泥試合
小学生の頃に格闘技道場に通った経験と、百八十センチを越える体格が備わっていても、分が悪いケンカに勝ってきたのは己の力量を知った上での作戦と度胸が故だ。
「どうやら『ごっこ』じゃないみたいだね」
こちらに銃口を向ける淡路暴走団の大将・川崎実へ笑いかけながら、テツオは奇襲の機会を伺う。
「逆やろ。お前が『ごっこ』を『本物』にしたかったんやろ」
「そんなバカな。こんな騒動を漠然と待てるほど俺は暇じゃないよ」
自分よりも上背がある川崎にもテツオは動じない。筋肉量や腕力の差が強さの差ではないと知っているし、単純な攻撃力の上げ方としてスピードを活かせばいいことを学んでいるからだ。
「この際や。ほのパチ臭い言い回しも塞いでもたるわ」
「……そうだね。こっちこそ、だっ!」
テツオは両手をゆっくりと上げて投降を装い、言葉尻で左足も跳ね上げて川崎の持つ銃を蹴り上げる。
「ぬおっ」
不意を突かれたはずの川崎だったが、辛うじて銃を手放すことだけはなかったようだ。
それでも驚いた条件反射で体が伸び上がっている。
そこへテツオは両の拳を握り合わせて川崎の頭部を狙って打ち込む。
「セイッ!」
「んならぁ!」
打ち下ろされた拳は頭を防御するように構え直された銃身にめり込み、プラスチックの硬質な破砕音が鳴って川崎の銃はへし折れた。
「お前、パワー上がっとんねやないか?」
「そっちこそ相変わらずのバカ力だね」
テツオは
「おぅりゃ!」
川崎の気合の声とともにテツオの体は押し飛ばされるが、テツオは落ち着いて態勢を立て直して着地する。
「おっととと、やるなぁ。今までやり合わなかったのは正解だったね」
「ぬかせ。その気になったぁどんだけ不利でも特攻して勝つ自信があるくせに、変な距離取りよってからに。ええ機会じゃよってん真面目に勝負しくされ!」
使い物にならなくなった銃を投げ捨て、予備の弾らしき装備も放り投げて川崎は吠えた。
川崎の言葉に答えるように構えを取るが、テツオは一瞬だけ計算してしまう。
――俺が提案した作戦無しで真は智明に適うだろうか?――
だがすぐにその危惧はするだけ無駄だと悟る。
チラリと目を走らせた先では、すでに真と智明は皇居本殿の屋根で睨み合っており、真はテツオとのやり取りなど忘れてしまったように真っ向から智明に攻撃を始めていたからだ。
〈真、すまん。アワボーのクマゴリラとやり合うからそっちに行けない。自力でなんとかしてくれ〉
一応、複数同時通話で侘びておいたが真からの返事はなく、返事もできないほど必死に戦っているか返事をする余裕もないのだろうと割り切る。
「……んじゃ、観客無しで大将戦と行こうか」
「うっしゃあ!!」
割り切ってしまえばテツオは集中力を目の前のデカブツに全て向けられる。
構え直したテツオを見て戦闘開始を叫んだ川崎は、プロレスラーの様に両腕を数回振ったあと全身の筋肉を誇示するように不格好なファイティングポーズを取った。
「フッ! シャアッ!」
雨で緩んでいる足元を気にしつつ、テツオは大きく踏み込んで川崎の左脇腹へ中段蹴りを放つ。
「どぉりゃ!」
いともたやすく蹴りを払いのけ、川崎から力任せの拳が飛んでくる。
大振りのパンチを小さなステップでかわし、テツオは川崎の左へと回り込むように足を運ぶ。
「真正面から来いや!」
野生的な顔で吠える川崎は仇名の通りのクマかゴリラそのもので、テツオは思わず苦笑する。
そんなテツオの緩んだ表情が気に食わなかったのか、川崎は大きく踏み込んで蹴り飛ばすように右足を振る。
「おっと!」
