決起

 諭鶴羽山ゆづるはさん北西の裾野に鎮座する明里新宮あけさとしんぐうは、早朝から異様な空気に包まれていた。

 高橋智明たかはしともあきが独立の意思を示し、キングとして立つ演説に合わせて配布が約束された『タネ』への不安と期待がそもそもの原因ではあった。加えて、配られる『タネ』を受け取るということは、近々に自衛隊や警察と衝突するという連想もさせ、より雰囲気を重くしてした。

 智明や川崎実かわさきみのるの説明不足もあったが、『ナノマシンで人間の能力を超える体や力を授ける』という触れでは、人心を引き込むというのは無理があったのだろう。

 ただ、明里新宮に集った面々は概ね三十歳未満で比率としては十代が多く、非合法ながらH・Bハーヴェー化した者ばかりなので『タネ』を体内に入れる事への疑心は薄い。

 またバイクチーム淡路暴走団のメンバーは大将である川崎への信頼に加え、これまで行ってきた荒事や裏稼業からすれば、この程度の展開に動揺する連中ではない。

 雰囲気を淀ませているのは、同じくバイクチームの空留橘頭クールキッズのメンバー達だ。

 彼らはかしらを務めていた山場俊一やまばしゅんいちが川崎に拘束され、不在の状態で智明の独立宣言を聞き、関係性が築かれる前に『タネ』の配布を受けるという状況に陥り、拒む者は立ち去らねばならなくなった。

 しかも立場は淡路暴走団の下部組織扱いだ。

 このまま新宮に残るか、それとも立ち去って地元に戻るか、その悩みや迷いが新宮全体に漂っているのだ。

「落ち着かん上に、鬱陶しい天気じゃのぅ」

 時刻は午前七時前。

 新宮の真ん中の区画にある大食堂の窓から空を見上げ、川崎が呟いた。

 とっくに朝日が上っているはずだが、昨日の夜から降り出した雨はまだ止んでおらず、強まったり弱まったりしながら薄暗い雲を空一面に広げている。

 ――こりゃあ、外苑やと無理やな。集合場所変えようかのぅ――

 ぼんやりと今日一日の段取りを考えながら、係に無理を言って支度してもらったきつねうどんを受け取る。

 フランク・守山から届いた物資と食料は、インスタントやレトルトやフリーズドライや冷凍食品などが主で、川崎が受け取ったうどんも乾麺と即席出汁とフリーズドライの油揚げだ。

 ――独立さえ成功したぁ、ちったぁマシんならいの――

 楽観的に考えながらテーブルに着き割り箸を割ってうどんをすすっていると、メンバーの一人が食堂へ駆け込んで来た。

「大将! えらいこっちゃ! うどん食うとる場合ちゃうで!」

「ぶふっ! ……んーう、なんやねん、シゲか。おどかすなよ」

 食堂の入り口で川崎を見つけるなり怒鳴り込んできたのは、淡路暴走団の幹部中村茂美なかむらしげみだ。川崎と同じ高校の六期下の後輩で、地域の集まりで顔見知りだった縁でバイクチームに入ったクチだ。

