広がる波紋
大事の前
六月も後半に入ると淡路島の内陸部では田んぼに水を引き、田植えの準備に入る。七月にはそこここの水田で苗が背を高くし、辺り一面が鮮やかな緑に染まる。
しかし遷都が決定してからの淡路島は、リニアモーターカーが走る高架橋の建設や、新しい国会議事堂やその関連施設、更には大手企業の本社移転や商業施設やテナントビルの乱立などで、緩やかに開発が進んで田畑は減少の一途をたどっている。
これまで淡路島ブランドとして認知を進めてきたタマネギ・レタス・サニーレタス・ハクサイなどの農産物は、作付け自体が減少したため収穫量も激減し、これまでの農家の減退や跡取り問題とは別の問題を生んでしまった。
同様の問題は酪農と畜産でも取り沙汰されていて、山あいや丘陵に牧場を持つ酪農家はさほどでもないが、平野部では周辺の環境の変化や匂いの問題などで頭を痛めていると聞く。またブランド化した牛肉や牛乳の品質も問われ始めている。
淡路瓦の工房や線香業者は農業や酪農ほどの影響を受けていないが、都市化から受ける影響は各産業に少なからず起こり、行政への訴えかけをしようにも
これは国生市の暫定組織として設けられた警察組織も同じで、南あわじ署と洲本署の上層組織となるはずの国生警察もまだ仮設で、署長も配属警官も仮配属なのだ。
「……警察がどういった対応をとったかは理解しましたし、署員の方々に死亡者や負傷者が出ている事も承知しました。しかし――」
旧南あわじ市庁舎の最上階、市長の執務室に六人の警察関係者が集められていた。
「――新居所の私的占拠を、こうも長く解決できないでいることの説明にはなっていない。このまま長引けば警察だけの問題ではなくなり、マスコミの封じ込めも効かなくなる」
三期目の任期を迎えた市長
「お言葉ですが、現場では常識の範囲を越えた状況が続いているのです。我々としましても事件解決に全力は尽くしますし、その方策も整えております。ですが、尋常ならざる状況では限界というものもあります」
国生警察署長
「尋常ではないから手に余る、と?」
「そこまで飛躍されては誤解を生みます。そうではなくて、警察組織に許された範囲では限界がある。そういう規模である可能性をご考慮いただきたいのです」
笹井の返事に柳本市長は沈黙したが、笹井を見据える視線は一向に緩めない。
世間的には病院襲撃事件として公表された
中学生が一日でこれだけの騒動を巻き起こしただけでも異常ではあるのだが、新皇居の工事に赴いた業者の一団を不思議な力で負傷させたり、その業者からの通報で急行した警察官が行方不明になったりと、不気味な報告ばかりが続いた。
それから一週間、国生警察及び南あわじ警察並びに洲本警察の合同で対策本部を構えて捜査員を送ってはいるが、事態は膠着状態に陥っている。
柳本には笹井の言わんとすることは分かるのだが、柳本の市長権限で事を進めてしまうとあの手この手で守ってきた市長の座が危うくなる。自らの立場を守りつつ危ない橋を避けるためには、他の者に責任を負ってもらわねばならない。
それは笹井も同様で、ようやく仮の署長というポストまで上ってきたのだ。異常な事件が起こったことはどうしようもなく犯人にその理由を聞くしかないが、部下が不必要に傷付いたり事件が長引くことは笹井の本意ではないし、新皇居という扱い辛い場所が舞台というのも対処に困るのが本心だ。願わくば南あわじ市長に早急な自衛隊の出動要請をしてもらいたいのだが、柳本市長のあからさまな保身に手を焼いている。
どちらも醜い根比べをしていることは承知しているが、命の危険よりもまだまだ立場の危険の方に重きをおいているフェイズだ。
「……笹井さん。お気持ちやお考えはよく分かるんですがね。異常な事件だからとマスコミに規制をかけているのに、強硬手段をとるわけにもいかないでしょう。犯人がよほど反社会的だったり非人道的でない限り、選択肢は一つしかない。そうでしょう?」
「…………分かりました。容疑者が少年という部分も社会的な影響となり得ますし、新皇居というデリケートな場所も考慮して、もう少し対応を検討してみましょう。しかし、マスコミの動きやこれ以上の事態の悪化が見込まれる場合は、市長のご判断をいただかなくてはなりません。そこは、お約束していただけますね?」
