仄暗い部屋の中で
「……少し、落ち着いた?」
明里新宮三階のリビングダイニングは、北西と北東に明り取りの小窓があるだけなのでやや暗い。
七月の午後は日が長いとはいえ、夕刻前には北向きの窓からはあまり日が入らない。
「……うん」
『l』字に組まれたソファーにもたれるようにして抱き合っていた智明の腕の中で、
「良かった」
ようやく泣き止んだ貴美に安堵し、貴美にソファーに座り直すように促すため、智明は先に立ち上がってソファーへと腰掛ける。
貴美も智明の意図を察して立ち上がり、智明のすぐ隣に腰掛け寄り添う。
「あ、ちょ、ええ?」
「なにか、おかしいか?」
「いや、まあ、うん。大丈夫だよ」
あどけない表情で見上げてくる貴美に動揺したが、ことさらに突き放す必要はないのでそのままにしておく。
さっきまで真への好意と、真から優里への好意や貴美への好意のアンバランスさに泣いていたとは思えず、そちらへの戸惑いも生まれる。
「実を言うとさ。リリーとままごとみたいな恋人ごっこみたいに暮らしてるけど、俺もリリーも初恋なんだよね」
「そうなのか?」
「うん、そう。だから、俺が女の子慣れしてないって意味なんだけどね」
それでも寄り添った体を離さない貴美を見て、智明は自制せねばと思う。
――この人が本当に純白なんだから、あとはこっちの問題だよな――
智明にはまだ真ほどのチャラさは持てそうにない。
「……私は、マコトに会って、初めて恋というものを知った。他者と肌を合わせるということが、これほどに人々の心を震わせるものかと驚いたけれど、血を繋ぐ命を繋ぐという営みは、抱き合った目の前の存在へ全て差し出すことであって全て与えられることでもあると知った。その出来事は私にとって大きなことであったと思う」
どこかしっとりと艶のある声音でささやく貴美に、智明は「ああ」と返した。
優里を誘ってこの地へと降り立った時、本宮玄関ホールの大柱の前での、優里との会話が思い起こされた。
――イザナギとイザナミやね――
照れたような恥ずかしがるような笑顔で二柱の御名を口にした優里。その優里と国産み神話の真似事をしたのはまだ十日ほど前のことだが、何度も交わりを持っている裏で組織を作り束ねなければならなくなって新鮮さを忘れてしまっていた。
今の貴美の純白さは、その時の優里と重なる部分があるように思う。
「そうだな。俺も優里と一つになった時はそんな感覚だったかもしれない」
「……やだ」
「んえ?」
寄り添っていた体を離した貴美の勢いに驚き、智明の思考が現実に引き戻される。
「ど、どうかした?」
「わ、私はマコトが好き、なのだ。だからといってみだりに求めあったことを口にしてしまったのが、恥ずかしい。今のは聞かなかったことにして欲しい……」
そこまで言われてようやく智明も気付く。
貴美の語った『血の繋がり命の繋がり』が男女の交わりを指していた、と。
「おお、おお。うん。それはお互い様じゃん。だって昨夜は貴美さんが俺らのことを見てたんだし――」
言ってしまってから智明も慌ててしまう。
さんざん貴美のことを『純白』だと尊びながら、貴美の女性的な部分を思い出してしまったから。
雨に濡れた
「あれは、事故なのだ」
「そ、そうだよね。ゴメン」
優里とともに上昇した満天の星空の中で、その世界のことを貴美は『真理』と説明していた。そこから戻った智明も『意識の混信』と捉え、複数人の意識や精神が同じ空間や世界へ集まってしまったのは正しく『事故』なのだろうと納得する。
「……ユリ殿を怒らせるつもりは、なかったのだ」
「うん?」
背筋を伸ばして座っていた貴美の頭が、うなだれるように下を向いたので智明も体を起こした。
「どういうこと?」
「……うん。
先程、トモアキ殿が言われたように、私はユリ殿にマコトから連れ戻すように頼まれたことを伝え申した。
だが、すげなく断られてしまった。
その時に私の中にどす黒いものが沸き立った気がした。マコトのことも、私のことも拒まれた気がして、怒りとも憎しみとも知れぬものが溢れたように思う。
マコトがユリ殿のことをどのように思っているか、ユリ殿は分かっているであろうに、『今更だ』と拒まれてはマコトが可哀そうに思えて……。
気が付いた時にはユリ殿に気弾をぶつけてしまっていたのだ」
