恩師

 それは突然の電話だった。

 昼までの予報を覆して急にパーセンテージが上がった雨予報のように、夕刻からひっきりなしに電話がかかっていたのだが、重大な連絡を受け取りそこねたのは公務の都合で取り次ぎを禁じたツケだったのかもしれない。

 現職の総理大臣御手洗清みたらいきよしが首相公邸に戻った際、通信解除とともに飛び込んできた一報は、雷を伴った土砂降りのせいか強烈な驚きとなって御手洗に降りかかった。

山路やまじ先生が? 確かか?」

 とても信じられない事態に秘書を睨みつけてしまう。

「それは間違いありません。先生の奥様から後援会に連絡があって、先程念を押して詳しく伺いましたから」

「……そうか。すまん」

 秘書の加藤彩海かとうあやみの狼狽する表情から疑いようがないことを感じ、御手洗は素直に謝ってスーツのジャケットを彼女に預けた。

 初めて大臣職を賜った頃からの個人秘書なのだから、今更彩海が御手洗を謀る事など有り得ないし、御手洗と山路耕介との関係も熟知していればこそ彼女も動揺しているのだ。

「……いかがいたしましょう?」

 ネクタイを解いても無言のままの御手洗に、彩海は出しゃばりとは思いつつも指示を仰ぐ。いつもならば十秒と開けず飛んで来る指示がないからだ。

「ああ。……すぐに、と言うてもな……。今夜以外に時間が取れるのは――」

「四日後です」

「――やったよな。手配出来るか?」

「かなりギリギリですが」

「頼む」

「かしこまりました」

 長年の付き合いで、御手洗と彩海の間にはスケジュール管理と行動の傾向はほぼ共有されている。

 短いやり取りながら、御手洗の行動予定は彩海に伝わっているし、彩海の頭の中には即座に九州へ向かう為のチャーター機の手配と、翌朝に東京まで戻るための段取りが組まれている。

 毛足の長い絨毯をハイヒールで音もなく退出する彩海を見送り、御手洗は微かに漏れ聞こえる雨音とシンクロする感情を払拭するため、書斎のガラス棚からブランデーを取り出してデスクに座した。

「よもやこのタイミングとは……」

 デスク上にセットされているトレイから洗浄されたグラスを取り、ブランデーをツーフィンガー注いでストレートで一気に煽る。

 喉元から胸を焼くアルコールの熱は、自身の不甲斐なさを責め立てる師匠の叱責にも感じてしまう。

 ――山路先生の大改革を引き継ぐまでは順調やったが、まだまだ日本の再構築は不完全や。自衛隊を国軍にまで、とはいかんでも、防衛軍にすることの意義にはまだ達しとらん。遷都もようやく来年には叶うというその矢先に、肝心の先生の容態が悪化とは……――

 少し前から山路の体調が優れないことは耳に入っていたが、遷都を目前に控えた御手洗には恩師を見舞う時間はなく、そればかりか山路が現役時代に被った疑惑のために、御手洗と山路は頻繁に会えなくなっていた。

 そのことだけでも心苦しいのに、山路が描いた日本改造を完成せしめられていない現状こそ、御手洗の力不足であり山路への不孝と感じる。

「あなた……」

「小百合か。すまんが、すぐに先生の所へ出向くことになった」

「加藤さんに聞きました。……大丈夫ですか? 顔色がよろしくありませんよ?」

 幾分ラフだが、首相夫人の品位を損なわない格好で歩み寄る妻小百合に、御手洗は左手を差し伸べ、書斎デスクを回り込んだ小百合も夫の手を握る。

「覚悟はしていたが、実際に耳にするとやはりショックは大きいな」

「私もお供したいのだけれど……」

「明日はお前も外せない用があったろう? 四日後には私の予定も空く。連れ立って伺うならそっちの方が良いはずだ」

 不安そうな小百合をなだめようと、御手洗は握ったままの手を引き寄せて軽いハグを見舞う。

 互いに年齢が現れる容姿になってしまったが、今の御手洗があるのは小百合の下支えがあったればこそだ。その感謝と詫びは歳を重ねるごとに深くなっている。

「そうね、そうするわ」

 夫の考えを尊重し、小百合は我が子を褒めるように夫の頬に手を当てて優しく抱き返した。

「……総理。チャーター機とお車の手配が整いました」

「ん。シャワーの時間はないな? すぐに出よう」

 書斎の入り口から遠慮がちに声をかけた彩海に答え、抱擁を解きながら御手洗は立ち上がる。

「ご無理はなさらないように。加藤さん、お願いね」

「分かっている」

「心得ております」

 見送りの時間はないと悟った小百合の心配の声が飛び、御手洗と彩海は順に答えて書斎から出ていった。

 いつものことながら、夫の背中は颯爽と小百合の視界から消えてしまう。


 山路耕介は佐賀県の北西部・唐津市の生まれで、唐津焼の工房を営む親の指導の元、陶芸家の道を志したこともあるという。だが幸か不幸か山路には焼き物の才は表れず、工房は才覚顕な兄が継ぐこととなり、山路は工房の経理を担当すべく福岡県の国公立大学で経営学を学ぶこととなる。