一見太短く見える川崎の下肢は、筋肉量と体のバランスから短足に見えるが実は違う。これまでに川崎に負けた者達はイメージと実寸の誤差に気付いていなかったのだろう。
テツオはまたも身軽に体を捌いて川崎の左側へ回り込む。が、それを見越していたように川崎が体を捻って大振りの右拳を打ち込んでくる。
「ふっ!」
慌ててテツオは大きく後ろに飛び退り、勢いを止められなかった川崎の右拳は建物の壁へとめり込んだ。
「……川崎さん、そんなの当てるつもりなのかい?」
「おうよ! お前の顔面もこんなふうにしたるんじゃ!」
鼻息の荒い川崎の恫喝にテツオは苦笑を浮かべ、淡路島へと戻る前にしていた最悪の予想が当たったことに腹が立った。
――どうやらクマゴリラはHDで強化してやがる。モリサンめ。この構図を狙ってたってんなら相当の食わせ者だぞ――
イタリア系ハーフ顔の屈託ない笑顔を思い出して、テツオは思わず唾を吐き、先程よりも腰を落とした本気の構えを取る。
拳の形に窪みひび割れからポロポロと破片を落としている壁のようになる気はない。
「ようやく本気なったんか。来いや、本田ぁ!」
煽り文句とともに威嚇する熊の様に両腕を振り上げる川崎へ、テツオは一気にその懐まで飛び込む。
川崎が「あっ!」と思う頃には低い位置から顎をかち上げる掌底が決まり、川崎の体が力なく伸び上がる。
そこへ容赦なく左足の中段回し蹴りを打ち込む。
「ゴボッ!」
壁に埋め込まれた川崎から形容し難い声が漏れる頃には、テツオは左足を引き戻して川崎から数歩離れ呼吸を整える。
「……お前もハーデー
左腕から左の
「やっぱり川崎さんもか。こりゃぁ手こずるな……」
「ええやんけ。お互い遠慮なしでヤリ合えるんは今日くらいやぞ」
コンクリートの塊や内壁の構造材なんかをガラガラと崩しながら体を引っこ抜き、左半身にまとわりついている断熱素材を取り払いながら川崎は不敵に笑う。
「そうかもね。まあ、俺が勝つけどさ」
軽口を言いつつ構えを取るテツオは、楽しそうな笑みを浮かべた。
修験者の誇りであり困窮者の救い主であるべき
同時に、貴美の呼吸が落ち着いてもなお倒れ伏したままの鬼頭優里を見て「しまった」と思う。
琵琶湖畔の訓練で真の仲間に『気』を使ったが、彼らは身体を金属や樹脂で強化していると聞いていたし、それでも怪我のないようにと幾分加減して使用していた。
しかし先程の一撃は感情のままに放ってしまったため、その加減はされていない。
しかも鬼頭優里は人智を超えた能力を宿しているとはいえ、その体は生身のはずで、明らかにやり過ぎている。
「……うっ。……く」
うろたえかけた貴美の耳に微かに優里のうめき声が聞こえたので、最悪の事態が起こらなかったことに安堵する。
「……優里殿。マコトとの間にどのようなやり取りがあったかは知らぬが、少しマコトの気持ちも考えてもらえぬか」
貴美としては口にしたくない内容だったが、真から託された頼み事なのだから言わねばならない。
苦悶の表情で胸から腹にかけてを左手で押さえながら立ち上がる優里は、しかし貴美の気持ちも知らずに拒否の態度を崩さない。
「さっきも言ったやんね? モアを支えるって決めてるねん。私は私の意思でここに居る。コトの気持ちなんか考える余地はないねん」
また優里の強い言葉に沸々とした怒りがわき起こったが、なんとか抑え込む。
「……貴方たちは何がしたいのだ? 友達の関わりを切り捨ててまで、何をしようというのだ?」
言いようのないもどかしさから貴美は思わず問うていた。
優里を理解するためでもなく、依頼を果たすためでもない。貴美の気持ちを言葉にできない苛立ちと、真と優里の向かう先が違いすぎて質問になっただけだ。
