天照らす光

「どおぉりゃああああぁっっっ!!」

 何度も同じモーションで同じ箇所を狙って繰り出されている本田哲郎ほんだてつおの中断回し蹴りを、左肘でカウンターを当てるように止め、川崎実は右手でテツオの顔面を掴みそのまま突進を開始する。

 テツオは川崎の右手を引き剥がそうと両手で手首を掴むが、そんなことで形成が変えられるほど川崎の腕力はやわではない。

 ましてやHDハーディーで強化された筋力は、元の数倍の握力でテツオの顔を掴んでいるはずだ。

 テツオは足をなんとか地につけて猪突する川崎を止めようともしているが、それも効果はなさそうだ。

「ずえい!」

 突然、川崎は両足を大きく開いて停止し、猛進してきた勢いをのせて体のバネで右腕へと繋ぎ、すくい上げるようにテツオを投げ飛ばす。

 その先には明里新宮の中央の区画と南の区画を隔てる壁があり、その鉄筋入りのコンクリート壁にテツオを叩きつけた。

「ぬほぅっ!?」

 硬いものが軋んで割れたり折れる音がし、コンクリート壁から衝撃を物語る破砕音が鳴って亀裂が入る。

 そこへめがけて川崎が体当たりをぶちかます。

 息を吐いたところへ川崎の巨躯がぶつかってきたため、テツオはなすすべがなかったようで、川崎ともども壁を突き崩しながらぬかるんだ地面へと転がる。

 少し息を荒げた川崎が先に立ち上がり、大の字に倒れているテツオの胸ぐらを掴んで引き上げる。

「ええ面構えになってきたねーか」

 ニヘラと笑う川崎同様、すでにテツオの着けていたヘッドギアとバイザーは殴られて吹き飛んでおり、顔面は内出血と出血で元の人相が分からなくなりつつある。

 二人ともに防具はひび割れたり窪んだりしており、顔だけではなく露出している肌にはアザや出血が目立つ。

「川崎さんは、あんま、変わんない、ね」

 川崎の野生的な顔を皮肉ったテツオがくにゃりと顔を歪めた。どうやら笑ったらしい。

「アホか。この状況で強がんな」

「それは、川崎さん、でしょ」

 止まらないテツオの減らず口にカッとなるが、川崎が言い返す前に、右手で吊り上げているテツオの体が軽くなる。

 何事かと訝しんだのも束の間で、川崎の左腕に激痛が走ってテツオを掴まえていた右手の力も緩んでしまった。

 その隙きを見逃さずテツオはスルリと飛びのいてしまう。

「……そうか、飛べんねやったな」

 痛みが収まらない左腕を押さえている川崎から数メートル離れた所にふわりと降り立ったテツオを見やって、川崎はテツオが飛べることを失念した自分を叱った。

「そろそろ終わらせようか」

 声のトーンを変えたテツオは川崎の返事も待たずに構えを取り、勢いよく飛び出すために力を込め始める。

 それを見た川崎は慌てて身構えるが、内心では決定打となるような形成に持ち込めない悔しさが溢れている。

 先程のように、壁に叩きつけて掴み取るまでは行くのだが、そこから滅多打ちにしてやろうとすると逃げられてしまう。

 飛び上がろうとしたテツオの足首を捕まえて地面に叩きつけた場面もあったが、蹴りつけてマウントを取ろうとする前にやはり逃げられた。

 川崎に打開策がない限り、この勝負はテツオの優勢勝ちになってしまう。

 実のところファイティングポーズを取る川崎の左腕と左足は、防御やテツオからの攻撃で痺れと震えが起こっていて、少し動きが鈍ってきている。

 ――これを狙ってたんやったらワシの負けや――