後悔の念があるからか、罪悪の気持ちに苛まれているからか、上体をぐらつかせる貴美の背中を手で支えてやる。
「……そんなやり取りがあったから、リリーが攻撃を浴びせたって感じか」
「私が悪いのだ。ユリ殿の気持ちにまで気が回らなんだ。私が怪我をしたのは、私のせい……」
優里と貴美。どちらの気持ちも想像できてしまった智明からすれば、今の貴美の状態がいたたまれない。
どちらにも咎はあるが、どちらかが悪いという話ではない。単純な気持ちのすれ違いがあっただけで、どちらも悪くない。
「そんなことはないよ。貴美さんに怪我をさせたのはリリーなんだから、貴美さんのせいってことはない。
ただ、こんな言い方は良くないかもしれないけど、真とリリーの間で好きとか嫌いってやり取りがあったみたいなんだよね。
その結果を踏まえずに真が連れ戻すだ何だの頼み事をしてることがおかしいんだよ」
「それは、トモアキ殿とユリ殿のやり取りをマコトが知らないから……」
智明にもたれかかるようにして顔を上げた貴美の目には、また涙が溜まっている。
「そうだね。リリーが、真と貴美さんのやり取りを知らないのと一緒だよ」
「そうか。……そういうことなのか」
智明の腕にもたれるようにしていた貴美の頭が、智明の胸へ滑るように落ちたので、抱き止めるように受ける。
「私は、私がマコトのことを好きだということを隠したまま、ユリ殿に失礼なことを言ってしまっていたな……」
智明の足に手を延べて体を支える貴美だが、甘えるように智明に体重を預けたので、智明は背もたれへとゆっくり倒れてやる。
「それ、リリーは気付いたんじゃないかな。だから余計に意固地になって反発したのかも」
「まさか?」
よほど意外だったのか、貴美が智明の胸の上で態勢を変えて顔を向けてきた。
「うん。貴美さんは気を失ってたから覚えてないだろうけど、自衛隊が新宮の敷地に入り込もうかって時に、リリーが怪我した人の治癒をやったんだよ。その時、何百って人を一度に治癒したはずなのに、なんでか貴美さんだけは治癒されてなかったんだ」
貴美の体が滑り落ちないように両手で支えつつ、智明は続ける。
「俺が先に貴美さんに治癒を始めちゃったからかなって思ってたけど、どうやらちゃんと理由があったみたいだ」
智明の予想を聞き、その先を聞くべきか悩んだようで貴美の視線は少し揺れてそむけられた。
が、そっぽを向きながら貴美の口は開かれた。
「ど、どんな理由?」
「多分だけど、貴美さんが真のことを好きだって分かってヤキモチ妬いたのかなって」
「…………」
「でもそれは貴美さんも同じで、リリーにヤキモチ妬いてキツく当たってるんだなって。だからこんな感じになっちゃった気がするよ」
「…………そうか」
貴美は一言だけ呟いたが、それなりのショックを受けたのか智明の胸に顔を伏せてしまった。
「……貴美さん?」
智明の体の上に重なり動かなくなった貴美を案じて声をかけたが、貴美は小さく震えただけで返事をしない。
「大丈夫。大丈夫だよ。人間なんてみんな言葉足らずな生き物なんだから」
貴美の体を支えていた左手で貴美の背中を抱き、右手で貴美の髪の毛を撫でながら智明は言わずもがなの慰めを口にした。
「……私は、未熟だ……」
ハッキリと聞こえたのはそれだけで、貴美は小刻みに震え始め小さな嗚咽は明らかな泣き声になって智明の胸に伝わった。
「大丈夫。大丈夫」
優里の時と同様、貴美が泣き止むまで智明は待つことしか出来なかった。
旧南あわじ市八木にある
それでも入院患者の回診や院外の一部往診などもあるため、専属医のスケジュールは平日と変わらない忙しさがある。
中でも婦人科医
そのスケジュールの合間を縫って規則違反の患者を診るということは、無謀の一言に尽きた。
それでもこのような事態に関わった玲美の真意は、高橋智明に向けられる医学的な興味などではなく、だからといって
「……落ち着いたわね」
玲美は鬼頭優里の右腕に当てていた聴診器を片付けながら詰めていた息を吐き出し、傍らで点滴を掛けていた赤坂恭子を振り向いた。
「お疲れ様でした」
ゴシック調の私服の上に白衣を着た恭子が、ゆっくりと深いお辞儀をした。
「やめてちょうだい。電話の感じだとオペも必要なのかもってくらい陰気だったから心配したけれど、大したことがなくてホッとしてるのよ。赤坂さんにそんなにかしこまられちゃ私が困っちゃうわ」
