影響

立場 と 責務

 淡路島の南に広がる諭鶴羽ゆづるは山地は、淡路島南部の東から南西部一帯に裾野を広げる広大な山々の連なりで、平安時代には修験道の聖地の一つとして大変に栄えたと文献にある。

 昨今では地元の人々の元日の初詣や、田植えを終え豊作祈願の夏祭りが行われる以外は、静かな一帯といえる。

 早朝に叩き起こされ人気のない頂上付近の電波塔まで連れてこられた黒田幸喜くろだこうきからすれば、無闇に人と関わらなくて済むだけ有給休暇ぽくて安らかではあるが、実際はのんびりしていられない状況のはずなのだ。

 赤い光や青い光が光ったり、自衛隊から迫撃砲と思われる砲撃があったのが午前九時頃。

 そのあたりから雨が止み始め、午前十時には新しい皇居を自衛隊の小部隊が何箇所かに分かれて包囲を始めた。

 雨が止んだ頃に黒田も煙草を吸いに車外へ出てその光景を見たが、とても日本の新しい首都になる土地で行われている出来事とは思えなかった。

 距離があるので当たり前だが、装甲車や銃火器の音もなく、怒号や騒音もないのに、自衛隊特有の色で塗られた車両や制服が蠢いている様は、映画や資料で見る戦場にしか見えなかったからだ。

 ――しかし、やはり結果は俺の予想通りや。自衛隊やから撤退とはならんかったけど、智明と優里ちゃんは陸自さえ跳ね返した――

 諭鶴羽山山頂付近から見る新しい皇居、智明らがいう明里新宮あけさとしんぐうは目立った破損や破壊は見受けられない。それでいて自衛隊に包囲までしかさせていないということは、自衛隊の攻撃を封じるような圧倒的なものを見せつけたのだろうと想像できた。

 それが分かってしまえば黒田から緊張感は薄れてしまい、午後はずっと高田の乗用車に居座っている。

「――しばらく動きはないようですね」

 双眼鏡やデジタルカメラでの見張りは切り上げたのか、黒田を叩き起こして山頂まで連れてきた張本人、雑誌『テイクアウト』の記者高田雄馬たかたゆうまが運転席に乗り込みながら話しかけてきた。

「……やろうな。もう三時や。自衛隊も腹ごしらえくらいするやろ」

 当たり障りのない返事をしつつ、高田にコンビニの袋を差し向けてやる。

「どうも」

 高田は買いだめしておいた菓子パンや調理パンをガサガサと選び、運転席のドリンクホルダーに差したままの缶コーヒーを開ける。

 ドラマで描かれる張り込み中の刑事よろしく、フロントガラスの向こうに視線を向けたままパンを頬張る高田の様は笑えてくるのだが、黒田も彼のことを笑えない行動は多くあるのでなんとか笑いを堪える。

 と、黒田の脳内にメールの受信音が響く。

「ん。俺の連れが近くまで来たらしい」

「……そうなんでふね。……ここまで来られそうですか?」

 口の中の物をコーヒーで飲み下してから高田は尋ねてくる。

 黒田は少しだけ考えてから答えた。

「いや、なだの水仙郷まで来とるみたいやから、迎えに下りられへんかな。高田さんがおることを言うてないから、この後どうするかとか聞いてみんとやから」

「そうなんですか? てっきり我々のしていることに同調なり理解を得ているから、合流するのかと思ってましたよ」

 少し黒田を非難するような目で見た高田だが、コンビニ袋やゴミをまとめたり片付け始めるあたり、迎えの車を出してくれるつもりのようだ。

「すまん。なにぶん細かい連絡取ってくれん人やからな。それに、高田さんが記者やと知ってどんな反応するかとか、その人と俺とで追ってる件で新しい情報があったらそっちに行かんなんかも知らん。そういう可能性もあるんやわ」

 高田には合流する人物が鯨井孝一郎くじらいこういちろう医師だと伝えていない。

 昨日の車中での密談で、中島ちゅうとう病院のの話題が出たので明かせないでいる。

 もっと言えば、黒田は鯨井の知人に高橋智明の遺伝子解析を依頼している手前、彼の能力や遺伝情報など新しい情報があればそちらにも調査の手を伸ばしたい気持ちがある。しかもその件は高田には知られたくない。