 後ろ向きな考えをしてしまった瞬間、テツオが川崎の目の前まで飛び出してきてストロークの短いパンチを連続で放ってきた。

 なんとか腕をクロスさせて防ぐが、素早く乱打されるテツオのパンチは重く、確実に川崎の体を痛めつけられて行く。

「セイッ!!」

 パンチの乱打が落ち着いたあとに、テツオが気合の声とともに中段の回し蹴りを打ってきた。

 またかという思いで川崎の左腕が防御のために下がる。

 と、テツオの右足が膝を基点に軌道を変え、跳ね上がってきた足が川崎の顎を強打した。

「ごぅっ」

 意表を突かれた川崎は頭を跳ね上げられ、蹴りの威力で巨体が浮き上がってしまい、なす術なく吹き飛ばされて泥水に倒れた。

「ふう。……これで立ち上がれるなら勝負は長引くけど、どうする?」

 構え直して呼吸を整えたテツオが問うてきたが、川崎にはもう答えは出ている。

「負けたわ。……体が動かんわれ」

 左腕と左足の痺れや痛みに加え、顎に決まったテツオの蹴りは、気絶しなかったのが不思議なくらい川崎にダメージを与えている。

 衝撃で脳が揺れたのか船酔いのような気持ち悪さがあるし、立ち上がる気力もない。よしんば立ち上がってもこんな状態で戦うことなど出来ないだろう。

「良かった。川崎さんの左を封じといて正解だったね」

「やっぱり狙っとったんか」

 テツオが中段蹴りを多用し、川崎の左腕と左足に少しずつダメージを重ねていったことは薄々気付いていた。

「もちろん。スピードで勝ってる自信はあったけど、力とか突進力や破壊力、タフさじゃ負けるからね。だから手足に違和感が出るまでしつこく攻撃して、『もう戦えない』と思わせるしか勝ちようがなかったよ」

 地面に大の字で寝転がる川崎のそばへ屈み込み、テツオは嬉しそうに作戦を明かしていった。

「この策士め。そんな作戦、ワシは習ったことないわ」

「バトル物の漫画、結構使えるんだよ」

 任侠物や成り上がりビジネス系を愛読する川崎にはない発想に、呆れ返ってしまう。

「ヤレヤレやな。……ん? なんや?」

 テツオの頭の向こうに赤い光を見つけ声に出すと、テツオもそちらに顔を向けた。

「……照明弾か」

 なんでそんなものが?と問いかけようとして川崎は戦慄した。

 ――自衛隊が来たんか!――

 白い煙を吹き出しながらパラシュートでゆるゆると浮遊している赤い光は、恐怖や脅威とは違った印象を川崎に与える。

 外苑から新宮へと戻るように命じた仲間からの連絡はないし、新宮に入り込んだ女忍者の行方も気になる。

 そして何より、キングとして持ち上げている高橋智明が現状をどこまで把握しているかが気になった。

 傍らに屈み込んでいるテツオは顔だけを上空へと向けているが、その顔には先程の無邪気な笑顔は無かった。


 ――ハンガーノック……――

 痛みと震えで動いてくれない体に加え、頭痛と空腹で意識は朦朧とし始めたため、智明はエネルギー枯渇を絶望的に受け入れていた。

 本来ハンガーノックはスポーツなどの運動中に起こるものだが、体力以上に精神力やイメージ力で体内のエネルギーを使い切ってしまったのなら、智明の現状もハンガーノックといっても間違いではない。

 ただ、智明に絶望を与えているのは視界を赤く染め始めたもやの方で、これは以前に経験した無意識の大破壊の前兆と似ていて、このまま意識をなくしてしまえばまた破壊や人命を奪ってしまうような予感がするのだ。

