女たちの微笑

 日付が土曜日に変わった頃、鯨井と玲美は神戸淡路鳴門自動車道から明石海峡大橋を渡り3号神戸線に乗ってポートアイランドを目指していた。

 国生警察での任意同行と聴取のあと、一緒に行動したがった美保をなだめすかせて自宅に帰らせ、食事と風呂・着替えと薬の補充をして玲美の高級外車に乗り換えての強行軍だ。

 警察の車両で向かうことを鯨井が嫌がったし、さすがの玲美も淡路島から神戸まで軽自動車で向かう胆力はない。

 国生警察仮設署の刑事・黒田と増井も別ルートで同じ目的地に向かっており、翌朝に現地で落ち合う手はずになっている。

「播磨ちゃん、疲れたらいつでも言ってくれよ。代わってやれんけど、時間はあるから何度休憩しても構わないからな」

「ええ。そこは遠慮なくとらせてもらいますよ。そのために野々村さんを残して来たんでしょ?」

「まあ、一応はの」

 助手席が右側なので外の景色を眺めるふりもできず、鯨井は仕方なく進行方向を見つめる。

「優しいんですね」

「んなこたぁない。誰にだってこんな感じだ」

 少しだけ玲美の態度に違和感を感じたが、鯨井は当たり障りない言葉を返した。

 車が緩く長いカーブを過ぎ、また直線に戻るまで二人の間に沈黙が流れる。

「……高速を下りたら軽く何か食べて、仮眠を取りましょうか」

「んあ? ああ、それもいいかもな」

 国生警察の刑事たちとは翌朝に合流すればいいので、玲美の提案になんらおかしなところはない。

 ポートアイランドに設立された国立遺伝子科学解析室の柏木珠江かしわぎたまえ教授も、深夜帯はさすがに就寝しているはずだ。

 淡路島から神戸市内までは、明石海峡大橋を渡って高速道路を走れば三時間もかからずに向かうことができるが、平日の朝は何ヶ所か渋滞しやすい区間があるため、玲美の体力も考えて深夜のうちに出発したのだ。

 だが、学業を優先しなければならない美保を残して二人きりになった途端、鯨井に対する玲美の接し方が変わってきていた。

「鯨井先生?」

「うん?」

「野々村さんとは、その、そういうおつもりなんですか?」

 鯨井は道中のどこかで野々村美保の話題が出るとは思っていたが、玲美がここまで直球で聞いてくるとは思っておらず、驚いて玲美の横顔を凝視してしまった。

 現れては流れていく街灯の光を受ける玲美の横顔は、三十半ばとは思えない健やかな可愛らしさがあり、玲美の人懐っこい性格も相まって以前の職場でも男性たちから人気があった。