「おやおや。あれだけ大きな話を三つも抱えてるのに、他にも探っていることがあるなんて、興味深いですね」

 高田はスペースのない電波塔の前で車をバックさせながら黒田に当てこすった言い方をする。

 黒田の刑事根性をくすぐっているのか、記者魂ゆえの強欲なのか、気安さや親しみで取り入ろうとしているように感じる。

「これは高田さんにも話せないよ。踏み込まれちゃ困る。そう、プライバシーってやつだ」

「ははは。まあ、そういうことにしておきますか」

 あっさりと引き下がった高田の態度が気になったが、黒田は何も付け加えないことにした。

 隠し事などバレる時はバレるし、隠しているつもりでも既にバレている時もある。

 協調はしても、黒田と高田は仲間でもなければ共同戦線という約束でもないのだ。

 黒田も高田も、車が曲がりくねった細い山道を下る間は黙ったままで、ラジオも音楽もかけずにただただタイヤが砂を噛む音とエンジンの唸りを聞いていた。

 ようやく木々に遮られていた視界が開けて平地に下りてくると、76号南淡路水仙ラインに出て、防波堤と紀伊水道の荒波を右に見ながら灘黒岩水仙郷へと向かう。

「……ん、アレやな」

 南淡路水仙ライン沿い左側にある灘黒岩水仙郷の入場ゲート脇で、場違いなアロハにハーフパンツ姿で立っている髭面オヤジを見つけ、指差して高田に示すと、高田はハザードを点けて車を送迎バス用の駐車場へ入れ込む。

