その日の夜
センターテーブルに紙片を一枚置き、智明は鼻の穴にティッシュペーパーを詰めたまま、ずっとその紙片を眺めていた。
真っ白な紙に薄い青の罫線が引かれたごくごく一般的なノート。
だがそこに描かれているのは、写真をイラスト風に写し取ったように生々しい優里のフルヌードだ。
精通していないといっても智明も年頃の男性であるから、女性の身体のどこにどんなものが配置されているかの知識はある。
それと照らし合わせてみると、何箇所かは真の願望や想像が加えられていると思えた。
優里には申し訳ないが、中学三年生にしてはナイスなスタイルだが優里のオッパイはここまで大きくない。
つい二時間前に智明の胸板に押し付けられたのだから、間違いない。
「なるほど。アイツ、オッパイ星人だったのか」
ひとまとめにオッパイ星人といっても、巨乳派と貧乳派に分かれるらしい。
「脚フェチの俺には踏み入れられない世界だな」
シャープペンシルで描かれた優里の脚をひたすらに眺めている。
しかしここで智明は失念しているが、脚フェチにも細足派とムッチリ派があり、更に長足部門と短足部門がある。
「あ、ヤベッ」
さっきまで収まっていた鼻血が、紙片に描かれた優里の唇を見ただけでまた吹き出した。
慌てて詰めていたティッシュペーパーをゴミ箱に捨て、新しいティッシュペーパーを掴み取って鼻の穴に押し込む。
「なんでまたみんなして俺にエロい攻撃を仕掛けてくるんだ?」
ボヤきながらもセンターテーブルに置きっぱなしの紙片が汚れなかったかを確認し、スマートフォンで撮影して紙片は本棚の隅っこのアルバムの隙間に挟んで隠しておく。
「ふう……。オカンはまだ帰ってないな? 親父はどうせ酒食らってるだろうから朝まで帰ってこないだろ」
家族の行動パターンを思い出しながら一応自宅を一通り見回り、確証を得てから自室でタバコに火を着けた。
――結局、リリーは何をしに来たんだろう――
真と微妙なやり取りをしたことを相談しに来たのだろうか?
真にしたことと同じことを自分にもして、反応の違いを確かめたかったのだろうか?
本格的な受験勉強を迎える前に、それぞれの志望校を知りたかったのだろうか?
誰が誰を好きで、誰に好かれているかを知りたかったのだろうか?
まさか、なにか家族と問題が発生したのだろうか?
それとも――
「! かゆっ! 何だこれ? テテテテテッ! かっゆっ!」
考え事をしている最中に突然智明の股間が痒くなり始めた。
少し熱と痛みがあるような我慢できない痒さに、智明は思わず服を脱ぎ捨てて下半身を丸出しにした。
「な、なん? いてて……。なんかボロボロ皮がめくれてくんだけど!」
痒みが堪えきれず自分で状況説明してしまってからはたと気付く。
――これがムケルってやつか!――
性器全体に垢が浮いたみたいな黒いカスがまとわりついている。
真から散々に聞かされた対処法を思い出し、痒みに耐えながらティッシュペーパーを数枚床に敷いて、手元に丸めたティッシュペーパーを準備していざムキにかかる。
爪でボリボリと引っ掻きたいのを我慢しながら、丸めたティッシュペーパーで遺跡発掘のように表面の垢だけを取り去っていく。
「さっきより痒いのはマシだけど、なんか違和感あるな……」
例えるなら、剥がれかけのカサブタを無理にこそぎ落とした時のようなヒリツキがある。
「おっとっとっ!」
灰皿に放り込んだはずのタバコがセンターテーブルに転がっていたのを見つけて、慌てて拾って火を消す。
親の居ぬ間に中学生がタバコの不始末でボヤ騒ぎを起こしたとか、取り返しがつかない事態になる。
「下半身裸で俺は何をやっとるんだ」
思わず声に出してしまわなければ不格好すぎて笑い話にもならない。
智明は小さくため息を逃してから部屋を換気し、タバコが消えていることをもう一度確かめてからバスタオルを持って風呂場に向かった。
