ニ〇九九年 七月ニ日 木曜日

 諭鶴羽ゆづるは山地は広大で奥深く、皇居建設も相まって特別保護区となり人の出入りが制限されているため、普段は静かな一帯である。

 耳をすませば鳥のさえずりが聞こえ、風の渡る流れが見え、関西国際空速や神戸空港や伊丹空港へと発着するジェット機が大空を横切る音さえ聞くことができる。

 週末の日中や夜中には、時折アワイチと呼ばれる淡路島一周のコースとして洲本から阿万へと、スポーツカーやバイクやロードバイクが駆け抜けることがあるが、二十世紀に横行した暴走族のような騒音ではない。

 だが今日の昼間はその限りではなかった。

 旧南あわじ市と旧洲本市の警察署に加え新たに設けられた国生警察の機動隊が、輸送車八台に放水車と指揮車を交えた大部隊で新皇居の奪還任務を遂行したからだ。

 大勢の人間がうごめき、その度に装備や防具が耳につく物音を立て、命令や報告が叫ばれた。

 だがそれも人々の怒号や嬌声や車両が吹き飛ばされた音の後に、少しの時間で沈静化し、辺りはいつもの静けさを取り戻した。

「…………もしかしたらとは思ったが。…………いや、甘い期待でしかなかったということだな」

 諭鶴羽山山頂北側にそびえる電波塔の影で、簡素な装束を纏った女が呟いた。

 腰まで伸ばした艷やかな黒髪を肩の下あたりで束ね、アゴまである前髪を中央で分けて耳に流して留めてある。

 和風な細面は髪型と装束に引き立てられて独特の雰囲気を感じさせるが、その表情は無い。

 歳の頃ならば十代後半というところ。

 立入禁止のはずの電波塔の鉄骨の根本で、片ヒザを付いてアカガシの木々を見張るように注視している。

「収まったか。…………戻るか」

 なす術なく退却を余儀なくされた機動隊が、虚しいディーゼルエンジンの駆動音を響かせて御山おやまを下りていったのを感じ取ったので、女は立ち上がって帰り支度に取り掛かった。

 が、御山を立ち去ったはずのエンジン音が再び皇居を目指して鳴り始めた。

「…………バイクの集団、か。しかし数が多いような…………」

 自身の感覚を確かめるように声に出し、再び目を細めて眼下の木々を注視する。

 苦もなく感じ取った映像には、女が見た事もないほど沢山のバイクが疾走していて、他人を威嚇するように不必要な騒音を巻き起こして勾配を駆け上がっていく。

 女は生まれてこの方、御山として崇拝する諭鶴羽山の山中から出ることは少なく、バイクや自動車や飛行機などの形状や機構は知識として教えられたのみで、実際に見たり触ったりしたことがほとんど無い。そのため、今彼らが皇居へと向かう最中に不必要にエンジンを轟かせている意味や理由が理解できないし、精神集中をかき乱す爆音が不愉快で仕方がない。

「…………なんて乱暴な音なのだ。父様が下界を嫌っている理由は、ああいった者共のせいかしらん…………」

 高まっていく不快感がために女はバイクを見ることをやめ、通常の聴覚でバイクの音が収まるのを待つ。

「まだ、来る!」

 やや語気を強め、眉間にシワを寄せて彼女はここに来て初めて感情らしい感情を表現した(ただし、それは純粋な怒りや腹立ちや苛立ちであったが)

 先程の一団を追うように、同じ道を同じような騒音を巻き起こして駆けていく。

 今度は注視すらせずにただただ騒音が収まるまで待つだけにした。父親と御山の教えにそって、関わる価値のない事物に触れないようにしたのだ。

 やがて通常の聴覚にバイクのエンジン音は届かなくなり、念の為に五分ほど様子を見、女はとうとうその場から姿を消した。

 電波塔から彼女のねぐらへは通常の駆け足で五分もかからないのだが、先程の不愉快なエンジン音を記憶から葬り去りたくて遠回りをした。

 物心がついた頃から修行と採集で慣れ親しんだ諭鶴羽の山中は、木々の姿が目を癒やし、鳥のさえずりが耳を清め、流れ過ぎる風が髪を洗い、湧き出る泉は体内を潤し、踏みしめる大地は全てを包んでくれる。