 そこから経済と政治への興味と野望を持ち始め、工房を切り盛りする傍らで政治的な活動へと参加していった。

 最初こそ地方政治団体の後援会に顔を出す程度だった山路だが、被選挙権を得る頃には各方面への根回しを済ませ、佐賀県政へと打って出た。

 そして地方自治の限界と闇を見た山路は十年の準備期間を経て国政へと立ち向かい、圧倒的な論旨と熱量であれよあれよと総理大臣までの階段を駆け上がった。

 御手洗が山路と出会った頃は、山路は今の御手洗と歳が近かったはずだが、勢いと熱量は今の御手洗の比ではなかった。

 それほどに豪快でパワフルな人物であった。

「老いと病は、かように恐ろしいものか」

「……先生?」

 チャーター機のリクライニングソファーに体を預けていた彩海だが、テーブルを挟んで向かいに座した御手洗の呟きを聞き逃さず、問いかける。

「なんでもない。……いつものやつだ」

「あ、ハイ。失礼します」

 御手洗の手招きで用件を察し、彩海は席を立って御手洗が腰掛けるソファーの肘掛けに尻を引っ掛ける。

 間を置かず即座に御手洗は彩海の背中に手を回し、彩海も御手洗の頭部を引き寄せ、二人はゆるりと抱き合う。

 本来ならこれは妻である小百合の役目なのだが、御手洗の飛行機恐怖症の特効薬はこれしかなく、御手洗から彩海への信頼の表れでもある。

 資金面での黒い噂は絶えないが、女関係で御手洗がこうした接触を取るのは妻である小百合と彩海しかおらず、意外に潔癖な政治家と言える。

 御手洗と出会った頃の彩海はまだ二十代で、末席の私設秘書として雑用しか任されなかったが、一流大学を出た公設秘書よりも有能であることが分かれば即座に第一秘書へと繰り上げられ、その抜擢により小百合よりも密に接する彩海に不倫の疑惑が囁かれたこともあった。

 若く、知的で、男好きする彩海の容姿はそうした噂が立たぬ方がおかしかったし、御手洗がもう少し俗な男であれば体の関係もあったかもしれない。

 まもなく五十の扉を叩こうかという彩海は二十代の頃の美しさを損なっておらず、今の方が一線を越えかねない魅力を放っている。

「……すまん。落ち着いた」

「少し、眠られますか?」

 スーツ越しだが豊かな乳房に頭を埋める御手洗の髪を撫でながら問うと、一拍おいて御手洗が体を離して答えた。

「いや、帰りにしよう」

「分かりました」

 いつも通りの短いやり取りをし、彩海は音もなくソファーから降りて元の席に着く。

「今更だが、お前の人生を俺の政治活動に使ってしまった。すまん」

 照れくさいのか、夜の闇しか映さない機外に目をやりながら侘びた御手洗に、彩海は小さく笑って返す。

「やめて下さいな。第一秘書のお役目をお引き受けする時にも申しましたとおり、人生を賭けて働かせていただいております。あの時の宣言に嘘偽りが無いことを証明し続けて来た結果に過ぎません」

 毅然とした彩海の言葉に、御手洗はやはり目を合わさずに言う。

「しかし、な。女の幸せというものもある。お前ほどの女性をそれから遠ざけてしまったのは、俺のミスだ」

「ふふ。何年かに一度仰いますね。私は御手洗清に嫁いだつもりとも申しましたよ。裸にされても、妊娠させられても、人質交換で八つ裂きにされても、秘書の職務をさせていただけるなら何事も厭わない。その覚悟は今も変わりません」

 泰然とした態度を崩さない彩海をチラリと見やり、御手洗はまた窓の外へ視線を戻した。

 姿勢を正しソファーの背もたれに背中を付けず、キッチリと着こなすダークブラウンのスカートスーツにはシワ一つ無い。裾から覗く脚は膝からピッタリと揃えられて斜めに伸ばされ、膝の上で重ねられた指にはゴールドの指輪が一つだけ嵌められている。