タバコの不始末で冷や汗をかいたことと、性器のヒリツキを払拭するためにシャワーを浴びようと思ったのだ。
お湯を熱めに設定して何も考えずに頭と体を洗う。
「うお?」
右手が股間に差し掛かった瞬間、今まで勃ち上がることのなかったイチモツが、雄々しく荒ぶる様とその存在感を誇示している。
別段スケベなことを考えていたわけではないが、感動と興奮のせいか動悸と脈が早くなっているのを感じる。
「えっと、どうだっけな……。こうだっけ?」
バスルームの床にあぐらをかいて座り込み、真に教わった通りにやってみる。
最初の何度かは痛みが走ったが、加減をしてやると電流が背筋を這い登るような震えが駆け抜けていった。
これまた真の教えの通りに、目を閉じて記憶の中の記念写真を呼び起こす。
「リリー。……優里……」
愛称ではなくちゃんと名前を口にしてみた。
しばらくして、充填され込み上がってきたものが、爆発とも破裂ともいえない勢いで飛散し、半信半疑で前のめりだった上半身は伸び上がって仰け反るほどに力んで、出し切るとともに弛緩した。
「おお。……お、おお!」
シャワーに紛れずに流されていく粘液をしばらく呆然と眺めていると、妙な感動と達成感に満たされて意味のない声を上げていた。
脱衣所で体を拭き、なんだか体が軽くなったような高揚感とともに智明は自室へと戻った。
「よお! 風呂だったのか」
「……ああ」
部屋に入った瞬間に真と目が合い、軽やかに挨拶してきたが、特に腹は立たない。
智明の家にいつの間にか真が入り込んでいるのはしょっちゅうなのだ。
智明の家族も、食事中に真が黙って通り過ぎても何とも思っていないようだし、智明にも真にも何も言って来ない。
「部活終わったのか?」
「おお。てかもう九時だぞ? 終わってなかったら勝手に切り上げてやる時間だ」
大変に不真面目だが実に真らしい。
「晩飯、食ったか?」
今度は真から智明に聞いてきた。
「まだだ。オカンは最近、俺の飯を作ることをやめたみたいだな」
「ははは。うちなんか中学なってから一回も作りゃしねーよ」
――そりゃ、お前の素行が悪いからだ――
智明は苦笑いを浮かべながらこっそり思っておく。
とりあえずパンツと服を着た智明は、真と一緒にタバコをふかす。
「さっきついにムケタぞ」
言い出すか迷ったが、真のお陰で無事に成し得たのを思い出し、智明は正直にあらましを伝えた。
「やったな! ちょ、どんな感じだよ? 見せろよ」
「バカ。ネタも無しに勃たないって言ってんのはお前だろが」
「ムケたてがナマ言うな! あ、でもあれだな。良いのがあるぞ。ちょっと待てよ?」
言い置いて、真はうつむき加減で目を半分閉じて右手の人差し指をヒョコヒョコ動かす。
傍目にはおかしな動作に見えるが、智明はそれが
「おい、リリーの
先んじて真に言っておく。
変な勘繰りをさせて数時間前のやり取りを公表しなければならないような事態は今は避けたいと思ったからだ。
「ちゃうちゃう。現国のミシエル・キッスィのヤバモノが回ってきたんだよ」
言いざまに真が目をパッチリ開くと、智明のスマホにメールが届いた。
「動画かよ?」
「ホレ、パンツ脱いでから再生しろよ。見ててやるから」
友人の性器が勃起する様を見たがる意味が分からなかったが、とりあえず智明は真の言う通りにする。
三年生の現代国語を教えているミシエル・キッスィは、イギリス人と日本人のハーフで、二十代半ばの比較的若い女性教師だ。顔立ちは普通だが小洒落た髪型と艶っぽいメイクが少年達の視線を集めている。オッパイは大きくないが、細身の長身でスラッと長い脚は小尻とのバランスが良く、キュロットスカートやタイトミニにナチュラルパンストを合わせてくるなど、虜になっている少年達は多い。
「これでいいか?」
「おう」
真の了解を得てから智明は動画を再生する。
どうやら帰りのホームルームを隠し撮りしたようで、画面の真ん中に小さくミシエル先生が映っている。
