タイガーリリー
「嫌な雨…………」
校舎を出ようとしていた
低空飛行でいまいち気分が優れないところに、どんよりとした雨雲から雨が滴っているのだ。通学鞄から折りたたみ傘を取り出すのも億劫になる。
「あれ? 鬼頭さん、帰っちゃうの?」
「うん。ちょっと体調が悪いねん」
「そう。また明日ね!」
「……バイバイ」
部活動に向かう隣のクラスの女子を見送って、憂鬱な気持ちが晴れないまま優里は帰路につく。
昨日は智明と久しぶりに通学路を歩いたが、今日は一人で傘を指して歩いている。
「モアのアホ」
ファーストキスを捧げた幼馴染みと、どんな顔をして会おうかとかどんな会話をするだろうかとか、ハシャいだり恥ずかしくなったりときめいたりしていた自分が愚かしく思え、気持ちのぶつけどころがないためにとりあえず罵ってみた。
智明が学校を休むことは珍しいことではない。年に一度か二度は風邪をひいて休むことがあり、最近は真と夜遊びをしたために睡眠欲に負けてズル休みをすることもあった。
しかし今までならばちゃんと学校に連絡があったのに、今日は学校にも教師にも連絡はなく、心配した優里が送ったラインにも返信がない。
智明だけではなく、今日は真も学校を休んでいる。
真の場合は、ズル休みで学校に来ないことが多いのだが、今日は智明と同様に何の連絡もなく休んでいるようだった。
やはり優里のラインにも返信はなく、優里の気分は一日ずっと低空飛行のままだった。
優里の憂鬱のタネは智明や真の無断欠席だけてはない。
進路を巡って両親と意見が合わないのだ。
優里の父親は大阪で市議会議員に就いていたが、淡路島への遷都が本格的に始まった際に在籍する政党から指示を受け、将来的に発足するであろう区議会議員になるための地盤作りとして、現在は首都の区割りがなされる前の暫定的自治体となっている旧南あわじ市の市議会議員に就いている。
鬼頭の家柄は代々関西を中心に政治との関わりを持っていて、さすがに優里を代議士にするつもりはないようだが、有能な婿を迎えて区議会あわよくば都議会議員を継がせようという魂胆があり、そのためにはと優里の進路も決めてしまっている。
これは父親だけの企てではなく、料理研究家として名を売っている母親も似た考えのようで、優里の望む進路とは異なった進学先を示してくるのだ。
「……帰りたくないなぁ……」
バスに揺られながら窓の外に向かって本音を漏らした優里だったが、その言葉を拾ってくれるものは周囲には居ない。
学校に居残って部活なり宿題なりで時間を潰してもいいのだが、最近はそんな気分にもなれず、かといって早く帰宅して両親と顔を合わせたらまた平行線の会話をするはめになる。
そういったモヤモヤが昨日の自分の行動に繋がったのかもしれないが、鬱憤晴らしで智明とキスをしたわけでもない。
優里の心情はどうあれバスはいつものバス停に到着し、仕方なくバスを下りた優里は、自宅とは別の方角へ歩を進め一人で喫茶店に入った。
アイスレモンティーを注文してスマートフォンを確認してみたが、智明からも真からも連絡は来ていない。
「なんかあったんかな……」
午後四時を過ぎた店内に客の姿はまばらで、優里が考え事と時間潰しをするにはうってつけだったが、いかんせん一人ぼっちという寂しさは拭えない。
学校で智明と真のどちらともと顔を合わせないのが相当に堪えている。
思い返せば、小学校の六年間はほとんど毎日彼らと顔を合わせ、放課後に待ち合わせて遊び回り、週末も誰かの家に集まっては遊んだり勉強したりという日々だった。
中学に入って一年生と二年生はクラスが離れてしまったために疎遠になったが、三年生からは同じクラスになり、一日に一度は必ず言葉を交わしている。
いや、むしろ一言でもいいから二人と話したくて仕方がなかったので、用事や話題が無い時でも優里は話しかけるようにしていた。
幼馴染みの気安さとか、男女の境を越えた友情とか、心を開いて話せるとか、そんな感情ではない。
いつから芽生えたのかは自覚していないが、二年の空白のうちに二人との思い出は好意へと育ってしまっていた。
「……コトのバカ」