「形勢逆転だな!」

 智明のそばまで歩み寄ってきた真は、勝ち誇ったように余裕の笑みを浮かべている。

 その顔を見て智明はカチンときた。

 いつもそうだった。

 あえて逆らったり声を荒げたりはしなかったが、事ある毎に真は智明を馬鹿にし、見下し、自慢し、自分の方が優位にいるのだと蔑んでくる。

 しかし智明が逆らわずに真を持ち上げておけば良い関係性が保たれてもいた。

 智明の方が優れている部分を見せたり、真の間違いを指摘することで真が不機嫌になると、その後何日も不遜な態度を引きずるからだ。

 そんな真を見返す日が来ることを望んでいた、というのは言いすぎかもしれないが、懲らしめるようなことが起こってもいいはずだと考えたことはある。

「もうやめろ。取り返しがつかなくなる」

 胸の内に潜む怒りや劣等感や報復の念が、赤い靄となって智明の意識を乗っ取り始める。

 まるで悪魔の囁きか、魔物が目覚める前兆を、智明は必死に抑え込む。

「負け惜しみだな。見苦しいぞ」

 智明の内なる戦いなど知る由もなく、真は智明の胸ぐらを掴んで立ち上がらせるように持ち上げる。

 ――ダメだ! 限界だ!――

 薄れていく意識の中で諦めにも似た放心で、智明は上空を仰ぐ。

 と、白い煙を吹き出しながら遊覧している赤い光が目に入った。

 自分の指示ではないし、真が気付いていないなら真も知らない者の仕業だろう。

 訳が分からなくなり智明は考えることも感じることも停止した。

《キング! 自衛隊や!》

 突然飛び込んできた川崎の心の叫びに、智明はカッと目を見開き、頭を起こす。

 新宮周辺のどこかで川崎も上空の赤い光を見たのだろう。そうでなければ自衛隊と明言できないはずだ。

「……放せ」

「あ? なんだと?」

「放せ!」

 滅多に口にしない智明の命令口調に戸惑う真だが、智明にはそんなことに囚われている場合ではない。

 自分が行動を起こさなければ、川崎を始めとする淡路暴走団と空留橘頭クールキッズのメンバー達が窮地に陥り、拘束や逮捕の憂き目にあってしまう。

 何より優里の安全が脅かされてしまう。

 それだけは、それだけでも回避しなければならない。

「手を放せ!!」

 赤い靄を体の至るところから滲み出させながら智明は強く命じた。

「う! ぅぎゃあああぁああ!?」

 智明が真を睨むと、その目から赤黒い光線が二本走り、真の両腕を下から上へと跳ね飛ばした。

 支えるものがなくなった真の両腕が泥水に落ち、間を開けずに真がそのそばへ倒れ込む。

 嬌声を発してのたうち回る真を捨ておき、智明は再び上空の赤い光を振り仰ぐ。

「邪魔はさせない!」

 一声吠えて智明は瞬間移動同然のスピードで上空へと飛び上がり、右手を一振りして照明弾を赤い靄で絡めとる。

 そのまま滞空し周囲に自衛隊の動きがないかを探索サーチする。

「そこか!?」

 南の方角から打ち上がった白煙を認め、より詳しく見定めようとする。

「迫撃砲? この近さでか!」

 尾を引いて打ち上がった弾体は三つ。

 どれも新宮外苑から打ち上げられているように思えたが、それにしても直線距離で百メートルしかない。

 陸上自衛隊が使用している迫撃砲は81ミリの軽量の物が主流で、120ミリの中型の迫撃砲は牽引車が必要になり、より実戦的な任務であれば自走式の120ミリ重迫撃砲が投入される。

 しかし口径が大きくなればそれだけ射程距離が長くなり、百メートルという距離は狙いにくくなる。

 そうなると口径81ミリのL16迫撃砲が使用されたと思えるが、それでも近すぎる射程距離だ。

「なんだ? 榴弾じゃないのか?」

 智明は違和感を感じて、弧を描いて落下し始めた弾体を見送る。

 火薬などの熱やエネルギーを感じなかったからだ。

 激しい雨音の中でも独特の風切り音を立てて落下していった弾体は、地上近くで白煙を噴き上げた。

「煙幕弾!!」

 新宮の囲いより外に落下した弾体は、雨にも関わらずもうもうとした煙幕を噴き上げ続けるが、すでに次の射撃が行われたようで、今度は四つ飛来してくる。

 ――これも煙幕か。狙いはなんだよ?――

 やはり弾体に内包されたエネルギーは小さく、智明には自衛隊の狙いがわからなくなる。

 ただでさえ豪雨で視界が悪い所へ、さらに煙幕を張るのだ。

 何がしたいのか? 何かをさせたくないのか?