反面、女性医師や女性看護師からはあざとく見られたようで、玲美も関係改善に努力していたがなかなかうまくいかなかった。

 鯨井と玲美が出会った頃、玲美はすでに結婚して二児の母であったが、同じく医者をしている旦那とのすれ違いや同居する義両親との関係に悩み、離婚へと至ってしまった。

 玲美が離婚という決断に至る少し前、鯨井は玲美からの相談にのるため何度か食事へと赴いたのだが、その時にもののはずみで二人は体を重ねてしまった。

 玲美はそれが離婚の原因でも決め手でもないと明言してくれたが、以来二人の間にはじんわりとその時の記憶が想起され、気まずくもあり昂ぶるものもある。

「ああ、その、まだ交際を始めたばかりだがの。相手が相手だから、ゆくゆくは、という感じだな」

「そうなんですか」

 なるべく正確に状況を伝えたつもりだが、玲美は悲しみもせず祝福もしなかった。

「……玲美ちゃんは、播磨ちゃんはそっちはどうなんだ」

「そっちとは?」

 思わず昔の呼び方をしてしまったことを後悔しつつ、鯨井は言葉選びに頭をフル回転させる。

「子供さんは旦那の方が引き取ったと聞いてるし、実家から離れているだろ? 再婚、までは言わなくても、付き合ってる人とか付き合いたい人は居ないんか?」

 チラリと視線を向けた玲美と目が合い、慌てて鯨井は進行方向へ向き直った。

 また沈黙。

「……この前言いませんでしたっけ? 恨みはないけど未練はあるって」

「ウオッホン! オホン!」

 予想通りの答えが返ってきたので、鯨井は聞こえなかったことにしようと大袈裟に咳払いをした。

「ん、ん! このタイミングでそういう話はやめておこうか。あんまり播磨ちゃんらしくないぞ」

「私らしくないってなんでしょう」

 間をおかずに切り返した玲美の言葉に鯨井は閉口する。

「私、都合のいい女じゃありませんよ」

「そりゃあ、そうだ」

 玲美の追い打ちに鯨井は降参するしかなくなり、男の弱さをさらけ出すしかなくなった。

「俺だって播磨ちゃんをそんなふうには見てないさ。ただ、男はダサイ生き物やからな。美味しいと知ってるものが目の前にあったら、手を伸ばしたくなる愚か者だ。未練に似た感情だと自分を偽って、つまみ食いとか間違いをやっちまう馬鹿者だ。俺が播磨ちゃんを抱くのは簡単やけど、一時の快楽で抱くのは失礼だし、快感を思い出して過去をリプレイするなんて俺にはできん。感情の伴わないセックスは動物として摂理から外れとると思うんだ」

 堅苦しい弁論をたれながらも、鯨井は男の欲と理性を戦わせていた。

 玲美が自分を切り離せないでいることは感じていたし、鯨井自身も玲美の気持ちを汲む形で収めてもいいかと考えた時期もあった。

 しかし美保の存在が鯨井の興味や欲望を引き、目が離せなくなり放っておけなくさせた。

 今は、玲美と一時的な官能にふける喜びよりも、美保を失う恐さに怯えているのが鯨井の本心だ。

「それでいいじゃないですか。私達は医者ですけど、その前に欲望も欲求もある男と女ですよ。むしろ動物です。神様や仏様みたいな高尚な行いばかり選んで生きれない。感情に身を任せてしまう時だってあっていいじゃないですか」

「過ちを過ちと思えばこそ、繰り返さないという選択なんだがの」

「……私は過ちだなんて思ってませんよ。結婚期間中でしたけど、痺れるようなロマンスでした」

 鯨井は必死に反論の弁を練り上げようとしたが、しばらく車の走行音が響くだけになった。

「……次の生田川いくたがわで下道に下ります」

「お? おお」

 玲美のつぶやきに顔を上げると、京橋パーキングエリアの案内板が車窓を後ろへ流れていくところだった。

 京橋PAを過ぎれば生田川までものの数分だ。鯨井に残された猶予はどんどん少なくなっていく。

「三宮なら、深夜でもソバくらいやってるよな」

「……さあ、どうかしら。あまり詳しくないんですよ。繁華街だから二十四時間営業のファストフードはあると思うけど」

「最悪牛丼か」

「あら、私は牛丼好きですよ」

「肉食だねぇ。俺はもうオッサンだから、夜中に肉は重い。検索して何もなかったら牛丼屋にしようか」

「……任せます」

 つまらなそうな、疲れたような表情を装う鯨井を、玲美に笑われている気分になるが、今は堪える。

 実のところ鯨井が思うほど玲美は鯨井に執着していないし、心理戦や駆け引きを仕掛けているわけではないのだ。

 鯨井は美保との関係を保つために玲美を抱けないと言うが、玲美は鯨井との関係を深めたり進めたいという欲はないし、ましてや美保を交えた三角関係を形成しようというのでもない。