「連れてくるわ。……よお、バカンス丸出しやな」

 高田に断って助手席を開けると、すでに鯨井が車の方まで歩み寄っていて軽く手を上げて挨拶してきていた。

「嫁さんとのデートを切り上げてきたんだ。身なりくらいは若くてもいいだろ」

 少々バツの悪そうな顔をしながらも、ボストンバッグを下げた髭面オヤジ鯨井孝一郎は笑顔を見せる。

「そうか。別に、俺はあんたのお目付け役じゃないからな。プライベートで何をやってようと、本職で何があろうと影響ないからな」

 黒田も肩をすくめて他人行儀な一線を引いてみたが、内心は全く逆のことを考えてしまう。

 ――このオッサンに会うといちいち女の顔が出てきよる。指輪してた跡を見せるんは俺だけにしろよ色男め――

 あえて話題にはしないが、鯨井の左手薬指に指輪を付けていた痕跡があるということは、婚約者と公言していた野々村美保と本格的に結婚の話をしてきたのだろうと予想させる。

 よもや播磨玲美はりまれみと焼きボックリを蒸し返すものでもなかろう。

「それはお互い様だの」

 鯨井は他愛ない世間話として言い返したのだろうが、黒田には『お互い様』の一言は意外に動揺させられる。

 野々村美保や播磨玲美との一夜を知っているのか?と勘ぐってしまう。

「……ああ、そうや。今回、世話になってる人を紹介しとかんとな。雑誌記者の高田さんだ」

「はじめまして。『テイクアウト』の取材と編集に関わっている高田と言います」

 運転席から出て車のそばに立っていた高田を紹介すると、高田は人当たりの良い笑顔で鯨井に近付き、鯨井に握手を求めた。

「ふーん、記者さんか。中島病院で脳外科医をやっとる鯨井です。……意外なつながり、でもないか」

 不承不承ながらも高田と握手を交わした鯨井は、黒田と高田を交互に見て、刑事と雑誌記者という関係性をうがった目で見てくる。

「まあその辺は好きに想像してくれ」

「まあの。……ところで、会って早々やがはあんたが流したということでええんか?」

 高田との握手を終え黒田に刑事と記者の黒い繋がりをいなされた鯨井は、高田を真っ直ぐに見据えて問うた。

 黒田はだいたいの察しはついたが高田の返事が気になって黙っておくことにした。

 高田は黒田の前では筋の通った正義感を見せる場面もあれば、ことさらに商業的価値を求める場面もある。

 協力関係を約束したとはいえ、それぞれの事案について正義感と商魂の比率は知っておきたい。

「速報をご覧になられたんですか?」

「電車移動で暇を持て余したもんでな」

「なら、その通り、と答えないといけませんね。一定の時間ごとに後追いがないか確認してますが、他社さんが関連情報を掲載していませんから」

 黒田が見る限り、鯨井は腹を立てたり怒っているという印象はない。どちらかといえば『気に食わない』といったところか。

 対して高田は鯨井の意図を計りかねているようで、鯨井のハッキリとした言葉が出てくるまでいなしている印象だ。

「そうか……。またややこしいタイミングで面倒な記事にしたもんだのぅ。高橋少年に会いたかったのに、こんなんじゃ皇居には近寄れんじゃないか」

 両手を腰に当てて拗ねたように唇を尖らせる鯨井に、高田も引くことはしない。

「いやいや。こちらとしても商売柄、自衛隊のおかしな動きは報じなきゃいけないという信念に基づいてますから。そもそも現行の御手洗みたらい政権は疑惑の数珠つなぎです。山路耕介やまじこうすけの若い頃を見ているようだって話もあるくらいです。こうした疑惑を明かしていくためにも、見つけた隙きは取りこぼすつもりはありませんよ」

 二人のこの会話だけでも黒田には方向性の違いは十二分に理解できた。

 鯨井は、高橋智明の身体的な変化に立ち会ったも同然の過程から、直接高橋智明と会って聞き取りやその能力を見聞したいのだろう。

 その足掛かりに、本来なら許されることのないはずの国立の研究施設に、高橋智明の体細胞や血液やMRIデータを持ち込んで解析を依頼したくらいだ。

 対して高田には、正義感を履き違えているか偏ったイメージ先行な使命感を感じる。

 どちらにしても大きな風呂敷のあちこちにあるを見つけて触ってみたい高田と、高橋智明というの原因を解析したい鯨井は、やはり見ているものと追っているものが全くに違う。

 ただ黒田が思うに、自衛隊というほつれのそばに高橋智明というシミがあるのも間違いないことで、自分はさらにそのそばにある》かもと思えてくる。

「まあまあまあ。……鯨井センセ。自衛隊がアワジに向かうと分かった時点で皇居に近付くんは困難になるんは分かっとったことやし、それを高田さんに言うてもしゃあないよ。

 高田さんも、闇を暴いたり明るみに出すっていう使命感は分かるんやが、それを押し付けたりするんは正しくないやろ。その言い方は良くないわ」

 仲裁というほど黒田は二人の真ん中には立っていないが、話題と空気が良くない方に向いたことだけは分かる。

 黒田はまだどちらとも喧嘩別れしたくはない。

「そうなんだがの。先を見れば見るほど彼には近付けなくなる」

「分かってる。ただな……」

 少し声が大きくなってきている鯨井へ歩み寄り、黒田は高田に聞こえない小声で鯨井を諭しにかかる。

「記者の前で高橋智明の能力の話したらもっと状況を悪くするやろ。ちょっとは控えてくれ」

 黒田に肩を押され高田に背を向けさせられた鯨井は、小声でささやく黒田を訝しみながらも声の大きさを合わせて答える。

「……言ってないんか?」

「当たり前や。俺はもう高橋智明を襲撃事件の犯人として追ってるんやない。超能力者のサンプルでもない。智明と優里ちゃんは次のステージに向かっとる」

 鯨井の肩に腕を回してあからさまな内緒話しの姿勢を取るが、どこか世間ずれした脳外科医にはここまでしなければならない。

 黒田から見れば、鯨井は頭も良く医者なりの秀でた才を感じるてはいるが、こだわりのないことはあけすけに口にする印象がある。

 そうした無意識の垂れ流しは記者である高田の前ではどんなトラブルが起こるか想像だにできない。

「なるほどの。あの記者さんの持っとる情報では、高橋君はまだ病院襲撃犯か、皇居立て籠もり犯なんだな?」

「そういうこっちゃ」

「だからって俺が超能力研究にいそしんどるわけじゃないんだがな」

「分かっとる。あいつは世間の騒動から記事になるネタが欲しいんや。あんたは異常な高橋智明の体の仕組みを追求したいんやろ。俺は、智明と優里の動向を見届けて、そこに正義に反するものがあったら追求したいだけや」