ホームルームが終わったのか、生徒達が立ち上がって思い思いに動く中、カメラはミシエル先生に寄っていき何事か話しかけているようだ。
チョコチョコ顔が映るのだが、隠し撮りがバレないようにアングルはフラフラと移り変わり、顔や胸や手など様々なミシエル先生のパーツを映していく。
ここでミシエル先生の手にしていたタブレットが映り込み、どうやら海外アーティストの事を話していると想像させる。
カメラは上手くミシエル先生を誘導して前屈みにさせて胸元を写したり、タブレットに視線が向いているスキにスカートの中を映したりしていく。
「うお!」
智明も未知の領域であるスカートの中に興味が湧いて自身で画像を検索したり、真から回してもらったりして同様の隠し撮りは見たことがあったが、知っている人の生々しい動画は初めて見た。
隠し撮りは尚も続き、ミシエル先生を教壇の段差に腰掛けさせてアチラコチラから撮り続け、撮影方法が想像できない超接写も成功させていた。
「……どうやったらこんなもんが存在するんだよ……」
激しい動悸と興奮の中、智明はそれだけを言った。
「むう……。俺よりデカイじゃないか」
やや悔しげに唸った真は、続ける。
「もう出したか?」
「うあ? ああ、さっき風呂でな」
「そうか。いっぱい擦っとけよ? デカイと慣れないうちは早いからな。あんまり早いと女子は物足りないらしいぞ」
知ったふうに教えてくる真だが、語尾に『らしい』が付いたので、真の実体験ではないのだなと理解し、安心した。
所詮、自分達はまだ中学生で、まだまだセックスには縁遠い事を自覚しているし、情報は常にネットや先達からのお下がりか又聞きしかないのだ。
それでも幼馴染みに先を越されたくない気持ちが、智明にも少しある。
「そうか。覚えとくわ。……もうパンツ履いていいか?」
「ああ。けど、その動画の見返りがまだだぞ?」
こういうところはちゃっかりした男だ。
「真が送りつけてきたんだろ。てか、ムケタ祝儀でコレはタダにするのが普通じゃないか?」
「……智明も大人になって口が上手くなったな。チッ、それはタダでくれてやる。思う存分出してくれ」
「お? おお。あんがと」
まさか自分の言い分が通ると思わなかったので、智明は困惑しつつ一応礼は言っておいた。
「はあ……。腹減らね?」
「減ったけどよ、このまま放置なのか?」
智明はズボンを押し上げるイチモツを指差す。
「俺はそっちの趣味はねーよ」
「俺もねーよ」
真も智明も真顔でしばし無言で見合う。
「じゃあ、出すか収めるかすればいいだろ」
「もういいや。……どこで何食う?」
「九時、半か。……
「あ、なんか久々に聞いたな。おでんとかお好み焼きとかの、あの店だろ?」
湊は真の地元で、智明の地元から西に向かい、優里の地元を通り抜けた先が湊だ。
小学生時代の智明達が一番遊び回っていた地域で、『くにちゃん』は昼は子供向けの鉄板焼きや粉物料理やおでんを売りにし、夜は大人向けに鉄板焼きとおでんと酒に加えて一品料理も売りにしている食べ物屋さんだ。
「そうそう。前に行ったのいつだっけ? 三月だっけ?」
「だな。進級祝いでブタ玉おごってもらったぞ」
「そうだったそうだった。ただなぁ、『くにちゃん』は酒だけは出してくんないんだよな。タバコはスルーなのに」
「当たり前だろ。俺らに酒飲ましてて補導されてみろ。『くにちゃん』潰れちゃうぞ」
智明の言うように、未成年者と分かっているのに酒を提供したり売ったりすると、未成年者の補導だけでなく提供した店にも刑罰が下る。
たった一回の警察沙汰で潰れかねないほど『くにちゃん』は小さな店で、一度評判が下がってしまったら二度と立て直せそうにない店構えなのだ。
「それは困るから酒は我慢するか」
「そもそも酒を旨いと思ったことないけどな」
「違いない」
笑いながら立ち上がった真を追うように、智明もタバコをもみ消して立ち上がる。