 過去に体を許した男に一瞬もたれかかって甘やかな時間を欲したにすぎない。

 玲美の表した未練とはまさにそれで、欲しているのは一時の止まり木であり、鯨井が拒もうとする恋慕のような湿ったものではない。

 ウエットな感情にしているのはむしろ鯨井の方なので、玲美にはそれが可笑しい。

「……駅の北側ならなんなとありそうだ。パーキングに停めて歩こうか」

「その足で?」

「……ラブホテルなら歩いていいのか?」

 鯨井のやけっぱちな言い草に思わず笑みがもれる。

「全力で支えますよ。おぶりましょうか?」

 年下の女性におんぶされる自分を想像して、鯨井は勝ち目も逃げ道もないことを自覚した。

「……負けたよ。ラブホテルのルームサービスで済ませよう」

「はい」

 玲美は努めて冷静に返事をし、生田川料金所から一般道へ移り、JRと阪急の高架をくぐって三宮界隈へ車を向ける。

 六月の週末ということもあってか、深夜にも関わらず通りには人の行き来があり、道幅の狭さもあってホテル街まで少しかかった。

 運良く駐車場のあるラブホテルを見つけて乗り入れ、エレベーターでロビーへ向かい、部屋を選んで別のエレベーターで部屋へと上がる。

「ふう。やっぱりしんどいな」

「患者さんの気分になれましたか?」

 部屋に入って早々二人同時にソファーに倒れ込むように座り、玲美は悪戯っぽく問いかけた。

「言わんでくれよ。飯の後に薬があるのを思い出したよ」

 医者らしくない台詞をもらす鯨井に玲美はもう一度笑いかけ、体を離してメニューが表示されたタブレットを取り出す。

「ああ、ありがとう」

 鯨井は平静を装ったが、自分が以前に利用した時よりルームサービスのグレードが上がっていることに内心では舌を巻いていた。

 ――この十年、進歩したのは医学のみにあらず、か?――

 鯨井も中年真っ盛りになり、研究や仕事に打ち込むあまりに世間からは置いてけぼりになってしまったクチで、辛うじてH・B化は行ったが、それも仕事で必要だったからだ。

 世間の動きはニュースなどで見聞きしても、年相応のロートルな思考や度々思い知るカルチャーショックは仕方がない部分もある。

《――の午後に起こった国生市西部の爆発と見られる閃光と爆発音に関して、政府関係者はテロなどの可能性は否定したものの、依然原因は分かっておらず、今後も警察及び消防が調査を行い真相の究明にあたるとのことです。一部では隕石の落下や不法投棄された廃棄物から出たガスが引火したのでないかなど、憶測やデマがささやかれており、周辺住民の混乱や遷都への影響などが心配されています――》

「……強盗騒ぎに隕石か。世紀末だな」

「ごめんなさい。消しましょうか?」

 玲美が何気なく点けたテレビに、鯨井が真剣に見入ったのでそう声をかけた。

 鯨井の表情がプライベートな顔から仕事の顔になったことが気になったし、甘やかなセックスの雰囲気が損なわれるのを玲美が嫌ったのだ。

 しかし鯨井は玲美を気遣う風でもなく、メニューを玲美に渡しながら答える。

「構わんよ。飯が終わるまで静かなのも寂しいからの。俺は親子丼とソバのセットでいいや」

「じゃあ、私も同じものを」

 室内備え付けのタブレットで注文を済ませ、鯨井はまたニュースを注視する。

 どうやら食事が終わるまで鯨井はくつろぐつもりのようなので、玲美はそっと立ち上がって室内の探検を始める。

 ラブホテルに限らず、女としてはホテルや旅館のバスルームと洗面台周りがどの程度充実しているかは気になるところで、化粧ポーチやお泊りセットを持参していても確かめずにはおれない。

 久しぶりに入ったラブホテルは劇的に進化を遂げており、鯨井同様玲美も少なからずカルチャーショックを受けた。この小さな感動やら発見やらを伝えようとソファーの鯨井を見やる。

「…………相変わらずね」

 二十代の頃ならば歓声をあげつつ鯨井を呼び込むところだが、三十も半ばを過ぎてハシャぐとわざとらしいし、そもそもの鯨井がニュースに釘付けではリアクションも期待できない。

 大人の女らしくやんわりと意表をついていく作戦はないものかと考え、クリーンパックに包まれたバスローブを手に取る。

「嫌な女ね」

 今夜の自分の心情や行動を振り返って自己嫌悪しつつ、玲美は洋服を脱ぎバスローブに袖を通した。

 すべて脱ぎ去った素肌に直接まとうか迷ったが、見せないことで見たくなる心理を活用しようと思いショーツだけは着けたままにした。

 あざといと言われても気にしないし、この程度は武器でも作戦でもない。年齢とともにスタイルは緩んだかもしれないが、玲美の女としての武器はその程度ではない、と自負している。

