指輪の跡

「もう行くの?」

 アンダーシャツとボクサーパンツ姿でホテルの洗面所に向かおうとしていると、背後からそう声がかかった。

 昨夜からの雨のせいで室内は暗く、七月の早朝とはいえカーテン越しの明かりだけでは相手の表情は見えない。

「すまない。なんだか胸騒ぎがするんだよ」

 鯨井孝一郎くじらいこういちろうは早口で言い訳して、野々村美保ののむらみほの視線から逃れるため洗面所へと向かう。

『胸騒ぎ』などとありきたりな文言を使ったが、確固たる前兆を感じているわけではない。しかし、現在淡路島から離れているという気焦りや、何かが起こってからでは淡路島に近寄れない不安、先行させた播磨玲美はりまれみへの心配など、鯨井の心情は様々なマイナス要因が入り混じっている。

 本来なら昨日のうちに淡路島へ戻っていたという予定変更も響いている。

 もう一つ、国生警察の黒田刑事が体験したという瞬間移動やテレパシーなど、高橋智明が表した超能力の危険度も気になっている。彼の脳内に発生した未知の器官が何であるかも気にかかっているし、その器官が超能力と関わりがあるのかも知りたい。

 どちらにせよ、今現在京都のホテルに足を止めていることに出遅れを感じている。

 ――とはいえ、美保ちゃんや師匠をないがしろにはできんかった。出遅れとっても、京都に来た選択は間違ってないはずだ――

 顔を洗い、いつも通り口髭と顎髭を残してシェービングし、歯を磨いて髪型を整える。

 仕上がりのチェック、というわけではないが洗面台の鏡に映る自身の顔をジッと見つめる。

 ――よし。ぶれてない。迷ってない――

 手術を行う日の朝のように、目元にも口元にも迷いや動揺がないことを確かめ、洗面台から離れようとした時、硬いものが洗面台に当たる音がした。

「……しばらく慣れそうにないな」

 音の正体は昨夜嵌めたばかりの左手薬指のペアリングだ。

 美保にはよく似合う小洒落たデザインだが、無骨でシワやたるみの目立つ鯨井の左手には少々若ぶったデザインで、なかなか見慣れない。そこに指輪があると分かっていても、何かに当たって音が立ったり、異物が巻かれている違和感は拭えない。

 ――診察やオペの時は外さにゃならんけどな――

 衛生面でも検査機器への影響の面でも、医療現場では貴金属を外すのが常識だ。これはさすがの美保も理解してくれるだろう。

 鯨井は金属製の輪っかの重みを刻み込むように、あえて強く薬指の根元に押し込んでから洗面所を出た。

「クジラさん、そんなに心配症だっけ?」

 美保が点けたのだろう、室内に照明が灯り、ベッドには下着を身に着けブラウスを羽織った美保が腰掛けていた。

「いつだって心配事や不安はあるさ。言うか言わないかだけだよ」

 片手をヒラヒラさせて応え、鯨井は自分のバッグが置かれているソファーへと向かう。

「言える心配事と、言えない心配事の線引きはなんなの?」

「そんなものは無い、とは言えんか。……例えば、美保ちゃんを不安にさせないことは言えるの。反対に、心配にさせることは、言わないかもしれん」

 妙な突っかかり方をされ、美保らしいと思う反面、美保にしては剣がありすぎる問いだと思ったが、面倒と思っても今は答えなければならなかった。

 鯨井からすれば美保の機嫌が悪い理由は全て鯨井が原因なのだろうと想像できるし、美保の機嫌を直しておかなければ京都に来た意味も左手の指輪も意味をなさないと想像するからだ。

「じゃあ、こんなに早くアワジに帰る理由は、私には関係ない不安のためで、クジラさんと私が離れ離れになるのに、それは私が心配しなくてもいい理由だって言うの? 矛盾してない?」

