激突

出発

 兵庫県伊丹市。

 兵庫県の東に位置し、大阪府豊中市との境には大阪国際空港があることでも有名だ。

 関西国際空港と神戸空港の開港により国際線は減便してしまったが、近畿圏の空の玄関口としての存在感は衰えてはいない。

 大阪や神戸のベッドタウンとして人口も多く、冬場にはハクチョウなどの渡り鳥が湖沼に飛来するなど、自然も豊かな土地だ。

 もう一つ、伊丹市から連想されるワードは、やはり陸上自衛隊の駐屯地があることだろう。

 伊丹駐屯地は、昭和二十六年の警察予備隊の駐屯に始まり、再編成や拡大・縮小を経て、中部方面隊総監部として平成中期からは一個普通科連隊が駐屯している。

 同市には千僧せんぞ駐屯地も置かれており、こちらには第三師団司令部などが配置されている。

 隣接している川西市には川西駐屯地もあり、こちらは自衛隊病院の設立などもあって、近隣住民との関わりも深い。

 その伊丹駐屯地の庁舎の一室。

「入りたまえ」

 ドアのノックに応えたのは五十代の男で、姓名を川口道心かわぐちどうしん

 夏用の軽装ではあるが、支給品のシャツは襟までキッチリと止まっている。短く刈られた頭髪は白髪が混じってはいるが、概ね黒黒とし、ガッシリとした体躯からはまだまだ若々しさが見られる。

 襟章は一等陸佐で、この駐屯地の司令官を指している。

「失礼します! 野元春正のもとはるただ一佐、入ります!」

「ご苦労。こちらへ」

 入室し敬礼とともに名乗った野元に返礼し、川口はデスクまで呼びつける。

 川口同様、短髪に長身の野元の襟にも一等陸佐の襟章があるが、年齢や成績で一等陸佐は三段階に分けられており、野元は川口より格下になる。

「用件は他でもない。淡路新都の皇居奪還の任務が正式に発令された。普通科中隊二個、重迫中隊一個、及び本部中隊一個をもってこれに当たる。任務開始は七月五日、○六○○まるろくまるまる。一般道を使い、目標に到着次第、奪還任務を敢行する。ただし、実弾装備は携行するが、周囲一帯は国立公園及び特別保護区のため、よくよくの事態にない限り実弾ではなくゴム弾を使用する。この任務の指揮を貴官に任せたい。どうか?」

 チェアーに座したままであったが、重々しく命じた川口に、野元は踵を合わせ敬礼とともに答える。

「ハッ! 拝命いたします!」

「よろしい。……使用する中隊の選定も任せるが、良いか?」

 伊丹駐屯地には、中隊本部付隊と重迫撃砲中隊を除くと、普通科中隊四個と軽装甲化自動車化中隊が駐屯している。その内から任務に当たらせる普通科中隊二個の選定を野元に委任する旨を知らせた。

 本来であれば川口が断じるべき事柄であるが、野元に指揮を委ねる旨を強調するため、そう告げた。

「自分が、でありますか? 了解しました!」

 一瞬の戸惑いを見せたが、野元はそれを打ち消して応じた。

 自衛隊は軍隊とは異なった組織ではあるが、質疑が許されない縦割りの世界であり、軍隊と同じで可否のみを問われればそれのみを答えねばならない。

「結構。何か質問はあるか?」

 幾分、重々しさを和らげて促す。

「ハッ! 二点、よろしいでしょうか」

「ん。構わん」

 川口の許可を得、野元は姿勢を正して問う。

「先程、実弾は携行するがゴム弾を使用すると仰られました。重迫はどうされますか? 次に、軽装甲機動車を加えない理由はなんでしょうか?」

 川口は淡々と答える。

「L16迫撃砲で使用する砲弾は信管を抜くわけにもいかぬし、催涙性のガス弾もない。完成間近の皇居を破壊するわけにもいかないから、発煙弾で対処するほかあるまい。目標には十代から二十代の若者が多数集まっているようだが、煙幕への対処はしてくれていると信じるしかないな」