「……んあ? 着替えた、のか?」

「ええ。仮眠するなら服のままより楽ですから。孝一郎さんのもありますよ」

「……あ、ああ、あんがと」

 玲美の差し出したバスローブを受け取りつつ、玲美の思惑通りに鯨井の視線はアチコチに動く。

 久しぶりに呼んだ下の名前は、玲美の方に刺激が大きかったようだが、素直に着替えを始めた鯨井は、やはりチラチラと玲美を見てくる。

 追い打ちをかけるように玲美は鯨井のベルトを外しにかかる。

「玲美ちゃん、急ぐなよ」

「怪我人は素直に医者の言うことを聞くべきよ」

「参ったな」

 ナノマシンが治癒の補助をしてくれるので旧世紀ほどギブスは分厚くなくなったが、それでも一人で着替えるのは大変な作業だ。今日の出発前に鯨井は着替えに四苦八苦したばかりなので強く逆らえない。

 ほぼ玲美の言いなりになりつつワイシャツのボタンを外しながら、スラックスを脱がしにかかる玲美を眺めていると、バスローブの合わせ目に見え隠れする玲美の胸元から目が離せなくなる。

 こうなってくると室内の怪しいライティングが欲望をかきたて、チラチラと顕になる太ももやヒザ頭にも目がゆき、下着まで剥ぎ取られる頃には鯨井の男性が猛ってしまっていた。

「玲美ちゃん」

「……食事にしますか? それとも先に?」

 やや上目遣いに問いかける玲美には答えず、鯨井は玲美の肩口に両手を差し入れてバスローブを滑らせ、玲美の豊かな乳房を顕にする。

「こりゃ、仮眠どころじゃないなぁ」

 以前と変わらぬ玲美の肉感に舌を巻きつつ、鯨井は玲美の手を取って体を引き寄せる。

 玲美もショーツを脱ぎ去って鯨井を跨ぐようにソファーへ上がり、雌の顔で体を預ける。

「ああ、孝一郎さん……」

 耳元にかけられた玲美の艶っぽい声をキッカケに、鯨井は玲美の尻を持ち上げて二人の体を一つにする。

 口付けを交わし合い、舌を絡ませ、互いの胸元を愛撫し、乳首を吸い合い、体を上下させる。

 夜が明けるまでまだまだ時間はたっぷりとある。二人が快楽を貪り尽くすには充分なはずだ。


 二十世紀半ばから二十一世紀にかけて、神戸港沖を埋め立てて造成されたのがポートアイランドである。

 神戸大橋とポートライナーと港島みなとじまトンネルで神戸市と結ばれた広大な人工島は、医療・物流のみならず計画的な都市化により商業も活発で住宅地としても人気が高い。

 二〇〇〇年代に入ってからは神戸空港も造成され、世界に誇れる計画都市として日本を代表する人工島となった。

 特に、高度な医療と先進の科学が集中する場所として常に注目され、年に一度や二度はニュース記事や専門誌で取り上げられるほどだ。

 そのニュースの一つが、十五年前に建設された国立遺伝子科学解析室についてのものだ。

 国立の研究機関というだけでも話題になるのだが、建設された場所が理化学研究所の近隣で国外のスーパーコンピューターを導入したということでも注目を集めた。

 ただ、建設費用や運営費が高額であった割に研究内容や解析結果に目立ったものがなく、近年では存在意義を疑われたり建設を後押しした国会議員への疑惑など、マイナスなニュースの筆頭になりつつある。

「黒田さん。そろそろ時間ですよ」

「ゔあ? ……ウ~ン……来たんか?」

 リクライニングさせた助手席に寝転んだまま、国生警察仮設署刑事・黒田は大きく伸びをして寝ぼけ眼をこする。

「まだですけど、間もなく約束の時間です」

「ふあ! 来てから起こしてぇや」

「黒田さんが低血圧だから早めに起こしてくれと言ったんじゃないですか」

「そうやったな。すまんのぅ」

 増井は真面目で実直な部下なので捜査や検分では不屈の精神を発揮するのだが、真面目すぎて実直すぎるためかこうした日常的な決めごとや約束にも手抜かりがなく、黒田が投げやりに謝るというやり取りは絶えない。

 昨夜は日付が変わってしまうまで書類整理や捜査資料の集約を行い、捜査の進捗などを話し合ってから淡路島を出発し、黒田と増井で交代しながら運転して神戸まで来たため短時間の仮眠しか取れていない。