「うどんやこ後で食えんが! ヤバイねん!」

 吹き出したうどんとこぼれた出汁を気にしている川崎に、シゲはかなり慌てた様子でまくし立ててくる。

「落ち着け! なんやねんな! 慌てるんやったぁさっさと要件言えや!」

 間近で騒ぎ立てるだけのシゲに苛立ち、とうとう川崎も怒鳴り返す。

 シゲは、呼吸を整えてから口を開く。

「……自衛隊が基地を出よった」

「マジか? こんなタイミングでか? どこ情報や?」

 シゲを睨みつけるように真剣な表情になった川崎へ、シゲが声を潜めて答える。

「……スノハマからの……」

 聞こえるかどうかの小声でシゲが仲間内にだけ通じる符丁を言うと、川崎は過敏に反応する。

 すすりかけたうどんを器に落とし、川崎も声を潜めて指示を出す。

「…………分かった。例の配布は中止して、三十分後の七時半に全員をこの食堂に集めてくれ。昨日の班長にはミーティングやるから、十分前に俺んとこ来るようにな」

 重々しい川崎の声音に合わせるように、シゲは一つ頷いて食堂を走って出ていく。

 川崎はシゲが走り去るのを見送り、瞑目して智明へ危急の念を送る。

 当然、川崎にテレパシーなど使える訳はなく、智明から緊急の連絡はそういうサインを出してくれと命じられての行動だ。

 ――キング! キング! 危急やどー。急ぎやどー。ホンマにこれでええんかいな――

《川崎さん? 何かあったの?》

 ――うおっ!! ホンマに繋がった!――

 まだ数えるほどしか伝心テレパシーの経験のない川崎は、初めて電話を使った子供のように驚いた。

《そう出来るよって言ったじゃん。それより、どうしたの?》

 智明は心の声でも苦笑いしながら同じ問いを返してきた。

 ――ほうじゃほうじゃ。とうとう来た! ホンマに来た! 自衛隊が兵隊を動かしよった――

《………………ホントだね。須磨のあたりを幌付きトラックが列をなしてるね》

 少し長い沈黙のあと、智明から具体的な言葉が返ってきた。恐らく意識の目を飛ばして実際の景色を見てきたのだろう。

 ――もう須磨まで来とんのか。ほしたら、あと一時間そこそこでこっち来よるな。どないすんで?――

《とりあえず、HDハーディーの配布は中止だね。効果が現れるまで二日は寝たきりだって話だし》

 ――それはもう指示出した。アチッ。……中止を伝えるためにも、今集合さしとるとこや――

《流石だね。てか、なんか食べてる?》

 思ったことがそのまま智明に伝わるのか、伝心をしながらうどんをすすっていることを悟られてしまった。

 ――すまんすまん。朝飯食うとんねん――

《ああ、そういう時間だもんね。……とりあえず外周に障壁を張るけど、機動隊みたいに追い払えるか分からないから、外苑と牛内ダム側を守ってもらいたいな》

 智明の若さなのか、キングや指導者として甘いからか、食事中の連絡には咎はなかった。

 しかし、川崎が求めたほどの指示もなく、大まかな防衛拠点を示されたに過ぎない。

 ――ホンマ、とりあえずじゃの。ほな、外苑の内側と北西に部隊を配置する、でええんけ?――

 また智明の苦笑が伝わってくる。

《そういう言い方が良いわけね。それで頼む。自衛隊の布陣とか見てまた連絡するから、柔軟に対応してもらえたらいいよ》

 なるほど、と川崎は納得する。

 ドローンや偵察機の代わりを智明が能力でやってくれるというのは、良い案だと思えたからだ。

 ――了解。こっちもなんかあったら連絡しょーわ――

 川崎が会話を締めると、脳内に直接耳打ちするような気配が消え去った。

「ふう……。障壁をどうにかされたら、いっぺんにやってこまされそうで怖なってったぞ」

 川崎は智明との伝心を終えて、思わず本音を漏らしてしまった。

 川崎は、智明や空留橘頭クールキッズかしら山場俊一たちとは違って、大学を出て社会人経験のある二十八歳である。バイクチームを率いて裏稼業的に世直しのような事をしていても、その根底にはこれまでに見聞きし体験してきた常識や通念というものが出来上がってしまっている。

 自衛隊が軍隊ではないからといって、警察の強化版といった楽観視はなく、軍隊として銃火器を携え、効率的で有効な作戦の元に攻め入ってくる。

 サバイバルゲームのように、人数や陣地が分かった上で始まるものでもない。

 今日までに機動隊を五度も追い返したという智明の実績には感嘆するが、それは智明の能力を知らずに機動隊が突入した結果であって、智明の能力を踏まえた作戦や対処ではなかったのだと、川崎は分析している。