優里が智明と真への好意を自覚した時、まるで優里の心の中をのぞき見たように真からアプローチを仕掛けてきた。まだ告白したり付き合ったりという考えに至っていなかっただけに、真と二人きりで会うことにひどく緊張した記憶がある。
真の部屋で話をするうちに、ドラマで見るようなよそよそしくてモジモジする雰囲気が訪れたのだが、真が安易な下ネタで気持ちをはぐらかしてしまったので、優里はホッとしたような不満が残るような曖昧な気分で家に帰ったのを覚えている。
それでも真からの好意を感じ取れたし、優里自身が真をどう思っているかの確認もできた出来事だった。
「なんでモアやったんやろう……」
智明と真に対する優里の好意に、差などなかったと思っていた。
同じ時期に出会い、ほとんど同じ時間を共有し、同じ様に接してきて同じ近さで過ごしていた。
明るくてヤンチャで積極的で先頭に立って遊ぶ真は、アイデアマンでムードメーカーと捉えていた。
対して、消極的で大人しくて物静かだけど優しい智明は、その場の隠し味的な立ち位置ながら優里や真のフォローをしてくれていた。
そんな二人の間で、優里は真をたしなめたりお説教したりしつつ囃し立て、智明に頼ったり発言の機会を与えたり甘えさせてもらっていた。
「……あ、そっか」
小学生時代の自分達を思い返していて、ようやく二人の違いに気付いて優里は帰り支度を始める。
なぜ真を選ばなかったのか?
それは、真の行動力や人間性ならば優里以上の恋人に出会うだろうし、優里がそばにいなくとも真は上手くやっていくだろうと思えたからだ。実際に真は中学入学後に髪を脱色し、兄のバイクを乗り回し、学内のみならず優里の知らない交友関係を広げていったようだ。その最たるものが未成年者には禁止されているH・Bの入手と使用だ。
もう、真は優里の知らない場所まで行動範囲を広めていて、優里の知らない人達と付き合い、今の優里では手に入れられないツールを活用している。
優里が居なくても、真に不足するものなどない。
だが智明は違った。
もともと人との交流が少ない智明は、小学校時代と変わらず中学校でも深く付き合う友人を作っていない。仲の良いクラスメイトは何人か居るようだが、どれも真を通して話すようになったパターンだ。真と同様に中学入学とともに髪を伸ばした智明だったが、真のようにチャラくなることはなく、逆に少し陰気な雰囲気をまとってしまったかもしれないが、智明の本質を知る優里には外見は問題ではない。
ただ、優里と会っていない時に何を楽しみ何を興じているのかが知りたかった。
以前から智明にはプライベートを明かさない部分があり、謎が多い一面を持つ。聞けば『ゲームをしていた』『本を読んでいた』程度は答えてくれるのだが、詳細まで語ってはくれなかった。優里の把握していない領域があるという部分では真と同じなのだが、一人でなんでもこなしてしまう真よりも、一人にしておいたら心配なので何か手助けをしてあげたくなる智明にひかれてしまった。
「ごちそうさま」
会計を済ませた優里は、喫茶店に入った時より幾分足取り軽く自宅へと帰り始める。
雨足は少し強くなっていたが、学校にいた頃より気にはならない。
「タイガーリリー。懐かしいな」
智明が優里に付けたあだ名をつぶやき、一人ぼっちなのに優里は笑顔になれた。
小学校高学年の英語に触れ合う授業で、身近な名詞を英語に直すというものがあった。数人の班に別れて先生から渡された和英辞典で色々な名詞を英語へと変換していった。
その中に花のユリがあり、真がふざけて優里のことをリリーと呼んでからかっていた。真があまりにしつこくからかってくるので優里も腹を立てたのだが、ある日、智明がノートから切り取った紙片を見せてきた。そこにはユリ科の花言葉がいくつも書かれていて、智明はその中の一つを指して『優里はタイガーリリーだよね』と微笑んだ。
智明が優里のことを『華麗』『陽気』『賢者』だと思ってくれていると感動したのだが、実際は『鬼頭のオニにユリでオニユリだろ』という理由だったので、拍子抜けしたあとに憤慨したのも良い思い出だ(もちろん、その後に『純潔』『無垢』のユリの方で呼びなさいと指導したが)