 かなり昔に彩海にせがまれて、御手洗が彩海の誕生日に送った指輪だが、求婚者よけのために左手の薬指に嵌められている。

「むしろ抱いてくれと言われた時は慌てたぞ。その指輪だって、ずいぶんと小百合を怒らせた」

「申し訳ありませんでした。ですが、今こうして総理のお仕事をお手伝いできる喜びは格別です。なんでしたら、今でも抱いて下さってよろしいんですよ? すっかりオバサンになってしまいましたけど、それもひっくるめて総理の私物ものですから」

「悪い冗談はよしてくれ。俺にだって我慢の効かない時がある」

 さすがの現職総理大臣も身内からの攻撃には本気の狼狽を見せ、そのまま眉間にシワを寄せたので、彩海は微笑みながら謝罪した。

「失礼しました。ようやく総理らしいお顔に戻られました」

「まったく……。お前じゃなければ本当に手篭めにしてやるところだ」

 ジロリと彩海を睨んだ御手洗だが、すぐに表情を緩めて続ける。

「だがまあ、お前が居るから俺も手を抜けんのかもしれん」

「有難うございます」

 妻以上に妻らしく、秘書以上に的確な働きは、御手洗をして同志か分身かと思うほどに信頼を寄せられる。

 時折、彩海が男であれば自身の後継を任せたものをと、御手洗は言いようのない嘆きがよぎる。それほどに彩海の才能や働きは秀でていて、唯一無二といえた。

「――失礼します。あと三十分ほどで佐賀空港に到着いたします」

 キャビン前部から顔を出した私設秘書が申し出て、御手洗と彩海の了解の合図を目にするとすぐに自席へと戻った。

 公務であれば彩海の補佐として置いている第二秘書か第三秘書を同道させるが、恩師山路への見舞いは私用のため、今回は私設秘書を命じてある御手洗の次男たかしを連れて来た。

 長男のさとしは御手洗と同じ道を歩む事を嫌い、民間企業に就職してしまったし、長女のめぐみは若いうちにイタリア人と結婚して国内には居ない。

 一時期は彩海の待遇面を憂慮するために、毅と彩海の縁談を持ちかけたこともあったが、彩海も毅もそれぞれの理由を主張して破談となった。

「――なあ。やっぱり毅とは結婚できないか? 二人ともまだ間に合うぞ?」

 シートベルトを装着しながら、藪から棒に切り出す。

「先生。そのお話には条件をつけたはずですよ」

「そうだぞ、父さん。あんまりしつこいと本当に可能性がなくなってしまうぞ」

 彩海のやんわりとした否定と被さるように、先程の秘書然とした口調とは全く違う口調でキャビン前部のシートから毅の嗜める声が飛んできた。

「そうは言うが、山路先生でさえ病に倒れられたんだ。俺だってそのうちポックリ逝きかねん。毅ももうすぐ三十五だろ? 彩海の幸せな姿も見たいんや。孫は無理でも結婚式は見たいんや」

「こ、こんな時にこんなとこで言うなよ……」

 歳のことを言われて毅は怯んでしまうが、毅が彩海との縁談に条件を付けたことの意味を御手洗は正しく理解している。

「先生、そのお話はまた落ち着いた時にいたしましょう。毅さん、後で先生にはキツク怒っておきますから、そんな顔はやめて下さいな」

「ありがとう。ごめんなさい。秘書の仕事に戻ります」

 彩海が体を捻って嗜めると、毅は素直に引き下がった。

 こういったやり取りを見れば見るほど――似合いなんだがな――と御手洗は願望を募らせてしまう。

 縁談を断ったとはいえ、彩海も条件を付ける程度には毅を認めているのだから、些細な拘りや条件なんぞ捨ててしまえ!と思ってしまうのは、御手洗の老いとねじ曲がった親心なのかもしれない。