 しかし、今度の相手は自衛隊だ。

 恐らく、これまでに智明が行使した能力は、機動隊が自衛隊に伝達し、分析されていると見ていい。

 ――その裏をかいた隠し玉が俺らなわけやけど、HDなしのゴム弾でどこまで通用するかやな――

 うどんを食べきり、考えをまとめながらスープを飲み干して器を置く。

「よっしゃ! やるか!」

 シゲに頼んでいた招集に従い、大食堂にチラホラと人が集まり始めたのを確かめ、川崎は気合を入れて席を立つ。

「よっしゃあ! 入ってきた者から順番に座ってってくれ! 予定が変わったよってん、いきなり本番じゃ! 緊張感持てよ!」

 川崎は、見慣れた淡路暴走団のメンバーと、ようやく見慣れてきた空留橘頭のメンバーに向け、いつも通りに大きな身振り手振りで指示をしていく。


 新皇居の麓にある大日川ダム。

 諭鶴羽山から三原平野へ流れ込む大日川の上流に設けられたダムの一つで、美女池・大日川ダム・大日ダムと連なった三つのうちの真ん中のダムに当たる。

 当初、新皇居は下流側の大日ダムから北へと登った頂に建設される予定であったが、地盤に難があり、また北側の牛内からの資材搬入が困難なことから、僅かに奥まった大日川ダム付近の頂へと計画変更された。