 合流の予定時間は午前七時。場所は遺伝子科学解析室の近くの動物園あたり。

「今日も鬱陶しい一日になりそうやな」

 すっかり日が上っているはずの時間だが、昨日同様空には分厚い雲が広がってい、今にも雨が落ちてきそうな空模様だ。

土曜の早朝ということもあって、路上駐車している黒田たちの乗用車以外は、コンテナを牽引したトレーラーがたまに通り過ぎる程度の交通量だ。

「……コーヒー飲みたいなぁ。行てこうかな……」

「……来ましたよ」

 黒田が助手席のドアを開いたタイミングで、対向車線を走っていた高級外車が減速し、ウインカーを点滅させてUターンし黒田たちの後方に停車した。

 コーヒーを飲み損なった黒田は小さく舌打ちしたが、彼らは黒田の独自捜査に於いて大事な参考人なので、なるべくしかめ面を平らにして車外へ出た。

 黒田が歩み寄るうちに外車の運転席側の窓が開き、助手席に座った鯨井が黒田に声をかける。

「すまんね。少し遅れた」

「構わんよ。諸々問題がなければこのまま目的地に向かおうと思うが、いけるんか?」

「結構ですよ」

 窓枠に手をかけ車内を覗き込みながら問う黒田に、すぐそばの玲美が即答し、助手席で鯨井も一つうなずいた。

 刑事の悪い癖で思わず車内の二人を観察してしまい、黒田はおや?と思う。

 助手席から運転席側の窓の方へ鯨井が乗り出している格好なのだが、鯨井の右手が玲美の太ももに乗せられていて、それを玲美も嫌がっている素振りがない。加えて二人の衣服に乱れがなく玲美の香水が強く香っている。

 ――確かオッサンには婚約者がいたはずやが? 一時のもんなんか? それとも……――

「……ほな、よろしゅうに」

 刑事でなくとも密な関係を想像させる二人の雰囲気についつい下世話な勘繰りをした自分を嫌悪しつつ、黒田は仕事に集中するために彼らの車から離れた。

「ほな行こか」

 元の車に乗り直し増井に声をかけて黒田はシートベルトを締めるが、気付かなくてもよいことに気付いてしまった影響は大きい。

 思えば刑事という仕事一筋に生きてきた黒田には浮いた話の一つもないし、女を抱いた思い出も少なく、日に日に記憶も曖昧になってきている。

 先程間近で見た播磨玲美は黒田と年齢が近いはずで、男好きする顔と円熟したスタイルで年上の鯨井を咥え込んだかと思うと、忘れかけた欲望に火が着きそうになった。

「増井、結婚ってどう思う?」

「なんですか急に……」

「いや、なんでもない」

 増井の困惑した顔から逃れるために車外に目をやるが、仕事中に女の色香に惑ったことや集中を切らしてしまったことへの自己嫌悪は止まらない。

 それでも、いや、だからこそ増井が車をスタートさせると進行方向を向き、先行する高級外車の後ろ姿をしっかりと見据える。

 ――この一件が落ち着いたらゆっくり考えよう。男に適齢期なんかないんやし――

 どうにかこうにか黒田が自分を慰める文言を思いついた頃、先行する高級外車が背の高い白壁に囲まれた施設へと侵入していった。

 増井は几帳面に同じ軌跡で高級外車を追走し、門扉からまっすぐ直進して突き当たりを右折し駐車場まで危なげなくたどり着く。

「まるで学校やな」

 車を下りた黒田はグルリを見回して率直な感想をもらした。朧気な記憶では、スーパーコンピューターの導入とその他の研究機材や研究スペースなどで、建設に数千億円かけられたはずだが、目に映る建物や植え込みは地方都市の寂れた学校にしか見えない。

『可』の字のように配置された建物は整然としすぎるうえに、敷地内の通路は赤いタイルが敷かれ、外壁の傍には等間隔に庭木と植え込みが並んでいる。建物の窓という窓に白いカーテンが引かれているのも学校を想起させる要因かもしれない。