 十分も走れば彼女の心身は生まれ変わったように力がみなぎり、精神が研ぎ澄まされ、頭の中に宇宙を宿したような無限の活力に満ち満ちた。

 修験者しゅけんじゃとして徳を積んだ彼女は、御山として崇拝する諭鶴羽山に身を置く限り、何事においても自由自在に振る舞うことができる。

 そもそも修験者とは修験行者しゅけんぎょうじゃ山伏やまぶしなどとも呼ばれ、山や木や巨石などの自然崇拝を起源とする修験道に道教や儒教・仏教・陰陽道や神道などが複合された密教の信奉者を指す。自然に身をおいて苛烈な修行を行うことで悟りを開き徳を積み人々を救済することを目指している者のことである。

 だが修験道も一つの教義や宗派にまとまっているというわけではなく、神も仏も自然も拝む宗派もあれば、山や木や巨石のみを崇拝する一団もあり、経文や呪文が違ったりもする。

 彼女、藤島貴美ふじしまきみは諭鶴羽山を御山として崇拝し、守護神としてイザナミノミコトを崇める一派に属している。幼い頃からの修行の賜物なのか、徳を積んで人智を超えた能力を得た彼女は守人もりびととして加持祈祷かじきとうを請け負ったり、今日のような調査や観察の依頼を請け負って一派の財源を獲得している。

 もっとも、こういった依頼を請け負って金銭を受け取ることを不浄とする一派もあり、本来の救済から外れた行いだと断じる者もいる。貴美もその一人ではあるのだが、代価を取らずに無制限に引き受けることも別の問題を生むし、現代では多少なり現金を持ち合わせておかなければ思いもよらない障害にぶち当たることもある。師匠であり一派のまとめ役である父からそう説かれては従うほかない。

 諭鶴羽山の山頂より南に80メートル下ったところに諭鶴羽神社があり、その一翼を間借りして貴美が加持祈祷を請け負っている。

 神社本来の祓いごと清めごと納めごとは、創建から二五〇〇年のいわれがある神社の歴史においてすべからく歴代の宮司が取り仕切って来た。が、神職の階級や役職と、積み上げた徳と神通力とが等しくならない場合もある。

 そういった局面を代行したり、御山の警備や管理を修験者が受け持つなどして、二者はこれまで対等とも言える関係を保ってきたのだ。

「こんにちは。おや、貴美さんがこちらからとはお珍しい」

 神社の境内を竹ぼうきで掃いていた禰宜ねぎが、貴美の姿を見かけて声をかけてきた。禰宜とは、神社を取り仕切る宮司ぐうじの補佐役の名称で、宮司になる修行をしつつ雑務などを担う役職のことだ。貴美とは加持祈祷の申し合わせなどで何度も顔を合わせているので、挨拶や世間話など気安く声をかけてくる男だ。今日はどうやらいつも裏手から現れる貴美が表参道から境内に現れたことが意外だったらしい。

「こんにちは。見回りのついでに少し寄り道をしてきたのです」

「左様ですか。ご苦労さまです」

「ご苦労さまです」

 いつもと変わらぬ他愛ないやり取りだが、丁寧なお辞儀をする禰宜に貴美も同等の礼を返し、掃き掃除を再開した禰宜の前を通って裏手へと進む。

 その間に貴美はまた父親の言いつけを守れなかったことを心で詫びた。

 貴美は守人としてその能力を加持祈祷で活かしているし、万人を救済するという使命を絶対のものと考えている。

 しかし幼い頃から修行中心の生活をしてきたせいか、人との接し方や人の名前を覚えるということが不得手で、一緒に修行に取り組んでいる修験者以外の人名を覚えられないでいる。先程の禰宜だけでなく、宮司や巫女の名前すら覚えられないでいるくらいだ。

 父親からは『諭鶴羽神社の神職達には世話になっているし、長年顔を合わせている近しい存在なのだから、名前を呼んでくれる方の名前は必ず覚えて呼び返しなさい』と何度も注意を受けている。