笹井からすれば責任逃れを堂々と表明した形になるが、そもそもの柳本が警察に醜態を晒し続けろと突き放したのだから、このくらいの仕返しは屁とも思わない。
「ふむ。確かにマスコミが要らぬ尾ひれを付けてきては困りますからな。宜しい。約束しましょう」
「……では、本日はこれにて」
柳本の不遜な態度にも律儀に頭を垂れて笹井は退室したが、南あわじ市庁舎を出て公用車に乗る前に、同行していた警察署長に緊急の会議を開くことを告げて国生警察仮設署へと戻った。
わずかばかりの休憩の後に、笹井をはじめ三人の署長は仮設署の会議室へ引っ込んでしまうと、付き添った刑事たちに少しばかりの空き時間が出来る。
彼らは彼らで合同捜査の会議を持たねばならないのだが、先般の柳本市長との会談の様子からするに、新皇居占拠に関しては現場の刑事の出番はもうないようだ。
「残念だったな」
国生警察仮設署最上階の喫煙所でタバコを吸っていた黒田のもとへ、洲本署の
タバコを吸わない浜田がわざわざ喫煙所を訪れ、嫌味ったらしく慰めの言葉をかけてきたので、黒田の機嫌は一気に悪くなる。
「なにがや?」
「そんな顔をしなくてもいいだろう。大きな事件の合同捜査が不本意な結末に向かってるんだ。同期のよしみで慰めに来てやったんだぞ」
「アホか」
嫌味な笑顔を隠そうともしない浜田に、黒田も嫌悪を隠さずに罵倒する。
なにかにつけて黒田と張り合おうとする同期に対して、今日ほどストレスを感じたことはない。
「なんだと?」
「今の状況を見て俺らがお役御免になったと思ってるなら、お前はアホだと言うたんや」
「ふん。くだらん虚勢だな」
明らかな怒気と敵意のこもった黒田の視線に、浜田はやや怯んだ。
「この際だから言わせてもらおう。お前は出世だ何だにこだわる余りに職務を疎かにし過ぎだ。お前の出自を考えればもっと上にいられるはずなのにと思ってるんやろ? 俺と違ってお前はエリートコースに乗ってるはずやからな。けど一向に俺の上に立てない事が悔しくていちいち俺に絡んできよる。その根本的な原因は、全部お前の怠慢と驕りが評価を下げとることに気付いとらん。そんなこっちゃ俺を踏み潰すこともできんし、警視庁高官なんぞにはなれん。思い知れ!」
黒田の言い様に浜田も眉を吊り上げて睨みつけてきたが、怒りすぎて言葉が出ないのか、唇を震わせてただ黒田を睨むだけだ。
「そんなに手柄や名誉が欲しいなら、今からでも合同捜査の責任者を譲ってやんぞ? まあ、お前が処理しきれるとは思わんがな」
「ば、馬鹿にするな!」
タバコをもみ消している黒田を怒鳴りつけて立ち上がったはいいが、両手をわななかせても言葉を継ぐこともできず、浜田は喫煙所のドアを蹴破るようにして立ち去っていった。
入れ替わるように南あわじ署の長尾が喫煙所に入ってくる。
「なんですか、アレ」
「エリートコースから脱落しかけの負け犬や。気にせんでいい」
ぶすっとした顔のまま新しいタバコに火を着ける黒田を眺めつつ、長尾は紙パックの野菜ジュースをすする。
「同期じゃないですか。デリケートな人なんですから優しくしてあげてくださいよ」
「デリケートやったら、捜査資料と報告書と自衛隊への引き継ぎ書やらに忙殺される俺を労ってくれるもんやろ。ケンカの売り方が悪かったら損するっちゅう勉強や」
未だイライラの収まらない黒田にやれやれと溜め息をつきつつ、長尾は本題へと話を変えた。
「それで、このあとはどうするんです?」
「どないもこないも、もう警察に出来ることは人海戦術しか残ってない。三署合同で集めれるだけ集めて囲んでみる」
「分かりますが、世論がどんな反応をするか……。負傷者や死亡者が出ると叩かれますよ?」
「んなもん、現場を知らん素人の日和見や。どうせ俺の首一つしかかかっとらん。誰がやっても今はこれしかない」
紫煙を吐きながら話す黒田だが、長尾は言葉ほど黒田が腹をくくっているようには感じなかった。
「何か別のことを考えてますね?」
静かに問うた長尾に、チラリと視線を向けた黒田だが、キッチリ根本までタバコを吸ってもみ消すまで沈黙した。