 いつになく厳しい追求に、鯨井は舌を巻く。

荷物を整理するていで美保に背中を向けておいて助かった気もするが、無言でスルーするわけにはいかない。

「……俺は医者のはしくれだ。病院も通常の診察を再開したと聞いとるし、入院中の患者さんのこともある。いつまでも個人の研究を優先してられなくなってきたのが、公の理由だな」

「じゃあ、プライベートな理由もあるの?」

「もちろんだ」

 一旦言葉を切って、美保の方へ向き直ってから続ける。

「今のアワジは何が起こるか分からん。だから俺はアワジに戻って医者をやらないかんと思っとる。でもそのためには大事な人は安全なとこに居るっていう安心も欲しい。とはいえ、例の病院を襲撃した犯人のその後が気にかかっとるのも本音だ。アワジで医者やってたら『あわよくば』ってこともあるかもしれん、と思っとる」

「……私がそばに居て手伝うとかは出来ない?」

 視線をそらさずに言った美保の目は、真剣だった。

「それも考えたんだがの。……自衛隊がドンパチ始めてしもうたらどうなるか分からん。まだ美保ちゃんに地獄絵図は見せられんよ」

 鯨井はゆっくりとベッドへ歩み寄り、美保の隣に腰を下ろして美保の肩を抱く。

 淡路島へと急ぐ理由は建前であっても、二十歳そこそこでちゃんと医療現場に携わったことのない美保に、血生臭い戦場を見せたくないのは本音だ。

 鯨井は、美保の祖父野々村穂積ののむらほづみの勧めで二度ほど海外派遣の医師団に参加したことがある。

 回数にして二回、と聞くと医師団に参加した熱意が軽く感じられたり、そこで得た経験など大したことがないように聞こえてしまうが、期間で言えば半年に及ぶ。

 一度目は南アフリカの小国で、栄養失調や感染症・伝染病などの医療支援として二ヶ月間。

 二度目は東南アジアで起こった災害の支援として、軽重を問わずに外科全般と、現地の機器を使用した脳外科に関わる治療に四ヶ月のあいだ従事した。

 南アフリカでは高い気温もさることながら、虫や埃の舞うテントで伝染病の診察を行ったり、点滴や消毒液などの物資や自分達の食事などが心許なかったり、夜は野生動物の襲撃に緊張したりと、過酷な環境だった。

 何より心が傷んだのは、やせ細り飢えや病に苦しんでいる現地の人々が、医師団を頼りつつも怖れを見せず、じんわりと苦しみながらだったり急変して卒倒したりといった死に際に、感謝の言葉と笑顔を見せたことだ。

 彼らに落ち度は少なく、学びの場もなければ情報も行き渡らないなど、伝染病や感染症に無知であり過ぎたのだ。行き届かない政治がための不幸とはとても言えない。

 東南アジアでは、別の意味で劣悪だった。

 物資や食料が無かったり、テントで診察や手術を行うなどは南アフリカの時と変わらないが、大災害という範囲の広さと負傷者数は一度目の数倍に及んでおり、治療の範囲も打撲や骨折から内蔵の損傷に脳挫傷やクモ膜下出血に失明など、非常に多岐にわたっていた。

 何より鯨井を憔悴させたのは、救助作業や復旧作業・生存者の確認や物資の輸送などで手が回らず、亡くなった人々がそこら辺に打ち捨てられていたことだ。

 遺体を集めたり弔うことすら出来ない環境も心苦しかったが、そこここに死体が転がる中で、内出血で体中がどす黒く変色した人々を診察したり内臓が傷付けられ腹をパンパンに膨らませた人々の手術を行わねばならないことは、医師団として関わった意義すら忘れそうになるほど感覚を麻痺させ、人間らしい感情や情緒を失ってしまったことが一番辛かった。