とても健全な中学生の会話ではないが、大人ぶってみたり大人の真似事をしたりと、少年達の興味や好奇心は抑圧されれば過剰に膨らむのかもしれない。
智明も真もこの歳になるまでに酒とタバコを味見しているし、インターネットで異性のヌードや性交の様子なども目にしている。
バイクの操作方法も調べて知っているし、『警察に無免許だと思わせない振る舞い』なども事前に頭に入れてある。あとは使われていない親のバイクを乗り回すだけだ。
「すまん。他所のチャリに埋もれてて時間かかった」
「いいよ。おい、アゴヒモ緩いぞ」
「ああ、直す直す。さっきチャリどけてる時に引っかかって伸びたんだよ」
「捕まりたくないからな。安全運転で頼むぞ」
「ああ」
マンションの駐輪場から通りに出たところでモタモタしたくはないのだが、近所の住人の目よりも、運転中に遭遇する警察の目を気にするのは、真が小ズルイ割りに慎重すぎる性格だからかもしれない。
真のそういった部分が智明に良い影響を与えつつ、中学生の身の丈を越えた『おこぼれ』を回してくるあたり、智明に悪い影響も及ぼしていると言える。
あれやこれやにおいて真に追従している格好の智明は、真とつるんでいるからこそ沢山の経験をさせてもらえている反面、真が居なければタバコや無免許運転などの違法行為を犯すことはなかっただろうと思っている。
法定速度と車線を気にしながら、智明にハンドサインをしてからウインカーを点滅させる真を追いかけつつ、適正な車間距離できっちり真の走行ラインをトレースしていく智明。
ビジネス街の端っこで賃貸や分譲マンションが多い地区とはいえ、平日の午後十時頃にしては道路は空いている方で、運転経験の浅い智明にも走りやすい。
「あれ? あ、そっちか」
交差点もスムーズに通過し、十分も走ったところで前を走る真がハンドサインをした後に減速しながら左折した。
目的地である『くにちゃん』とは反対方向に曲がったので智明は訝しんだが、恐らく真の自宅近くにバイクを停めるためだろうと推測して、智明も減速しながら細めの路地へ入っていく。
人が歩くより少し早い程度で路地をいくつか曲がり、庭付きの一戸建ての前にバイクを停めた。
予想通り真の自宅だ。
「安定してきたな」
「そうか? 真が前走っててくれるのをついてってるだけだぞ」
「いや、そこじゃなくてな。交差点を曲がる時も加速も減速もモタモタしなくなったし、さっきみたいに低速で路地走っても足つかなくなったろ」
「ああ、まあな」
智明を褒めながら門を開け、バイクを庭に押し入れる真に習って、智明もスタンドを跳ね上げてバイクを押す。
真がこんなに智明を手放しで褒めたり賛えることは珍しく、智明としては嬉しい反面答えにくくもある。
「よしっと。ここなら駐禁も切られないだろうし、盗まれたりしないだろ。メットは玄関に放り込むからこっちにもらうわ」
「お前んち、バイク乗ってるの公認なのか?」
「んなわけあるかよ。近所迷惑だけはやめてくれって言われてる」
なるほど、だから路地に入ってからはゆっくり走ったのかと納得出来た。
真の父親は公務員だが、若い頃はそれなりにヤンチャしたクチらしく、智明が泊まり込んでも迷惑がったり説教臭いことも言われたことがない。
「ほれ、そっちだ」
玄関に二人の被っていたヘルメットを放り込むと、真は智明を街灯もない暗い路地へと誘導する。
「おばちゃん、二人だけど空いてる?」
「やあ、マコちゃんやん! トモくんも一緒かいな! 奥のテーブルでよかったぁあいとんで」
「どもっす」
久々に聞いた『くにちゃん』店主のおばちゃんの淡路弁と独特な声に、懐かしさとか思い出とかが湧いてきて、智明は少し他人行儀になる。
そんな智明の情動の横で、席に座る前に真っ先におでんの鍋を覗きに行った真を叱る。
「鍋見過ぎ。先、座ってるぞ」
「ああ。……おばちゃん、ジャガイモないの?」
「ごめんやで。今日は客入り少ない思たよってん、ジャガイモほとばぁしか作らんかったんじょれ。ほやさかい売り切れなんよ」
