譲り羽 ――ゆずりは――

P.a.g.h.

第一部 国産み編

三つの仔 

十五歳の日常

「――という研究がなされ、ナノマシンの実用化とともに、近代の情報処理の大改革ともいわれるH・Bハーヴェーへと到達するわけだ。ザックリと説明してきたが、ここまで問題ないか? ついてこれてるか?」

 巨大なモニターの前で教師は生徒達に問いかけたが、生徒からの返事はない。

 数秒だけ、窓の外に広がる青空のような静かな時間が流れた。

 別にこの歴史科目の教師が生徒達から嫌われているというわけではないが、二次性徴を迎え反抗期も始まる中学三年生にとって、淡々とした歴史の授業は退屈でならないだけだ。加えて、この教師が左手に構えたタブレット端末の陰で、仮想キーボードを叩く動作が特徴的で、余計に生徒から集中力を奪っていくのだ。

 二十一世紀中期に飛躍的に発達したナノマシン技術により、医療は革新的な発展を遂げ、人類は脳や臓器・筋肉・骨・神経や軟骨まで、患部という患部を自動的に切除し再構築したり補填するまでに至った。

 そこから更に神の領域に近付いたのが、先程歴史教師が説いたH・Bハーヴェーである。

 H・Bすなわちハードブレインとは、ナノマシンによって脳を電子機器化し、通信機能と記憶回路を付加させる技術で、言い換えればスマートフォンを脳内で作り上げて稼働させることを指す。

 これにより、二十一世紀初頭に確立された第六世代通信事業の超超高速通信及び大容量受信と、第七世代通信事業で実用された視覚野をスクリーンとするAR技術とが組み合わされ、第八世代通信事業の花形、機械化された脳内に大容量端末を携帯するH・Bへと至った。

 教師達が空中で指先を蠢かせる仮想キーボードも、H・Bによる脳のスマート化と視覚野をスクリーンとしたAR表示によってなし得たものだ。

 これまで通信端末で行っていた電話・メール・インターネット接続・データ保存・スケジュール管理等のアプリ操作が、すべて脳内または仮想キーボードで操作可能となった。

 しかし同時に大きな制限も発生する。

 その一つは、身体・臓器・大脳が成長しきらねばならないこと。成長過程にある体や臓器は、ナノマシンが機械化する際に臓器の機能停止や不全を招く恐れがあり、また脳からの神経信号が誤作動を起こしたり途絶して身体の麻痺や痙攣等を起こす恐れもあるためだ。

 実際に不幸な事故も起こっており、運転中のドライバーが突如下半身の麻痺に襲われ、暴走させてしまった自動車が歩行者ら十数人を巻き込む大事故を起こしてしまった。

 また、十代のうちに機械化を試みた少年が脳死状態に陥ってしまい、世界中で激しい非難と論争を生んだ。

 もう一つは、脳内でインターネットに接続できるということは、テストや受験でのカンニング等に悪用されたり、未成年者の育成にとって不適切な情報を遮断したり制限できなくなるのではないか? また、一見授業を受けているように見せて脳内ではゲームに明け暮れてしまうのではないか? という懸念が示唆された。

 この懸念に関しては、学校施設に防御装置ジャミングを張り巡らせ、インターネット通信を意図的に阻害し施設内を孤立ローカルネット化することで一応の対処がなった。

 これは副次的に教師間の連絡網や日程管理・職員会議の議事録作成・生徒情報の管理・勤怠の管理と評定などにも活用される運びとなり、大企業が社員の勤怠管理と評定に取り入れると共に顧客情報を独立機器スタンドアップで管理するなどの派生も生んだ。

 この二つの制限は世界的に統一された法律となり、成人に達さない者のH・B化は原則禁止ということになった。

 大人からすれば、未成年者の未来と社会の秩序を考えた至極真っ当な措置なのだが、生まれたままの脳を持つ少年達はそうは思わないのが、少年の少年たるところだろう。

 授業を受ける生徒達からすれば、欲して止まない最新技術の粋を、教師達がひけらかすように行使して見えるのだ。

『教育指導要項が表示されたタブレットを参照しながら、モニターに板書し、教鞭をとる』という姿を見せてはいるが、定年間際の老いぼれ教師以外はH・Bであることはとっくの昔に生徒達にバレている。