 腐敗臭の中、ひしゃげた腕や千切れた足を処置し、裂き割られ露出した脳を見なければならないのだ。

 同行していた医師には内戦や紛争地の支援に参加した先達がいて、虚ろな瞳で漏らした『戦地より酷い』という言葉が忘れられない。

 しかし、そんな経験は腹を括った一部の者だけがすればいい。これから子供を授かろうとする美保が見るべきではない、と思う。

「……本当にそんな状況になるのかなぁ。黒田さんも、しばらくアワジから離れたほうがいいって言ってたけど、ニュースじゃそんな感じしないんだけどなぁ」

 さっきまでとは裏腹に、美保がすんなりと危機的状況を受け入れ始めたので、鯨井は美保の変心が気にかかった。のみならず、美保の口から黒田刑事の名前が出たことに驚いた。

「このタイミングで自衛隊が出てくることが怪しいんだわ。というか、美保ちゃん、黒田君に会ったのか?」

「え? うん。……ほら、高速バスから電車に乗り継ぐ時に、見たことある人が居るなと思ったら刑事さんだったの。行き先を聞かれたから『お祖父ちゃんのお見舞いで京都に行く』って言ったら、『その方がいい』って」

「……そうか」

 黒田刑事と美保の接点が分からなかったし、ポートアイランドで黒田刑事と話した時には美保の話題は出なかったので、つい良からぬ想像をしてしまった。

 しかし、よくよく考えれば刑事が参考人として関わった女性を口説くなどあり得ない。

 美保が黒田刑事と出くわしたのは高速バスからJRに乗り換える際だったということは、JR舞子駅か三宮駅周辺ということになる。

 黒田のメールと美保からのラインの履歴を思い返しても、密会とか秘め事とかそういった要素は感じられない。

 ――嫁さんが若いとこんな心配もし始めるんかな。この歳で嫉妬とは思いたくないが。……この歳だからこそ、か?――

 老婆心だと一笑に付したかったが、どうやらすんなりとはいかないらしい。

「刑事が言うんだから信憑性はあるだろ。黒田君と美保ちゃんの間柄でさえそんな忠告をするんだ。逆に余程のことだと思えるがの」

「…………そうね。……そうかもしれない」

 しばらく間を開けて答えた美保の視線は、もう鯨井ではなく自身の膝に向けられていた。

 言葉では承服した印象を受けたが、美保の表情や仕草はどこか普段とは違って見えた。

 ――飲み込めない現実を受け入れようとしてくれとるんか? それか結婚や婚約で関係性とか立場が変わることに混乱しとるんか?――

 赤ん坊の頃から知っている美保の所作だが、今回ばかりは鯨井も表情だけからでは読み取れない。

 ――受け入れようとしとるんも、混乱しとるんも、もしかして俺の方か?――

 思い至った先にあったのは人間のジレンマそのものと思えた。

 常に自分が正しく完璧であると思いこんでしまうと、相手の間違いを指摘したりついつい説得や注意をしてしまう。

 こと『する側とされる側』の立場がそもそも認識違いで、本当の立場も関係性も真逆であったなら、『する側』だと勘違いしている自分の行いはなんと滑稽なのだろう。

 美保の疑問や追求が平常であるなら、鯨井の行動と言動は常軌を逸していると捉えられて当然となる。

「……ごめんな。大事大事と言いつつ、今日の俺は美保ちゃんを大事にしていないよな。悪かった」

「いいよ。クジラさんが仕事を大事にしているのは知ってるし、研究や仕事に没頭してるとこも好きだもん。……私が有頂天になってはしゃぎすぎたのかも」

 今更の気遣いはやはり手遅れで、美保は肩を抱く鯨井から顔を背けてしまった。

 長い付き合いから、美保がこうなってしまうと機嫌を直すのはなかなかに困難だ。

「いや、そんなことはない。美保ちゃんみたいに振る舞うのが普通なはずだ。きっと俺の感覚がズレてるんだよ」

 自分で言いながらも、さっきまでのやり取りを取り繕うような言い回ししか出来ないことが申し訳なくなり、鯨井はそっぽを向いたままの美保を抱き寄せた。

 美保は抵抗や拒絶こそしなかったが、未だ表情は晴れない。