「……何がしたい? ……そうやね。モアは国を作ろうとしてはる」
オウム返しにしてから、ふらつく体をなんとか立たせて優里は返した。
胸を押さえていた手は体の横へと垂れ下がっている。
「国を、作る?」
「そう。モアは私を本物のクイーンにしてくれるんです」
貴美の反問に優里が間を置かずに答えたため、沸き立った貴美の憤りは肩透かしをくらう。
「そんなこと。……出来ようはずはないだろうに」
「それはやってみやんと分からないですよね? 日本でも世界でも、誰かが立ち上がったから歴史の分岐点があったんやし。それがモアであっても変なことはないですよ」
確かに歴史において国家の内情が変化したり、支配者層の交代劇や仕組みが変えられた事実はある。
しかしそんな野望や目標を自分と同年代の少年少女が口にすることに貴美は納得がいかない。
「それは目標を立てることで逃げているのではないか?」
昨夜の精神世界で見た優里の過去がよぎり、そう問うた。
困窮者を救う際、彼らをがんじがらめにする悪環境を、考え方や捉え方を変えて逃げ道を示すことはよくある。
貴美からすれば智明と優里の言い分はその逆で、自分の状態がおかしくなってしまったから無駄に大きな目的に向かうことで現実から目を逸らしているだけに見える。
事実、先程まで貴美を射抜くように強気だった優里の視線は、埋め合わせる言葉を探すように泳いでいる。
「マコトからも、逃げているのではないか」
貴美の追い打ちに優里はハッとした表情になって即座に否定する。
「違う! 違う違う、違う! それは違う! 私はっ!」
何度も首を振り肩より少し長い髪が乱れるのも気にせずに優里は強く否定する。
その度に両手は次第に持ち上がっていき、拳が握り固められる。
「コトも呼ぼうとした!」
優里は叫びとともにボールを投げるように右手を力強く振ると、貴美の左脇を強烈な風が通り過ぎて背後の扉に重い物がぶつかったような音がした。
「ホントはコトと三人でやりたかった!」
なおも叫びに合わせて優里は両手を何度も何度も振り出し、駄々っ子か苛烈なお仕置きのように両腕は何度も振り回され、止まる気配がない。
優里が手を振るたびに衝撃波が起こり、貴美の近くに風切り音が途絶えずに鳴く。
風切り音が通り過ぎた後には背後の扉や明り取りの窓や床や壁から破砕音や破壊音が轟く。
貴美にとっての幸運は優里が狙いを定めていないことで、ほとんどの衝撃波は貴美の体より離れた所を通り過ぎていくこと。
貴美にとっての不幸は、優里から飛んでくる衝撃波を目で捉えることができず、両手を交差させて顔と上半身を庇っているが、肩や手足にまぐれ当たりがあること。
「うあああああああ!!」
「クあッ!」
言葉にならぬ絶叫を撒き散らしながら優里はやたらめったらに衝撃波を打ち出し、その数の多さから貴美への直撃は増える。
サヤカのバイクに乗せてもらった時に道路ですれ違った車から受けた風圧よりも強い威力を何発も浴び、痛みと衝撃で遂に貴美の防御が崩れ片膝を落としてしまった。
その拍子に交差させていた手を片方床についてしまい、狙いすましたように衝撃波が立て続けに貴美の体を打ち据え、とうとう小柄な体が吹き飛ばされた。
痛みで意識を失いかけるところへ新たな衝撃が襲い、身をかわそうにも吹き飛ばされている最中も打ち据えられ床にも落下できない。
意識の混濁と覚醒を強制的に繰り返されながら、貴美の体が正面玄関脇の崩れかけの壁に当たるまで苦痛の時間が続いた。
「くっ。……マコト……」
壁に
「ユリ……。うう……」