 二人はバレていないと思っているのかもしれないが、秘書同士の打ち合わせではない二人きりの外出があることを御手洗は知っているのだ。


 御手洗らを乗せたチャーター機は、予定通りに九州佐賀国際空港に到着し、旅客便の最終便が着陸した後のメンテナンス作業前に強引に滑り込んだ。

 その後は空港側の特別な図らいで旅客ターミナルを通らずに、滑走路からそのままリムジンタクシーに乗り移って佐賀市内の病院へと直行する。

 小型ジェットもリムジンも、総理大臣専用機や党会派の公用車が使えれば楽なのだが、公務ではなく私用とあってはそうもいかない。

 ただ、彩海の手配は的確にして最良で、首相公邸から佐賀空港まで無駄な時間や手間は一切省かれていた。

 リムジンタクシーが目的の病院に着くと、山路の後援者らしきスーツ姿の男が数人待ち構えてい、丁寧に御手洗を迎えてくれた。

 その中の禿頭に銀縁眼鏡の中年には見覚えがあったので、御手洗と彩海は警戒心を解いて彼らの案内に従った。

 彩海の手配であるのか、禿頭眼鏡らの根回しなのか、とっくに診察や面会が終わっている時間なのに病院関係者は御手洗ら一行を引き止めはしなかった。

「こちらです」

 エスカレーターで五階まで上がり、個室だけが並ぶ病室の一つを示される。

「失礼します」

 控えめなノックをしてドアをスライドさせると、広い個室の真ん中に間仕切りのカーテンが引かれ、その向こう側で灯されている小さな照明がボンヤリとカーテンから透けて見える。

きよっさんか。こっち、んね」

「お邪魔します」

 記憶にある山路の声より、幾分弱々しい声音に促され、御手洗は間仕切りの向こうへ歩む。

「遠路、すまないね」

「何を……。いつでも駆けつけると約束したじゃありませんか」

「そうやったね」

 ベッドサイドのデスクライトと山路のバイタルを計測している機器の明かりに照らされた恩師は、痩せ細り、枯れ木のような肌艶と色合いで生気が感じられず、御手洗は長く見続けることができなかった。

 声音はまだ笑っているように聞こえたが、その口元はひび割れて欠片が落ちそうなほど乾いていた。

「先生。もうすぐ、もうすぐ遷都です! それまでは、どうか。どうか! 保ってください! 先生の立ち上げた遷都です。是非にも先生に見てもらいたい。いや! 先生には見ておく責任がある!」

 御手洗は歯痒さや、後悔や、謝罪や、別離から逃れたい思いなどが一気に吹き出してしまい、山路が乗せられているベッドへ寄って敬愛する師の手を取った。

 点滴や心拍計のコードが引っ付いた山路の手は、乾いていて少し冷たい。

「清っさん。アレはもう、あんたのモンや。総理大臣を代わった時に、全部、あんたに渡したっちゃんね。おいも見たかったけん、もう、なごうない。あんたが代わりに見といて」

 思わず力のこもってしまった御手洗の手に、山路は残った手を重ねて数度たたき、そして優しく包んだ。

「まだまだ、教えてほしいことが、あります。昔みたいに、至らぬ所を、叱ってほしいです……」

 御手洗の頭の中を、思い出や記憶が思い出すそばから浮かんでは、両目から溢れようとする。

 なんとか踏ん張って、謝罪や感謝を伝えたいと思うのだが、言いたい事や思い出すことが多すぎて泣き言しか出てこない。

「あんたはようやっとうよ。弟子とも息子とも思うとる。もうちょっとだけ頑張るけん、まだ泣かんでや」

 山路の言葉が終わらぬうちに御手洗は膝を折って、シーツに顔を押し当てて涙を隠そうとした。

「……それより、一つだけ、あんたに託さないけんことがあっとよ」

 少し声のトーンを落とした山路は、御手洗の手を引いて合図した。

 昔からの山路の『内緒話』の合図だ。

 議会でも、議員会館でも、食事の席でも、よくスーツの袖を摘んで引かれた。

 昔通りに、御手洗はクシャクシャにした顔のまま山路の口元に耳を近付ける。

「――――! それは、なぜ、でも、そんなことが? まさか?」

「おもしろかろ? 墓に持って行ったらもったいないから、あんたにあげるわ」

 山路の語った内緒話が信じられず、御手洗は山路の顔を見つめたまま硬直してしまった。

 その御手洗の様子が面白かったのか、山路はどこか空気が抜けるような笑い声を立て、晴れやかな顔でリフトアップされたベッドにもたれた。

 唐突な暴露は御手洗の思考回路を完全に停止させてしまい、止めどなかったはずの涙は、気持ちの悪い脂汗へと取って代わってしまった。

「…………あの、少し疲れてしまわれたようです。時間も時間ですので、今日はこの辺で……」

「あ? ああ、そうですね。急な訪問に加えて手ぶらで申し訳ありませんでした」

 病室に入ってからずっと山路の変貌ぶりに気を取られていて気付かなかったが、ベッドサイドには白髪の男性が佇んでおり、横になって目を閉じた山路にシーツをかけてやっていた。