 自衛隊で採用されている迫撃砲は、中・遠距離から支援する支援火器であるため、警察機動隊のような催涙弾のように、対象を負傷させず無力化する兵器ではない。その中で発煙弾が殺傷力も少なく有用に思えるが、自衛隊が採用している発煙弾は白リンによる煙幕弾で、発火性があるために若干の焼夷効果も含んでいる。

 屋外であれば眼・口・鼻から少量が体内に取り込まれたとしても無害とされているが、閉所で多量に取り込んでしまうと死に至る場合もある。

 今回の任務では屋外で使用する予定ではあっても、何分対象が徒党を組んだ急造の集団のため、ゴーグルやマスクで防護していない可能性があり、川口はそれらの影響を案じた。

「軽装甲化自動車化中隊については言わずもがなだな。目標は山中の天然林の真っ只中だ。進入経路は南北に一本ずつしかなく、運用には難がある。対象の武装も強力とは思えない。投入しない理由としてはそんなところだ」

 軽装甲化自動車化中隊に採用されている軽装甲機動車は、戦車や重装甲車に変わって配備された比較的小型の車両で、天井ハッチを開放して機関銃を設置し運用できる装甲車だが、山中で運用するにはある程度開けていなければならない。

 また、兵員の輸送を目的としていないため、今回の任務では中隊規模での投入は能力を充分に発揮できないと考えられた。

「理解いたしました」

「ん。他に質問がなければ部隊の配備にあたってもらうが、どうか」

 先程より一層堅苦しさを解いて、川口が再び促すと、野元は直立不動のまま視線を彷徨わせた。

「……いえ、御座いません!」

 一瞬だけ唇を噛み、川口と目を合わせた野元だが、何かを飲み下して結局質問しなかった。

 その様を見届けた川口はゆるりと立ち上がり、野元の背後にある応接セットを指し示す。

「そこに掛けなさい。……惑っていては任務は達せられないぞ」

「……失礼します」

 わずかな逡巡のあと、野元は軽く顎を引いて了解の旨を示し、下座に浅く腰掛けた。

「まずここは軍隊ではない。似て非なるものだ。その前提で、皆が言いたい事と不安な事があるのは私も知っている」

 野元に語りかけながら川口の顔はデスクの奥の窓へと向き、駐屯地内の施設を数えるように眺める。

「私にも似たような危惧や心配があるよ」

「……左様でありますか」

 野元の返事は適当とは思えなかったが、話しにくく答えにくい話題のため、仕方ない。

 川口は視線を室内に戻し、野元を見る。

「貴官に。……君に指揮を任せる意図も言っておかないといけないな」

 自身の膝に目線を落としている野元へ、川口はなるべく明るい声で告げ、デスクを回り込んで応接セットへ歩み寄る。

 上役の歩みに合わせ、野元は表情を固くして待つ。

 居住まいを正す野元を目の端に捉えながら、川口はあまり畏まらずにソファーに腰を下ろして続ける。

「私はあと三年で退職を迎える年齢だ。この歳から将官を目指すものではないし、大きな災害や海外支援も若いうちに経験した。残りの在役期間は後進の指導に注ぐしかない」

 野元が部屋に来た時とは打って変わって、柔らかく笑う川口を、野元は不思議そうな目で見返してくる。

「自分が指揮を執るというのは、そういうことでありますか?」

「……君は何歳になった?」

「五十であります」

「はは。あと五年もある。ならばこそ今回の任務は君が指揮すべきだ」

「……恐縮であります」

 なんと答えたものか、野元は笑うでもなく誇るでもなく、微妙な表情でとりあえず返事をしていた。

「ん。報告書にも命令書にも、特殊な事例とある。心して掛かってくれ。勿論、本部中隊を動かすのだから私も現場には向かうが、責任を負うために立ち会うだけだから、君の思うようにしてくれて構わない」