「そっかぁ。んじゃ何個かおまかせで盛ってもらっていい?」
「はいはぁい」
ちょっと小学生ノリの真は冷蔵ケースからコーラを二本持ち出してからテーブルにつく。
「俺、後でブタ玉ー」
「俺はスジコン」
真がおでんを覗いている間に智明はメニューを決めていて、おばちゃんがおでんを持ってくるタイミングで告げた。すぐさま自分の注文を付け加えるあたり、真は普段から一人でも食べに来ているようだ。
「はいはい。ブタ玉とスジコンね。マコちゃん、大根の葉っぱの漬けモンあんで」
「あ、もらう!」
まるで親戚のおばちゃんの家に来たような会話で注文を済ませる。
「うい、カンパーイ」
「あいあい」
ペットボトルのキャップを外して大人の真似事のように軽く打ち合わせ、喉を鳴らしてコーラを煽る。
「ぷは! ああ! 生き返る!」
「何気に今日は暑かったもんな」
「確かに確かに。最近変な雨の降り方だから、いっつも湿気てるというか、ムシムシするよな」
「うん。なんか去年も東な方でで洪水とかなかったっけ?」
「ああ、あったな。……地方だったよな? どこだっけ……。新都から遠かったよな?」
おでんをつつきながら中学生らしくない話題でコーラを煽る二人。
「去年あったんは三重の方やわ。東いうほど関東ちゃうし、おまはんら、ちゃんと学校で勉強しょるんけ? ニュース見よっけ?」
大根の葉っぱの漬物をテーブルに置きながら、おばちゃんは智明と真の常識を疑う目で見てくる。
「ちゃんと行ってるってば」
「行ってるだけに近いけどね」
「なんじゃほりゃ。あれやど? アワジも新都や言うて、リニア走って、議事堂建って、もう何年かで天皇さん引っ越してくる言うんやさかい、ちゃんと勉強せんと落ちこぼれるで。あの子、なんちゅうたか、ユリちゃんはどないしょん? あの子、賢いさかい勉強見てもらいよ」
「優里は親がエリートだからな。うちみたいな一般公務員とは違うもん」
「右に同じ。うちも工場の中間管理職だからなー」
おばちゃんは結構な温度で心配してくれていたようで、智明と真の返事に呆れてしまい、ため息を一つつく。
「まあ、学校行くだけ真面目なんかの。お好み焼き、今から焼くよってんほとばぁ待っちょってよ」
智明は少し寂しそうに鉄板の方へ戻っていくおばちゃんに気の毒なことをしたかなと思ったが、真がニヤニヤと笑いかけてくるので気にしないことにした。
二十一世紀中頃、令和も三十年を過ぎ天皇陛下のお年とそれに伴う体調悪化が懸念され始め、二代続いての退位のご意思を示された。これを受けかねてよりあった次代天皇の即位問題が皇室及び宮内庁と関係各所で急ぎ検討された。この渦中に一石を投じたのが時の内閣総理大臣で、次代天皇のご即位に合わせ遷都を提言。元より豪腕が売りの首相であったが、経済や流通・交通などを全て度外視した暴論に、国会も世論も荒れに荒れた。しかし次代天皇が決定しご即位された際、ご即位の礼にて遷都を容認するお言葉を示された。
これを機に弾劾寸前まで追い込まれていた首相は勢いを盛り返し、遷都先の選定とそれにかかる予算の確保、更に交通の整備と法案の制定を行っていった。
様々な噂や憶測が日本中で囁かれたが、決まってしまえば年月と共に事は進むもので、瀬戸内海に浮かぶ最大の島・淡路島が遷都先として決定した。
これには交通網の開発における経済効果の見込みが大きく、かねてよりあった中央リニア線と四国新幹線を関西国際空港・和歌山・淡路島を経由して大分まで結ぼうとする案と、中央リニア線を神戸経由で山陽地域を横断させ福岡まで延伸しゆくゆくは九州を環状に延伸する案とを、このタイミングで推し進めてしまおういうものだ。
関西以西の各県は開発だ再生だと喜んだのだが、兵庫県に限っては淡路島と沼島が都となって切り取られる形になり、両手を挙げて喜べない微妙な立ち位置となった。