「……これはオフレコだぞ?」
「……ハイ」
「表向きの捜査とは全く別個の方面から手を回してることがある。今度の強硬策があかんかったら、ちょっとそっちの線から考えてみようと思う」
長尾には黒田の言っていることが何一つ分からなかったが、これは長尾や警察組織を巻き込まないためにあえて伏せているのだと解釈した。
黒田は元は南あわじ署の刑事であり、長尾を育て上げた先輩でもある。捜査の手順から聴取の駆け引き、経費の抑え方からサボるタイミングまで色々と教授を受けた。
その黒田が考えや行動を悟らせない話し方をするということは、警察の捜査や社会通念や一般常識から逸脱した動きをしようとしている、と長尾に匂わせているのだろうと想像した。
「黒田さん。まさか辞める気ですか?」
「アホか。なんぼ出世の芽がなくても、社会正義と刑法は絶対や。警察は倒産もないんやし、クビ食らうまではしがみつくよ」
「……ですよね」
少し時代遅れな口上に寒気がしたが、黒田の刑事魂が衰えていないことに長尾は安心した。
「まあ、さすがにお前の部下になるようなことがあったら辞めてまうかもしれんけどな。恥ずかしよっての」
「お戯れを」
浜田より長尾の方がエリートコースの王道を通っていると噂されているのを知っていて黒田のこれである。
冗談めかして大笑する黒田を見ながら長尾は愛想笑いが精一杯だった。
ポートアイランドからポートライナーで三ノ宮まで出て、北野坂を北に上っていったイタリアンレストランに、
ポートアイランドに設立された国立遺伝子科学研究所に篭りきりだった二人には、久しぶりの外食となる。
もともと神戸市中央区北野界隈は異国情緒が観光の売りの一つだが、二人の訪れたレストランは十九世紀頃の洋館を改修し、内装や調度品や絵画などにも拘った落ち着いた雰囲気のレストランで、ランチタイムを過ぎて客入りが少ないことがなお二人をリラックスさせる。
「このラム肉のソテー、絶品ね」
「んまいっ!」
優雅にフォークを動かす玲美とは対象的に、鯨井はマナー度外視で食欲優先で口を動かす。
「もう。雰囲気が台無しだわ」
「そう言うなよ。デートじゃなきゃ牛丼特盛ってくらい久々の肉なんだ。ガッツキもするさ」
デートという単語に玲美の機嫌は持ち直すが、ワインをガブ飲みする鯨井を見て小さく溜め息を漏らす。
二人は雑用程度の手伝いしか出来なかったが、珠江を始め
無論、あくまで概略がまとめられたというだけで、本格的な分析はこれから何年もの月日をかけて読み解き考察を加えていかねばならないのだが、そうなってしまっては専門外の鯨井と玲美には手伝えることがない。
「でも意外と柏木先生もお優しいのね。私達にこんな時間を与えてくださるなんて」
ワイングラスを傾け雰囲気にあった言い回しをする玲美だが、鯨井を見る視線は少し厳しい。
「そうでもなかろう。センセのどこを切り取っても『気遣い』とか『優しさ』なんて心情はないな。人間の性格や人格や感情なんぞ、脳内の電気信号の反応程度にしか思ってないからの」
玲美の視線を気にしたのか、柏木珠江から受けた過去の仕打ちを思い出したのか、鯨井は微妙な表情でラム肉のソテーを頬張る。
「……刑事さんに連絡は?」
「ん? ああ、済ませたよ。時間がかかったことを散々に愚痴られたが、あっちはあっちで立て込んでるらしくてな。三日ほど経たんと神戸には出てこれんそうだ」
「そうなの」
ウエイターが次の料理を運んできたので、しばらく黙る。
「だがね、それはそれでこっちも他のことを調べる時間が作れるからの。空き時間が出来ちまうと文句を言い返しておいたが、ま、おあいこだな」
運ばれてきた夏野菜と鶏ハムのパスタをフォークに絡め取りながら鯨井は気分良さそうに笑う。
玲美もボンゴレビアンコを口に運び、口内に広がる白ワインとハマグリの風味に目を細める。
「意外と気が合うみたいね」
「たまたま利害が一致しただけやろ」
心外だと言わんばかりに口を尖らせた鯨井だが、この一件に関してはあの刑事と関われたことは良かったと思う部分もあるにはある。