 小さく身振りを付け加えながら黒田は端的に三者三様の目的を言葉にする。

 鯨井にはこれで伝わるはずだ。

「なるほどの。……三人の中心に高橋智明と自衛隊を含む日本政府があるが、三人の追ってるもんは別物なのか。分かったよぅ」

 黒田の説得とも棲み分けとも取れる言葉を整理し、鯨井はくっついていた黒田の体を押しのけるようにして了承の旨を発する。

「よろしゅ頼むわ」

 なるべく笑顔を作って黒田は鯨井の背中を叩き、高田を振り返る。

「すまんな。医者ってやつはどこか偏屈やからな」

「ほっといてくれ」

「いやいや。記者も刑事も穴は違いますが同じムジナですよ」

「なんや、俺もかいな」

 鯨井を貶めて場をまとめようとしたが、高田が黒田に皮肉を言ったので愛想笑いを返しておく。

「ともあれ、ここでずっとだべってる暇はない。場所を移して仕切り直そうや」

 あたりに人気はなくとも灘黒岩水仙郷のゲート脇の駐車場である。

 これ以上の深い話はこんな場所ではできないと黒田が切り出すと、高田が控えめに手を上げて提案する。

「ちょうどいい。僕は一度会社に戻らないといけないんで、お二人にはうちでくつろいでいてもらいましょう」

「近いのか?」

「ええ。洲本に部屋を借りてるんです。同居人が居ますが、一時間ほどですから大丈夫でしょう。さあ、乗ってください」

 やや強引に行き先を決めた高田に鯨井が憮然とした顔を向けたが、黒田は鯨井に手招きをしてさっさと高田の乗用車に乗り込んでしまう。

 ――刑事と記者と医者か。我ながら妙な取り合わせになってしもたな――

 乗用車に乗り込んでからタバコを吸う機会を逃したことを悔やみつつ、この一週間、黒田は今までよりタバコの本数が増えていることを気にした。


『ちょっとお願いしたいことがあります』

 旧南あわじ市八木にある中島病院の職員食堂で、昼食を摂ろうとしていた播磨玲美は一件のメールに困惑した。

 メールの送信者は赤坂恭子。

 同じ病院に勤務している婦人科医師と正看護師であるから面識もあるし、恭子が婦人科担当だった時期もあり、院内で顔を合わせれば挨拶や世間話くらいはする。

 また互いに件の病院襲撃事件の被害者でもある。

 ただ玲美を困惑させたのはメールの文面で、恭子が用件も書かずに寄こしたという一点が引っかかった。

 手早く昼食を済ませて、玲美は書類整理などのためにあてがわれている専属医用のオフィスへ移る。

 ドアに鍵をかけ、白衣を脱いでコートハンガーに掛けてデスクへと着く。

〈……ああ、赤坂さん? 何かあったの?〉

〈お忙しいところ申し訳ありません。メールではお願いできないことがありまして……〉

 脳内から掛けた電話に、恭子がすぐに出たところをみると、どうやら彼女は公休日のようだ。

 どこか声のトーンが低く困惑気味に聞こえる。

〈私にできることなら応えなくはないけれど。どんなお願いかしら〉

〈ありがとうございます。……実は、その、知り合いが倒れてしまいまして……。播磨先生に診察をと思ったんですが……〉

 いつもハキハキとした恭子が言い淀むのを聞き、玲美は察するものがあった。

〈通常の診察や救急ではないということ?〉

〈……やっぱりダメ、ですよね?〉

 玲美の確認に恭子は小さな声で聞き返してきた。

 通常、個人で開業した医院ではこうした飛び込みの診察を受ける場合はあるが、それでも落ち着いてから保険の処理や治療を施した記録を残さねばならない。

 玲美の勤務する中島病院のような組織や規則の整った病院では、時間外の診察や施術は救急で対処する形を取る。

 それ以外の診察は記録やカルテが残らないため、事件やトラブルを生むばかりか、病院全体としての信用を失いかねない。

 それを正看護師と専属医がやり取りすること自体、規則違反であると知っているから玲美も恭子も微妙な言葉選びになってしまっている。

〈理由によるんじゃない? 赤坂さんはアウトだと思っていても、私から見ればセーフだってこともある。もちろん、この電話の時点でアウトな理由なら、他の手段を考えるくらいはするけれどね〉