 前者であれば視界の効かない中で攻め入るか捕縛のきっかけ作りだろう。

 後者であれば視界を奪って逃亡を阻害することだろう。

「どっちもか? なら、させない!」

 二射目の弾体はすでに接地間近なのでどうすることもできない。

 ならばと意識の目をまた八方に放ち、可能な限りマーキングを行う。

 その間に三射目の弾体が四つ打ち上がってき、足元では二射目の弾体からまた白煙が噴き上がる。

「当たれぇぇぇ!!」

 両腕を体の前で交差させ力を込めて開くと、先程マーキングした自衛隊員に向かって赤色の光弾が直進する。

 その数、ざっと二百。

「ぷはっっっっ!」

 四射目が来ないことを確かめながら智明は息を吐き、乱れた呼吸を整えながらゆっくりと地上へと降下する。

 どうやら迫撃砲の射撃は阻んだようだが、三射まで許してしまった煙幕弾は、雨の中でも通常の効果を発揮したようで、新宮周辺はすっかり煙ってしまった。

 智明は地上までの距離も測れないほどもうもうと立ち込めたため、着地が心もとなくなり、両腕を振って突風を起こし新宮から煙幕だけでなく雨雲まで払ってしまう。

 ――制御が効かない?――

 無数に飛ばした光弾で確実にエネルギーを使い果たし、仕方なく起こした突風は智明からありとあらゆる力を使い切ったことを教えた。

 ――ヤベ……。これ、暴走じゃない方の気絶だ……――

 まだ地上まで数メートルあるという所で智明の意識は黒く閉じてしまった。


「…………うっ、ケホ。……ゲホッ!」

 意識を失っていた鬼頭優里が目覚めたのは、舞い上がるはずの土埃が高い湿度のために低空を漂い、気管を刺激して咳き込んだからだ。

 頭痛と体の節々の痛みに耐えながら顔を起こすと、新宮本宮の正面玄関は壁や明り取りもろともが崩落しており、外の風景が見えてしまっている。

 何故そんなことになっているのか記憶をたどり、優里自身の攻撃がためだと悟って、優里は戦慄した。

「……あ、……あ、ああ。……キミさん、は?」

 なんとか上半身も起こして、先程まで対峙していた藤島貴美を探す。

 しかし見える範囲には人が倒れている気配はない。

 もしかすると瓦礫の下敷きになってしまっているか、屋外まで弾き飛ばされたようだ。

「これを、私が、やったん?」

 藤島貴美の安否を考えた折に、優里は自分の行動を思い出して純粋な恐怖に見舞われた。

 床にへたり込み、自身の震える体を抱き止めようとするが、最悪の事態が頭によぎってその手はおぼつかなくなる。

 ――モアと同じやん。暴走、したんや――

 新皇居を明里新宮と名付けた日の智明の暴走は、無意識なままに警察官八人を行方不明にしてしまった。

 爆心地の様なクレーターの底で、七月の太陽を受けているのに震え続ける智明は、大変に痛々しかった。

 その震えが今、優里の全身に走っている。

「うっ! ゲホッ! ……うげっ」

 何かの拍子に吹き込んだ風に巻かれて埃が舞い、また咳き込んだ優里はそのまま込み上がってきた胃の中の物を戻した。

 酸味のある粘液を垂らし、唾を吐いて呼吸を整えようとするが、嘔吐感と不快感はなかなか収まらない。

 何も吐き出せなくなっても嘔吐感は収まらず、しばらく一人で悶絶していた。

 と、崩れた壁の向こう側、屋外から雨音に紛れて聞き心地の悪い不気味な風切り音が聞こえた。

「な、何? 何なん?」

 恐怖や嫌悪感に怯える優里の頭の中に、意識の声が駆け抜ける。

《キング! 自衛隊や!》

 声の主はすぐに川崎だと分かったが、智明に自衛隊だと伝えようとした意図までは分からなかった。

 また風が吹き込んできたので、咳と嘔吐に見舞われぬように優里は上着の袖で顔を覆う。

 ――もしかして、モアは自衛隊と戦おうとしてるんちゃう?――