黒田のように柔軟で不真面目な部分を持ち合わせた刑事でなければ、あのタイミングで淡路島を出ることは叶わなかっただろうし、柏木教授の元で高橋智明の細胞を調べるなどということも許されなかっただろう。
だからといって彼の粗野で横暴でお節介な物言いを好きになれるわけではないが。
「またそんな言い方をして……。ということは、また誰かに会いに行くんですか?」
黒田と鯨井の仲をつついても楽しそうな話ではないと感じ、話を戻してみる。
「いや、どうかな。文献や論文を漁るだけで終わりそうだが、会って話すべき人に行き着いたら移動することになるかもしれん」
パスタをまた一口食べてからワイングラスをもたげて伏し目がちに答えた鯨井は、どこかに迷いがあるように動きを止める。
パスタを食べ勧めながら玲美はそんな鯨井の様子を観察していたが、鯨井の頭の中が予想できなかったので尋ねてみることにした。
「何か、気になることでもありましたか?」
「いや、そういうわけじゃない。ただまあ、変なことに首を突っ込んじまったなぁって思っただけさ」
玲美の問いに笑顔で答えた鯨井だが、頭の中では様々な単語や感情が乱れ飛んでいて、もっとキチンと玲美に答えねばと思ってもまとめられないことに焦っているのが本音だ。
ただでさえ婚約者の野々村美保を淡路島に残し、一週間以上玲美と密に過ごしている。この上さらに三日も連れ回すとなると、美保の元に戻ってからのことを考えてしまう。
「そうですね。やむを得ずとはいえ、医者の仕事ではないものね」
「ああ」
ボンゴレビアンコを食べ終えた玲美は、ナプキンで口元を清めながら、仕事をほっぽり出して鯨井と行動している自分を棚に上げつつ、こんな機会を利用した自分を自嘲した。
それでも鯨井に固執した玲美には、どうしても聞いておかなければならないことがあった。
「このタイミングで聞くことではないのかもしれないけれど、聞いてもいいかしら」
「何だい」
「孝一郎さんと柏木教授の関係、公表してないですよね。なぜ?」
「気になるか?」
「それなりに……」
この一週間、解析作業に関わる傍らでずっとこの問題が二人の間に横たわっていた。
鯨井としては自分から玲美に話すようなことではないし、玲美にしても強く鯨井から聞き出さなくてはならない話でも関係性でもない。婚約者のいる元彼に非公表の家族がいたとしても、今の玲美が説明を求める権限もないし、鯨井に説明する責任もない。
「拒否もできるんやが、居心地悪いし、話さなしゃあないかの」
「私なんかでごめんなさい」
鯨井の婚約者である美保ではないことを詫びたが、鯨井は手を振って不問にする。
「美保ちゃんには彼女らの存在すら匂わせられんよ。まあ、やましい事は一切ないんだがの」
そこまで前置きしてから鯨井はパスタを食べきり、ワインを一口含んでから口元を清めて姿勢を正した。
「どこから話せばいいか分からんから出会いまで遡るんやが、まだ俺が野々村教授の下で脳外科の何たるかを学んどる時に、何かの会合に出席した野々村教授に付き添ったのがキッカケやった。そん時は俺は運転手みたいなもんやから柏木センセと会話することもなかったんやが、センセとはその会合が初対面やったな。それから野々村教授の元を離れて専門医育成プログラムで赴任した病院でセンセと再会した。もちろん、最初の会合の時に会話もろくに交わしてなかったから、センセは俺のことなんか覚えてもいなかったが、顔を合わせるのが二度目だと伝えたら気安く接してくれてな。師匠と同等の権威であり異端児が口を聞いてくれるってのが嬉しくて、調子に乗っちまったのかもしれん」
鯨井は一旦言葉を切ってデザートのアイスクリームを口へ運ぶ。
「柏木センセはああいう人だから、周囲から浮いていても気にしないし、むしろ余人を寄せ付けないように振る舞うような人だから、センセにすり寄る奴なんか居なかった」
「孝一郎さんは違った?」
「可愛がられていた、と言っていいか分からんが、若気の至りで柏木センセにじゃれていった俺を、センセはなぜだか構ってくれていたよ」
昔を懐かしんで不器用にはにかむ鯨井を、デザートを食べ終えた玲美はテーブルに両肘を付いて組んだ手の上にアゴを乗せて聞いている。
「気に入られたのね」