「了解、致しました」

 国防省が自衛隊の演習を記者発表した時点で、伊丹駐屯地司令室には新皇居の現状がまとめられた資料が届いていた。

 中部方面隊第三十六普通科連隊司令部幹部として、当然野元もその資料には目を通している。

 正直、川口も野元も、他の幹部たちもその資料の内容は「信じられない」の一言に尽きるのだが、所轄警察及び機動隊の責任者が現実を無視した報告を行うわけはなく、単純な「若者の暴徒化」ではない対処を講じざるを得なかった。

 もう一点腑に落ちないのは、この騒動が明るみにされず、防衛派遣として任ぜられたこの任務を「演習」として演じなければならない違和感だ。

 その一事が野元の返事を詰まらせている。

「……この機会ですから、私語として流していだきたいのですが」

 瞼を伏せ、顔を背けて野元は川口に切り出す。

「自衛隊は、この先どうなってしまうのでありましょうか」

 野元は恥ずかしさを押し込めて問うたようで、七月の暑さとは違う理由の汗を滲ませている。

 陸海空のどの自衛隊にしろ、入隊希望者には様々な経緯や想い・考えがあって入隊したことは間違いない。

 しかし候補生から正式な入隊へと至る際に、日本という国を護る同意書にサインせねばならない。

 野元も、川口も、十五万人以上の自衛隊員も、それらをまとめ指揮を執る幕僚長もそのサインを行ったのだ。

 その覚悟や志が、今まさに揺らぐ事態が起こりつつある。

「……全ては御手洗みたらい首相の、遡れば山路元総理の胸の内次第だな」

 川口が予想していた通りの文言だったとはいえ、川口にも想像だにできない結末を憶測では語れず、少し突き放すような言い方になってしまった。

 第二次世界大戦からすでに百五十年が経ち、何度となく自衛隊の意義が問われたり法改正なども行われたりしてきた。

 だが此度のように『防衛軍への引き上げ』が議案として上がったのは初めてのことだ。

「とはいえな、そのようにはならないと私は踏んでいるよ」

「軍にはならない、と?」

 野元は不安げな顔のまま少し身を乗り出す。

「考えてみるといい。日本は小さな領海侵犯や領空侵犯を度々被るが、そこから即時防戦へと至ったことがない。これは海自や空自の怠慢ではないし、日本国のおびえやひるみでもない。過去や歴史から学び取った良識や美徳ではないかね? 我々は引き金に指をかけても軽々しく引きはしない。それを命令一つで引くのが軍隊であり、自衛隊にも引き金を引けと国民が望む形態であるならば、もっと早くに自衛隊という組織は軍隊に改編されていただろう」

『これは私語です』と野元が呈していても、自然と川口は言葉を選び、語るうちに表情は強張っていった。

 正直なところ、自衛隊の行く末は川口や野元の思惑が反映されるところにはないが、『自衛の組織』という前提だけは損なってはならない絶対的な志であるし、その前提を議会が揺さぶる事への反発もある。

「自分も軍隊ではなく、自衛隊に入隊したつもりであります」

「無論、私もだよ」

 少し開いた膝に手を付き、肩肘を張ってわずかに頭を下げた野元に、川口も同意をしてやる。

『防衛軍への組み換え』などという議案を目にした瞬間に、日本中の自衛官たち全員が彼らと同じ思いを抱いただろう。

「救いは『防衛軍』であって『国軍』ではないことだな。何をもってどこまでを『防衛』とするかだが、敗戦の記憶は薄れても、戦争の記録や歴史は消えることはない。ここまで『自衛隊』という形態であり続けた理由は、そうそう覆らんだろう」