 このような見せびらかしと抑圧に耐え忍べるほど少年達は人間ができていない(だから親の保護のもとで養育され教育を受けているわけだが)

 だからといって学校や自宅で暴れたり、市街で犯罪を犯すような馬鹿をするほど愚かでもない。

 また人目を忍んで違反することに優越する楽しさも知っている。


「城ヶ崎! また落書きか?」

「うえ? ……うっす」

 いつの間にか近寄っていた教師に驚きつつ、現場を押さえられているので城ヶ崎真じょうがさきまことは仕方なく認めた。

「……上手に描けとっけど、それ以上描くと警察に逮捕されんぞ。退屈な授業か知らんけど、それでも今は授業中じゃ」

「さーせん」

 淡路弁の訛りの残った関西弁で注意する歴史科教師だったが、ニヘラニヘラと媚びた笑いを浮かべる城ヶ崎少年をしばらく見つめ、教師はため息とともに振り返って教壇へ戻り、また淡々と授業を再開する。

 しばらくしてチャイムがなり、教師の退室を待たずに教室は一気に騒々しくなる。

 女子生徒数人の噂話や愚痴、男子生徒達のおふざけや脈略のない嬌声があちこちで飛び交う。

「またオフラインアプリで洋物の模写コピーでもしてたのか?」

 真の背中をつつきながら声をかけたのは、彼の一つ後ろの席の高橋智明たかはしともあきだ。

「ちゃうちゃう。この前、新しいアプリ見つけたんだ。ホレ」

 真は振り向きながら智明に歴史のノートを手渡す。

「どれどれ。……んん? これ、KYか?」

 ノートいっぱいにシャープペンシルで描かれていたのは、椅子に腰掛けているであろう女子生徒の後ろ姿だ。

 モデルとなった本人に気取られないためにイニシャルで呼び合っている。

 椅子を廃して人物だけが描かれているので、一見すると空気椅子をしているように見えてしまい、すぐには分かりづらい。

 しかし0.6ミリのシャープペンシルは女子生徒の制服と肢体を見事に描ききり、ポニーテールにしている髪ゴムの飾りやソックスのワンポイントまで克明に描いているので、智明にはモデルが誰なのかすぐに判別できた。

 智明と真の席の右斜め前三メートル先に座る鬼頭優里きとうゆりの姿に間違いない。

「流石だな。授業中もずっと眺めてんのか?」

「んなアホな。しかし、なんでこんなものが書けるんだ?」

 智明がモデルを言い当てたことに真は感嘆しつつも下卑た想像を口にする。そんなものは彼らの間では日常的な会話に過ぎないので一蹴した。

 が、ノートに描かれているのは確かに優里の後ろ姿なのだが、下着と思われる書き足しがなされているので、その仕組みを理解できなかったので率直に問うた。

「へへん。このアプリはスクショしたモデルの服のわずかな陰影を補正して透視できるんだよ。そいつをいつもの模写アプリでチョイチョイチョイ!というわけさ。しかもオフラインで使えんだ。すごいだろ?」

「すげーな! やっぱハベっとくべきだよなぁ」

「バカ! 声がでけーよ」

「イッタ! ……悪い悪い」

 結構遠慮のない力で頭をシバかれたが、智明が真の秘密をうっかり口にした罰なのだから素直に謝った。

「それより、あのKYのセミヌードだぞ。色とか立体感はないけど、下着姿だ。どうだ? ムラムラきたか?」

「ムズムズはするけど、なんかいまいちだな」

「これでもダメなのか……。お前、不能なんじゃねーか?」

 真はいつも以上に手応えを感じていたようだが、智明があっさりと脈なしであることを告げたので、真は侮蔑の言葉をこぼした。

「ここまできたらそうかもしれん。すまんな」

 七月の誕生日を迎えると十五歳になる智明だが、未だに精通しておらず、朝立ちも勃起も未経験で、十三歳で男になった真から真剣に心配されている始末だ。

 だからといって授業中にクラスメイトのセミヌードを作成していいものではないのだが、智明を男にしてやろうと性描写を含んだ過激な動画や官能的なテキストを都合してくれる真に対して、智明は一方ならぬ感謝と謝罪の念を抱いてはいる。