「こっちだ」

 ついアチコチを観察してしまう黒田に、少し離れた所から鯨井の声が飛んだ。

 歩いている方向からすると敷地の真ん中にある建物ではなく、外壁に沿って建てられている『L』字型の建物へ向かうようだ。

 玲美に寄り添われながら松葉杖をついて歩く鯨井を見つめ、黒田は自分と鯨井の違いはなんだろうと考えていた。

 先程と同様につまらないことを考えてしまっていると気付いていたが、何かを考えていないともっと下衆なことを考えてしまいそうなので、あえてそうした。

 一行は松葉杖の鯨井に合わせて歩いたので少し時間がかかったが、これまた学校か公民館のようなこじんまりとした正面入口にたどり着き、鯨井が警備員室か受け付けのような小窓に声をかけた。

「朝早くから申し訳ない。アポは無いんだが、柏木先生は出勤されているかな」

「……ああ、誰かと思ったら鯨井先生じゃないですか。お久しぶりですね」

 小窓に顔を出した初老の男は、一行を値踏みするように睨め回したが、鯨井の顔を見つけて一気に相好を崩した。

「やあ、本当に久しぶりだ。よく覚えてましたな」

「なに、柏木先生から強く言われていてね。鯨井先生が来たらすぐに通せと、あの人嫌いに言われたら覚えてなくちゃいかんでしょう。……先生は相変わらずいつもの研究室ですわ。十五年前と変わっとりませんよ」

 黒田には色々と引っかかる単語が出たが、今は黙っておくことにした。鯨井と柏木先生とやらの関係性よりも大事なことがあるからだ。

「ま、そこは俺もだからな。あんがとさん」

 黒田の腹のウチを気にする風もなく、鯨井は礼を言って奥のエレベーターへ一行を導く。

 全員が乗り込んでエレベーターの扉は閉じられたのだが、動き出す気配がない。と、鯨井がこめかみに指先を当てながらつぶやく。

「申し訳ないが、皆、目を閉じてくれないか。部外秘なんだわ」

「なんだと? エレベーターに乗るのに部外秘があるなんて聞いたことない。ちゃんと説明しいや」

 黒田が怒気をはらんだ声で詰め寄ろうとするが、鯨井は落ち着いた声で制する。

「刑事さん。ここは国立の研究施設なんだわ。誰でも彼でも見学に来れる場所じゃない。察してくれ」

「あん? 意味がわからんぞ」

「察してくれと言ったろ。だ。昨日の話を思い出してくれ。思い出したら黙って目を閉じてくれ」

 鯨井の一方的で不親切な説明に黒田のイライラはうなぎのぼりだが、隣に目を向けると玲美はとっくに目を閉じて立っている。

 増井を見やると、黒田と目が合うと一つうなずきかけて目を閉じた。

 置いてけぼりにされた黒田だが、『昨日の話』を思い出すことで少しだけ手がかりを得た気がした。

 昨日、黒田と鯨井が話した内容は、中島病院で暴れた高橋少年の細胞を精密に解析しようとすると、警察権力よりも高位の存在にその真実を秘匿されかねない。それならば個人で独自に調査や解析をして真実に近付きたい、といった内容だったはずだ。

 そして今、鯨井と黒田は国立の研究施設に居る。

 ――警察に圧力をかけて真実を秘匿するのはおそらく国、いや現行の政府だ。警察が解析を依頼するのは民間よりも公設の機関になる。特にその最先端となると国立の大学か、国立の専門的な研究所になる。詰まりここは世に出ないどころか世に出せない情報の巣窟ということか?――