その一件から智明はずっと優里のことをリリーと呼び続けてくれているが、逆に真はリリーと呼ばなくなった。
そうこうしているうちに高い塀に囲まれた自宅へと着き、門をくぐって庭を横切り、母屋へ向かう。
どっしりとした瓦屋根の二階建ての母屋の隣には、倉庫代わりにしている鉄筋コンクリートの離れとガレージがあり、両親が外出していることを祈ったが残念ながら母の車があった。
「……ただいま」
玄関の開き戸を静かに通って、小ささ声で帰宅を告げてすぐに階段へ向かう。
階段を上りきってから階下に目を配ったが、どうやら母は作業部屋かキッチンに居るようで、顔を合わさずに済みそうだった。
「…………ふう」
自室の部屋も静かに閉じて、心の中でゆっくり三十秒を数えてから、ようやっと優里は緊張を解いた。
勉強机に鞄を置き、制服のスカートとネクタイをハンガーに吊って、シャツとソックスは洗い物かごへ入れる。
そこで一旦ベッドに腰掛けて一息つく。
「……なに、これ?」
左耳だけに突然金属質の耳鳴りが起こった。手を当てて違和感をなくそうと摘んだり押さえたりするが収まらず、少しずつ耳鳴りは大きくなって頭痛もし始める。
「モア、なん?」
何という確証はなかったが、智明の気配か声のようなものを感じた。
瞬間。
閉め切っていたカーテンをものともしない強烈な光が窓から差し込み、思わず優里は目を閉じた。
何秒間か目を瞑ったままにしていたが、網膜に焼き付いた残像が激しく、目を開けてもチラチラと浮かぶ残像に顔をしかめる。
「何なん? 何かあったん?」
言いようのない不安や恐怖で胸の鼓動が早まり、部屋の中に視線を彷徨わせる。
と、地震のような強い縦揺れがして壁やアルミサッシがビリビリと震え、大砲のような爆発音が優里の耳を打ったので思わずベッドにうずくまる。
「キャッ! ……なんだ、ビックリした」
何かが落ちてきて体に当たったので思わず悲鳴を発したが、どうやらベッドサイドのブックシェルフからぬいぐるみが落ちてきただけだったようだ。
目の残像もなくなり、爆発音の名残も耳から取れたので、優里は窓を開けて周囲を確かめてみる。
光の正体は想像もつかなかったし、その後の爆発音は鳥よけにしては大きすぎる。
淡路島では米の生育に伴って、カラスやスズメが稲穂をついばんでしまう鳥害を避けるため、カーバイドと水を反応させたりプロパンガスに引火させたりして、空砲のような爆音を発生させる鳥よけが主流で、夏から秋にかけてあちらこちらで破裂音や爆発音が一定間隔で鳴り響く。
しかし先程優里が耳にした轟音はとても激しく、鳥よけとは比べようがないほどの大音量で、耳に残響が残るほどというのは別の異常事態が起こったのではと優里を不安にさせた。
「……なんやろ? 変な感じ……」
窓から見渡せる範囲に違和感は認められなかったが、雨は降り続いているのに北側の雲が晴れてわずかに青空が見えた。
天気雨だとしても雲と青空の境い目が明確で、優里は漠然とした気持ち悪さを感じて窓を閉める。
「うっ……。また耳鳴りが……」
立ちくらみのように急に頭を締め付けるような痛みが走り、優里はこめかみのあたりを押さえてしゃがみ込む。
「う、ううっ!」
ズキズキと脈動する頭を抱え、ついには床に倒れ込んでしまう。
「……リリー?」
「う、う、うえ?」
聞き慣れた声に名を呼ばれるのに合わせて、頭痛と耳鳴りが収まっていく。
「誰? モア、なん?」
恐る恐る体を起こすと、すぐそばに智明が立っていた。
「どこから入ったん?」
「お、おお。それは後で説明するから、とりあえずなんか着てくれ」
「ふえ?」
「パンツ丸出しだぞ」
「ふええええええええ! モアのアホォ!」
智明に指摘されたサテン地の白の下着を隠さずに、なぜか胸元を隠して手近にあったゴミ箱を投げつけてくる優里に苦笑しつつ、智明は背中を向けた。
「もうええで」
優里の許しが出て、部屋の入り口ドアとのにらめっこをやめて智明は振り返る。
「って、なんで学校のジャージなの? こういう時って、もうちょっと色っぽくスカートとかジーパンを選ばないか?」
「勝手に入ってきてワガママ言うたらアカンよ」