「……そうだ、朝飯食いに行かないか? 出発は午後に延ばすから、それまで二人のこれからのことを話そう」

「無理、しなくていいよ」

 呟くような小さな声だったが、それでもようやく美保は鯨井と視線を合わせてくれた。

「無理なんかしてない。こういう展開で無理してたら、結婚生活なんぞ成り立たんやろ」

 鯨井はセックスだけが男女を繋ぐ関係性とは思っていないし、こと恋愛や交際や結婚についていえば、セックス以外のメリットやプラス要因がなければと考えている。

 播磨玲美はりまれみに無いものが野々村美保にあるから、結婚へと話を進めた。

 それを高橋智明への興味や好奇心でないがしろにしかけたことは、鯨井の短所だと痛切に思い知らされた。

「……それもそうね。私が子供みたいなこと言ってるよね。ごめんなさい」

「そんなことはない。俺がジジイ過ぎるんだろ。そこも話し合っていこう」

「分かった」

 心からの笑顔、とはいかなかったが、ようやく美保は強張らせていた体の力を抜いて鯨井にもたれかかり、形だけの笑顔を見せた。

 ――付き合いが長いのも困りものだな――

 美保の嘘を見抜けてしまうように、作り笑いかそうでないかも分かってしまう。

 美保もきっと自分を見てそんなような思いがあるのだろうと思うと、『気を引き締めなければ』となる。

 鯨井が親元を離れて三十年が経ち、初めて家族を持つことの重みを知った朝だった。


 両親が用意してくれているホテルは、決してレベルの低いホテルではないが、滞在して数日過ぎてしまうとバイキング形式の朝食にも飽きが来る。

 鯨井との言葉のすれ違いの影響は少なからずあるにしても、朝から味の濃い物や油っこい重い物は食べる気にならず、野々村美保はシンプルにトーストとサラダだけをチョイスした。

 美保の心情を知ってか知らずか、向かいの席に座る旦那様は朝から真タラのフライにポタージュスープとバゲットサンドを並べ、年齢に抗うような食欲を見せている。

「んんっ! 旨いな! 出発を午後にして正解だわ」

「クジラさんの嬉しそうな顔が見れて良かったよ」

「いやぁ! この歳になると美保ちゃんと過ごす以外に楽しみってなくてな。食事と睡眠だけはその日その時に目一杯楽しむと決めてるんだ」

 口髭にスープが付いているのも気に留めず、鯨井はみるみるうちに皿を空にしていく。

 ――変わらないなぁ――

 妙な感慨を抱きながら美保は作り笑いではない微笑を浮かべる。

 物心ついた頃から鯨井に遊んでもらっていたが、思い通りにならないことがあって美保が機嫌を損ねると、鯨井は決まって美保の興味があることに全力で付き合って機嫌取りをしてくれる。

 両親や友人もそれに似た気遣いはしてくれるが、鯨井のような全力投球ではない。

「ほら、髭に付いてるよ」

「おお、ありがとう」

 なるべく明るい声で注意を促すと、鯨井は子供のようにワタワタと食事を中断してナプキンを口元へ当てた。

 ――私が子供っぽいのは医者の家に生まれたからだけど、普段の振る舞いはクジラさんの方が子供だよね――

 先程の部屋でのやり取りがなければこういった気付きはなかったろう。

 美保は自身の動揺が収まり、ようやっと平常心で物事を考えられていることを自覚した。

 些細なミス、などというものでは済ませられない大ポカをやらかしてしまい、取り繕うためには鯨井と目を合わせることができなかった。

 うっかり黒田刑事と遭遇したことを口走ったのは、鯨井への怒りや不満だけではない。播磨玲美への敵視や疑惑がキッカケとはいえ、憂さ晴らしに付き合ってもらった黒田に少し心が傾いてしまったからだ。

 ただ、容姿や正義感やセックスの激しさは合格点であっても、自己中心的であったり恋愛下手なところで減点が多かった。

 堅くて熱い男は嫌いではないが、偏屈であっても自分のことを優先してくれない男とは付き合えない。

 その一点において黒田より鯨井を愛せると思えるわけだが、互いのことが分かっていればいるほど気遣い合える代わりに、バレてはいけない本気の秘密は怒った演技をしてでも隠さねばならない。