 智明は追い詰められると感情が爆発し、やけっぱちな行動を取る傾向があった。

 新宮の近くに大きなクレーターを作ってしまったのも、警察官に囲まれ発砲されたからだし、昔から思い通りにならないことがあると一声喚いて拗ねてしまうことがよくあった。

 ――放っておかれん。止めなきゃ――

 また巨大なクレーターを作るようなことがあれば、自分とバイクチームの皆を含めて百名以上に被害が出る。

 自衛隊も含めればもっと大きな被害になるだろう。

 そこまで考えが至った時、痛む体をなんとか立たせて、優里はゆっくりと屋外へと歩む。

 一瞬だけ純白のワンピースドレスが、血や吐瀉物や埃で汚れていることが気になったが、後でなんとでもなると思い直して戸外へと進む。

「あっ…………」

 新宮本宮の正面玄関だった敷居を越えると、バイクチームのメンバーが倒れてい、意識の有無までは分からなかったが思わず声が漏れた。

 また少し左手側には、外側へ倒れてしまっている玄関の大扉があり、その傍らに壁だった瓦礫の下敷きになり血にまみれた藤島貴美が倒れていた。

「……ごめん。ごめんな・さい……」

 バイクチームのメンバー達に何があったのかは想像だにできないが、生死さえ危ぶまれる貴美の姿に謝罪の言葉を呟く。

 このような酷いことを己がしでかしたと思うと、図らずして優里の目から涙が溢れた。

 そんな優里に追い打ちをかけるように、また不気味な風切り音が鳴って、新宮の囲いのそこここに白煙が噴き上がる。

 ――自衛隊の、攻撃や!――

 爆発音などは聞こえなかった。

 しかしすぐ近くに煙幕が立ち上る光景は、優里にとってはそう見える。

 また風切り音がして、さっきよりも近い場所から白煙が噴き出す。

「グッ! ゲホッ!」

 学校の避難訓練であった消火器の使い方で、消火器の薬剤を吸い込んだような喉の詰まりを感じて咳き込む。

 と、上空に赤黒い靄が見えた。

「モア! やめて!」

 優里の位置からでは智明が何をしようとしたかは見えはしない。

 けれど、雰囲気で智明から殺意や狂気に似た危うさを感じ、制止の言葉を叫ぶ。

 また不気味な風切り音が鳴っている。今度はかなり本宮に近い。

 智明が体を縮こまらせて赤黒い靄を凝縮し、体を大きく伸ばした時には優里の目を焼くほどの強くて危険な赤い光を無数に発した。

「あっ! ……あ、ああ…………っ」

 きっと錯覚だ。

 優里の耳には自衛隊の放った砲弾の風切り音しか聞こえていない。

 なのに、何百という大勢の呻き声が聞こえた、気がした。

 とめどなく流れる涙のように新宮の玄関ポーチにしゃがみこんでしまった優里に、また消火剤のような白煙がまとわりついた。

 ――こんなん、あかんよ――

 白煙が目に滲みて開けていられなくなり、喉の奥から何かがこみ上げようとするが、優里自身の嗚咽でつっかえて息苦しくなる。

「モア、ごめん。……約束、破る……」

 伝わらないとは分かっていても、涙でぼやけた目を上空の智明に向け、今朝智明と交わした約束を破ることを告げた。

 その智明は、突風を起こして新宮に立ち込めた白煙を雨雲もろとも吹き飛ばしたところで、気絶したように急降下を始める。

「モア!」

 咄嗟の行動だった。

 優里は膝立ちになって両手を伸ばし、残り少ない力で智明を受け止めようとすると、いつもなら薄っすら白い光をまとうはずが体からは青白い靄が湧き出て智明を絡めとる。

 ふんわりと優里の元へ降りてきた智明は、目立った傷はないのに生気のない顔色をしている。

 ――まだ間に合う!――

 恐る恐る触れた智明の体はまだ温もりがあり、今朝教わったばかりの治癒ヒーリングを施そうとした優里だが、周囲に倒れているバイクチームのメンバーが目に入り、傷付いているのが智明だけではないと思い至る。