「自分もそう願います」

 野元はもう一度川口に頭を下げて同意を示した。

 だが、川口はここまでの論旨をひっくり返すような渋面を浮かべる。

「なればこそ、今回の任務が『防衛派遣』である意味を考えなければならない」

 川口の後を追うように野元の表情も引き締まる。

「資料では、漫画のような不可思議な出来事が起こったとありました」

「うん。……少年時代にオカルトやホラーに興味のあった時期もあったが、この歳になってから相対さなければならないというのはな。……現実味がないよ」

 一気に表情を緩め、川口はソファーの背もたれに体を預けて腕組みをする。

「自分は、宇宙人の存在を信じてました。入隊してからは口にも出しませんでしたが」

 照れ笑いを見せながら頭をかく野元は、任務中には見せない少年の目になってしまう。

「その様子だとまだ信じているクチだな」

「ああ、はは……。入隊前は空自を希望しておりましたが、同輩や教官から『不真面目だ・不純だ』と叱られまして。勿論、今では趣味と任務は分けておりますです」

 図星を突かれ赤面する野元だが、令和初期には航空自衛隊の防空規範に『UFO遭遇時の対処』の項目が設けられたくらいなので、あながち不真面目とはいえない。

 UFO見たさに航空自衛隊に入隊するのは不純だろうとは思うが。

 それ以前に川口も野元を笑える立場ではない。

「いや、『南極ゴジラ』が存在するか否かを確かめたくて、南極観測隊に憧れていた私には馬鹿にはできない話だ」

『南極ゴジラ』とは南極大陸近海で目撃された未確認生物の通称で、平成末期に話題になった都市伝説の一つだ。複数の者が同時に目撃していることから信憑性が高いものと言われる反面、過酷な環境下での集団幻覚ではとも言われている。

UMAユーマでありますか。しかし川口一佐が南極観測隊を目指されていたとは、初耳です」

 オカルトを愛好する同志を見つけたからか、野元は普段通りのシャンとした姿勢で朗らかに笑う。対して川口は苦笑をもらす。

「若かったのさ。……それより、これでは本当に居酒屋の雑談だ。話を任務に則したものに切り替えよう」

「はっ。申し訳ありません。……となりますと、一佐は超能力をどのようにお考えでありましょうか?」

 真剣な表情で問う野元に苦笑しつつ、川口も姿勢を正して答える。

「これまでにテレビや雑誌で取り上げられている超能力は、箱の中身や封筒の中身を当てたり、スプーンを曲げたりというものばかりだ。大昔には月の裏側を念写したりというものもあったそうだが、その程度であれば我々の出番とはならないだろう」

 静かに語る川口に、野元はいちいち頷く。

「では、銃火器を必要とするほど強力である、とお考えなのですね?」

「少なくとも機動隊の装備では敵わなかった、ということだからな」

「よもやアニメや漫画のように、都市を壊滅させたり戦車を持ち上げたりなどの力があるとか――」

「想像で大きくしてはいけない。備えることと、夢見ることは別物だ」

「失礼いたしました!」

 自衛隊駐屯地の司令官室にて、時折脱線しかけながらも、高橋智明対策は長時間に渡って詰められていった。


   ※


 二〇九九年七月五日 日曜日。

 バイクチームWSSウエストサイドストーリーズのリーダー本田鉄郎ほんだてつおの指示で早い時間に寝たものの、夢とも精神世界ともつかない空間に迷い込んだり、テツオからお説教されたりがあって、城ヶ崎真じょうがさきまことの眠りは浅かった。