 思えば智明と真の関わりは長く、小学校入学の頃からの付き合いで、ふざけ合ったり親身になってやったりと、幼馴染みとも親友とも呼べる間柄だ。

「――さっき何書いてたん?」

 突然の女子の声に真は飛び上がらんばかりに慌てる。

「うわっと! 優里、急に現れるなっていつも言ってるだろ。女はな、男同士の間に割って入っちゃいけないって決まってるんだからな!」

「古い考え方やね。今時、男の後ろを三歩下がって歩く女なんかおれへんで」

「リリー。いつものアレだから見ない方がいいよってことだよ」

 顔中で嫌悪を表す優里に対し、智明は愛称で呼びかけた。

 優里も真同様、智明と小学校入学時からの付き合いで、中学校に入って男女を意識するようになるまではよく三人セットで遊んでいたりもした。

 中学校ではずっと別のクラスだったのも手伝って、交流は途絶えていたのだが、三年生に上がって同じクラスになったことで、今のようにちょくちょく会話をすることがある。

「モアはジェントルメンやね、おおきに。コトのドスケベ!」

 優里は智明に笑顔で感謝したあと、真に向けて軽蔑の表情を作って去っていく。

「……可愛い顔してるのに、相変わらず口が汚いな」

「それだけ俺らと仲良くしてくれてるってことだよ」

 智明は真をやんわりとたしなめたが、実際のところ優里が他人のことを悪く言うことはなく、誰に対しても愛想良く丁寧に接する。

 そんな愛想の良さと優里のやや大人びた容姿も手伝って、学内には優里のファンは多く、男子からは恋愛の対象として見られ女子からは友達になりたい憧れの対象として見られている。

 反対に、優里の取り巻きとも言える生徒達からすれば、優里とふざけ合ったり罵り合ったり屈託ない笑顔を交わし合ったり出来る智明と真はある種別枠の存在に置かれていて、下級生からは羨望の眼差しを頂戴し、不良やオタクからは不思議と一目置かれていたりして、労せずして快適なスクールライフを賜っている。

「成績良くて、あの顔でこのスタイルだからな」

 言いながら真は智明に別の紙片をペラリと示す。

「わっ! おま、なんてもんを!」

 ビックリしすぎて声高になったことに気付き、慌てて口をつぐんで紙片を机の中へ突っ込む智明。

 ほんの数秒だが目に入った紙片には、いつどこでこんなポーズをしたのか定かではないが、足を開き膝を立てて座っている優里の姿がオールヌードで描かれていた。

 先程のセミヌードと同じアプリを使ったうえで、服のラインを消しゴムで消すことで、真正面からのオールヌードに仕上げたようだ。

「丸見えじゃねーか!」

「ムラムラするだろ? 家宝にして良いぞ」

 流石に声を落として動揺を訴える智明に、真は威張りくさって応じた。

 情報化の進んだこの時代、青少年の健全な育成を目指して、未成年者が性的に過激な画像や動画や書物を保有することは禁じられていて、その取り締まりと罰則はなかなかに厳しい。

 それでも抜け道があるのが社会というもので、売られている物を購入したりダウンロードしたりスクリーンショットで残せるし、真がやったようにアプリを使用して自ら作成することもできる。