力を使い果たしたのか、玄関ホール奥の大柱の前で崩折れる優里の姿を目にし、そこで貴美の意識も途切れた。
明里新宮本宮の大屋根からゆっくりと降下していく智明は、頭痛と空腹を感じながら、落下していった真を探す。
――あれじゃ足りなかったか? まだ消化吸収されてないだけか?――
三階ベランダで腹に入れた栄養補助食品のタンパクな味を思い出しながら、再び起こったエネルギー切れの予兆を案じてしまう。そのためエネルギーを節約しようと智明は障壁を解除し、強くなり始めた雨に打たれ上着もスラックスも重くなり始めている。
「……たぬき寝入りか、気絶してるのか」
本宮東側に設けられた庭園の植え込みに上半身を突っ込み、両足を芝生に投げ出している防具姿は真に間違いないだろう。
うつ伏せているので意識の有無までは分からない。
智明は用心して真から三メートルほど離れた位置に降り立って様子をうかがう。
「あ、あう……。む、くっ」
智明の接近に気付いたのか、それとは関係なく意識を取り戻したのか、真がうめき声を漏らしながら身をよじった。
「お前……。あの高さで感電とか、生身だったら死んでるぞ……」
舌が回らないながらも真は抗議し、体に異常がないかゆっくりとした動作で確かめている。
新宮本宮は三階建てで天辺には立派な大屋根が葺かれている。屋内の天井の高さからみても、通常の三階建ての民家より倍ほどの背丈はあろう。ざっと二十メートルほどか。
その高さで空中浮遊していた真に、空気中に帯電していた電流を誘導して凝縮し浴びせたのだから、真の言い分は全く正しい。全身が雨に濡れていたからよほど電気の通りが良かったのだろう。
ただ、智明からすれば真が感電以外に異常がないことの方に驚かされる。
空気弾の攻撃に耐えた真の体は、智明にHDの使用を感じさせていたが、高所から落下しても無傷なことに加え先程の真の発言でそれは確実なものになった。
だから、腰に手を当てて最後の警告を行う。
「生身なら、か。変に頑丈だと厄介だぞ。こっちの加減一つで本当に死にかねない」
「まるで殺したくないみたいな言い方だな。それは覚悟が足りないんじゃないか」
怪我のチェックが終わったのか、真は智明から目を離さずに立ち上がる。
「できることならしっぽ巻いて逃げてほしいんだよ。人が死なないにこしたことはないんだから」
思わず本心を晒してしまった智明だが、真はそう思ってくれなかったようだ。
「男同士のケンカだぞ! 殺す気で来い!」
言うが早いか真はすでに飛び出し、まっすぐに智明目指して飛びかかってくる。
「くっ!」
予想以上のスピードで迫る真に対し、先程までの全身を包むような球体の障壁ではなく、両手に円形の盾のような障壁を展開する。
それほどに智明は消耗しエネルギーの枯渇を恐れているのだが、真にそれを悟らせないためにも防御するためにも障壁を張らないわけにいかない。
「チッ」
体当たり同然で突っ込んできた真は、智明が辛うじて展開した障壁に阻まれて舌打ちをした。それでも先程より障壁の範囲が小さいと感じ取ったのか、上半身へ集中的にパンチを放ってくる。
――山場さんほどじゃないけど、早いし重い!――
早朝に新宮施設内で山場のHDによる強化具合を試した際に、山場から放たれた打撃ほどの威力は感じない。
しかしテレビ放送や動画配信で見たプロ格闘家の乱打よりも真のパンチは早く、障壁で押し返していなければならないほど強力だ。
――完調ならまだしも、こんな状態で接近戦とか想定してないぞ――
飛び退いたり押し返したりしつつ、智明は反撃の術を巡らせる。