 牛内ダムに設けられた資材搬入路は簡易のもので既に閉鎖されているが、大日川ダムからは皇居へと至る専用路として立派な舗装路が通されている。

 また、皇居建設以前から設けられていた大日ダム公園は、一般参賀などの特別な日を除いて一般人が一番皇居に近付けるスポットになる予定で、若干の整備を加えられた。

 その公園には、日曜の早朝だというのにバイクの集団がたむろしている。

 降り続く雨の中、濡れるのも厭わずにこれから集会でも始めそうな様相だ。

 高橋智明が皇居を占拠して以降、麓の入り口は警察が封鎖しているはずだが、どうやら力ずくで突破してきたらしい。

 よく見ると、五十人近いバイカー達はバットや鉄パイプなどの武装をしており、物々しい雰囲気が漂っている。

 しかし、統制が取れた印象はなく、雑談したり喫煙したりとどこかバラバラな行動が目立つ。

「テツオさんはまだか? ポンタ」

「やるならさっさとやっちまおうぜ。なあ、ポンタよ!」

「そうや、ポンタ。ここ上がったとこに、アワボーとクルキが居るんやろ?」

「ポンタァ! まだ連絡ないんけ?」

「じゃかましわっ! 来たら言うから、黙って待っとけ!」

 少し背の低い角刈りの関西弁男が周囲からの集中砲火に堪えきれず、とうとう怒鳴り声を上げてしまい、場が一気に険悪な空気に変わってしまう。

「おどれは瀬名さん直の連絡係やろが! シャンとせぇや!」

「ドアホ! 連絡係でも、連絡無かったらシャンとできへんやろが! そんなことも分からんのか。幼稚園からやり直して来いや!」

 ネックレスをチャラつかせながら角刈り関西弁の男ポンタはさらに怒鳴り返す。

「ンだとコラ!」

「イライラさせんな!」

「ほりゃお前じゃ」

「あん? いてまうぞ?」

 ポンタの怒鳴り声がキッカケというわけではないが、ポンタを取り巻いていた集団は一気に険悪になり、乱闘寸前まで高まってしまう。

 とその時、公園の入り口から声が上がった。

「バイクの音だ! 誰か上がってくるぞ!」

 その一声で雑談や睨み合いはピタリと止み、雨音の中からバイクのエンジン音を聞き取ろうと、息を詰めたように静まり返る。

 大日ダム公園に集まった全員が耳をそばだてていると、複数のエンジン音が聞こえ始め、徐々に唸りを上げて大きくなってくる。

「テツオさんだ!!」

 耳の良いメンバーがリーダー本田鉄郎ほんだてつおのVF750マグナの排気音を聞き分け、皆に知らせる。

 それに応えたかのように雨の幕の向こう側にヘッドライトが光り、半クラッチでアクセルを吹かし、テツオにしか鳴らせないコールを轟かせた。

 公園にいたWSSウエストサイドストーリーズは一斉にワッと飛び上がり、気の利いた者は公園入り口のバイクを移動させて、テツオ達が停車するスペースを作る。

「……雨の中、悪いな」

 メンバーが作ったスペースに滑り込んだテツオは、自身もびしょ濡れなのを横に置いて開口一番にメンバーを労った。

 皆が口々にテツオの名を呼び、チーム名を叫ぶ中、テツオに続いて瀬名・田尻・紀夫と順にバイクを止めていく。

「よお。ご苦労さん」

 テツオと瀬名にメンバーが群がる横で、センタースタンドを立ててバイクを安定させた田尻と紀夫の元へポンタがやってきて声をかける。

 だが田尻も紀夫も休憩なしのロングライドに疲れたのか、無言でポンタとハイタッチを交わすだけに留める。

「……オイ! まだ来るんだ。そこ空けてくれ!」

 ポンタとのハイタッチの後、田尻はまた近付いてくるバイクのためにリーダーを取り囲む輪に向かって叫んだ。

 それに紀夫も続ける。

「二台来るかんな! もっと空けてくれ!」

 そこへ真が控えめに入り込んでくる。

「すんません!」

「お? おお、真か」

 顔はまだヘルメットで隠れていたが、バイクと声でギリギリ真だと分かってもらえたようだ。

「おい、この音!」

「クイーンだ!」

 テツオとは違うコール音で鳴って入ってくるバイクを見つけ、周囲はまた雰囲気が変わる。

 先程のリーダーを迎える声がクイーンを迎える声に変わった所へ、サヤカがテツオの真横に滑り込む。

「ありがと」

 流石にサヤカを取り囲むような無粋な出迎えは無いが、他チームのリーダーを迎えた空気ではない。

「早速で悪いけど、これからひと悶着起こすから、幹部は集まってくれ!」

「真! 田尻! 紀夫! そっちの東屋で準備するぞー!」

「ウッス!」

 テツオはメンバー全員に声をかけ、瀬名は真ら三人を誘導し、それぞれ雨合羽とヘルメットを脱いで大日ダム公園の東屋へと向かう。

「私らは準備してからそっち行くよ!」

「おお!」

 歩み去るテツオの了解を取ってから、サヤカは「こっち」と貴美を公衆トイレへ導く。

 貴美の準備を整えるだめだ。