 もちろん服を着た異性を無許可で撮影した挙げ句、ヌードをイメージして紙片に書き取り未成年者が保有することも違法だ。

「紙は処理に困るっつーの」

 興奮と動揺を押さえつつ真に恨み節を連ねるが、容姿に優れ朗らかな笑顔を向けてくれる女性のフルヌードを手に入れて迷惑なはずがない。

 ましてや好意を抱いていれば、真の両手を掴んで感謝し幾ばくかの金でも包もうかとさえ考えてしまう。

 思春期とはこういうものだろう。

「家に持って帰って画像に替えて保存しとけ。あとはシュレッダーで問題なしだ」

 イヤらしい笑顔を浮かべる真の悪知恵もまた思春期ゆえかもしれない。

「…………真君。ジュースが飲みたい時はいつでも言ってくれ。望みの品を一本、贈呈させてもらおうぞ」

「お! じゃあ早速昼飯の定食にコーラをつけてもらおうかな」

「お、おう。……ところで、お前もコレ、保存してるのか?」

「当たり前だろ。俺の持ってるアプリで描いたんだから、原画はココにある」

 変に爽やかな笑顔を見せながら真は自身のコメカミあたりを指さした。

「そりゃそうか」

 納得したような、落胆したような、複雑な気持ちで智明は机の中の紙片を手探りで確かめた。

 手に入れた喜びを再認識するとともに、少なくとも世界に二枚も存在することを残念に思った。

 もう一つ、智明にはどうしようもない悔しさがある。

 真はこの喜びを自慰によって個人的に達成せしめることができるのに対し、自分の性器は固く勃ち上がることさえできない。

 この違いは男として大きな差に感じ、教師達がひけらかすH・Bよりも羨ましく、智明の劣等感として心を妬いている。


 滞りなく時間割りを消化し、バスケット部の練習に向かう真を見送って、智明は帰宅するために靴を履き替えて校舎を出た。

 学校の予定を終えるまで三度、靴を履き替えたあと念の為にもう一度通学鞄にお宝が入っていることを確認した。

 校舎から校門へ向かう間に自転車通学の生徒達が智明を追い越していき、テニスコートとサッカーのコートに挟まれたアプローチをひた進む。

 登校時はさほどではないが、下校時はいつもバス通学じゃなく自転車通学にすべきだったと、三年生にして未だに後悔する。

 学区が選べるとはいえ、バス通学しなければならないほど遠い中学校を選んだ両親に、今更ながら腹が立つ。

「モア――!」

「……リリー?」

 校門を出て左に曲がりあと少しでバス停のある大通りというところで優里が走って追いかけてくる。

「はぁはぁ、一緒に、帰ろ」

「ああ、いいけど」

 小学生の時は真も交えてこういうやり取りは頻繁にあったが、中学生になってから優里と一緒に下校するのは初めてかもしれない。

 わずかな緊張とかすかな動揺がどっちつかずな言葉を吐き出させるのは、我ながらダサイと感じてしまう。

 そんな智明の後悔やジレンマなどお構いなしに、優里は他愛もない会話をとめどなく投げかけてくる。

 バス停に着いても優里は話しかけ楽しそうに笑い、智明に笑顔を向けてくる。

 そんな優里につられてか、バスに揺られる頃には智明からも話しかけ声を出して笑い、肩や腕が触れたりくっついても動揺はなくなっていた。

〈次は西路にしじ一丁目〉

 停車の案内が表示され、智明は楽園的な幸福の終了を知った。

「リリー、次だったよな」

「ううん。モアんちまで行くつもり」

「へ? うちまで? なんだよ、急に……」

 優里が答える前にバスが停車し、何人かが下車してドアが閉じられ、またバスは走り出した。