 ――みんないっぺんにやるしかない。私しかできへん――

 先程の智明の放った赤い光は、きっと自衛隊の隊員たちを傷付けただろうという予想もあり、優里は覚悟を決める。

 静かに智明を横たえ、青白い靄をまといながら優里は上空へと舞い上がる。

 精神を集中させ、智明から教わった通りに意識を全ての方向へと広げていく。

 智明はもちろんのこと、本宮東側の庭園に両腕を切り離された真が見えた。

 体中にアザが浮き出血している川崎と、その近くに居る真と同じ装備の男が見えた。

 新宮の玄関前で気絶しているバイクチームのメンバーと、外周で気絶しているバイクチームのメンバー、更に新宮の南の区画で息も絶え絶えなバイクチームのメンバーが見えた。

 牛内ダムの近くの斜面で、胸や頭から血を流している自衛隊員が見え、新宮外苑でも同じ様に苦しみ悶ている自衛隊員も見えた。

 ――みんな、元通りに……――

 体から漏れ出る青白い靄を頭上に掲げた両手へと集めながら、優里は祈るように同じ言葉を何度も繰り返す。

 少しずつ少しずつ、集まって膨れ上がっていく靄は、次第に巨大な球形に整っていく。

 その色は蒼く、先程智明が突風で円形に吹き散らした雨雲から現れた青空よりも蒼く、ほんのり輝く明るさは優しく温かい。

 優里がまとっていた靄が全て頭上の球に集まると、優里は掲げていた両手をゆっくり肩の高さまで開き、蒼い球から小粒の光を四方八方へ打ち出していく。

 小粒の光それぞれの行き先を見届け、力を使い果たして優里は眠るように意識を失った。


「何が起こった! 報告しろ!」

 野元は自分を落ち着ける意味で周囲へ激を飛ばしていた。

 新皇居上空で赤い光が瞬いたかと思った瞬間、目の前の隊員たちが叫び、悶え、もんどり打って倒れたのだ。

 それも一人や二人ではなく、一個中隊ニ百人弱が同じタイミングで一斉に苦しんだりもがいたりするなどあり得ない。

 皇居周辺への煙幕弾の投射中で、高まっていた緊張が一気に全滅寸前の悲壮で慌ただしい空気に変わる。

「牛内ダムでも、赤い光にやられたそうです!」

「ええい! 抽象的な表現はやめんか! 損害を整理し立て直せ! 衛生班は重症者から処置に当たれ! 手が回らなければ近くの者が応急処置を!」

 どこもかしこもバタついて収集がつかなくなり、入ってくる報告のたどたどしさに業を煮やして野元は一方的に指示を下す。

 そこへ周辺の監視を行っていた陸曹から呆けた声がする。

「あ、雨雲が、一部だけ丸く消えて、ます」

「こんな時に何を――、いや! 詳しく観測しろ!」

 目の前の惨事に無関係なことと怒鳴りかけた野元だったが、先程から強雨を降らせている真っ黒な雨雲が突然丸く切り取られるなど、明らかな異常だと思い直した。

「信じられん。……これは神の如き御業かもしれん」

「一佐……。川口一佐、しっかりして下さい!」

 場違いな声をあげた上官を見ると、怯えのせいか感動のせいかその瞳は震えていた。

 無礼を承知で野元は川口の肩を掴んで揺さぶったが、川口が正気に戻った様子はない。

「ああ! 今度は青い光が!」

「なんだとぉ!!」

 観測班から届いた悲鳴に野元が振り返ると、宙に浮いた光の球が双眼鏡を使わずとも見て取ることができた。

「青い光の球から、小さい光が打ち出されていきます」

 感情を消して妙に淡々と報告する陸曹の声が、目の前の光景を演出してしまい、変に感動的な気になってしまう。

 赤い光の後に現れた青い光を注視していると、野元たち自衛隊員の方にも小さな光が向かってきた。

 ――危ない!――

 野元は心ではそう悲鳴をあげたが、先程の赤い光と同じくらいの青い光の数にすくんでしまい、指示として声には出なかった。

 野元はまた凄惨な光景が繰り返されることを想像して目を閉じ、顔を庇うように両手をかざして両足も腹の前に丸めた。

 が、悲鳴や叫び声や呻き声は起こらなかった。

「……信じられない。こんなことがあっていいのか……」

 何かに圧倒されたような呟きはすぐ隣から聞こえた。

「……一佐?」

 また川口がオカルトな物言いをしたのかと、野元は目を開けて隣に座る川口を見る。

「傷付いた隊員たちが、何も起こらなかったみたいに元通りになった」

「そんな馬鹿な!」

 川口の言葉が信じられず慌てて立ち上がった野元は、指揮車の天井に頭をぶつけてしまったが、フロントガラスの向こうにはさっきまで倒れたり悶ていた隊員たちが、呆けた表情で自分の体を目ね回している。