「時間無いから早口で言うぞ」

 東屋に着くなりテツオはそう宣言しつつ、背中のケースを開いて防具を装着していく。

「……ウッス」

 テツオ同様に不格好なケースを開いてガチャガチャとやり始めた瀬名や真に動揺しつつ、幹部たちは目の端で彼らを捉えながらそれでも幹部らしくリーダーの言葉を待つ。

「俺らの準備が整ったら、瀬名・田尻・紀夫の三人は新皇居の正面から攻め込む。俺と真と、さっきサヤカのケツに乗ってた女の子で牛内ダム側からも突っ込む」

「アワボーとクルキをいてまうなら、俺らも行くんやろ?」

 チームの幹部とはいえ、元はテツオや瀬名と共にボーイスカウトや格闘技道場の同輩である。口調はどうしてもなあなあになる。

「テツオ君。俺らは何するんだ?」

「落ち着け。今、この上にいる奴はヤバイ奴なんだ。俺らは裏技使ってるし武装もしてるけど、お前らは生身だからな。そんな無茶はさせられないよ」

「なんか別の役目があるのか?」

「もちろんだ」

 幹部たちの声に答えつつ、上半身の防具を被ったので一旦間を置く。

「今こっちに自衛隊が向かってんだ。そいつを足止めしてくれ」

 テツオの言い放った指示に幹部全員が息を飲んだ。

「あの、ニュースで言ってた演習とかってやつか?」

「足止めって、テツオ君……」

「また無茶言うなぁ」

「おいおい。二つの意味で緊張感持ってくれよー。この上の奴は自衛隊が潰しに来る強者つわものって事と、自衛隊は演習じゃなくて実戦に来るんだぜー」

 少なからず動揺や強がりを見せた幹部に、防具の装着を終えた瀬名がふっかける。

 幹部たちが口を開くより早くテツオも追い打ちをかける。

「その通りだ。俺らは今からそんな奴とやり合いに行くから、皆は自衛隊が邪魔しないように足止めして欲しいんだ」

「よろしくお願いします!」

 同じく準備を終えた真が瀬名の後ろで腰を折って真剣な声で嘆願した。

 声こそ発しなかったが、田尻と紀夫も同様に頭を下げた。

「……まあ、リーダーがとつるってんだから、俺らも体張るけどよ」

「どうすんだ?」

「ケーサツみたいにおちょくってればいいんだろ?」

 テツオや瀬名、真らの真剣さが伝わったのか、幹部たちも前向きな言葉を口にし、テツオの表情が少し和らいだ。

「ああ、そんな感じでいいと思う。邪魔してても無抵抗なら何もしてこないだろうからな」

 さすがに甘い考えだと思いつつも、テツオはそこまでしか言ってやれなかった。徹底抗戦や命を懸けるような事を言うと、本当にその通りにやってしまう連中だからだ。

「なら、平気やな」

「無茶しなきゃムチャクチャはされないってか?」

「おもんないぞ」

 テツオの意図通り、緊張感は残したまま幾分肩肘を張らなくていい空気になったようだ。

「とりあえず二箇所から攻めるから、チームを二つに分けてくれ。自衛隊も多分二方向から近付いて、包囲なり突入なりするだろうから、侵入経路二つを封じとけばなんとかなる。こっちも早期決着目指すからよ」

「ウッス!」

 テツオに向けて気合いの入った応答をし、幹部たちはチームを二班に分けるためにメンバーの元へ走っていった。

 それを目の端で見送り、テツオは真の方へ向き直る。

「キミの準備が整ったら、今度はこっちの段取りだ」


 設置されてから年数の経った公衆トイレは少々アンモニア臭がしたが、通常の個室より多目的トイレはまだマシで、洋服から修験装束しゅげんしょうぞくへと着替えるには広さもあって安心できた。

 窓も天井付近の明り取りだけなこともあり、貴美としても年相応の恥じらいも小さい。

 本来であればそういった感情の起伏は悟りを求める者としてあってはならないのだが、この数日、貴美に起こっていることは未知の事ばかりで精神が落ち着かない部分もある為、修行不足よりも経験不足と割り切らねばなるまい。

 初めて訪れた場所で、いくら目隠しがあるとはいえ着替えることは躊躇われたが、数日ぶりに装束に袖を通すのだからと、貴美は借り物の洋服を脱いでいった。

 雨合羽を着ていたにも関わらず洋服は雨を吸って重く、シャツや下着が肌に張り付いて難儀したが、それほど時間をかけずに生まれたままの姿へとなる。

 ――神酒みき沐浴もくよくで清めたかったが、やむなしか――

 こういった事態まで想定できなかったため、体を清められないことを悔いつつ、脱いだ洋服を畳んで傍らへ置く。

 それから貴美はまず白衣はくえ脚絆きゃはんを身に着け、鈴懸すずかけはかまを着重ねて帯を締め、手甲てこうと地下足袋を身に着けた。

 これに頭巾ときん引敷ひっしき結袈裟ゆいけさなどを身に着け、錫杖しゃくじょう・ほら貝・貝の緒・桧扇ひせんなどの法具を備えれば修行に臨む修験者の正装となるが、貴美は修行以外ではそれらの法具を省くことを許されている。