障壁や空気弾を頻繁に使っていたのは自身が生身でひ弱だと自覚しているからで、以前に警察官の放った銃弾をその身に受けた過去も影響している。
「うぐっ!?」
真の攻撃の苛烈さに焦ったせいか、反撃の手段を講じねばと考え過ぎたせいか。障壁の隙間を狙ったように真の右腕が伸び、智明の腹部に強烈な痛みが起こって後方へ弾き飛ばされた。
生け垣をぶち抜き池を飛び越え灯籠をなぎ倒して芝生を転がり、庭石に当たってようやく智明の体は大地に伏した。
「っしゃあ!!」
体中のアチコチに火で焼かれたような痛みを覚える頃、遠くから真の快哉の叫びが聞こえた。
「く、そ……!」
体中の痛みとエネルギー枯渇のせいで激しくなる頭痛の中、智明は口汚く罵りながら立ち上がるために芝生ごと砂利を握りこむ。
「こんなもんで終わらないだろ! 立て! 智明!」
いよいよ本降りになってきた雨を全身に受けながら、真の煽りを跳ね返すために智明は力を振り絞って体を起こそうとする。
――これは、ヤバイな――
体が震えているのは痛みのせいではない。
凍えるように寒いと感じるのは雨に打たれているからではない。
喉がヒリ付き呼吸が苦しいのはダメージが大きすぎて戻してしまったからだ。
――ヤバイ。マジでヤバイ!――
地上に降りてから節約して力を使っていたのに、遂に智明のエネルギーが枯渇を迎えようとしている。
それと同時に視界が赤い
「以外にあっさりした決着だよな」
激しい雨音の中、真の足音が近付いてくる。
「野元一佐。一旦進行を止めよう」
指揮車が門を通過するタイミングで唐突に川口が口を開いた。
「全体止まれ! ……どうかしましたか?」
無線で指示を出した野元だが、目的地を目の前にして進行を止めた川口の意図が分からず、指揮車後部座席に座る川口を見る。
そこには神妙な顔で水滴だらけのフロントガラスを睨む川口の顔があった。
「雨足が強くなってきた。それに先程まで飛び回っていた人影も見えなくなった」
確かに、川口の言うように車窓は常に数十・数百の雨粒が襲って来、新しい水滴が生まれては流れるそばからまた雨粒が襲い来る。
指揮車の屋根も同様で車内はマシンガンの掃射を受けているように騒がしい。
「言われてみれば」
そう答えはしたが、実際は野元はそこまで雨中を飛び回っている人影を注視していたわけではない。
「では、隊員に待機と装備確認をさせておきましょうか?」
「そう、だな。この地形でこの雨だ。少し様子を見るべきだ」
「…………分かりました。通達!」
わずかな疑問や違和感を感じつつも野元は川口の判断をそのまま通信兵に伝えさせた。
同時にこの先一時間の気象予報も確認させる。
「……何か言いたげだな」
「…………何も感じないと言えば嘘になります。ですが任務中であります。上官に対して疑問や不信を挟む余地はありません」
「そうか」
川口がボソリと呟いたので野元は正直に答え、川口もまた短く応じた。
そこからしばらく無言の時間が続いたが、雨が指揮車の屋根を叩くだけの時間を動かしたのは通信兵だった。
「気象予報によりますと、一時間は強い雨が続くとのことです」
「そうか。ご苦労」
短い言葉で通信兵を労い、野元は再び川口を見る。
「……うむ」
「長時間の待機は隊員の体力を奪うのみです」
野元は、踏ん切りのつかない川口に思わず指し出口をきいてしまう。
「確かに足元も視界も悪くなるだけだ。体も冷えるし緊張感も薄れかねない。しかしだからといって無策で突き進むのは愚かだ」
「はい……。作戦を変更するということですか?」
いよいよ川口の意図が分からなくなり、野元は恥を承知で伺いを立てる。