 中には頭部の形すら留めていなかった隊員まで元の姿に戻っていた。

「……何を、見せられたんだ? 何があったんだ?」

「牛内ダムからも、全員の怪我が回復、したとのことです……」

「……そうか。……現状、維持」

「赤いのが荒神ならば、青いのは弥勒みろくなのか?」

 涙さえ流して皇居上空を見つめる川口に、『弥勒菩薩は仏教だ』という指摘もできず、野元も皇居上空をぼんやりと眺めた。


《モア、ごめん。約束、破る》

 ハッキリと知覚できたわけではなかったが、優里が智明に侘びたであろうことは届いていた。

 厳密にいえば、意識を失い下手をすればそのままのたれ死んだかもしれない智明の、夢とも幻ともつかない錯覚かもしれない。

 しかし、そう聞こえた。

 ――リリーはこんな時まで律儀だなぁ――

 約束を破ると宣言した優里に、どこか微笑ましい心持ちになりつつ、智明はゆっくりと目を開ける。

「……少しだけど、体力が回復してる。リリーがやったのか?」

 感情任せの暴走寸前の時に滲み出る赤黒い靄はもう出ていない。

 それよりも真に殴り飛ばされた時に負った怪我や出血が治っていたし、底をついてハンガーノック様の体の震えや痺れ、頭痛なども収まっている。

 ――なるほど。だから『約束を破る』なんて伝えてきたのか――

 錯覚かもしれないと記憶の隅に押し込めかけた優里の思惑に変な納得ができた。

 今朝の約束では『勝敗が決したり、どちらかが明らかな優勢になったら治癒ヒーリングを使って良い』というものだった。

 智明と真のどちらかという分け方でした約束だったが、目前まで迫った自衛隊に対し智明はエネルギー枯渇を迎えて生死を彷徨いかけたのだから、第三勢力である自衛隊の優勢勝ちといえなくはない。

「……リリー。ある意味、約束通りのタイミングだから、問題ないよ」

 智明は辺りに舞っている青い光の出処を探し、上空の優里を見つけて独り言のように呟く。

 と、辺りに舞っていた光の粒が、新宮正面玄関前で倒れていたバイクチームのメンバーに触れた瞬間、気絶していたメンバー達が短い呻き声や身じろぎをして意識を取り戻した。

 智明はまさかという思いで意識の目を周囲に向けると、外苑周辺の自衛隊や牛内ダム近辺の自衛隊、更には新宮北側の外壁で昏倒していたバイクチームのメンバーまで治癒が施されているのが見えた。

 ――リリーにこんなに大きな力があるなんて思わなかったな――

 智明が感情に流されて赤い光で自衛隊員を撃った人数よりも、優里は多くの人数に能力を使ったことになる。

「ケガ、治ってるな?」

「てか、一撃でのされただけだけどな」

「あれ、クイーンやろ?」

「スゲー……」

 気絶から起き出したバイクチームのメンバー達が各々の感想や思いを話している中、智明は正面玄関周辺が派手に荒らされていることに気付いた。

 一人では動かせそうにない大扉が二枚ともアプローチに倒れ、壁や明り取りの窓は跡形もなく崩れて玄関ホールは奥の階段まで筒抜けだ。

「あれは?」

 破壊跡を観察していた智明の目に人間の頭が映った気がして、倒れた大扉の方へ近寄る。

 瓦礫や埃を被っていたが、艷やかな頭髪は人間の女性のものだろうと想像する。

 手で取り除ける瓦礫をどかしていくと、白色の着物状の服装の女が横たわっているのが確かめられた。

「キミ、さん?」

 法具や飾りはないが女が着ている装束は山伏の白衣はくえに見えたし、血に塗れているがその顔は昨夜の夢で遭遇した藤島貴美に間違いない。

「なんでこんな所に……。いや、それよりは治さないとヤバイな」

 更に瓦礫をどかしていくと、現れた手足にも出血があり、腹部には血の滲んだあともあった。

 すぐに智明は淡い白色の光をまとって貴美の全身を光で包んでやる。

「あっ! クイーンが!」

 バイクチームのメンバーの声に振り返ると、青い光を撒き散らした優里の体が、重力に従って落下を始めたところだった。

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