「無理なことは無理なのだ」

 詫びの気持ちと同じかそれ以上に開き直って独り言を呟き、木陰に隠れるように建っている塒の前で貴美は一旦立ち止まる。

 自らに課された依頼を全うしたかを自問し、伝えるべきことを整理してから貴美は帰還を告げた。

「父様、只今戻り申した」

「貴美か。入りなさい」

 いつもと変わらぬ父の声を受け、一拍おいてから貴美は板戸を引いて入室する。

 屋内は三間に仕切られていて、一番奥が貴美と女性の修験者二名の寝床になっていて、真ん中に貴美の父を含む男性五人の寝床、そして一番手前の部屋が炊事や食事など雑多な用を済ませる部屋になっている。

 貴美の父公章こうしょうは一番手前の部屋で、修験者の正しい身なりで草履ぞうりを修理していた。

「どうであった?」

 修理の手は止めたが、公章は胡座をかいて座ったまま貴美を見上げながら問うた。

 貴美は父から少し離れて正座し、一礼して答える。

「やはり彼奴きゃつの力は強大で、機動隊では歯が立ちませなんだ。その様は赤子も同然」

「やはりか」

 公章は苦々しい顔で手元を睨み、逡巡の末に貴美を見つめる。

 その視線の意味を察知して貴美は思わず視線をそらしてしまったが、この一週間の隠密行動から避けられぬことは分かっていたので、覚悟を込めて父の目を見つめ返した。

「まとめ役たるかしらとして聞く。依頼は果たせそうか?」

 父ではなく一派の長として問われ、貴美は太ももに据えていた右手をずいと伸ばして床に付き、前のめりに詰めて誓いを立てる。

「……全身全霊をもってかかりまする。御山を守り、万民を導くのが我が使命。法章ほうしょう様の離反が生んだ一派の汚名は、貴美が雪いでご覧に入れます」

「そのことは言うな」

 我が子の言葉が公章の心の傷をえぐり、思わず視線を外す。

 貴美が口にした『法章』とは先代の守人のことで、公章の兄に当たる人物だ。

 貴美と公章が属する一派は淡路島では最大規模と目されるほどの大所帯で、他の宗派にも先達として世話をし頼られる存在であった。その中で法章は若くして強い霊力に目覚め、顕現した力は加持祈祷に遺憾なく発揮されてちょっとした流行にもなり、テレビやマスコミなどにも取り上げられて政治家や著名人に救世主のように祭り上げられた。

 世間は『よく当たる占い師』程度の認知だったのだが、内部では受け取り方が真逆で、政治家や著名人から包まれた寄進が破格な金額であるという噂がたち、『一派の目指す教義から外れた行いだ』と非難し信徒は半減してしまう。これを取りまとめようと公章は東奔西走したのだが、当の法章が責任をとって離反を申し出た。しかし法章が名を変えてまじない事の商売を始めてしまったことでさらなる批判を生み、信徒はほぼ居なくなってしまった。

 結果、公章は法章と喧嘩別れの形になったことを未だに傷として抱え、二十歳にもならない貴美に教義に反する営業をさせている事態が、さらに公章を苦しめている。

「……申し訳ございません」

 貴美は正座のまま一歩下がって深く頭を下げた。

 そんな我が子を目にしつつ、公章はため息とも深呼吸ともつかぬ長い息を吐いて、娘に言う。

「父親として言うよ。お前には申し訳ない思いでいっぱいだ。こんな忍者とも魔法使いともつかない汚れ仕事ばかりさせてしまっている。本当にすまないと思っているよ。しかも今回は得体の知れない超能力者だと言うじゃないか……。そんなものに命をかけさせるなんて、私は情けない父親だ。だから貴美。……お前の本心を言ってくれないか。それ次第では、こんな仕事は断ってもいいと思ってるくらいだ。貴美、どうなんだ?」

 崩した口調で話しかけてきた父に動揺し、貴美は驚きとともに慌てた。

 いつもの泰然とした父ではなく、不安や弱々しさをさらけ出した父の顔に、どんな態度や言葉を返せばいいかが分からなかったのだ。

 だが貴美の内心でホッと安心する部分も感じていた。自分を教え導いてくれていた父の姿は、他の信徒に対する態度と何ら変わらないように見えていた。しかしその内には自分に対する父としての愛情や心配などがちゃんと秘められていたと知らしてくれた。