「……くそ! これでいいか?」

 鯨井が察して欲しかった理由は他にもたくさんあるのだが、黒田が部外秘の漏洩防止に従ってくれたので、鯨井は一安心した。

「結構だ」

 全員が瞑目したことを確かめてから、鯨井はエレベーターの操作パネルの下部のカバーを開き、長々とボタン操作してカバーを閉じた。

 直後、小さく揺れたのを合図にエレベーターは下降を始める。

「もういいぞ。ご協力に感謝する」

 鯨井の合図で全員が目を開けると、鯨井は冗談ぽく敬礼をして黒田たち警察官を皮肉った謝辞を言った。

 カッと頭に血が上りかけた黒田だが、やたらと長い時間降り続けるエレベーターの方が気になった。

「……ずいぶんかかるな……」

「ああ。発注者の趣味が悪いからな」

 黒田のつぶやきに答えつつも、鯨井は階数表示がなく『▽』だけが点滅している電光板を見上げている。

 まるでホラー映画のような不気味な雰囲気が漂い始め、全員が沈黙してしまってからしばらくしてエレベーターが停止し、黒田は無意識に詰めていた息を吐いた。

「何だここは?」

「地上の雰囲気とずいぶん違いますね」

 エレベーターから下りた空間は広く取られていて、通路の横っちょから乗り込んだ地上階とは対象的に学校の教室ほどの広さがあった。

また内装も大きく異なっていて、公民館のような白塗りのコンクリートではなく、鋼材を貼り付けた無機質で金属様の壁が高い天井まで続いている。

「本当に同じ建物なの?」

「基地みたいで面白いやろ? 全部、発注者の趣味だからな」

 黒田と増井に続き、玲美までが趣の異なる内装に舌を巻いた。

 呆気に取られている三人に冗談めかしながら歩みを進めた鯨井は、エレベーターを下りて正面にある扉へと近付き、壁に設けられたコンソールを操作した。

「目を瞑らなくていいんか?」

 先程のエレベーターでの一件を蒸し返した黒田に、鯨井はウインクしながら答える。

「ここは秘密のパスワードはいらないんだ。いわばインターホン鳴らしたようなもんだからな」

「なんやと?」

「中に居る人間に開けてもらわんと入れないんだよ。悪趣味だろ」

 鯨井に同意を求められたが、黒田は面倒な手順がバカバカしくなりそっぽを向いて舌打ちをした。

「さあ、行こう」

 自動でスライドして開いていく二枚扉に躊躇なく進んでいく鯨井はどこか楽しげだ。

 自動扉の先にはまただだっ広い通路が伸びていたが、両側の壁にノブの付いたドアが等間隔で並び、突き当りには先程と同じ自動ドアがあった。

 おもむろに鯨井が振り返り、全員と目を合わせていく。

「この先に俺の知り合いの柏木センセが居る。メチャメチャ気難しい人だから、機嫌を損ねないようにな」

 黒田と増井はハテナ顔で一応うなずいたが、玲美だけは苦笑を浮かべている。

 正面の二枚扉に近付いていくと、今度は通常の自動ドアの様にセンサーが人の接近を感知してゆっくりと開いた。

 扉の奥はこれまただだっ広い空間で、ホテルのパーティー会場のような広さと天井の高さがある。

 正面の壁には巨大なモニターが二つ横並びに据え付けられてい、その下には飛行場の管制室かアニメの司令室のようにモニターと操作版とキーボードが並んだテーブル席がある。

 他にも会議で使うような長テーブルとチェアが『口』の字で並べられていたり、オフィスで見かけるデスクもいくつか並んでいる。

「いらっしゃい。久し振りに来たと思ったら、知らない人間ばかり連れて来たねぇ?」

 入り口を通り抜けると右側から女性の声がかけられた。

 歳の頃なら五十代から六十代。白髪混じりの頭髪を伸ばし、眼鏡を額に乗せ、白衣を身に着けている。

「ご無沙汰してます。なかなか忙しくての。……紹介するわ。こちらは今同じ職場で働いている播磨玲美さん」

 鯨井の紹介に軽く頭を下げる玲美。

「で、こっちは俺の知り合いの黒田君と増井君」

 鯨井の紹介にムッとした黒田は、軽く頭を下げたが自分の職業を付け足す。

「刑事をやっている黒田です」

「刑事?」

「ああ、ちょっと今、俺の身辺警護をやってもらってるんだわ。センセの仕事の邪魔をしに来たわけやないから、気にせんでくれ」

 一気に表情を厳しくした女性に鯨井は必死に取り繕い、黒田の腕を軽く小突き、世間ズレした黒田の態度を視線で咎めたが、黒田はムッとした顔を向けただけだった。

「まあ、孝一郎の身辺警護なら仕方がないね。あんたの顔に免じて、この場に居ることは許してやろう。ただし! 私の研究やこの施設のアレコレに口出しすることは許さないから、そのつもりでね。気に食わなかったら即放り出すよ!」