 わずかな時間眠ったと思っては目が覚め、トイレや水分補給をしてまた寝てを繰り返していたのだが、突然、耳慣れぬアラート音が頭に鳴り響いて飛び起きた。

「な、なん、なんだ!?」

 脳ミソを締め付けるような大音量の中、ドアの外から激しいノックの音が聞こえる。

 真の寝ている部屋とは違う部屋をノックしているようだが、なかなかに騒々しく、ただ事ではないと感じて真は廊下へと飛び出す。

「瀬名さん!?」

「真か! 田尻と紀夫を起こして、早く着替えろ! テツオ! 起きろっ!」

 まだ頭の中で響いているアラートに負けない勢いで、本田鉄郎の右腕である瀬名隼人せなはやとがノックを止めずにまくし立ててくる。

「ウッス。……あ、田尻さん、紀夫さん」

 テツオが寝ているはずの部屋をノックし続けている瀬名をよそに、真が向かおうとしていた部屋から田尻と紀夫が眠そうに目をこすりながら出てきた。

 彼らもH・Bハーヴェー化した脳内にけたたましいアラートが鳴り響いているようで、真と同じ様に表情が険しい。

「お前らも早く支度しろ! テツオッ!」

「――んだよ、まだ五時じゃねーか」

「そっちー!?」

 真らがたむろしていた廊下の一番奥の部屋のドアが開き、テツオと鈴木沙耶香すずきさやかが姿を現した。

 その部屋はサヤカに当てられていた部屋だ。

「あん? 夕べ色々あったんだよ。それより警報切ってくれ。吐きそうだ」

 目当ての人物が違う部屋から出てきたことに脱力して、床に崩折れてしまう瀬名へ、テツオが皆の気持ちを代弁してくれた。

 ヘナヘナと座り込んだ瀬名だが、それでもテツオの要望は聞こえていたようで、真を始めテツオ・サヤカ・田尻・紀夫の頭に響いていたけたたましいアラートは止まった。

「何事?」

「あ、キミ。おはよう」

 テツオとサヤカが寝ていた部屋の隣から藤島貴美ふじしまきみがヒョッコリと顔を出し、サヤカが場違いなくらい冷静に朝の挨拶をした。

 貴美が平然とした顔をしているのは、脳をH・B化していないからだ。

 テツオは幾分表情を緩めながら瀬名に歩み寄って問う。

「やっと止まったか。……で、何があったんだよ?」

「そうだった! こんなことしてる場合じゃないゾ! 陸自が動いた!」

「なんだと!」

 瀬名の報告に、ダルそうだったテツオの表情が一瞬で引き締まり、残りの面々にも緊張が走り声にならない驚きが呼吸音となって起こった。

「昨日のうちに正式な発令があったらしい」

「どうなった? 何時にどうなる?」

「今日の六時に伊丹をでて、到着したらすぐ作戦実行、らしい」

 瀬名の語尾が不確かになるのは情報源が自衛隊や日本政府から遠いためなので、そこは仕方がない。 

 しかし出発時間や作戦開始時間を問うたテツオに、これも不確かな情報が返ってきて、テツオは少し苛立った。

「分かってはいたけど、ハッキリしねーな……。ルートとか移動時間は予想できないか?」

 左手で右肘を抱き、右手を口元に当てながらテツオは瀬名を問い詰める。

「予想はできるケド……」

 部屋を間違えたショックから立ち直ったのか、立ち上がりながら瀬名が答える。

「下道なら、垂水たるみから第二神明しんめい乗って、橋渡って三時間? ……てトコか。高速使うなら、宝塚から中国自動車道に乗って阪神高速使って、二時間弱……だな」

 瀬名の即答に真は思わず感嘆してしまった。

 手付きや視線を見る限り、カーナビゲーションアプリを使わずに脳内に展開したマップを見て、ルートや所要時間を予想したと分かったからだ。

 今回の滋賀への遠出で真が感じたのは、神戸・大阪・京都周辺の高速道路の複雑さだ。それぞれの都市が、周辺の地域と交通の便よく結びつく為なのだから仕方ないのだが、真が淡路島から大阪・大阪から滋賀へと至るまでに気が狂いそうな枚数の案内板が掛かっているのを目にし、出口や合流などの複雑さに頭がついて来なかった。