 正直、玲美が恭子に対してここまで方を持ってやる必要はないし、そこまでの関係性もない。

 院内の玲美の評価や評判、嫌われ具合や陰口は玲美自身が一番よく分かっている。

 だからこうした話が持ち込まれることはないし、持ち込んで来たのが他の人物ならば、玲美を陥れるトラップだと感じて断っていただろう。

 だが赤坂恭子は正直で裏表がなく、感情がそのまま言葉に出る人物だ。

 玲美を触れづらい人物として遠ざけつつ、患者の回復のために指示を受けるべき医師としての尊敬があるのだ。

 現に、規則違反を承知しつつも例外の診察を頼んではいるが、拒否される前提ながら頼らずにおれない理由が声と言葉に滲んでいる。

 それを無下に扱えないくらいには玲美にも人情はある。

〈すいません。……友達なんです〉

〈赤坂さんの?〉

〈………………高橋君の、です〉

 数秒の沈黙のあとに届いた言葉は、玲美を無言にさせた。

 玲美と恭子の間で共通して認識している『高橋』という人物は一人しかいない。

 中島病院襲撃事件の容疑者である十五歳の少年、高橋智明。

 数日前に同僚の鯨井孝一郎医師からは、高橋少年は諭鶴羽山に建設された新皇居を占拠し、近々自衛隊がその奪還に向かうと聞かされた。その確度は国生こくしょう警察仮設署の刑事である黒田幸喜によって裏打ちされてもいる。

 その高橋智明の友達が人目を忍んで治療を求めているという状況は、玲美が取るべき判断を色々と迷わせる。

〈それは、なぜ? ……いえ、正規の診察ではいけないのね? ……違うわね。赤坂さんはその人の状態を見たのかしら? 危険な状態なの?〉

 玲美の迷いがそのまま言葉選びに表れ、自然と確認の言葉が多くなる。

 もしかすると断る理由か、引き受ける理由付けのために言葉が多くなったのかもしれない。

〈私も知人から取り次いでもらえないかと頼まれたことなので、なんとも……。ただ、カルテが残ったり警察沙汰は避けたいと念押しされたものですから……〉

 恭子が患者の容態を直接診ていないという一点は仕方がないことだと理解したが、記録に残ることや警察が関わることを避けている点に関しては、玲美は返答に困ってしまう。

 高橋智明の状況を考えれば、その友人の治療を行うことは後々トラブルを招きかねないとは思う。

 しかしここまで恭子が切迫しているならば、手を貸してやりたい気持ちもある。

 と、玲美は『高橋智明の』という単語に引っかかりを覚える。

 ――確か、黒田さんが二度目に柏木先生の所に来た時に、何か言ってらしたわね……。そう、確か『優里ちゃんも超能力が使える』とかなんとか……――

 国立遺伝子科学解析室の地下深くにある柏木珠江の研究室で、鯨井が高橋智明のMRI画像を解説している際に、高橋智明の連れていた少女も彼と同じ能力を有しているという話題が出ていた。