恭子に微笑みかけながら器具を片付けていく玲美を、恭子も手伝い始めるがやはり表情は冴えない。
「でも、ご迷惑をかけているのは事実ですから」
「それは言わないで。この子の意識が戻ったら解決出来ることだって説明したじゃない。心配事をどんどん悪く考えてしまうのは、あなたの良くないところよ」
業務は真面目にこなし、患者に対してポジティブに接する恭子だが、こと自身の不安や心配事にはとめどなくネガティブになる傾向がある。
「すいません」
やはりトーンの低いままの恭子にもう一度微笑みかけ、玲美は片付け終わった器具をオフィスのデスクに置く。
玲美からすれば、規則違反は失職しかねない愚かな行為という認識はあっても、規則違反だからとすげなく拒むことも愚かだと考えてもいる。そもそも医療機関が診察を行う際、保険証の提示がなければ受診者の自著による連絡先で身元を立てるしかない。
そうであるならばこの少女に関しても、窓口を通さずに診察を行った便宜の持っていきようはあるのだ。
正しいことではないが、偽名や実在する住所と連絡先さえあれば、トラブルや疑いに対して玲美も被害者だと言い張ることができる。
そこに恭子の名前が出ないようにすることは不可能でも、罪というものは小さくしてやることもできるはずだ。
「こっちへいらっしゃい。一息つきましょう」
仮眠用のベッドに立ち尽くす恭子を応接セットへと誘い、玲美はお茶の用意をしに入り口脇の炊事場へ向かう。
「このあと夜勤なんでしょう? 少しの時間でも気を緩めないともたないわよ」
「……いえ、今夜はお休みにしていただきました」
用意したグラスに氷を入れペットボトルからお茶を注ぐ玲美に、少し間を開けてから恭子の返事が届く。
「……大丈夫なの? あの子のことよりあなたの仕事も大事でしょう?」
それほどに規則違反を気にしているのかと心配になりながら、玲美がグラスを運んでいくと、恭子はまだベッドのそばにいた。
「遠慮せずにお座りなさいな。点滴が終わるまで何も起こりはしないわ」
「はい。……ちょっと色々あって、今のメンタルでは仕事に集中できないと思って。……失礼します」
グラスをテーブルに置きさっさとソファーに腰掛けた玲美を見て、ようやく恭子もベッドから離れてソファーに腰掛けた。
「そう。あなたも大変なのね」
「それに、彼女のそばに誰か居ないといけないなと思いますし」
恭子の言い訳がましい言葉が気になったが、意識のない患者をこのまま玲美のオフィスに放置できないのは間違いない。
玲美は「助かるわ」と応じつつ、恭子にお茶を勧めて続ける。
「ただ、バイタルは正常値なのに驚くほど衰弱しているのが不思議だけれどね。勉強や運動で疲労しているにしても考えられないことよ。彼女がどうしてああなったのかは知っているの?」
うつむき加減の恭子に聞くことではないと思いつつ、目の前の問題から処理をしていく。
「いただきます。……そのあたり、実はあまりちゃんと経緯は聞けてないんです。目立った怪我もなかったし、バイタルも正常値でしたから。私もそれで戸惑っている部分はあります」
グラスを取ってお茶を含んだ恭子は少しだけ顔を上げて話してくれた。
「なるほどね。とりあえずは点滴が終わってからの血液検査次第というところかしら。さすがに脳卒中や脳神経の障害までは考えないけれど」
「まさか」
「今のところ可能性はないけれど、数時間は目が離せないわね」
「……そうですね」
恭子の呟くように小さな声を聞いて、玲美はふと別の可能性に思い至る。
「赤坂さん? もしかしてだけど彼女、鬼頭さんだっけ?」
「鬼頭優里です」
「ああ、優里ちゃんね。彼女、
この一事の如何で玲美の取るべき行動は大きく変わってくる。
医学的検知や症例のみならず、一般常識としてナノマシンによる脳の機械化は、未成年の発育に対して害があり異常を生みやすいとされ法律でも規制されている。そのために医療従事者が未成年者のH・B化を知った際は警察への通報が義務付けられている。
それは看護師である恭子も承知しているはずだ。
またそれに伴い、H・B化による異常が認められれば、その経過や状況をレポートする義務も負うことになる。仮眠用の簡易ベッドに寄せ集めの診察器具ではなく、専門的な医療機器が必要にもなる。