諸々が定まり、紀淡海峡を挟んで和歌山県側から島伝いにリニアモーターカーのレール建設が始まり、淡路島の山間部ではトンネルの掘削が始まった。
旧南あわじ市八木から旧洲本市中条にリニア駅の建設も進み、旧洲本市五色町上堺に新国会議事堂と関係省庁・議員会館も整備され始める。
島内の交通網として、洲本平野から三原平野へ横断する地下鉄を通し、阿万から一宮まで縦断する鉄道にも着手した。
肝心の今上天皇居所は、諭鶴羽山西端の中腹に建設されることが決まった。
遷都が決定してから十年でようやく形が見え始めた新都に、企業や法人も移転を始め、旧五色町は田園調布や芦屋もかくやという高級住宅街へと変化していき、洲本港周辺から三原平野はマンションや住宅の建設ラッシュを迎える。
ただ、今上天皇居所が建設される関係上、由良・灘・阿万の諭鶴羽山地周辺に関しては保護区とされ、開発はおろか関係者以外の立ち入りが制限された。
諸々整い始めた五年前、
今上天皇がご即位されてから四十年が経ってようやくの遷都がなる。
「てかさ、遷都とか天皇とかで盛り上がるのはいいんだけど、その前に世紀末だろ。来年はもう二十二世紀だぞ」
「ニ年後な。二一〇一年からが二十二世紀な。リリーが言ってたから間違いないぞ」
「マジか。てか、おばちゃんも新世紀になるんだからそろそろ淡路弁直したら? そろそろ淡路弁分かる人減ってきてんじゃない?」
ブタ玉とスジコンを運んできたおばちゃんは、真の提案に顔をしかめた。
「ダァホ。じきに淡路弁が標準語になんねさかい、おまはんらこそ淡路弁習うたらええんが。おばちゃんがおせたろか?」
「そんな怒んなくていいじゃん」
「……また今度にしょうわ。おら腹減っとっさかい、先、お好み食てまいたい」
思い出しながら智明が淡路弁で話すと、おばちゃんと真は意外だったのか、口を開けっ放しにして停止した。
「あれ? まっちゃえとったけ?」
「……トモくんの方が賢いのぅ。もう二カ国語しゃべれるねーかれ」
先に現実に戻ってきたおばちゃんは、楽しそうに笑いながら鉄板の横の定位置へ戻っていった。
「……おばちゃん、自分で二カ国語言うてるぞ。てかお前、どこでそれ覚えたんだ?」
「うちは父親が関東なんだけど、会社が新都に移るってんでこっちに来たクチらしい。んで母親と出会って結婚して俺が産まれたらしいぞ」
「へえ。そうなのか。その割には小学校で淡路弁使ってなかったよな?」
智明が初めて明かす話に真はちょっと驚いている。対して智明は家庭のことを明かすので少し気恥ずかしい。
「なんかな、新都になるからって体裁を気にして、あえて標準語っぽく育てたらしいぞ。それでもジイチャンバアチャンとか、近所の淡路弁の人とは淡路弁使ってるわけだから、俺もちょっとは話せる感じなだけだな」
話しながらブタ玉を切り分け終わったので、一個すくい上げてフーフーして口に運ぶ。
真はちょっと感心した感じで、スジコンを切り分け始めながら智明を褒める。
「それはそれでカッケーよ。来年あたり流行るかもしれないから、今度教えてくれよ」
「あんな汚い訛りが流行るかよ。つか、長時間はしんどいって」
「分からんぞ? 流行りに理由なんか無いからな。……アチチッ」
「……そんなもんかねぇ」
真にコーラを手渡してやりながら智明は別のことを考える。
ここ数年の母親の冷たい態度は、自分の行いだけが原因ではないだろうとは思う。淡路弁を『汚い訛り』と思ってしまうのも、耳に入る語感と母親の態度だけではないとも思う。が、方言で怒鳴られたり罵られたりするよりも、聞こえるか聞こえないかの囁きで突き放される方がショックは大きい。
ふと、夕方に優里がもらした一言が脳裏をよぎった。
『家のこととかでストレスがある』
そんなようなことを言っていた。
あんなに綺麗に自分のリズムで関西弁を話す優里に、家庭の問題があるとは思えないし思いたくない。
あの場で聞けなかったことを今更になって後悔してしまう。