 ――もしその『優里ちゃん』が、赤坂さんのいう『高橋君の友人』だったなら……――

 点と点を繋いでみて、玲美の心臓が跳ねた。

〈……赤坂さん。もしかしてだけど、その患者さんは女の子なのかしら?〉

 段々と早くなる鼓動の音を飲み込むようにしながら、玲美は恭子に問うた。

〈え? あ、はい。十代の女の子ですよ。えっと、十五歳のはずです〉

 やはり、と想像が現実になり、玲美は興奮とも動揺とも言えぬ感情を抱き、口の渇きを覚えて生唾を飲む。

〈……分かったわ。その子、職員用の駐車場から私のオフィスへ来てもらって、ここで診察しましょう〉

〈……大丈夫、なんですか?〉

 脳内の通話ながら恭子の声はうわずって聞こえた。

『大丈夫』という一言に、病院の規則・玲美の立場・恭子の行く末……様々な不安や心配が含まれているように思う。

〈そうね。規則違反を突きつけられれば言い逃れはできないわね。けれど、私の責任でこの話を引き受けるなら、赤坂さんに咎が向かないようにはするつもりよ〉

〈そんな。……それは、良くないですよ〉

〈……あなたならそう言うと思った。でもね、それでいいのよ。あなたのことだから断れない理由があるはずだもの。そうでしょう?〉

 自分のズルさに嫌悪しながら玲美は恭子の弱点を刺激する。

 赤坂恭子という人間は、ユーモラスで人を笑顔にさせる太陽のような一面がある。その反面、助けを請われれば強く断れず、真面目で人が良いから正論と規則違反の狭間で気持ちが揺れてしまうのだ。

 玲美はそんな恭子の『人の良さ』を刺激することで、規則違反よりも人助けを優先するように仕向けた。

 玲美がどのように弁明し責任を取ろうとも、恭子の行いは明るみに出るだろうし、玲美だけが処分を受けても恭子の心には何かしらのしこりは残る。

 そこまでの後腐れがないようにしてやりたくとも、それは玲美の裁量の埒外で、恭子が心の中で割り切れるかどうかなのだからどうしてやることもできない。

 ――我ながら悪女ね。また嫌われてしまう――

 恭子の説得や慰めを口にしながら、玲美は自分の性分をまた嫌いになった。

〈――分かりました。午後二時に職員駐車場でお待ちしています〉

 玲美の口八丁手八丁にようやく恭子が納得したのだが、玲美はおや?となる。

〈あなたも同席するつもり?〉

〈もちろんです。私一人がぬくぬくとしているわけにいきませんから。ほら、言うじゃないですか。得するなら更に買えって〉

 急に明るい声を出した恭子に玲美は〈どういうこと?〉と尋ね返す。

〈や、やだなぁ。『毒食わば皿まで』のシャレですよ。聞き返されたら恥ずかしいじゃないですか!〉

 いつもの恭子らしい明るい声を聞いて少しだけ玲美の気持ちも落ち着いた。

〈あなたの覚悟は分かったわ。それじゃあ時間通りに、ね?〉

〈はい! よろしくお願いします!〉

 晴れ晴れとした恭子の声は通話の終了とともに玲美の脳内から消え去り、ほうっと一息ついてから玲美は自分にあてがわれているオフィスを見回す。

「さて、お昼休憩は一時半まで。その後には十分ほどのミーティング。赤坂さんとの待ち合わせは二時。午後の診察は三時から。なかなかタイトね」

 通常通りの予定を並べるだけでも玲美のスケジュールに余白はない。

「……赤坂さんに危ない橋を渡らせるのだから、ミスはできないわ」

 玲美は声に出すことで腹を決め、デスクから予備の聴診器やペンライトや血圧計を取り出す。

 当座必要な道具を確かめたあと、オフィスにしつらえられている仮眠用のベッドを確認し、不足している物品をメモに取る。

 ――今更こんなことをしてもアノ人は褒めてくれやしないのにね。……バカみたい――

 白髪頭に髭面の五十男の顔を思い起こしながら、玲美は自嘲しつつ、婦人科の看護師に連絡を取るために内線の受話器をとった。

「……ああ、休憩中にごめんなさいね。ちょっと具合が悪くて調べたいことがあるの。今から言う機材をオフィスまで運んでもらえないかしら?」

 受話器の向こうで平坦な看護師の声がし、玲美はもう後戻りできないことを強く意識した。


 陸上自衛隊の司令官らとの会談を終え、高橋智明はその足で幹部会の発足を宣言した。

 とはいっても、キングである智明とクイーンである優里の補佐に淡路暴走団の大将・川崎実がいて、その下に付くのは淡路暴走団と空留橘頭クールキッズの幹部数名に過ぎない。

 しかし、自衛隊が特例的に外出や日用品の搬入を許してくれたことで、百名ほどの独立運動であっても、智明は統制や組織の縦割りの重要性を意識せざるを得なくなったのだ。

 大人の余裕なのか国家公務員の律儀さなのか、陸上自衛隊司令官川口道心かわぐちどうしんは『買い出し班に追跡や検閲は行う』とわざわざ提言しており、これは智明以下独立運動に関わり明里新宮あけさとしんぐうに立て籠もるすべての者の一挙手一投足を見逃さないという姿勢が読み取れる。