「それは大丈夫です! そんなの規則違反どころじゃないじゃないですか!」
「そう。そりゃあそうよね」
声を荒げた恭子にも驚いたが、それほど強い疑念で聞いたわけではない質問に対して、いつになく激しい恭子の反応にも驚いた。普段ならもう少し冗談めかした否定をするはずだ。
玲美はお茶を飲んで間を置き、チラリと部屋の外の様子を伺ってから声をひそめる。
「……赤坂さん? なにか悩み事か心配事でもあるの? 規則違反どうこうで滅入っているというよりは、少し様子が変よ?」
「あ! ……すいません」
玲美の問いかけに恭子は必要以上に恐縮して頭を下げた。
これはよほどのことだと感じて玲美は組んでいた足を下ろし、なるべく体を恭子の方へ寄せて小声で聞き直す。
「一人で溜め込んではダメよ? どうしようもないことでも口に出すことで和らぐことだってあるのだからね?」
ある意味で婦人科の診察でも使っている手法だが、足を組んでふんぞり返って質問するより、顔や体を寄せることで親身になっているように見せられる。看護師たちはこのやり方を『商業的』と批判するが、婦人科を受診する女性は身体面でも精神面でも余裕がないため、こうした見え見えの近さは必要なのだ。
ただ玲美に関しては、これを私生活で男に対して活用するので『あざとい』と言われてしまう。
玲美からすれば
「……ありがとうございます。ですが、ちょっと、話しにくいです」
「あら。私の悪口なのかしら」
「そうじゃないです。そこまで悪意や根暗な話じゃないです」
「そうよね。安心したわ」
微笑みを絶やさず冗談めかす玲美に、ようやく恭子は目を合わせてくれる。
「ほんと、つまんない話なんです。ただの恋愛相談になっちゃうから」
「いいじゃない。私なんてそんなチャンスもないのに。……ああ、そんな顔しないで。茶化してるわけじゃないのよ?」
眉をひそめた恭子に弁解しつつ、玲美の心には嫉妬とも羨望ともつかない気持ちがよぎる。恋の悩みで何も手につかなくなるなど、久しく体感していない。
鯨井との関係はすでにそういったステージでもない。
「……分かってます。
本当に、自分でも高校生みたいな悩み方をしているなって思うんですけど、続けるか別れるかの踏ん切りがつかなくて……」
「一応は交際中なのね?」
「…………正確には会ったその日に付き合おうよってなって、そのつもりで何度か会ったりはしたんですけど、途中からなんか噛み合わなくなっちゃったんです」
少し体を丸めるようにして話す恭子は、また顔をうつむかせる。
よくある話ね、と言ってしまうのは簡単なのだが、それでは恭子は納得できないだろうと玲美は黙る。
若い男女が出会い、瞬間的に心が動き、一気に高まった熱で一つに溶け合おうとする。
玲美にも経験のあることだ。
しかしそういった急激な熱は冷めるのも早く、ドロリと流れてうねる高温の熱が一気に冷え固まって音を立てて割れてしまう。
特に肉欲と愛情が区別できないうちは、そうした温度変化に苦しみ悩むものだ。
「……そうね。私にも経験あるわ。『この人の全てを受け入れよう』なんて思った瞬間に、些細な食い違いが許せなくなってしまったりね」
周囲の評判など気にしない玲美だが、この時ばかりは目の前の恭子の顔色を見ながら探っていく。わずかに自分の背中が針でつつかれているような錯覚は我慢しておく。
「そんな感じです」
「そっかぁ。……セックスは満足できたんでしょう?」
「んな、にゃあん!?」
ダイレクトな質問に恭子は飛び上がるように腰を浮かせ、言葉にならない声を出して両手をバタつかせる。
「若いもの。つきものよね」
「センセ! あの、ちょ、先生! いきなり聞きます、それ? ヤリましたけど、そっち優先とかじゃなくて、いや、やめてくださいね? やめてくださいね? 私のキャラじゃないんでバラさないでくださいね?」
意外に純なところを見せ、腰を浮かせたり落ち着けたりを繰り返しながら、手を胸や顔やソファーやテーブルを触ったりと慌てふためく恭子を、玲美は笑う。
医療関係者は世間一般に比べ命や性に近しいゆえか、性別の垣根は低く性表現が露骨であけすけな傾向がある。私的な会話でも隠語や比喩は用いられず、ダイレクトな表現やありのままの呼称を用いてしまうのだが、職場で常用する単語なのだから仕方ない部分もある。