「……うち、暗なるまで誰もおらんねん」

「……うちも同じだってば」

「そうやったね」

 優里の考えていることが分からず黙ってしまった智明に合わせるように、優里もまた口を閉じてしまった。

〈次は松帆志知川まつほしちがわ三丁目〉

 停車の案内が表示されると、優里は一瞬だけ智明と目を合わせ、停車ボタンを押した。

 バスが停車し立ち上がった優里は、座席に座ったままの智明の手を引き、迷いなく定期を示して下車した。

「……いいのか? ホントに誰も居ないぞ? 二人きりだぞ?」

「二人きりやったら、なんかあかんの?」

「あ、アカンことはないけど、なんか緊張する」

「そうなん? 変なの」

 智明の気持ちを置いてけぼりにしたまま、つないでいる手を前後に振って歩き、優里は一直線に智明の自宅があるマンションへ進んでいく。

「なんか久しぶりやなぁ。あんまり変わってへんね、モアの部屋」

「そりゃそうだ。この前来てから二年くらいしか経ってないんだから。……なんか飲む?」

「おーきに。冷たかったら何でもええで」

「はいよ」

 ちょっとはしゃいでベッドに腰掛けた優里を視界に捉えながら、智明は通学鞄を適当に放り出してキッチンへ向かう。

「アイツ、真とイイ感じなんじゃなかったっけ?」

 母親が冷蔵庫に作り置いてあった麦茶をグラスに注ぎつつ、優里に聞こえないことを確かめてから自身の動揺の原因をつぶやいてみた。

 いつだったか、真からそれっぽい話をされた気がするが、今日の優里を見る限り思い違いか聞き間違いかも?と自分の記憶を疑ってみる。

 結果は『そういうふうに聞いた気がする』という一番曖昧なものだった。

「お待たせ」

 グラスを二つ持って部屋に戻ると、優里はベッドに上がってしまっていて、壁に背を預けて膝を立て足を開いてスマートフォンをイジっていた。

「あ、うん」

 ネットで気になる記事でもあったのか、優里の返事は簡潔だった。

 少し日焼けした足に目が行ったが、健康的な太もものボリュームを見てしまって慌てて目線を外した。

 大丈夫。スカートに隠されてて下着は見えなかった。

「モアは、やっぱり優しいなぁ。コトと全然違うわぁ」

 スマートフォンを傍らに置いて、立てていた膝を寝かせて女の子座りになってから、優里は麦茶を数口飲み下した。

「な、何だそりゃ?」

「ふふん。コトの前でさっきみたいに座ってたらスカートめくろうとしてきてん」

 ――アイツならやりかねん!――

 一瞬すごく納得したが、直後にどうなったかが気になった。

「パンツ、見られたのか?」

「そっち先に気にするん? 大丈夫やで。コトの前でそんな無防備なことせえへんよ」

「そっか。いや、もしスカートめくられてパンツ見られてたら、リリーが傷付いたんじゃないかと思っただけで……。他の意味はないよ」

「おーきに。大丈夫やで」

 もう一口麦茶を含んでからグラスをテーブルに戻し、優里はスカートの裾に手をかける。

「こうやってちゃんと対策してるから」

 優里は女の子座りのまま両手で制服のスカートを二十センチほど持ち上げた。

 健康的にうっすら日焼けし、程よく筋肉のある太ももが顕になり、薄いピンク地に白のドット柄の布も顕になった。

「……なるほど、ピンク、だな」

 話の流れ的に学校指定のハーフパンツタイプの赤いジャージが現れると思っていた智明は、まずお目にかかれるとは思っていなかった優里の下着を目の当たりにし、見ちゃいけない!と思いつつも体が硬直してガン見状態だ。