 つまりはバイクチームの面々のおフザケや戯れを容赦してくれないということだ。

 幸い、川崎がこれに同調してくれ組織づくりの基礎を担ってくれたうえに、指揮系統の構築と班割りまで請け負ってくれた。

 さすがの空留橘頭も長である山場俊一やまばしゅんいちが雲隠れしたことと自衛隊と対面したことで腹を据えたようで、分け隔てのない智明と川崎の判断に同調してくれた。

「――では、統制や規律に乱れがないように頼みます。それから、これは自衛隊からの返事待ちになっていることですが、三日後にはまた大事な会談が行われる可能性もあります。もしその会談の場がこの明里新宮になる場合、皆さんの姿勢や態度や統制を見られることになる。ここで笑われてしまっては舐められて終わりです。そのあたりを意識して訓練に臨み、規律を重んじて欲しいと思う」

 着慣れないスラックスとワイシャツは、自衛隊司令官らとの会談と幹部会の数時間でシワが寄ってしまったが、肌に刺さるようなのりも気にならなくなってきた。

 そのせいか会議のまとめもスラスラと言えた気がする。

「……ところでキング。そういう大きな会談が控えとることやし、こうして幹部も揃えて組織らしゅうなってきた。ここらで名前とか決めた方がええんちゃうだぁか思うねけど、どないで?」

 幹部会のまとめも終わり、では解散という段になって川崎から意外な提案が出た。

 組織や集団に名前をつけるなど、智明は考えもしていなかったので少し驚いたが、同時にあっさりと納得もできた。

 同志となるか否かを問おうとしていた早朝に城ヶ崎真じょうがさきまことらの攻撃を受け、自衛隊の追い打ちがあったために、半ばなし崩し的に淡路暴走団と空留橘頭は新宮に留まらねばならなくなった。

 結果として全員が智明と運命を共にしなければならなくなったのだが、一つの規律ある組織にしようとしている幹部会でも、未だにチーム名で区分けしてしまっている。

 これを問題点として提案してくれる川崎の存在には、智明は助けられてばかりだ。

「そこまでは考えが至らなかったな。こういった提案は助かるよ」

 智明は思ったままの感謝を言葉にし、川崎への返答を続ける。

「確かに、組織として一つにまとまるためには名称は必要だよね。ただ、俺たちは革命とか、反乱を起こしたいわけじゃない。だからヤクザみたいな名前や、ギャングやヤンキーみたいな名前だと具合いが悪いと思う。軍隊ぽくなっても誤解されるし、俺が言うのもなんだけど中二病もダメだよね」