優里は先程のキャミソールと下着の上に学校指定の小豆色のジャージ上下を身に着けて、ベッドに腰掛けて髪型を整えていた。
「ごめん。部屋に居るのは調べて分かってたけど、服装までは見えなかったから」
「もうええよ。昨日もパンツ見られたもん。それ以上のことせえへんかったら水に……。オホン!」
智明がそういえば……という顔をしたので、優里は慌てて回想をやめさせる。
「大丈夫。思い出してない。大丈夫」
笑ってごまかす智明をしばらく睨みつけてから優里は話を変える。
「……で? どうやって入ってきたん? ドア開けんかったよね?」
「ああ、うん。なんかね、体調悪くなってぶっ倒れて、起きたら面白いことが出来るようになってたんだ」
智明が歯切れの悪い説明をしたあと優里の方に両手をかざすと、智明の体が薄っすらと光をまとっているように見えた。
「なにそれ? なんかのおまじな、い? ええ!?」
ゆっくりと体が浮き上がったことに驚き手足をバタつかせかけた優里だが、不可視の力で肩と太ももをガッチリと掴まれているようで、抗うことすら叶わなかった。
「ちょ、え、モア? あの」
優里の体はフワフワと空中を漂い、智明の方へ一直線に吸い寄せられるように向かっていき、智明にお姫様抱っこされる形で停止した。
「こんな感じ」
「なんなん? マンガ? 手品?」
「超能力みたいなやつ」
「……は、はあ?」
「あの、ちょ、下ろしていい? 自力だとちょっと、重い」
「ああ、ハイハイ。ごめん」
智明の両手がプルプルしているので、優里は二つ返事で床に足をおろして自立してから、智明の頭をしばく。
「アダ! なんで?」
「女の子に重いとか言うたらあかんやろ。モアが筋肉ないだけやんか」
「ああ、そっか、ごめん。けど、面白い力だろ?」
頭をかきながら一応は謝った智明だが、優里は謝り方が軽いと感じたのでまだ怒った顔のままだ。それに智明が自分の能力をひけらかす態度が気に入らない。
「なんか人間離れした力なんは分かるけど、使い方次第ちゃう? 他人より強い力は自分のために使うたら身を滅ぼすで。他人のために使わなただの暴力や」
怒った顔のまま仁王立ちで腰に手を当てて言い切った優里に、智明は笑顔を向ける。
「やっぱりリリーはタイガーリリーだな」
智明の笑顔の意味が分からずハテナ顔を向けた優里へ、智明は脈略なく二度手を打った。
智明の手元が拍手のたびにキラキラと光を散らしたのが不思議で、優里は智明に問う。
「今、なんかしたん?」
「うん。お色直し」
「うん? え、アレ? なんで?」
足元がスースーするので視線を落とすと、小豆色のジャージだったはずの服装が、エンジ色の大人っぽいスカートとブレザーにネクタイと白のブラウスに変わっていた。
「リリーはこういうかっちりしたのが似合うかなって」
「そ、そお? なんか学校の制服っぽすぎへん?」
「ああ、イメージは制服だよ。ジャージを作り変えたから色が赤になっちゃったけど、どう? 気に入ってくれた?」
智明が入り口の脇に立てかけてある姿見の前でクルクル回っている優里にお伺いを立ててくる。
「こんなことも出来るんや。モアにしてはセンスええんちゃうかな」
あまり褒めすぎても良くないので濁しておいたが、智明は素直に喜んでいるようだ。
「そりゃ良かった。で、ものは相談なんだけど、俺はこれから家を離れるつもりなんだけど、リリーも一緒に行かないか?」
「どゆこと? 家出するん?」
「そう」
智明の意外な言葉に優里はスカートを摘んだまま動きを止め、智明をジッと見る。
智明も意思が固いことを示すために優里を見つめ返す。
スカートから手を放し、ベッドに腰掛けて優里はしばらく考えてから聞き返した。
「私もどっかに逃げ出したり、環境を変えたい気持ちはあるよ。けど、どこへ行くん? どうやって行くん? どっか行ってからはどうやって暮らすん?」
「……言われてみるとそのへん何も考えてないな……」
「モアが誘ってくれたんは嬉しいけど、私らまだ中学生やで。働いたりお金稼いだりできへんやん。……好きだけじゃついていかれへんよ……」
優里は微笑みながら諭すように話したつもりだったが、後半は切なくなってきて顔をうつむかせてしまった。