「……コーヒー、とってこようか?」

「ん! 気が利くねぇ。さすが俺の嫁さんだ」

「おだてても味は変わらないわよ」

「そうか? けど、見送りのキスは変わると思うが?」

 席を立ってドリンクバーへ向かおうとする美保に、鯨井は冗談めかして追い打ちをかけてきた。

「……バカね」

 少しは場所をわきまえて欲しかったが、自分の機嫌でキスの長さが変わるのは事実なので、肯定とも否定とも言えない微笑を返してやる。

 ――クジラさんが、というより医者や学者って、やっぱり少しズレてるのよね――

 美保が知っているだけでも、祖父穂積ほづみ・父貴雄たかお・播磨玲美・大学の教授達など、皆それぞれにデリカシーや良俗といったものが欠けているように思う。

 学問や研究に勤しむあまりに、人格や常識が一般とはズレてしまうとは言われるが、美保は少し違うように捉えている。

 言葉通りにズレているだけならば、失言やミスを繕ったり補えば済む。

 しかし欠けている場合、失言を失言と思わず、なぜ失言と捉えられたかに思い至らない。

 さすがに家族にこういった偏屈が何人も居ると対処法は身についているが、場所によって受け流せる恥とフォローできない恥に閉口せざるを得ない場合もある。

 ――ママもよく結婚しようなんて思ったものね。私はパパみたいに堅い人は無理だもの。播磨先生みたいになるのがオチね――

 サーバーからコーヒーを注ぎつつ、医大の同級生同士で結婚した両親を思い浮かべ、ついでに医者同士で結婚したが短期間で離婚した播磨玲美の噂へと思い至った。

 なんでも、社長令嬢と婚約中の男性医師を寝取ったがために義実家と折り合いが悪くなり、陰湿なイビリの仕返しに浮気相手との子供をこしらえて独りで出ていったらしい。

 噂の全部を信じるわけではないが、播磨玲美の素行や振る舞いが生んだ尾ヒレだけに、幾分か真実を含んでいると思えてしまう。

 ――経緯や顛末はともかく、字面で見ればすごい人生よね。ああいう女性を『強か』というのかな。とても真似できない――

 今までは玲美が鯨井に向ける視線の熱さに腹が立っていたので、彼女の半生や立場に立って考えたことはなかった。

 結婚、妊娠、出産、育児、離婚……。

 玲美の足跡を単語で並べてみて、ふと思い至る。

「強か、ね――」

「美保ちゃん、どうした?」

 コーヒーカップをトレイに載せたまま立ち尽くしていた美保に気付き、鯨井が呼びかけた。

 すぐに現実に戻った美保は笑顔を作って鯨井の元へカップを置く。

「なんでもないよ。おまちどうさま」

「ありがとう」

「……ねえ。せっかく京都に居るんだし、どこかにお参りにでも行かない?」

 席に着きながら、美保は思いついたままを鯨井にぶつける。

「お参り? これからか?」

「そうよ。午後に出発するなら時間あるでしょ?」

「まあ、そうやが……」

 唐突な提案に鯨井は戸惑っているようだが、否定や拒否をする様子はない。

「お参りなぁ……」

「おじいちゃんの事もあるし、これからのこともあるし。デートとか観光の思い出も作りたいじゃない?」