「天候が結果を左右することは稀にある。しかしここまで劣悪であれば万端に整えても望む結果を得られない。むしろ結果が読めなくなるほどに悪い」
なるほど、と野元は車外を観察して納得する。
強烈な雨が視界を奪い、足元をぬかるませ、目の前の舗装路には大地が吸い込めなかった雨水が川となって流れている。
「申し訳ありません。そこまで考えが及びませんでした」
野元は素直に陳謝し、潔く頭を垂れる。
川口が超能力に怖じ気ついたと決めつけたこともこっそりと謝っておく。
「謝ることはない。私だって坂を登っている間ずっと悩んだ上での作戦変更だ。君が私より先に作戦変更を決めていたなら、階級を入れ替えなければならんくらい状況把握が出来ている証だよ」
「滅相もありません。……それで、どのような策を執るのでしょう?」
至らぬ自身を自嘲しつつ、野元は上官に問うた。
「うん。対象の戦力や武装も分からぬし、こちらより数が少ないであろうとはいえ、この視界の悪さで伏せられては、文字通り足元を掬われかねない。ならば我々自衛隊がそこまで来ているぞと知らしめて、根拠地に集めてしまおうと思う」
「なるほど。こちらから追い込むようにして見せて、あちらに籠城策を取らせる、ということでありますか?」
今日のような悪天候を想定した訓練ではなかったが、似たような指揮や作戦は訓練で学んだことがある。
「そういうことだ。まず照明弾か閃光弾で注意を引き、続いて煙幕弾で逃げ道を皇居本殿だけにしてやる。見えないところから敵が迫ってくるというのは怖いものだよ」
表情を変えずに言い切った川口に野元はゾクリとした寒気を覚える。
冷徹とは言わないが、任務遂行に対する覚悟を垣間見た気がしたのだ。
「了解しました。では、本部中隊付帯の迫撃砲小隊にやらせます」
「ん。煙幕弾で追い込んでいる間に牛内ダムの別働隊は壁を乗り越え、本部付帯の普通科隊員とタイミングを合わせて皇居を囲むように小隊単位で接近させろ。この時、煙に巻かれぬようにゴーグルの装着と、接近の速度に気を付けさせろ。煙幕より前に出ては意味がない」
即座に通信を行おうとした野元へ注意点を添え、川口は「雨中だが観測は念入りにな」と更に指示を付け加えていた。
野元はそれも含んで通信兵に伝えさせる。
「自分の不勉強を思い知らされます」
もう一度頭を下げる野元だが、川口は彼の肩を軽く二度たたき、ニンマリと笑って答える。
「気にするな。私だって怖じ気づきそうなくらい必死なんだから」
「……恐縮であります」
野元は、なぜ川口が定年前に後進の育成などを考えたのか不思議で仕方なかったが、今回の任務で少しだけ分かったような気がした。
自分が退いたあとに心残りや後腐れを感じないためには、自分と同等と思える人物に丸投げしてしまいたいのではないだろうか。
そうでなければ総指揮官の必死さなど吐露する必要はないはずだ。
決して野元が川口の後任に収まるという話ではないが、川口としてはそうした『芽』を見つけたり育てておきたいのかもしれない。
「一佐。この任務に関しては、最後まで随伴させていただきたいと思います。よろしいでしょうか?」
「最後までか?」
「はい」
真剣な目で見やる野元に川口も真面目な顔を返す。
「……そうだな。それがいいだろう」
「有難うございます」
車中ながら野元は堅い声を出し、上官にキッチリとした敬礼をした。
〈紀夫! 人を狙うな! ちょっと外してアイツらを走らせるんだ!〉
〈ウッス!〉
新皇居の周囲に新造された壁を飛び越え、瀬名と田尻と紀夫は三人で智明の手下らしい兵隊を追い込んでいたが、雨足が強くなってきたために皇居まで追い返す作業は難航していた。