 恐らく自力では滋賀から淡路島へ帰れないだろう。

 そんな複雑な道路交通網を、瀬名はナビゲーション無しでルートを把握し、時間の計算もやってのけた。これはかなりの回数遠出を重ね、走り慣れているから出来る芸当なのだろう。

「ということは、最短で八時。遅くても九時には到着しているってことね」

 瀬名に応じたのはサヤカだ。

「こっちは、どう足掻いたって二時間ちょっとかかる。おまけに――」

 テツオは腕組みを解き、忌々しそうに開け放たれたままの真が寝ていた部屋を睨みつける。

 室内は電灯が消されていて真っ暗だが、わずかに開いているカーテンの間は明るく白んでいて、夜明けを教えてくれている。

 しかし、窓ガラスを乱打する雨粒は昨夜のままだ。

「こんな雨じゃ、飛ばすに飛ばせない」

 一般的に高速道路の制限速度は時速100キロと法令で決められているが、あくまで最高速度であり、交通量や道路状況によってはもっと低い制限速度が設けられていたり、車列に添った場合は100キロはおろか60キロも出せない。

 ましてや日曜日の早朝で交通量が空いていても、打ち付けるような激しい雨の中を制限速度を超えて走るなど、かなり危険だ。

 テツオやサヤカや瀬名のように技術と経験があれば、あとは集中力の問題だが、田尻や紀夫でさえ雨中の走行は心許ない。

 ましてや真は無免許の十五歳だ。

 テツオの視線を追って言わんとすることを理解し、真は自分の能力の低さに悔しくなる。

「……俺、全力でついて行きます! 自衛隊より先に着かなきゃ意味ないですよね?」

「そりゃそうだけどな……」

 思わず口をついて出た真の言葉に、テツオは同意を示しはするが、まだゴーサインは出さない。

「そんなに気にしなくていいと思うぜー」

 判断に迷うテツオに向け、瀬名が軽く手を挙げて注意を引く。

「俺らの周りだけ降ってるわけじゃないからなー。陸自だって雨雲の下だ」

 H・B化している全員に向けて、瀬名は天気予報アプリの雨雲レーダーを可視化して見せる。

「うわっ。広島からこっちはスッポリ雨だ」

「こりゃ昼過ぎまで降るぞ」

「うむ。特にアワジは午前中に激しく降る様相。阪神間もそれなりと思われる」

 雨雲レーダーを見て田尻と紀夫がうんざりする横で、唯一H・B化していない貴美が話題に乗れていなかったが、自然の気や気圧などから細かな予報を行なった。

「キミの予報なら信じれるな。しかし相手は陸自だぞ?」

 テツオは前半で貴美を肯定し、後半は瀬名へ「先回りできるのか?」と問うていた。

「向こうはプロだからな。装備を天気に合わせてから出発するだろうし、現地に着いてからも準備をするだろう。その前に、日曜日の早朝ってことは、渋滞とかトラブルを避けるために高速より下道を選ぶ可能性が高いと思うぞ? 休憩も取るだろうしな」