「ああ、ちゃんと紹介しなきゃだわ。こちらは柏木珠江先生といって、日本の遺伝子研究の第一人者で、この施設の顧問もされている方だ。……ついでに言えば俺の恩師の一人だ」

 鯨井が柏木女史を持ち上げて紹介するも、彼女の不機嫌な表情は変わらない。

 勝手に身辺警護の係にされたり放り出すと宣言されたりと、黒田は扱いの悪さに嫌気が指してきたが、とりあえず本懐が果たせればいいやと色々諦めることにした。

「それで、何の用なんだい? あんたもそれなりの地位に就いてるんたから、今更後押しや金の無心でもないんだろう?」

 誤解を招かれそうな珠江の発言に苦笑しつつ、鯨井は促されるままに本題を切り出す。

「センセはニュースは見られますかな?」

「見ないね。ただでさえ隠居同然でこんなとこに趣味で篭もってるんだ。世俗の揉め事に興味なんか湧かないね。下手に知ってしまうと仕事にも影響があるからね」

 玲美は珠江の生活スタイルが鯨井から聞いていた通りだったので驚いた。

 この遺伝子科学解析室の施設から一歩たりとも出ることはなく、新聞もテレビも見ないと聞いていたが、職場に住み込み寝食まで済ませてしまうというのは徹底的にも程がある。

「じゃあ、調べて欲しいモノがあるんだが、可能かの」

「忙しい訳じゃないから構わないよ。今は頼まれごともないし、アレは私のライフワークにして人生最大の遊びだからね」

「……あんがとさん」

 珠江の返事に微妙な表情になった鯨井を玲美は見逃さなかったが、今この場で聞けるものではないので黙っておく。そもそも鯨井がこの施設の部外秘に関わっていることも気になっているのだ。

「増井君。それをセンセに渡してくれないかな」

「……了解です」

「ああ、そっちのデスクに置いとくれ」

 増井刑事が肩から下げたクーラーボックスを珠江に手渡そうとすると、珠江は傍らにあるデスクを指して移動した。

 増井は珠江の指示通りの場所にクーラーボックスを置く。

「では、ここに」

「ありがとう。……孝子たかこ一美かずみ、こっちへおいで」

 増井に礼を言ったあと、珠江が奥のデスクで作業していた女性二人を呼びつけた。

 一人は二十歳くらい、もう一人は二十歳になるかならないかの女性で、どこか顔や背格好や雰囲気が似ている二人なので、玲美は姉妹かな?と感じた。

「……大きくなったな」

 珠江の傍に並んだ二人の女性に、鯨井が親しげに声をかけた。

 驚いた玲美が思わず鯨井に問う。

「お知り合い、ですか?」

「まあ、な」

 鯨井は説明しにくそうにはぐらかすが、珠江は容赦なく話をすすめる。

「久しぶりの親子の対面だ。ちゃんと挨拶なさい」

「お久しぶりです。お父さん」

 珠江に促される形で年長の女性が微笑を浮かべて頭を下げ、年少の女性もそれに倣う。

 黒田と増井は話の流れが分からず、ポカンと鯨井を眺めるだけだが、玲美は明らかな動揺を隠せないでいる。

「お父さん!? お父さんってなんですか? 初耳なんですが?」

 玲美が狼狽と感情を押し込めて精一杯抑えた声音で追求するが、鯨井は説明を避けるように苦い顔のまま黙ってしまう。

「騒がしい女は嫌いだよ! まあ、そもそも私は女が嫌いだけどねぇ。孝一郎、構わないから言っておやり。この子達は全て理解してくれている」

 珠江の一喝に全員の視線が珠江に集まったあと、珠江の横の女性二人を経て鯨井に視線が集まる。

 仕方なさそうに頭をかきながら、あさっての方を向いて鯨井は真相を明かした。

「……彼女らは、俺の精子と柏木センセの卵子から生まれた、俺とセンセの子供たちだ。そして、センセの研究課題である、生殖による遺伝の解析と、遺伝子操作における遺伝への影響を解析するための協力者だ」

 鯨井の言葉に玲美は言葉にならない驚きから二人の女性を注視し、黒田と増井は刑事としての厳しい目を柏木珠江に向ける。

 しかし珠江と、珠江の横に並ぶ女性二人も穏やかな微笑をたたえて玲美たちを見返している。

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