 ――今だけなら言っても良いのではないか?――

 貴美の内に秘められている子供の心がざわつく。守人として、まとめ役たる頭の娘としての殻を少しだけ開いてしまいたいと欲する。

「……わたし。……私は……」

 父の言葉に答えなければと言葉を発しようとするも、貴美の唇は震えて思うように動かず、辛うじて発した声も震えてしまってちゃんと言葉になっているかも怪しい。

 若干震え始めた体はさらに貴美から声と言葉を奪ってしまう。

「……怖い、です……。あんな…………化物、の。……前に立つ、のは。…………戦うなんて。無理っ」

 もはや貴美の口から発せられるのは言葉ではなく嗚咽に変わり、いつからか視界がグニャリと歪み始め、頬を伝う涙でようやく自分が泣いているのだと気付いた。

 口を閉じても火山の噴火のように唇を押し割って嗚咽が漏れ、まぶたを閉じ何度拭っても涙は止まらない。

「分かった。分かったよ。貴美、もういいんだ」

 いつの間にか公章は貴美に体を寄せ、十数年ぶりに我が子を抱きしめていた。父の体温を感じた貴美も、父にしがみついて声を上げて泣いた。

 どのくらいそうしていただろう。

 公章が貴美の背中をさすり、貴美も泣き声を潜めてひっきりなしに鼻水をすすり始めた頃、貴美はそっと父の体を押し返した。

 落ち着きを取り戻した娘を認め、公章は素直に体を離して娘の様子を伺う。

「…………お父さん。ありがとう」

「ん。……早速この話を断る連絡をしてくる。今ならまだ断ることができるから」

 決意の表情で告げた公章に、しかし貴美は装束の袖で涙を拭ってから答えた。

「……父様。本当に断るなどということができますでしょうか? 此度の依頼は『あの方々』のご依頼のはず。きっと今更断るなどかなわないでしょう」

「かもしれん。我が一派の存続を左右する発言もあった。断れば我々は御山にいられなくなることは間違いない。しかし、優先すべきはそれだけではない」

 貴美の指摘に公章は悲痛な面持ちで認めこそすれ、貴美の生命が大事だと断じてくれた。

 それだけでも貴美には満たされるものが有り、困難な依頼を果たすための勇気が湧く。

「恐れはあり申す。しかし、これは大義ある行い。……私が向かわねば別の守人や軍隊が動いてしまいまする。きっとやり遂げてまいります」

 しっかりと公章を射抜く目はすでに娘から守人のものへと変じてい、頭へと戻りきらない公章を慌てさせた。

「……出来るのだな?」

 再度の問いかけに、貴美は真っ赤な目のまま答える。

「はい」

「相手は化け物だぞ?」

「この一週間で力の片鱗は把握しており申す。手も使わずに木々や車を持ち上げ、腕の一振りで大地を裂き、気を固めて銃弾を弾き、高圧の水すら通さない壁を作る化け物。……しかし、まだ私という同種の存在には気付いておらぬはず。そこに付け入れば勝算はあるかと……」

 我が子の覚悟を決めた目に、父としての躊躇ためらいが公章の口を重くする。だがここで引き止めることは貴美の覚悟を無下に扱うことになる。

 断腸の思いで公章は貴美に命じた。

「あい分かった。しかし命を無駄にせず、よく機会を伺って取りかかり、きっと使命を果たして戻って参れ」

「はい!」

 力強く応えた貴美は床に付くほどに頭を下げ、直ったあとにしっかりと父と視線を合わせてから塒を出ていった。

 一人きりとなった公章は瞑目して天を仰ぎ、大きな深呼吸をして貴美が出ていった板戸を見やる。

 そっと短く厄除けの呪いを呟き、草履の修理を再開した。


 同日、午前九時。

 城ケ崎真じょうがさきまことは滋賀県に居た。

 大阪市此花区で某有名企業の開発研究者と会い、骨や筋肉を機械化するというHDハーディーという技術を紹介され、その日のうちにHD化するためのナノマシンの集合体である『種』を飲み、二日間の経過観察を終えてまたバイクでのロングツーリングとあいなった。