 ――少し、惑いが晴れた――

 たった数日だが、洋服に見を包んでいた違和感が取り去られ、清めを行えなかったが幾分かは貴美の心は落ち着きを取り戻せた。

「サッチン、整い申した」

「ん。……やっぱりキミはそっちの方が似合うね」

 多目的トイレから出てきた貴美を見てサヤカはそうもらした。

「私も少しばかり心が落ち着く。借り受けたお洋服を返し申す。ありがとう」

 これもサヤカから借りていたリュックサックごとサヤカヘ差し出し、貴美は深く頭を下げた。

「キミにあげたつもりだったんだけど、もう着ないの?」

「この一件が解決すれば、多分……」

 貴美は守人もりびととして引き受けた依頼の為に下界へと関わったのであり、依頼が達成されればまた諭鶴羽山に引き篭もって修行の日々へと戻ることになる。

 貴美にとってはそれが今までの日常であるから、サヤカから洋服を貰っても今後出番がないことを素直に口にした。

 ただ、下界や一般的な俗世間との関わりへの未練も素直に言葉になった。

「可能性あるならキミが持ってていいよ」

「……良いのか?」

「友達と会っちゃいけないって、教義に書いてあるの?」

「いや、ない」

「ん。じゃあ、洗濯しておくから、乾いたらまた渡すね」

 サヤカは水気を含んだリュックサックをキミから受け取る。

「サッチン、ありがとう……」

 キミはリュックサックを持つサヤカの手に自身の手を重ね、小さくお辞儀をする。

 サヤカは、貴美の手を取りリュックサックを下ろして貴美を引き寄せ、短い抱擁をし貴美の手を引いた。

「……行こっか。みんなが、真くんが待ってる」

 サヤカの表情には色々と物言いたげな感が浮かんでいたが、結果的に何も言わずに送り出そうと決めたようで、貴美を誘う表情は母か姉のように柔らかい。

 貴美は改めてサヤカと出会えたことに感謝し、修行とは離れた所に人との繋がりが持てたことを嬉しく思った。

 それはサヤカに対してだけではなく、公園の東屋からこちらを気にしてくれている真に対しても感じている感情だ。

 だから、貴美はなるべくサヤカを心配させまいと大きな返事をする。

「うん。行こう!」


「おっ!」

「へぇ〜」

「準備万端だな」

 サヤカを伴い東屋に入って来た貴美を見て、田尻と紀夫は感嘆し、テツオはニヤリと笑った。

 貴美が山伏とも呼ばれる修験者だと分かっていても、白い装束に黒髪を流した貴美の佇まいは神秘的で不思議な雰囲気を纏っているからだ。

 和風な面立ちも理由の一つかもしれない。

「やっぱり似合うね」

「ありがとう」

 ストレートな真の褒め方に、貴美はやや頬を赤らめて礼を言った。

「よし! じゃあ作戦会議だ」

「っていうほど複雑なもんじゃないけどな」

 一つ手を打って全員の目を集めた瀬名だったが、即座にテツオが打ち消して雰囲気を改める。

「チームのメンバーを集めたけど、基本的に智明をぶっ倒しに行くのは俺ら六人だ。そこの道を上がっていったら皇居の正面に出るから、まずは瀬名と田尻と紀夫の三人が突っ込む」

 既に示し合わせができていたようで、テツオの言葉に瀬名ら三人が頷く。

「そんで、タイミング合わせて北側から真が飛んでいって智明を探す」

「ハイ」

 しっかりとした視線をテツオに向けながら真が返事をした。

「で、俺とキミは木陰や物陰から真をサポートする」

「サポート? とは?」

 互いを順に指し示したテツオに対し、キミは即座に聞き返した。

「うんと、相手はキミみたいに手を使わずに攻撃したり、空中を素早く移動したり出来るからな。俺らもHDで身体能力が上がってるって言っても、武器も攻撃も直接当てるタイプだ。だから、そういうのが通用しなかった時の隠し玉みたいな感じで、キミを最終手段にしたいんだよ」