「あ、なあ。真はリリーのこと、どう思う?」
「どうも何も、頭いいし家は金持ちだし、友達も多いし。羨ましいことだらけだぞ」
「友達の多さじゃお前も変わらないだろ。家だって貧乏じゃないし。そうじゃなくて、女としてというか、なんていうか、好きとかそっちの話だよ」
思い切って聞いた智明に対して、真は口に運びかけたヘラを宙ぶらりんに止めて智明を見る。
「なんだよ? なんかあったのか?」
「何もないけど……」
「その感じはなんかあるだろ。アレか、ムケタ早々に優里に勃ったのか? 恋しちゃったのか?」
「お、お、俺のことはいいだろ。真がリリーのことをどう思ってるか気になっただけだよ」
智明は初めての自慰行為を覗かれていたような恥ずかしさを誤魔化しながら、それでも真の気持ちを聞き出すことにこだわる。
「……頭いいし、可愛いし、愛想もいいんだ。嫌いなわけないだろ。付き合うとかヤルとか想像はしても、そういう事にはならんだろうけどな」
智明から視線を外して独り言のように言ってから、真はヘラに乗ったままだったスジコンを頬張る。
「そうか。そうだよな」
「そうだよ。……お前もだろ?」
「……そうだよ」
智明は本心を晒すべきか一瞬迷ったが、真の語ってくれた本音を無下にしてはいけないと思い、正直に答えた。
「だよな。優里は賢い学校に行くみたいだし、そうなったら顔が良くて頭いいやつとか、スポーツのすごいやつと出会うだろ。したら、俺らなんか太刀打ちできないだろうしな。しょうがねーよな」
智明が優里の恋人になる自信がないように、真もまた優里には相応しくないと思っているようだ。
「お前は、優里を追いかけられるだろ。ハベってんだし」
「アホ。良い学校はそういうズルに厳しいんだよ。第一、俺の内申はすこぶる悪い。どのみち無理だよ」
よくそんなこと知ってるなと思いつつ、智明は優里との会話を思い出して、言葉を紡ぐ。
「話変わるけど、リリーがお前のこと気にしてたぞ」
「は? なんで?」
「法律破ってハベってんじゃないかって」
「…………言ったのか?」
「バラすわけないだろ。そこははぐらかしたよ」
「そうか。すまん」
「それで、スマホ使わなすぎだと怪しまれるよって。気をつけろって、心配してた」
「なるほど。さすがだな」
真は一瞬体をビクリとさせるほど驚いてから、すぐに納得し、残っていたコーラを一気に飲み干した。
「…………なんか青春だな、オイ」
「そ、そうなのか?」
やたらに明るく振る舞いだした真に、智明は気後れを感じる。
「そうだろ。女のこと話したり、意味なくモヤモヤするのは青春だろ」
「また誰かの入れ知恵だな、それは」
「お好み食ったらアワイチ行こうぜ」
「今からか?」
智明の肩を強めに叩いてきた真に、一応聞き返す。
アワイチとは、淡路島一周を指す言葉で、スポーツバイシクルでのサイクリングや、中型バイクのツーリングのルートとして近畿地方で定着したものの一つだ。
真が親に隠れて勝手に乗り回しているバイクは400ccの比較的パワーのあるバイクだが、智明の家のバイクは125cc なので非力でスピードも出ない。
アワイチはバイクなら四時間もかからないが、すでに午後十一時に近い。
「今だから、だよ」
尻込みする智明に、真は楽しそうに言い放ち、おばちゃんにコーラを注文した。
いつも真の勢いやノリに振り回される感のある智明だが、本当にやりたくないことはちゃんと拒否するし、真もつまらなそうに機嫌を損ねるが、納得もしてくれる。
真も、優里や自分のように鬱屈したものや溜め込んだものがあるのだとすれば、自分が付き合えることはやってやろうと思う。
「ま、お前が行くならついてってやるかな」
多少熱っぽさを感じたが、智明はもう一度真のコーラとペットボトルを打ち合わせた。
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