 自嘲気味に笑った智明に合わせるように、幹部からも小さな笑いが起こる。

「ほうじゃの。目的や志が表現されとって、怖がらせたり痛々しくないのが理想じゃの」

 川崎が智明の言葉を補足するようにしてくれたが、その顔は微妙だ。

 恐らく『ヤクザみたいな名前はダメ』と言われ、自身の立ち上げた『淡路暴走団』が引き合いに出されたと思ったのだろう。

 空留橘頭のメンバーも川崎と同じ顔をしているのは、『ヤンキーはダメ』と言われたからだ。

「けどなぁ。人が集まったらナントカ会とか、ナニナニ団みたいにはなりますよ。ナンチャラーズとかさ」

 そう嘆いたのは空留橘頭のナンバー2で山場俊一の親友である奥野大輝おくのだいきだ。

 仲間内ではオフロードバイクをガニ股で乗りこなすことから『ダック』の相性で呼ばれているが、髪型や服装は山場に負けるとも劣らないヤンキースタイルだ。

「いっそ適当な英語並べてスワットみたいなのは?」

「中二病があかんからって高ニがええわけやないぞ」

「そもそもこのメンツにネーミングセンス求めるのが間違ってんべ」

「んだとコラ? 訛り直してからセンスの話をしろよな!」

 いつの間にか提案が議論を超えて罵り合いに変わり始め、智明は大きく柏手を打つ。

「そこまで! こんなことでケンカになるなら中二以下の小二でしょ。今日の今日だけど幹部っていう役職に就いたんだから、ヤクザやヤンキーじゃ困るよ」

 智明の一喝で一応は全員が口を閉じ、居ずまいを正したが、口を歪めたり舌打ちをしている者はいる。

「キングの言葉じゃ。キングが絶対ちゅう訳やないが、規律っちゅうのがリーダーやトップの発言から作られるいうのを頭に入れとけよ。わしらはキングについて行く集団やろ。そのための名前を考えよう言うとんねん」

 さすがの迫力で川崎が場を引き締め、幹部一同は智明に向かって頭を下げた。

「それでよろしく頼む。……ただ、急に出た議題だからね。戸惑うのも分かるよ。幹部が定まったのと同時に班割りもしたことだし、全員にアイデアを募るのもいいかもしれない。次の幹部会までの宿題にしようか」

 智明はまず川崎に場を収めてくれた礼を右手の一振りで示し、続いて議題の先送りに対しての同意を求めた。

「わしもほれがええと思うわ」

「ん。ではそうしよう。じゃあ、ひとまず第一回の幹部会はこれまでとする。解散だ」

 智明の宣言のあと、幹部一同は起立し、深さはそれぞれだが一礼して部屋から退室していった。

「……ふう。川崎さんが居ないと仕切れないなぁ。まだまだだよ」

 正していた姿勢を崩し、智明は会議椅子の背もたれに全体重を預ける。

「決起の演説の前よりはようなっとるよ。自衛隊に口で負けてないっちゅう話はみんなも知っとるよっての」

「そのために護衛を同席させたんでしょ。まだまだ俺の力不足だよ」

 バイクチームを束ねる川崎や山場には、チームの長に相応のカリスマ性やリーダーシップや統率力が備わっている。

 ついこの間まで教室で限られたメンツとだけやり取りしていた智明には、まだそういった格や深みや影響力のようなものは表れていないと自己分析している。

 それでもこの集団が一か所に集まっていられるのは、川崎のサポートと山場の顔があるからだろう。

 新宮の裏方として諜報活動を頼んだ山場は、チームのメンバーに自身の戻るべき場所について一言残していったらしく、空留橘頭のメンバーはその言葉を頼りに残ってくれているともいえる。

 そういったドラマを重ねてきたからこそ、淡路暴走団も空留橘頭も明里新宮に残ってくれているのだし、智明も両者を分け隔てしない証として幹部会を設けたのだ。

「ほない腐したもんとちゃうで。キングが自衛隊を攻撃したんもみんな見とるし、そのあと回復させたんも知っとる。上司部下で考えたぁあかんかも知らんけど、信じんひんかったぁ信じてくれへんにゃさかい、最後まで信じなあかんで」

 慰める、というには真面目すぎる川崎の表情を見て、智明は姿勢を正し直して真っ直ぐに川崎を見返す。

「ありがとう。そういう説得力のあること、言いたいんだけどなぁ……」

「それこそ中二やんけ」

「はは、ごめん」

 智明の弱音をバッサリと切り捨て、ニカッと歯を見せた川崎に智明も口元を緩めた。

「……ところで、キング。例の陰陽師ちゃんは、その後どうなった?」

 急に声をひそめてモジモジし始める川崎にドン引きしつつ、智明は少し目線を外して答える。

「まだ何も聞いてないよ。これからちゃんと話をしようと思ってるとこだよ」

 城ヶ崎真に頼まれて鬼頭優里きとうゆりを取り戻しにきた少女・藤島貴美ふじしまきみ

 自衛隊との会談や幹部会の発足ですでに四時間ほど本宮に放置したままだ。

 ――逃げちゃったなら、それはそれでいいんだけどね。いや、むしろ逃げててくれた方がややこしくなくていいのかもしれない――

 貴美の艷やかな黒髪と純和風な面立ちを思い出しながら、智明は小さくため息をついた。

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