「なるほど」

 少し言葉を選んで話したテツオに、キミは一応の理解を示した。

「……あと、一つだけお願いもあるんだ」

「お願い?」

 今度は真が貴美の前に進み出て口を開いた。

「そう。昨夜の夢で優里が出てきたろ? もし優里が居るなら見つけて連れ出せないかなって。キミなら、優里を探せるんじゃないかなって思ったから」

「……出来なくはないけど」

 貴美は真の願いに沿うような返事をしたが、語尾が示すように確約はしなかった。

 真から視線を反らしたことからも何か思うところがある様子だ。

「も、もちろん、優里がウンと言わなきゃ無理強いできないのは分かってるから」

 貴美が気にしたのは優里の意志を尊重するか否かではなかったようだが、『是が非でも連れ去ってほしい』という誤解を招かないために、真はそう付け足した。

「……分かった。優里殿を探し出して話をしてみる」

「ありがとう!」

 貴美が了承してくれたので、真は丁寧に頭を下げた。

 と、テツオが手を打って全員の注意を引く。

「さあ! 自衛隊が来る前に始めちまうぞ! 目的は一緒でも共同戦線とはいかないからな!」

「ウッス!」

「ウエッサイぃッ!!」

 チーム名を叫びながらテツオが右手を突き上げると、公園に集まったメンバー全員が右手を突き上げ、チーム名を唱和した。


「…………もう、行くん?」

 鬼頭優里はソファーから立ち上がった智明を見上げてつぶやいた。

「ああ。自衛隊が近付いてるし、ちょっと嫌な予感もするからな」

 すでに智明は演説を行った際の赤い軍服と白いスラックスに着替えており、襟元を正しながら優里に応えた。

「そうやね。殺気やないけど、サウナみたいに空気がまとわりつく感じがする」

 優里も着替えは済んでおり、演説に立ち会った時のドレスをゆったりさせたものに、智明の外衣に似せたデザインの上着を重ねている。

「リリーは、ここに居れば何の心配もない。抵抗するとややこしいし、最悪俺に誘拐されたって言ってくれていい」

「そんなん、あかんよ」

 優里も立ち上がって智明の提案を拒否する。

「俺はやり直せない罪がある。でもリリーはそうじゃない。逃げ道っていうか、そういうのはあっていいはずだ」

「モアと同罪やって言うたもん。バイクチームの人らを裏切ることはできへんよ」

 優里だけでなく、淡路暴走団や空留橘頭も巻き込んでいた事を指摘され、智明は失念していたことを詫びる。

「そうだった。ごめん」

 優里に向き直り、優里の手を引いて抱き寄せる。

「無理はしない。言葉にしたことは、やる。ただ、リリーも無茶なことはしないで欲しい」

 今朝、優里が治癒の能力を使って回るような言い方をしたので、智明はもう一度釘を刺しておく。

 最悪の事態を想定した場合、智明が優里のピンチに駆けつけられないケースもあると想像してしまうからだ。

「分かってる」

 もうこれ以上の問答は不要だと悟ったのか、智明の体を軽く押し返して抱擁を緩めさせ、優里は瞼を閉じて顔を上げた。

 智明も優里の意図を察し、そっと唇を重ねる。

「……行ってくる」

「ん。行ってらっしゃい」

 ゆっくりと体を離していく智明に、優里は笑顔で送り出そうとしてくれたが、口元は笑っていてもその瞳には不安の色がありありと表れていた。


《川崎さん。どんな感じ?》

《ああ、キングか。外苑に半分向かわせたとこじゃ。念の為、裏手に三十人回しとる》

《残りの二十人は?》

《厳密には三十人やねけど、正門から本宮を巡回させとる。何があるか分からんよっての》

《流石だね》

《キングは? なんや動いとる感じやの?》

《今、本宮の玄関の辺りだよ。なるべく相手が見えるとこにいようと思ってね》

《ほうなんじょ。……まあ、なるべくキングの出番がないように頑張るさかい、勝ったらみんなに褒美でもやったって》

《はは。考えておくよ》

《よっしゃ! ……外苑になんか来たみたいじゃ。また連絡しょーぞ》

 川崎との伝心を終え、明里新宮本宮の玄関を開けて智明が最初に目にしたのは、本降りの雨の中を、本宮裏手から外苑の方へ飛んでいく人型の物体だった。

「自衛隊じゃ、ない? なんだ?」

 胸の内にくすぶっていた嫌な予感が一気に膨らんだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る