厚な金属のドアフレームがひしゃげ、飛散防止の針金入りの分厚いガラスは割れて吹き飛んで無くなっている。

「うわああああ!」

「いやああああ!」

「な、なんだ?」

 今度は病棟の奥から複数の叫び声が響き、スーツ姿の男や看護服の男が転がり出てきた。

「……なんなの?」

 紀夫の手から滑り落ちるようにして女性看護師は廊下に座り込んで呟いた。

「何が起こっているの?」

「赤坂ちゃん、大丈夫か?」

 ちゃっかり名札で名前を確認した紀夫が声をかけたが、紀夫の手をしっかり握ってはいたが赤坂恭子はただ震えるだけで何も答えなかった。


「……さん! 鯨井さん! 鯨井さん! しっかりして下さい!」

「……んん、うあ?」

 頬を叩かれ肩を揺さぶられてようやく鯨井は意識を取り戻した。

「何があった?」

「私にも、よく、分かりません」

 鯨井を覗き込むようにしている播磨医師は心底ホッとしたようで、三十半ばとは思えない可愛らしい笑顔を見せてくれた。

「こいつは……酷いな……」

 頭だけを起こしてMRIのモニター室を見回してみると、モニター室と検査と撮影を行う隣室とのドアが吹き飛ばされていた。その衝撃のオツリなのか、モニター室から検査室を観察するための覗き窓が割れていて、制御盤やテーブルにガラス片が散乱している。

 鯨井の足元や播磨医師の背後には、倒れたりしゃがみこんだ同僚たちが呻いたり痛みを訴えていた。

「なんだか寝心地がいいと思ったら、播磨ちゃんの膝枕だったか」

「不謹慎ですよ」

 播磨医師は鯨井をたしなめたが、表情は怒ってはいないようだ。

「俺だけ特等席じゃ申し訳ないから、皆の手当てといきますかな」

「あ、ちょっと――」

「あいててててて! っ痛ぅ……。左足が折れてるじゃないか」

 自分の体の状態も確認せずに起き上がろうとした鯨井に、さすがの播磨医師も呆れてため息をもらす。

「……萩原先生……」

「……残念です」

「高杉君もか……」

 上体を起こした鯨井の背後で、播磨医師が鼻をすする音がした。

 壁にめり込むほど弾き飛ばされたドアの隙間に、重なるようにして押しつぶされた男性の体が二つあり、服装から察するに萩原医師と高杉医師だ。

 二人とも胸部から上はドアと壁に挟まれ、押しつぶされて人としての姿を留めていない。

 床に溜まった血液は鯨井のズボンを濡らし、現実を受け入れざるを得なくさせる。

「…………。ということは、状況的に犯人はアイツか?」

 故人に向けて合掌し短く念仏を唱えてから、鯨井はヒザ立ちでドアの無くなった隣室を覗きに行く。

「鯨井さん、安静にしないと」

「いや、気になることがある」

 播磨医師の制止を振り切り、四つん這いで隣室までたどり着くと、鯨井は言葉を失った。

 中島病院で勤務を始めてから何度もMRIを使用した検査でこの部屋には訪れていた。大掛かりな装置で高出力の磁力線を用いるため、室内は広く余分な物のない簡素な部屋だった。

 しかし今鯨井が目にした室内は、壁や天井はおろか床にまで無数の引っかき傷が付き、赤赤とした筋肉を露出させ血を吹いていた患者が拘束されていた検査台はひしゃげて分断されている。

 検査台からドアまで歩いたと思しき経路には足型のような窪みが穿うがたれ、そばには血液が飛び散っている。

「……あれは?」

 痛む足を引きずりながら鯨井は検査台に這いより、引きちぎられたベルトを観察する。

「播磨ちゃん! 検体採取してくれ!」

「……鯨井さ、ん?」

「細胞が生きてるうちに! 早く!」

「あ、はい」

 モニター室で鯨井を見守っていた播磨医師は、鯨井の剣幕に戸惑いながらも備品室へ走った。

「拘束ベルトを引き千切るとかありえんぞ……。自分の肉が削がれるのも厭わんとは……。なんなんだ、アレは?」

 鯨井の脳裏に、検査台に拘束され横たわっている人型の生物の映像が蘇る。

 血液らしきものに塗れていたせいか、皮膚の状態は定かではないが、赤黒い表面は露出した筋肉なのではと思える。傍には人間とは少し形の違う骨状のものがさらされていたし、臓器も見えていたように記憶している。

 モニター室で負傷者の手当を始めている清水医師からは、患者をあのような解剖同然の処置をした話は聞かなかった。むしろ、あの状態に変化していったような口ぶりだった。

 そこここに飛び散り溜まっている血液状の物は、恐らく人間の血に近いと思えたが、色や匂いや粘度に若干の違和感を感じる。

 ベルトにこびりついた肉片にも、だ。

「……俺はホラー映画でも見てるんか?」

 だとしたら相棒が播磨ちゃんで良かったと思った。

 野々村美保にはまだこの光景は少しショッキング過ぎるだろうから。

 薄れていく意識の中で、快感に身悶えする美保を思い出しながら鯨井はまた気絶した。

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