 恐らく山路の子息か血縁者なのだろう。

「いえ、お気遣いだけで充分です」

「また、日を改めてお見舞いに伺わせていただきます」

「ありがとうございます」

 男性の丁寧なお辞儀に、御手洗も恭しく応じ、病室を後にした。


「どういったお話だったんです?」

 病院を出た御手洗らは、高速道路を使って福岡へと移り、山路の後援者らの手配で無理を言って開けてもらっていた料亭で食事を摂っていた。

 しかし、上等の割烹に旨い旨いと舌鼓を打ちながらも浮かない顔の御手洗に、彩海はそっと尋ねていた。

 御手洗はお猪口を煽ってから答える。

「…………彩海にも言えん。小百合でも言えんな」

 それはつまり御手洗にとって墓の中まで持ち込まねばならないほどの秘密を意味した。

「それほどのことをお聞きになられた?」

「ああ。公になったら日本がひっくり返ってしまうな」

 それを裏付けるほど御手洗の表情は沈んで見え、彩海は深追いして良いものではないと判断して、黙って御手洗に酌をした。

 酒と食事も程々に済ませ、新幹線の始発に合わせて博多駅へと向かう。

「今晩は急なことだったのに、本当に良くしていただいた。後日、また先生のお見舞いのついでになるかとは思うが、お礼に伺わせていただくが、構いませんかな?」

 駅ホームでは危機管理上問題があるため、御手洗は車中で後援会の代表者であろう男性に問うた。

「滅相もありません。最近の山路先生はずっと寝たきりでしたのに、御手洗先生をお呼びになられて、久しぶりにお笑いになっておられました。元気な姿をお見せになりたかったのだろうし、今日のお話は我々にも感じ入るものがございました。我々への礼などどうぞ構わずに置いてください」

 車中という限られた空間の中で、男性は最上級に恐縮してくれたので、御手洗も無理を通さないことにした。

「分かりました。これからそちらも大変でしょうが、何か困り事があれば一報下さい。山路先生を恩師と言って慕った身、その御恩は後援会の方々にも返さなければと考えています」

「恐縮でございます。ありがとうございます」

 握手まではかわさなかったが、互いに頭を垂れて今後の関係性を確かめる会話が交わされた。

 御手洗は、これまでにも山路の後進や会派の議員と連携を取ってきたし、彼らの周囲には山路の後援会の影や姿が必ずあった。直接御手洗の動向に関わっていなくとも、御手洗と山路とその後援会は繋がっているのだ。

 山路の著書を教本のように繰り返し愛読する御手洗にとって、山路の後援会と距離を縮めることにデメリットやリスクは無いに等しい。

「先生、そろそろお時間の方が……」

「む、そうか。それでは、また次の機会に」

「よろしくお願いします。お気を付けてお帰りを」

 毅に促されて会話を締めくくり、送迎の車を降りて駅舎へと入る。

 彩海の段取りに合わせて駅員や鉄道警察を動かしながら、スムーズに新幹線へと乗車した。

 御手洗は往路での宣言通りに発車して間もなく眠りにつき、そこまで来てようやく彩海は安堵のため息をついた。

「……加藤さん。……彩海さんも寝てください」

 御手洗の寝息を確かめてから、毅は一旦仕事上の呼び方をし、プライベートでの呼び方に言い直して彩海に声をかけたが、彩海はやんわりと毅の手を叩く。

「東京に戻るまでは気を抜けないわ。まだ仕事中です」

「……すいません」

 七月頭の平日の始発の新幹線は、思いのほか空いていたが、それでも彩海は声を潜めて毅を窘めた。が、注意のために叩いた手はそのまま毅の手に重ねたままだ。

「今日は、警備を連れて来れなくてヒヤヒヤしたけれど、そのぶん目立たずに済んだ。けれど毎回こうはいかないから、神経を尖らせて太くしなければならない。秘書としても、秘書に指図する側としても、よ」

「覚えておきます」

 彩海は毅に、秘書ないし政治家としてのレクチャーをしてから、毅とは反対側に座る御手洗の手に自身の手を重ねた。

 ――先生は、私が逝く時も泣いてくださるかしら――

 御手洗に尽くして三十年近くなるが、今日初めて御手洗の弱々しい涙を見た気がする。

 普段は即断即決でブレなど考えられない御手洗が、山路との面会後に見せた沈んだ表情も気になっている。

 彩海が尋ねたタイミングの問題ではないだろう。そんなことであれば御手洗は『後で詰める』と答えたはずだ。

 彩海と小百合に対して隠し事や内緒ごとをしない御手洗にしては珍しいことだった。

 新幹線はいつの間にか関門海峡を超えて本州に入り、昨夜から降り続いている雨雲の中へと潜りこもうとしている。

 ――嫌な雨。御手洗清の行く先にはそぐわないわね――

 彩海は拭い切れない不安からか、御手洗の頭越しに見える真っ黒な雨雲に思わず注文をつけていた。


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