 今回も大阪市内から京都を経て滋賀県まで高速道路を走ったが、前回よりも真の消耗も少なく、また渋滞などにも引っかからなかったので四時間強で到着した。

「真。紀夫見なかった?」

「ふぁい?」

 気の抜けた返事をしながら真は頭を持ち上げると、なんとも言えない顔で田尻が真を見ていた。

 あまりにもベッドの寝心地がよく、まだ真のスイッチはオフのままだ。

 どういったコネがあるのか想像もつかないが、大阪で二日間宿泊させてもらったホテルも、滋賀県に入って連れられるままに宿泊したこの貸し別荘も、全て本田鉄郎ほんだてつおが用意してくれたものだ。

 資産家が使用しなくなった別荘を売却して、買い取った不動産業者が次の買い手が見つかるまでのとして貸し出しているそうで、琵琶湖のすぐ傍の広い敷地にはテニスコートがあったり、二級船舶免許を持っていれば敷地内の桟橋からボートを出してバスフィッシングも楽しめるという正しく金持ちの別荘らしい別荘だ。

 ベッドも真を虜にするほど寝心地がいい。

 とはいえ、真がベッドと一体化してしまっても仕方がないとは思いつつ、旅行やレジャーで来たわけではないから田尻が微妙な顔になってしまうのだ。

 ましてや共通の目的があり、テツオの手配した別荘に居るのだ。田尻が真面目になるのも当然といえよう。

「いい加減に起きろって」

「……はい。スンマセン」

 田尻の強い口調に自分の立場を思い出し、ようやっと真はベッドから分離した。

「昼頃にまたオッサンらが来て、HDの検査があるだろ? それまでに体操とメシを済ませたいんだ」

「そうでした。……顔洗ってきます」

 田尻の口調は元の優しい口調に戻っていたが、予定が詰まっていることを意識して真は自発的に動く。

「紀夫見つけたらテニスコートの方に行ってるからな!」

「分かりました!」

 中学生らしい真の元気な返事に、田尻はリトルリーグ時代の後輩を思い出して顔がニヤけてしまう。

 一方の真は中学校のバスケット部の緩い縦構造の経験しかないため、友人やクラスメイトの言う本格的な『厳しい縦社会』というのは情報として持っていても、さっき田尻が発したような緊張感や重圧には過敏に反応してしまう。

 ――WSSウェッサイもあんな感じなのかな――

 一瞬だけ不安がよぎったが、それはそれで学んで適応していけばいいやと思い直す。

 まだ真は十五歳なのだ。高校に進学すれば環境が変わるわけだし、大学進学や就職を経ればまた変化するのだから、大層なことではないと思えた。

 事実、顔を洗って歯を磨いている真の体内では、篠崎と木村から授かったナノマシンが体中を駆け回り、骨や筋肉を改造しているはずなのだ。

 それでなくても人間の体というやつは、代謝機能として脳神経や体細胞は常に新しい物へと入れ替わっていくのだと、篠崎と木村から教わった。

 智明のような突発的で衝撃的な変化だけが強力な能力を生み出すわけではない。

 ――人はいつだって変わり続けていける――

 歯磨きをしながらだったが、真は真理にたどり着いたような気がして少し嬉しくなった。

 その頃田尻は、貸し別荘のほとんどの部屋を見て回ったのに紀夫を見つけられず、捜索の手を屋外に広げたところだった。

 玄関を出ると広めの玄関ポーチがあり、石膏せっこうで作られた模様入りの丸々としたプランターがベンチとともに並んでおり、厚みのある細長い葉の木とも花とも分からない植物が茂っている。