 身振りを加えながら答えた瀬名に、テツオはまた口元に手をやって少し考える。

「……自衛隊が下道使うなら、どっこいどっこいか」

「バイクの身軽さは伊達じゃない」

「よし! すぐに出よう! 着替えてガレージに集合だ!」

「ウッス!」

 瀬名の後押しをキッカケにテツオは語気を強め、出発を告げた。

 真・田尻・紀夫がこれに気合の声を返してそれぞれの部屋へ駆け込む。

「瀬名、念の為に皇居の近くにメンバー集めといてくれ。いざとなったら自衛隊の足を止めてもらうかもしれん」

「アイヨ」

 自衛隊の足止めなどとだいそれた指示だが、瀬名も気軽に返事をして部屋へと入っていった。


「遅いぞ!」

 真が走ってガレージに着いた時には、すでに他のメンバーが集まっていて、フルフェイスヘルメットのバイザーを上げたままの田尻から、集合に遅れたことを注意された。

「すんません!」

 昨夕に瀬名が用意してくれていた雨合羽をシャカつかせながら、真は腰を折って全員に頭を下げた。

 時刻はもうすぐ六時になろうとしている。

「雨だからな、慌てずに集中してないと事故るぞ」

「ハイ!」

 急いでヘルメットを被ろうとする真に、紀夫からも注意が飛んできた。

「ん。先頭は俺と瀬名で引っ張るから、田尻、紀夫、真の並びでついて来てくれ」

「ウッス!」

「サヤカ。キミとニケツだし、真に追い越しのチェックまではさせられない。悪いけどケツ持ち頼む」

「ん、いいよ」

 テツオの指示にサヤカは二つ返事で了承する。

 これから使用する経路の大半が高速道路になる。日曜日の早朝の高速道路は交通量が減る分、大型トラックや一般車の速度超過や追い越しがやや増える。七月初旬ということもあって夜間よりは明るく対処はしやすいが、真の運転技術や経験を考えると、最後尾を走らせるのは多少の危険が伴う。

 ましてや雨天の走行は、バックミラーが濡れていたり水飛沫で視認が困難だったりと、不安要素は多大にある。

 加えて、サヤカはタンデムシートの後方に貴美を座らせ、二人乗りで走行しなければならない。その負担は先頭や列の中央では単騎よりも大きい。

 また、登山などでも初心者や未熟な者を列の真ん中か後に置き、熟練者が最後尾からフォローするのがベターであるとされている。

 テツオがサヤカの技術や経験を買っているからこその並び順だといえる。

「念の為、H・Bを複数同時通話状態にして、なんかあったらちゃんと言ってくれよ」

「ウッス!」

 全員からの返事のあとテツオは通話アプリを設定して、愛車HONDAVF750マグナへまたがる。

 次いで瀬名もHONDACLC1100Lへ足をかける。

 田尻はヤマハSR400へ、紀夫はカワサキZ400へとまたがる。

「あの、クイーン……」

「心配しないで。キミを落っことしたりしないから」

 ヘルメットの中の真の表情を読み取ったのか、サヤカは真が何かを言う前に心配事に答えてくれた。

「あ、はい。キミ、後でな」

「うん。サッチンにはここに来るまでにも乗せてもらったから平気。心配ない」

 すでにサヤカがまたがっていたHONDAVF750マグナの後部シートへ腰掛け、貴美は不慣れなピースサインを返してくる。

 それを見てから真もHONDACB400スーパーフォワーへとまたがる。

「よし! 行くぞ!」

 肉声と脳内の通話音にテツオの声が響き、早朝の琵琶湖畔にバイクの排気音を轟かせる。

 一行は県道307号線から321号線へと通り抜け、国道161号線から国道1号線へと入る。

 五条バイパスから京都・山科方面にハンドルを切り、京都東ICインターチェンジから名神高速を走る。

 もう太陽は日の出を済ませているはずだが、昨夜からの雨は弱まる気配はなく、雨雲も七月の太陽を透かしもしない厚さで進行方向に居座っている。

 何度目かの分岐で阪神高速・第二神明へと走り抜ける。

〈明石大橋だ!〉

〈もうちょいだ!〉

 田尻と紀夫の声にいざなわれるように視線を向けると、左手前方のかなり遠くに、雨に煙った淡路島の影と明石海峡大橋のシルエットが望めた。

 あの長大な吊り橋を渡り、神戸淡路鳴門自動車道に入れば、間もなく幼馴染みの高橋智明との再会の時である。

〈……ウッス!〉

 真は深呼吸のあとで気合を入れ直し、気持ちが逸っていると悟られないような声量で田尻と紀夫に応えた。

 ――もうすぐそっち行くからな!――

 アクセルを握る手に自然と力が入った。


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