「かもしれん。柏木センセに打算も野望もなく尻尾振ってじゃれつくなんて、普通なら恐れ多くて出来ないからな。センセからしても変な奴がまとわりついてきたと思ってたかもしれんの」
冗談めかしつつ、コーヒーを一口すすって続ける。
「そんなこんなしてたある日。俺の専門医育成プログラムが終わろうって時に、柏木センセに食事に誘われた。そんな事をする人じゃないから、指定された店にすっごい緊張して向かったのを覚えてる。……結果、話の内容なんてのは柏木センセが病院を辞めるってだけの話だったんだが、手伝って欲しいことがあるから、連絡先を教えろと言われた」
話が長くなってきたのでタバコを吸おうと取り出したが、禁煙なのを思い出して手持ち無沙汰でコーヒーをすする。
「それで?」
「うん。それから二年後に、突然電話がかかってきて、遺伝子解析研究所の責任者になったから神戸まで来いと言われたよ。まあ、その頃の俺はまだお気楽に地方の病院で脳外科医をやってたから、誘われるままに研究所を訪れた。菓子折りなんか持っていってな。……そうしたら、研究課題のために精子を提供しろと言われた」
「柏木先生らしいわね」
「今だから話せるが、当時は焦ったよ。花も盛りを過ぎた年上の女性から『精子を提供しろ』なんて言われたら、何事かと思うわな」
さすがに玲美も手を解いて不安顔になる。
「……セックスを求められたということ?」
「まあ、うん、そういうことだ」
一瞬、玲美の脳裏に高齢の柏木珠江と鯨井のまぐわう姿が浮かんでしまい、小さく身震いした。
「待て待て! 勘違いせんでくれ! ないぞ! してないからな!」
あからさまに引きつった顔をした玲美の誤解を解くため、鯨井は思わず身を乗り出して声が大きくなった。
「ええ、でも……」
「人工授精だよ。遺伝の研究だけじゃなくて、人工受精も柏木センセの研究対象なんや。さすがの俺も柏木センセを抱くわけないやろ」
「そ、そう。そうなのね」
鯨井の狼狽ぶりから真実味を感じたので、一応の納得をして玲美はカップに口を付け、気持ちを落ち着ける。
「でも、最初はそのつもりだったのね。柏木先生らしくないわね」
「ああ。あの人間嫌いで偏屈な異端児が、研究のための準備とはいえセックスを是とするなんて、天地がひっくり返るほど驚いたよ。よりによってこんなクソ生意気な若造にだもんな」
玲美が落ち着いたのを見て鯨井も椅子に座り直す。
「よほど気に入られたのね。どうやって断ったのかしら?」
玲美の質問を意地悪い感じに思いながら、それでも鯨井は真面目に答える。
「気に入られたというより、他にアテがなかったんだろ。助手や弟子も居るには居たが、センセが気を許せるほどではなかったように思う。俺に気を許してくれてたとも思わんが。……とりあえず俺にも女は居るし、尊敬するセンセを抱くという発想がないって断ったよ。決め手は『妊娠するんですよ』だったな」
懐古しながら苦笑いする鯨井に玲美はハテナ顔を向ける。
「どういう意味かしら」
「うん。柏木センセはずっと独身を貫いてらっしゃるが、遺伝や遺伝子操作を研究してるくらいだから、当然妊娠に関わるデータも持ってらっしゃる。ということは、つわりや陣痛や体調の変化や体機能の変化も分かっているわけだから、それを体現できるのかと逆質問したわけさ。そう言われてシミュレーションしない研究者はいないし、柏木センセの性格上、妊娠のために研究が制限されるなんて耐えられるわけがない。結果、取り出した精子で人工授精に至ったというわけだ」
少し胸を張って話す鯨井を見ながら、玲美は核心へと話をすすめる。
「そうして孝子さんや一美さん、一郎君が生まれたのね」
どこか面立ちの似た三兄弟は、名前の一字を取り出して並べると『孝一郎』になる。
「まさか三人も育ててるとは思わなかったよ。協力者がこんなこと言っちゃいかんのかもしれんが、研究目的で人を産み育てるというのは、やっぱり複雑な気持ちだよ」
「それだけ?」
「ああ。他に何かあるか?」
急に詰め寄るようにトーンを落とした玲美を、鯨井は怪訝な表情で問い返した。
「ご自分の子種でしょうに。ちょっと無機質すぎじゃないですか? お腹を大きくして痛みの中から産まれ出た命ですよ?」