「……とりあえず、俺はもうあの家には居たくない。俺が何か悪いことをしたわけでもないのに、よそよそしくて会話もなくて、俺を放ったらかしの家なんか居る意味を感じない。養ってもらってるってのはあるけど、この力があれば何でも出来ると思うんだ」
なんとか優里を連れ出そうと智明なりの説得が続けられる。
「どうやって生活していくかとかは、もうちょっと考えないと分からないけど、どこか空いてるとこに二人が住める家を建ててっていうのは出来る。リリーなら一緒に来てくれるだろ?」
智明の誘いに優里が戸惑っているのは隠しようもない。出来ないことを拒むのは当然で、そうしないのは優里の気持ちがそちらに傾いているからだ。
智明に視線を合わせてはそらし、何かを伝えようと手をもたげたり、視線を彷徨わせたりしてしまう。
「リリー。ダメ、なのか?」
もう一度智明に問われ、優里は完全に顔をそらしてしまう。
「なんで、私なん? コトは誘わへんの?」
「そりゃあ……、リリーが好きだから」
「ありがとう。私もモアのこと、好きやで」
智明の真っ直ぐな告白に、優里はちゃんと顔を向け視線を合わせて答えた。
少しだけ緊張しているのか、笑顔と言えるほど口角は上がっていなかったが、智明は優里の気持ちが知れたと感じたので、優里の隣へ腰掛ける。
「すごく、嬉しい。……そうだ、俺、大人になったぞ」
「どういうこと?」
「昨日話したとこだろ? ちゃんとこういう雰囲気の時にそうなるようになったってことだよ」
智明の濁した言葉と照れくさそうな顔が近付けられ、ぎこちなく優里の肩に手を回して優里にも智明の言わんとしたことが分かった。
「……リリー」
「うん」
膝に置かれた優里の手に智明の手が重ねられ、抱き寄せられて優里はそっと目を閉じた。
昨日のキスは優里からだったが、今度は智明が唇を触れさせるのを目を閉じて待つ。
自分から向かうのと違って『待つ』という状態に心臓が早くなるのを感じる。ほどなく唇に軽く押し当てられる感触が起こる。
重ねた手と手、触れ合っている智明の胸と優里の肩、二人の体の至るところが暖かくなり、体中の感覚は心臓の鼓動につられて脈打つ。
「……ん。ダメ」
「リリー?」
「ここじゃ、見つかっちゃう」
重ねられていた智明の手が胸元へと移ってきたので、優里はやんわりと智明の体を押し返した。
「じゃあ、場所を変えよう」
智明は優里の胸元に当てていた手を再び優里の手へと移し、目を見て告げてきた。
「どこへ? どうやって?」
智明の手を握り返しながら優里が問う。
「諭鶴羽山の方に天皇が引っ越すとか言って、宮殿みたいなの建ててるだろ? アレ、借りちゃおう」
「ニュースで完成間近とか聞いたけど……。大丈夫なん?」
不安げに智明を見つめる優里だが、先程のような強い拒否ではない。
「何日かだけならなんとかなるさ。これからのこともゆっくり考えたいし。それに――」
「うん?」
「リリーをお姫様にしてみようかなって」
「なんで急にメルヘンなん。モアが王子様なん?」
小さく笑ってからツッコム優里だが、嫌悪や拒否はない。
「そうなるのかな? リリーが本気でお姫様になりたいなら、今の俺なら叶えられるかもしれないし」
優里が冗談ぽく指摘したことで、智明は自分の発想が子供っぽ過ぎることに照れたようだが、半ば本気で今の自分になら国を興すくらいは出来ると思っているのだろうか。
理由や原因は分からないが、偶然手に入れた人間を超えたこの能力ならば、大抵のことは成し得ると驕ってあるのかもしれない。
少年の驕りは少女には自信や頼りがいに見えたのかもしれない。もしかすると恋心が判断を誤らせたのかもしれない。
「世界を変えるつもりなん? 今までのモアからは考えられへんこと言うてるで。でも――」
優里は、智明の胸に体を預けて続ける。
「でも、それで世界が少し良くなるなら、モアのチカラは意味のあるものになるやんね」
「そうかも」
智明は優里の肩を強く抱きしめてからもう一度キスをし、手を握り直して優里を立ち上がらせる。
「さあ、行こう」
気負いのない声で優里にささやく智明の表情は柔らかい。