恐らく淡路暴走団と
〈田尻! もっと右だ! 二人ほど向きを変えたぞ!〉
〈ウ、ウッス!〉
それは瀬名たちも同じで、紀夫と田尻も視界の悪さと足元の悪さで精度を欠いた動きになってしまっているし、山林スレスレを飛んでいる瀬名も田尻と紀夫のフォローをしながら敵を追い上げねばならず、自然と言葉尻はきつくなってしまう。
――クソッ! もうエアジャイロが限界なのかよ! ホント、水と相性悪いんだな!――
視界をスクリーンにしてH・Bから送られてくるアラートやインジケータを表示させると戦闘の邪魔になるため、瀬名は防具のバイザーに表示させているのだが、そこにはエアバレットとエアジャイロの加熱による機能低下のアラートが点灯しており、クーリングタイムを取れと促してくる。
使用前に水没や大雨に弱いと聞かされていたが、ここまでとは思わなかった。
〈おっ! 壁が見えたぞ! 皇居の本当の囲いだ!〉
まだギリギリ木の上を飛行していた瀬名の目に、雨で霞んでいたが真新しい白壁と塀瓦が望め、自身を奮い立たせる意味でもチームメンバーに伝える。
〈っしゃあ!〉
〈瀬名さん! はぐれたのをそっちへ行かせましたよ!〉
〈オッケー!〉
心なしか声が弾んでいる後輩からの声を聞きつつ、瀬名も地上へ降下して、膝が泥に埋まるのも気にせずに斜面へと着地した。
が、皇居の本来の囲いへとたどり着いたはずの敵の先頭集団の様子がおかしい。
〈……チッ! 門が開かないのか!〉
皇居の囲いに唯一設けられた正門。
その前に追い込んだ敵兵たちは、押したり体当たりをしたりと試行錯誤を行っているようだが、開く気配のない正門の前で右往左往している。
その様を見て思わず瀬名の口から罵声が漏れ出てしまった。
「こんちくしょうが!!」
怒りに任せ、クーリング直前のエアバレットを最大出力に切り替え、正門の近くの囲いへと撃ち出す。
深めの水たまりを高速で通過したような派手な水音を立てた空気の弾丸は、強烈な雨をものともせずに狙い通りに直進し、高さ三メートルはあろうコンクリート壁へとぶち当たる。
「うおお!?」
「なんや、なんや?」
「さっきの奴らだ!」
「そこまで来てるんだ!」
突如崩壊した壁に敵兵は混乱してしまったようだが、ほぼ真円に撃ち抜かれた壁は人間が二人通れるほどの大穴を開けている。
「こっから入っちまえ」
「へへ、俺らの逃げ道になるとはな!」
「こっちこっち! 早く入れ!」
瀬名の意図を知らない敵兵たちは、これ幸いと穿たれた大穴を通って皇居の敷地内へと逃げ込んでいく。
うまい具合に田尻と紀夫が左右から牽制してくれたようだ。
〈アイツで最後っすね〉
〈ふう。……なんか疲れたっすよ〉
五十人近くいた敵兵は、巣穴へと退散する鼠の群れように殺到したが、おかしな渋滞はなく最後の一人が穴の向こうへと逃げてくれた。
〈なんとかなったかなー。……さて、んじゃあ今度はこっちが――〉
緊張を解き、田尻と紀夫に撤退の合図を送ろうとした瀬名の目に、強い光が指した。
思わず言葉を押し込めた瀬名が周囲を警戒すると、上空に小さなパラシュートに吊られた真っ赤な閃光がゆるゆると浮遊しているのを見付ける。
閃光の照り返しで一部だけ赤い白煙を立てて落ちてくるそれは、激しい雨にも負けず強烈な赤い光を放ち続けている。
「…………照明弾、か?」
ぼんやりと見上げていた瀬名が、すぐそこまで自衛隊が迫っているということに思い至るまで数秒を要した。
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