ただ赤坂恭子はまだ若く玲美のように周囲を切り離せる年齢ではないためか、間違った印象を持たれることは避けたいようだ。
「言わないわよ。それこそ私はそこまで悪意持ってないわよ」
「そ、そうですよね。すみません」
「でもね、性交が原因じゃなければ残った理由って限られてくるじゃない? 噛み合わなくなるって、そういう原因しかないもの」
微笑みを消し、恭子のガードを解かせるように問いかけてみる。
「……真剣だって、言ってはくれるんです。でも、それが行動と合ってないように思っちゃうんです。今日だってそのことで言い合いになって……」
玲美は小首を傾げ、恭子からの連絡を思い返してみる。
「ああ、そうか。今日、優里ちゃんを運び込んでくれた男の子の中に彼氏がいるわけね。ええっと……ノリクンだっけ?」
『今日も言い合いになった』という一言からそこまでの想像は出来た。
午後二時に病院の関係者用駐車場に現れたワゴン車は、近隣のバイクショップの物だったが、恭子以外に四人の少年が同行していた。
ワゴン車を運転していた作業服姿の少年は初対面だったが、他の三人は高橋智明が暴れた直後に駐車場で恭子と一緒にいた少年たちで、同じ日の夕方に
「なんか、微妙に恥ずかしいですね」
「そお? ヤンチャしてそうだけど、友達思いっていいことじゃない」
金髪の少年ノリクンの風貌を思い返しながら、玲美は恭子に話の続きを促す。
「そうなんですけど、でもあれって彼の入ってるバイクチームの繋がりなんですよね。なんていうか、子供っぽいナントカ団みたいなノリがあって、仲間だけの秘密を守るみたいなのがあるんですよ?」
「あはは。まあ、そうね」
恭子の言い様に玲美は小さく笑う。俗に言う『秘密基地仲間』は少年期の男の子には多い関係性で、玲美も恭子のようにごっこ遊びの延長のような男の子のコミュニティを、理解できない集まりに見ていた時期はあった。
しかし結婚して子供を授かり、我が子が友達や仲間と関係性を築いていく姿を見て、感じ方や考え方は少し変わってきた。
男の子には、目標や夢の共有が強い関係性を築く増強剤であり、思い出やドラマの共有が何十年も続く強い結束を生む。
これに対して女子は、共闘や共謀のための派閥を作ったり、共通項でのみ集って協力し合う互助グループを持ちたがる。
こうしたグループからはみ出していた玲美には、和気あいあいとした集まりもそんなふうに見えてしまっていた。
しかし男子の『秘密』と女子の『秘密』とで、扱いの違いや関係性の変化を生んでしまう理由は、こうしたコミュニティの成り立ち方の違いからであろうとも思ってしまう。
だから恭子に問う。
「男同士の秘密がケンカの原因なのね?」
「いや、秘密って別にあっていいんですよ。
私だって彼に言ってないことや、言っちゃいけないことあるし、逆に聞きたくないことだってありますもん。
それで振り回されたら『何なん?』ってなりますけど、そっちのことは『好きにしてよ』なんです。
私だって付き合うなら真剣だし、そうじゃなきゃ抱かれないし、夜勤明けにデートなんかできないですよ。
でもノリクンが私にしてくれることって、男同士の秘密を分ける感じで、そんな共犯増やすみたいな愛情見せられたって、ハア?だし、なんにも楽しくないんです。
私は彼のことを好きだって思うし、付き合うんなら楽しくしたいし、秘密を分け合うより将来の事やこれからの時間をどう過ごすかを考えたいんです」
普段の太陽のように明るい恭子からは考えられないほど切なげな顔に、玲美はやはり羨ましさを覚える。
自分が彼女ほどに男のことで頭を一色にしていたことがあったろうかと考えてしまう。
「……真剣なのね」
「そりゃそうですよ。頭の中がノリクンのことでいっぱいになるくらい好きになったんですもん。なのに、ウキウキしてたいのに、なんか後ろ暗いことばっか言われるから楽しくないんです」
「そういうことね。赤坂さんはその気持ちをノリクンに伝えたのかしら?」
ようやく恭子の本音にたどり着けた気がしたので、玲美は相談を終わらせるように舵を切る。
「……秘密を共有するのが真剣さじゃないっていうのは言いましたけど」