フワリと体が浮いた感覚の後に階段を一段滑り落ちたような衝撃がして、優里に移動が始まったことを教えた。
「リリー。これがリリーのモノになるんだぞ」
芝居がかった智明の言葉を聞き優里は閉じていた瞼を開く。
「こんな高いとこに浮いてる。すごい……」
眼下に広がる景色に優里は言葉を失った。
周囲はまだ雨が止んでいないせいかモヤのようなベールがかかっているが、智明の能力で優里に雨はかからないため、智明に抱かれたまま優里は頭を巡らせて景色を眺める。
遠くで霞んでいる山並みは、右が諭鶴羽山地で左が津名産地、さらにその左奥が千山山地だろう。諭鶴羽山地の麓に横たわる真新しい曲線がリニアモーターカーのレールが渡された高架橋と思われ、その高架橋を堺にして山地と市街地が奇麗に分けられているように見える。
一方の津名山地の麓には、防塵防音の工事用ネットが張られた巨大な建造物が望める。恐らくあれが新造される国会議事堂だろう。こちらはテロ対策や警備上の理由なのか、周辺に高い建造物は少なく、代わりに敷地面積の広い建物がそこここに建てられようとしている。
「あそこまで飛ぼうか」
初めて見る上空からの景色に感動すらしている優里に、智明はひどく簡単に一つの建物を指さした。
「あんなとこまで?」
智明の指した先は、諭鶴羽山の西の麓に場違いなほど趣のある建築様式の建物だった。
裾野から中腹まで高い塀で囲まれた敷地は、遠目で見ても分かるほど整備され、中央に立派な本殿とグルリを囲む小さな施設が認められ、さながら古代中国か平安時代の御所を連想させる。
「あれが、新しい皇居になるとこなん?」
「たぶん。和風の城というより中国の寺みたいだな。俺ら二人じゃちょっと広いかな」
「お掃除が大変そうやわ」
ちょっとズレた優里の言葉に智明はひとしきり笑ってから、ゆっくりと空中を進む。
「わ! わ! ちょっと、ちょ! 言ってから動いてよぉ。怖いやんか」
「ああ、ごめん。落とさないように捕まえてるし、落ちても俺の足元で受け止めれるようにしてるから安心して」
言うだけでは伝わらないと思ったのか、智明はジーパンのポケットからキーホルダーを取り出し、無造作に放り投げた。
すると、手を伸ばした少し先くらいの空中でキーホルダーは目に見えない壁に当たったような音を立てて足元に落ち、智明が言ったように二人の足元の空中まで滑ってきて静止した。
「すごいね……。後でどんなことが出来るんか教えてな。もしかしたら、二人で暮らしていくヒントになるかもしれへんし」
「いいよ。ただ、さっきの続きをしてからだけどな」
先程よりも移動速度を早め浮遊から飛行へと移りながら、智明が優里に笑いかけた。
「急にエッチやなぁ。ベッドとかソファーがなかったらどうするん? コンクリートの床でなんかイヤやで。……初めてやねんから」
「お、おう。ちゃんと、する。うん」
優里がやたら現実的な要求をしたので智明は動揺して言葉尻がどもった。
――女の子があんまり興味ありそうなこと言うたらアカンかな……――
智明や真が性に興味があって18禁の動画やコンテンツをコッソリ視聴していることは気付いていたが、優里も同年代の女子達と同じように性に対する興味はなくはない。
そういえば、昨日の自分は智明よりも積極的過ぎていなかっただろうか?
両親からの躾のせいか、品位や恥じらいや慎ましさに反していないかが気になった。が、それは両親の希望にそう娘として気になったのではなく、智明に淫らだと思われたくないという方向だ。
しかし、新皇居に潜り込みベッドかソファーがあれば今までの空想や妄想を体験できるのだ。その相手が明確な好意を伝えあった智明なのだこら、後はもう智明に委ねればいいと思う。
ただ一点、優里は智明への不満がある。
――モアは、コトを誘ってへんわけを言うてくれへんかった――
ぐんぐんと飛び進む景色のなか、こっそりと智明の表情を伺ってみたが、今智明が何を考え、真のことをどう思っているのかは分からなかった。
いつの間にか雨は止み、皇居はもう間近へと迫っていた。
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