「なるほど。言われてみればそうだな」

 美保の切り出し方は強引だったが、鯨井はあっさりと快諾してくれた。

 二人の関係は美保がこの世に生を受けてからの付き合いだが、美保と鯨井が恋人として過ごした時間は、先日、美保が告白した夜の数時間しかない。

 昨夜の交わりを含めても一日に満たないのだ。

 二十代の美保が甘やかな思い出作りを求めてもなんらおかしくないはずだ。

 むしろ今のうちから鯨井に記念日やイベントの大切さを刷り込まなければならないだろう。

 ――播磨先生みたいにはなれないだろうけど、私も強かにならないとね――

 婚約が成立したばかりだというのに、さっさと淡路島へとって返そうとする鯨井には、そのくらいの気概で臨まねばと美保は思う。

 ――じゃないと、結婚指輪も選んでくれなさそうなんだもん――

 それは美保にとってそれなりに大事なイベントなのだ。


 朝食を済ませた鯨井と美保は、せっかくの京都観光ならばと、七月を通して行われている祇園祭へと足を向けた。

 私鉄で河原町まで向かい、四条通りを東へ進んで八坂神社へと歩く。

 まだ七月の一週目の金曜日だが、観光や旅行で訪れている人は多く、四条通りにはレンタル着物に見を包んだ若い女性や、カメラを携えた中年男性、外国人の家族連れなど様々な人々で溢れている。

 鴨川にかかる四条大橋を渡ると、通りの先に朱に塗られた柱と金色の装飾が目を引く八坂神社の西楼門が見える。

 南座や花見小路通り・祇園の色町を越えていくにつれ、その全容はハッキリと目にできるようになり、石段の上に建てられた門はどっしりとした威厳と荘厳さに圧倒される。門前ではそこここで記念写真が撮られていて、京都の名所を訪れているのだなという感慨も湧いてくる。

 美保も片手を顔までもたげて仮想のフレームを操作し、何枚か撮影をしたようだ。

「撮ってやろうか?」

「今度でいいよ。今日はちゃんと準備してないから」

 鯨井なりに気を遣ったが、どうやら美保のオシャレが整っていなかったようで、断られてしまった。

 ただ、『今度』という注釈がついたというこたは、美保はこういったデートや旅行の機会をある程度の頻度で持ちたいのだなということは理解した。

 西楼門をくぐった二人は手水ちょうずを済ませ、境内の見所の一つである舞殿を訪れる。

 巨大な屋根の軒に吊られた提灯に感嘆し、歴史を感じさせる佇まいから古都の趣きと日本神道の奥深さを感じる。

 舞殿から北を向くと、朱の柱と白壁が鮮やかな本殿がある。

 鯨井と美保は並んで拝殿へと進み、賽銭を投げて柏手を打つ。

 合掌して瞑目し真面目な顔をしているが、正直なところ鯨井の頭の中は真っ白だ。現実主義に寄っているためか信心が浅く、もともと神仏に手を合わせるということにあまり熱心ではない。

 医者という職業柄、患者や知人の死を悼むことはあるが、人智を尽くした先に結果があると考えているため神頼みはしないようになった。むしろ神様に頼らなくても良い結果が得られるように、技術や知識を身に着けようと考えているくらいだ。