目を泳がせて口ごもる恭子だが、玲美の言わんとすることは察したようで、手元は服のしわを直したり髪の毛を整えたりとせわしない。
「じゃあ、さっきみたいに伝えてみるといいと思うわ。男ってね、主導権とか決定権がいつも自分にあるって思ってて、恋人や女房を従わせて連れ歩いてるような勘違いをしてるものよ。女性の権利や立場が認められて一世紀が経とうとしてるのに、まだまだボス根性を捨てきれていない生き物なの。話がそれちゃうけど、トランスジェンダーで男性として暮らす人にもその傾向はあるし、欧米諸国の紳士にもそういう主義のようなものがあるわ。でもね、そこはもう人間にインプットされた基礎構造だって割り切ってしまって、個人と個人の交渉と契約ですよって訴えないといけないと思うの」
「個人の契約、ですか……」
恭子の恋愛観からかけ離れた言葉だったからか、理解し難い表情で恭子は玲美を見る。
「そうよ。人間の行動パターンや思考回路なんてある程度決まりきっているのに、千差万別の性格や個性があるでしょう? そこに自分の気持ちがあって、ぶつかったりすれ違ったり、好きとか嫌いとかってなるわけ。そういう違いを埋めたり縮めるってなったら、じゃあ、『私はこういう人です。こんなこと考えてます。こういうことがしたいです』って主張しちゃう方が伝わりやすいと思うの。それを相手が了解してくれるなら、契約成立でしょ」
持論を展開して言い切ってしまうと、玲美はお役御免とばかりにお茶を飲みソファーに背を預けた。
玲美の恋愛遍歴と結婚と離婚から形作られた持論は、恭子にはある種ドライでビジネス的なものに聞こえるかもしれないが、玲美にとっては感情の省かれた最も合理的な愛情表現だ。
迷いや悩みを生まず、自分と相手の欲するものを与え合い、そこから逸脱すれば別れにつながるだけ。感情が削がれているように見えて真剣な恋愛に見られないが、感情だけで盲信して失敗するよりは格段に幸福な時間を過ごせた経験がある。
――言葉選びが良くないのはご愛嬌、とはいかないかしら――
明らかな嫌悪を浮かべる恭子の顔を見て、玲美と恭子との経験の差や年齢の差に自嘲してしまう。
「……通じ合うとか、感じ合うっていうのではだめのんですか?」
絞り出すようにした恭子の問いに、玲美はなるほどと納得した。
「もちろん、それが一番良いと思うわ。けれど、そうではなかったから悩んでるんじゃない? だったら伝わらなかったことを伝えるしかないと思うわ。私に言えて彼に言えないなんてこともないでしょう? だったら言うべきだと私は思う」
玲美の言い様を拒絶しているのか、それともいくらか感じ入る部分があって納得しようとしているのか、恭子は視線を外して黙り込む。
「それに、彼の言い分を聞くためには赤坂さんの言い分を伝えなきゃって思う」
「…………分かりました。とにかく一度ゆっくり話してみます」
ようやく玲美の方へ向き直った恭子は、決して晴れやかとは言えないが笑顔を浮かべてくれた。
「それがいいわね。さて、それじゃぁ私は諸々の仕事を片付けて来るから、二時間ほどここに居てもらえるかしら?」
「あ! はい!」
玲美が足組みを解いて立ち上がり作り笑いを向けると、恭子も真面目な看護師の顔になってソファーから腰を上げた。
「何かあったら連絡をちょうだいね」
「はい、お疲れ様です! ……あ、あの!」
デスクに歩み寄りフォイルを取ってから入り口へと向かった玲美を、恭子が呼び止める。
「なあに?」
「相談に乗っていただいて、ありがとうございました。少し、楽になりました」
「あん、気にしないで。誰にだってある悩みだもの、他人に頼るのも生き方の一つよ」
玲美は、軽く頭を下げる恭子に笑顔を向けてやり、「また後でね」と声をかけてオフィスを出る。
――どんなに羨んでも、私は赤坂さんみたいにはなれないなぁ――
後悔とも失意ともつかない気持ちを呟き、男のことを一日中気にしたことのない半生を思い返す。純粋で情熱的な恋など、これまでなかったようにも思えて少し寂しくなる。
――今更宗旨替えとはいかないものね――
恭子の恋煩いを目の前で見てなお、鯨井にメールを送る自分を笑いつつ、播磨玲美は打ち合わせが行われる会議室へと歩き出した。
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