「え、ピンク?」

 智明の言葉をキッカケに自身の下腹部を確かめた優里は、静かにスカートを下ろし、そっとベッドから下りて床に座り直す。

「オホン。……と、こんな感じであらかじめ履いてたジャージしか見られてへんで」

「そうか。……とりあえず今度ジュースおごるわ」

 うっかりミスを取り繕う優里を見て智明もようやっと余裕が戻ってきて、優里から視線を外して麦茶を二口ほど飲み下す。

「え! 私のパンチュはそんな価値なん? ちょっと安すぎへん?」

「いやいや。そもそもリリーが履いてるつもりで履いてないのに勝手にパンツ見せたんだろ。負けても三本だ」

「なんでなん! これ可愛いから気に入ってるんやで。てかパンチュだけやなくて太ももも見たやろ? 十本!」

「ダメ。そんなにおごったら俺の昼飯代が無くなる。四本!」

「ここ来るまでに手つないだやんか。私のこと、ちょっとでも好きやったら八本にして!」

「う! …………しゃーないな。五本だ」

『好き』という単語に過敏に反応してしまい、智明は思わず限界ラインを越えてしまう。

「あ、あ、うん。じゃあそれで」

 優里は優里で『好き』の一言で譲歩した智明に動揺している様子……。

「……モアは、私のこと、好きなんや」

「まあ、うん。恋愛の好きなのか、子供が友達に言う好きなのか、どっちか分かんないけど。好き、だよ」

「まさかこんな話になる思わんかったけど、好きでいてくれたんやったら嬉しいな」

 とっくに智明は優里の顔を直視できない状態なので、優里がどんな顔で言ったのかは分からなかったが、とりあえず否定や拒否されなかったのは嬉しかった。

「リリーは、どうなんだ?」

「ん? モアのこと好きやで。私も恋愛の方か友達の方か分からんけど」

 言ったあと優里が照れ笑いか何かで軽く笑ったので、智明も合わせて小さく笑う。

「まだ中三だしな。高校行ったらハッキリしてくるんじゃねーかな」

「そうやね。まずは高校受験やね」

「リリーはどこ受けるんだ?」

 色恋の話が落ち着いたからか、ようやく智明は優里に顔を向けれた。

「三原西の理数か、国生こくしょう大付属の普通かな」

 優里も照れたり焦ったりせず普段通りの顔を智明に見せる。

「やっぱり学年で成績三位の人は違うなー」

「モアはどこ行くん?」

「俺と真は志知のみだな。落ちたら金積んで私立南淡なんだんか東淡路学園」

「もったいないなぁ。ちゃんとやったら二人とも頭良いのに」

「いいんだよ。俺と真は緩いとこでバカやってる方が似合ってるんだから」

「そうかなぁ……」

 やたら残念がって納得しない優里をよそに、智明は空気清浄機を作動させてタバコを取り出す。

「モア、タバコ吸うの?」

「あ、言ってなかったっけ?」

「うん」

 会話が止まって気まずくなってしまい、思わず吸ってしまったのは智明のミスだ。普段なら優里が帰ってしまうまで我慢するし、親の居ない夕方にしか吸わないと決めているからだ。

 もちろん未成年者の喫煙は法律違反なのだが、罰則が補導歴がつく程度なので、智明の警戒はかなり甘い。

「匂い、嫌いなら消すけど?」

「ええよ。うちのお父さんも吸うから慣れてる」

「そうか。すぐ終わるから」

 なるべく優里の方に煙が漂わないように体の向きを変えてみる。

「モアのこと好きやから内緒にしとくな」

「ありがとう。ごめん」

「うん。……その代わり、一個だけ内緒の話していい?」

 優里らしくない低いトーンに思わず智明は優里を見た。

「なんだよ?」

 先を促したが、優里は言うのを躊躇っているようで視線が少し泳いでいる。

「……コトってな、H・Bやってるん?」

 ――ああ、そのことか――

 智明は優里の躊躇が当然なので、あまり驚かなかった。むしろ心のどこかで、バレるとしたら親とか教師とか警察ではなく、優里が一番最初に見破るんだろうなという予感がしていたくらいだ。

「そうだよ。よく気付いたな」

「そっかぁ。おかしいと思っててん。あんなにスマホでゲームばっかやってたコトが、最近全然スマホ出さへんねんもん。美術はボロボロやのに休み時間にやたら上手な絵書いてたりするし。やっぱそうなんや……」

「よく見てんな。言われてみれば、アイツ全然スマホ触ってないよな。注意しとかなきゃな」

 真が違法にH・B化していることを知っていた智明は落ち着いているが、優里の落胆はかなり大きい。

 未成年者がいかなる事情や理由にしろH・B化していた場合、警察に逮捕され当人もしくは保護者に罰金刑が課されるとともに医療機関に隔離される。隔離とは世間向けの建前に過ぎず、生まれ持った生の脳がH・Bへと変換されるまでの経過を実験動物のように観察され続ける生活が実情だ。年齢が浅ければ浅いほどその検査や観察は精密かつ多岐に渡り、未成年者の脳が機械化するまでの誤作動や不具合で死亡してしまうよりも、軟禁され実験に繰り返し繰り返し駆り出され、執拗な尋問や聞き取りが昼夜を問わず行われ、精神を病んでしまい植物化や脳死状態になることの方が多いと言われている。

 優里の心中は、そういったことへの心配と、他の者に見つからないで欲しいと願う気持ち、そして真を羨ましく思ってしまうH・B化への興味などが渦巻いているのだろう。

 智明がそうなのだから、きっと優里もそう考えるだろう。

「ホンマはアカンことやけど、バレへんようにホンマに気ぃつけてって、言うといてな。私が言うてたって」

「おいおい。そのまま伝えたら優里まで捕まっちゃうぞ。その気持ちは俺がうまいこと真に言うから、リリーはこのことは忘れた方がいいぞ」

 タバコを消しながら智明が言うと、少し悲しそうな顔をしながら優里がうつむいた。

「そんなん、忘れられへんよ。友達やもん。三人でセットやったやん。こんな仲間はずれは嫌や」

「そんなこと言うなよ。友達だから巻き込みたくないんだよ。真がリリーにあんな態度取るのも、今のうちから俺達と距離を取っておいた方がリリーの将来のためだからだ、と思うぞ」