 なので、鯨井の合掌はわずかな時間で終わってしまい、右隣で熱心に祈っている美保をしばらく眺める時間ができた。

 ――思えば、こういうキチンとした恋人や彼女っちゅうのは初めてかもしれんの――

 美保の立ち姿と横顔、それに合掌している左手に輝く指輪を眺め、自身の不埒な行いを悔いてしまう。

「……なあに?」

「いや、ずいぶん長くお願いしてたなと思っての」

「そお? ん、心配事が多いからかな」

「面目ない」

 美保が意地悪く微笑んだので、今朝のひと悶着を思い返して、とりあえず詫びる。

「行きましょ」

 どうやら鯨井のリアクションは正解だったようで、美保は鯨井の右手に腕を絡め、歩き始めた。

 二人はそのまま来た道を戻り、他の参拝者や観光客の流れに合わせて駅まで戻り、電車でホテルへと舞い戻る。

「――すまんが、そろそろ出るよ」

「はい。連絡とかだけはちゃんとしてね」

「お、うん。分かってる」

 今朝とは打って変わってあっさりした会話を交わし、ハグと短いキスで送り出される。

「…………ふう」

 JR京都駅で網干あぼし行きの新快速電車の座席に座るなり、鯨井の口から思わずため息が漏れた。

 これまでにも学会や研究会などの出張で短期間の旅行の経験はあるが、今回のように連続して予定変更を余儀なくされるケースは初めてだった。

 美保と八坂神社を訪れる際に歩き詰めだったのも響いているかもしれない。

 そもそもがポートアイランドへ遺伝子解析のていで居座っていたのに、京都に赴いて師匠の見舞いと美保との婚約を取り付けるなど、仕事では起こり得ないスケジュールだった。

 ――落ち着いたら実家にも行かにゃならんのぅ――

 美保の両親に挨拶は済ませたが、自分の両親へはまだ美保との関係は話していない。

 一年のうちに何度か連絡は取っているが、これまでに結婚を匂わせるような話をしてこなかったので、どんな反応をするのか若干の不安がある。

 鯨井の年齢が五十歳に近付くにつれ、親との会話で結婚の話題は出なくなっていたが、気にしていないわけはない。

 これまでの人生を振り返っても、人並みに女性との交際や逢瀬の経験はあるし、鯨井から口説かずとも女性からモーションをかけてくることの方が多かった身としては、ある種より好みできたのかもしれない。

 美保の母・明美や播磨玲美といった、越えてはならない一線を越えた関係もあった。

 だが、美保ほどに自然体でいられる相手は初めてだし、美保ほどに強く結婚の意思を示した相手も初めてだった。

 ――今回のことで煩わしい跡目問題も片付いた。高橋智明の件が落ち着いたら、奈良に引っ込んで新婚生活や。俺の人生、これでよかろうて――

 師匠である野々村穂積の後釜争いから降りることを明言し、淡路島から離れ実家の近くに移ることも宣言した。

 このことで鯨井は権力争いや学会での立ち位置争いから分断され、仕事や研究に没頭できる。そうなれば例え稼ぎが減ろうとも、家庭や自分に使える時間が増えるはずで、権力や地位や名誉よりも大切な物に寄り添えると考える。

 思えば、柏木珠江も同じ考えなのではないだろうか。

 彼女は家庭を築かなかった代わりに鯨井の精子を使って人工授精の実験を行い、三人の子供を育てている。国立の研究機関というスポンサーを巻き込んではいるが、世間というものから隔絶することで自分の世界を有意義に堪能しているように見える。

 ――それもまた生き方の一つかもしれんの――

 車窓を流れる景色に重なるように、珠江や孝子・一美・一郎の顔が浮かび、鯨井は口元を緩めたが、その唇をすぐに引き締めた。

 ――あの男も、生き方が変わったクチかもしれん――

 一見すると俳優かモデルでもやっていそうなスタイルと顔面なのに、バリバリの淡路弁を話す黒田刑事の顔を思い出したからだ。

 彼からはちょこちょことメールが届いており、自衛隊の動向と淡路島の現状が知らされている。

 そのせいで早く淡路島へ戻らねばと急いでしまい、美保ともめる原因になってしまった。

 しかし、刑事らしい正義感を刑事の仕事では発揮できないと感じ、記者に転身しようという黒田の考えは面白いと思った。

 芸能記者や事件記者に偏見があるのも確かだが、刑事として生きてきた黒田ならば面白い視点や攻め方をするのではと思えるし、彼の正義感や倫理観は余程のことがない限り何者にも屈しないだろう。

 ――そんな黒田君が、俺に手伝えと言うなら、行くしかあるまい――

 どうやら淡路島で知り合いの記者に渡りをつけ、一連の事件に切り込めた連絡も入っている。JR舞子駅から高速バスに乗り換え、彼と落ち合えばその真偽は明らかになるだろう。

「……おっとっと。これは彼には見せられんな」

 快速電車が須磨を過ぎたあたりで鯨井は左手のペアリングを外して財布に放り込んだ。

 黒田の観察眼なら左手の指輪などすぐに見つけてしまい、美保とのものか玲美とのものかでからかわれるのがオチだ。

「……まだ覚悟が足りないんかの」

 左手薬指に残った指輪の跡を眺め、鯨井は美保にこっそりと侘びた。


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