少しずつ滲んできた怒りのトーンに鯨井は慌てる。
「ちょ、ちょっと待て! 俺が愛情をもって柏木センセを抱いた結果、彼らが産まれたのならもっと人間らしい感情で話すことはできる。だけど、俺は孝子が産まれて少ししたくらいに一度顔を合わせただけで、そこからは時々メールをやり取りするくらいなんだ。親子や父親なんていう繋がりや感情は、一般家庭よりは薄いよ」
玲美がこんな感じで感情的になって怒りを顕にすることは珍しいので、なるべく正確な説明をせねばと鯨井の説明は長くなった。
玲美は玲美で、別れた旦那の元で暮らす二人の我が子と重ねてしまった事を悔いていた。
鯨井のケースと自分のケースでは、考え方や捉え方の出発点が違いすぎたことに後から気付いたからだ。
「ごめんなさい。うちの子のことを思い出してしまって、感情的になってしまったわ。……でもこれだけは改めて欲しいのだけれど、いくら人工授精でも仮腹となる母体がなければなし得ない。それが柏木先生本人が受胎したのか、別の代理母を設けたのかは分からないけれど、彼らは痛みを超える慈しみがあってこそ、産まれ出たはずよ。そこだけは意識の隅に置いておいて下さい」
「……そういうことか」
決して失念していたわけではないが、普段から玲美は旦那の元に引き取られた子供の話はしないし、そのことに悔いや未練がある雰囲気も匂わせない。そのために鯨井も玲美を独身女性として扱いセックスにも応じたのだが、こうして医者としての観点ではなく、母親としての感情で訴えられてしまうと、無下には扱えない。
先程は軽薄な物言いをしたが、鯨井にも自らの分身たる遺伝子が存在しているという感慨は持っているし、長女孝子がハイティーンになるまでは心配もしたし支援もしたのだ。
実際に手を取り会話をし抱擁を交わすような愛情表現はしていないが、彼らを子供と認め、また父と思ってくれる彼らとの間に、親子とまでは言えなくとも遠い親戚のような繋がりはしっかりと持っているつもりだ。
「分かった。改めよう。……ちょっと話が込み入ってしもうたの。そのへんをブラブラして気分でも変えようか」
飲み干してしまったコーヒーカップを示し、なるべく自然な表情を作って玲美を促す。
玲美もカップを空にし、鯨井に合わせるように軽く微笑み返す。
「そうしましょう。やっと二人きりになれましたもんね」
「お、うん」
先程の母としての激高は何だったのかと思うほどに、玲美はあっさりと女の顔をのぞかせ、鯨井は戸惑いながらも受け入れてしまう。
店員に長居した詫びと感謝を伝えて会計を済ませ、北野坂を三ノ宮方面へ下っていく。
「……そういえば、例の刑事が言っとったが、アワジはちときな臭いことになっとるから、しばらく戻らない方がいいらしい」
「どういうことです?」
小洒落たカフェや輸入ハム専門店の前を通り過ぎながら続ける。
「うん。なんでも高橋智明が新皇居を占領しとるらしくてな。近々警官隊を大量に投入して力づくの解決を図るらしい」
周囲の通行人を気にして鯨井が小声になったので、玲美は鯨井の腕を取って体を寄せる。
「大胆ね」
「高橋も、黒田君もな」
平気で胸を押し当ててくる玲美に気後れしながら鯨井はさらに続ける。
「何人突っ込むのかは知らんが、恐らくその作戦は失敗するらしくて、そうなったら自衛隊を要請するらしい。まあ、警察でどうにもならんかったら当然の運びかなとは思うけどな」
正面から歩いてきた女性が美保と似た背格好と服装だったので、気まずくなって鯨井は視線をそらした。
「智明くんは、もうそんな状態になっているの?」
「らしいな。幸い死人は出ていないようだが、ろくに近付けもしないのに負傷者は山のように出てるそうだ」
「ちょっと、予想できなくなってきたわね」
「……ああ」
玲美が不安を押し殺すように鯨井の右腕を強く抱いた。
丁度、北野坂から三ノ宮方面を向くと神戸のビル群の隙間に播磨灘が望め、その遠くに薄っすらと淡路島の輪郭が揺れている。
空は久々に晴れ間の見えた清々しい青だが、鯨井と玲美には不安ばかりが大きくなる景色だった。
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