 後半は智明の勝手な想像を言ってしまった気がしたので、少しブレた。

 黙り込んで完全に顔をうつむかせてしまったので、優里の顔は伺えない。

「モア。……泣きそう……」

「お、おお。……ちょっと、待てよ」

 昔からの優里の泣きべその合図がここで来ると思っていなくて、智明は急いで準備をしなくてはならなくなり、少し慌てた。

 ちなみに、三人で居る時は優里がギャン泣きしながら真をところ構わず叩きまくり智明が叩きすぎないように優里の体を押さえる役だ。

 優里と真だけで居る場合は、とにかく泣きながら真を叩こうとする優里を真が必死に抱きとめて痛みに耐える修行のような時間なのだそう。

 そして智明と優里が二人で居る場合は、優里がこれでもかと智明を抱きしめながら泣き叫びその間ずっと智明が優里の頭をなで続けるヨシヨシタイムだ。

 今回も例にもれず、智明が優里の隣に座った瞬間から優里は泣き叫び、きつくきつく智明を抱きしめながらずっと泣き続けた。


「長居してゴメンな。今日ここに来て良かったわ」

「なんかスッキリしたみたいだな」

「最近、受験勉強とか、家のこととか、コトのこととか、モアのことで溜まってたからかもしれへん。やっぱりモアのギューは私に必要やわ」

 俺のこともストレスだったのかよ!とツッコんでやりたかったが、やっと泣き止んだ優里とケンカしたくないので智明は黙っておく。

「まあ、リリーも成長したのが分かって俺も嬉しかったよ」

「なんのこと?」

「ギューってしてみ」

「…………。モアのスーケーベー!」

 体中のアチコチを密着させたまま優里は智明を揶揄してきたが、抱擁を解く気はないようだ。

「スケベだけどね。俺、まだ勃たないからこれ以上悪いことできないし、しないよ」

「…………そうなん?」

「お、おい! ……ほら、な?」

「ホンマや」

 躊躇いなく男性器に手を添えてきた優里に慌てたが、それでも反応しない自分の体に意味不明な自己嫌悪が芽生えて智明は投げやりになる。

「そっかぁ。成長期やからそのうちなんとかなるんちゃう?」

「だったらいいんだけどな」

「……それはそれでなんかイヤやな」

「なんでだ?」

「イヤイヤ、こっちの話。……あ、こんな格好で聞くんもおかしいんやけど、コトって私のこと好きなんかな?」

 抱き合ったままの女子から他の男の名前を言われて智明はちょっと微妙な気持ちになった。

「そりゃあ好きだろ。俺らと一緒で、恋愛か友達かどっちか分からない好きだと思うけど」

「………………そうやんね。おーきに」

 だいぶ間を開けてから優里は体を離して智明に礼を言った。

「ほな、そろそろ帰るな」

「お、うん。気を付けてな」

「うん。あ、モアが成長期になるようにお守り置いていくわ」

「何だそりゃ?」

 智明の言葉には答えずに、一旦離した体を再び密着させ、優里は唇をそっと智明の唇に重ねた。

 驚いて硬直する智明にキスをしたまま、たっぷり二十秒が過ぎてから優里はゆっくりと離れた。

「なん、なん?」

「お守りやからお礼のジュースはいらんで。モアが大人になったらキスで返してくれたらええから」

「え、ちょっと、意味がわからん」

「ほなな!」

 真っ赤っかの顔を笑顔でごまかしながら優里は大仰に手を振って智明の家から去っていった。

「なんで? リリーと、キスしちゃったぞ」

 閉じられた玄関ドアを眺めながら、智明は鼻血が垂れるのも気付かずにしばらく立ち尽くしていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る