 玄関ポーチの正面にはロータリーを挟んで黒い鉄柵の正門があるが、誰かが外へ出た様子はなかったので左手側から建物を回ってみようと歩き出す。

 正門から外壁にそって手入れされた植え込みが青々と輝いており、田尻に今日も熱くなるぞと責め立ててくる。

 それ以上に太陽が田尻のスキンヘッドを刺してくるし、ロータリーから奥の駐車場までの通路のアスファルト舗装がじんわりと体力を奪う。

「お! 居た居た」

 駐車場脇のガレージが見えてくると、シャッターが半開きにされており、微かに作業の物音も聞こえた。

「何やってんだ?」

「おお、起きたか。この一週間、走ったら長距離だし、かと思えば二日間停めっぱなしとかだろ? メンテしとかないと怖くってな」

 バイクの向こうからヒョコッと顔を出した紀夫は、一瞬だけ田尻を見てすぐにまたバイクの影に消えて作業を続けながら答えてきた。

 通勤や通学、マイカーを週に一度少し使うなどであればメンテナンスの頻度は定期的なもので構わないが、紀夫が言うように急に長距離を走ったり長時間動かさないとなると、故障とまではいかないが走行中に不具合を起こすことがある。ギアの変速が上手くいかなかったりエンジンのかかりが悪くなったりバッテリーが上がってしまったりと、放置よりも極端な酷使の方がトラブルは起こりやすい。

 それは田尻にも分かっていることだが、黙ってやり始められるといい気分はしない。

「分からなくはないけど、声くらいかけろよ」

「ああ、スマン。俺がやり始めたから紀夫も便乗したんだよ」

「テツオさんも居たんすか。すんません」

 ガレージ奥の物陰からウエス片手に現れたチームのリーダーに驚き、機嫌を損ねないように田尻はすぐに謝った。

 作業の物音は紀夫のバイクからだけだったので、テツオが居ることに気付かなかった。

「いいよ。俺も急に思い立って始めちまったからな。そろそろ体操しなきゃだっけか? 真は起きてるか?」

 田尻を萎縮させないためか、それとも本気で気にしていないからか、テツオはウエスで愛車のガソリンタンクを磨きながら問うてくる。

 田尻は内心ホッとしながら、自身の愛車を今すぐ手入れできないもどかしさを押し隠しながら、リーダーに答えた。

「さっき起こしときました。テニスコートの方で体操しようって声かけてます」

「そうか。紀夫、終わりそうか?」

 ガソリンタンクを拭き終わってバックミラーに取り掛かったテツオは、まだガチャガチャとやっている紀夫に声をかける。

「すんません。もうチョイかかります」

「いいよ。田尻。ウエスくらいならできるぞ」

「あざっす!」

 紀夫の答えを受け、テツオは手元のウエスを田尻へ放り投げる。

「あ! こっちだったんすね!」

 田尻が愛車の傍らにかがみ込んだタイミングで真がガレージに走り込んできた。

「おう。よく眠れたか?」

「はい! 夢見るくらい爆睡でした」

 ガソリンの残量を確認していたテツオは、一瞬だけ真を振り向いて声をかける。

 テツオに声をかけてもらったことだけでも舞い上がりそうなのに、体調を気にしてもらったことに加えて貸し別荘の快適なベッドへの感動も込めて、真の返事は大きい。

「そりゃ何よりだ」

「……皆さん、メンテしてたんスカ?」

 テツオはすでに愛車から離れて工具の片付けを始めているが、紀夫は一旦バラしたパーツを組み付けているし、田尻はウエスでガソリンタンクやフェンダーを磨いている。

「見たまんまだ。定期的にやんないと事故るからな」

「お前もやっといた方がいいぞ」

 紀夫の手元を覗き込む真に、田尻と紀夫がそれぞれ答えた。

「いや、俺やり方知らないんすよ。このバイク、兄貴のを勝手に乗り回してるだけだし」

 なぜか責められているような気がして真は必死に弁解をした。

「でも乗ってるのは真だろ。田尻、篠崎さんと木村さんの検査が終わったら、教えてやれよ」

 愛車のメンテナンスが終わったテツオは愛車のシートに寄りかかりながら、まだ自身のメンテナンスを終えていない田尻に促す。

「ああ、いいっすよ」

「マジっすか。ありがとうございます!」

「どのみち免許とって自分用のバイク手に入れたら、やらなきゃだからな。俺も付き合ってやるよ」

「ありがとうございます!」

 バックミラーを拭いていた田尻は振り向きもせずに快諾してくれ、組み付けが終わった紀夫も軍手を外しながら約束してくれた。

 頼れる優しい先達たちに思いっきり腰を折って感謝を伝え、真は晴れ晴れしい笑顔を見せた。

「……よし! やるか!」

 紀夫の作業が終わると、テツオを先頭にガレージとは反対側にあるテニスコートまで移動し、テツオの号令で独特な動作の体操を始める。

 この体操は篠崎と木村から毎日欠かさず必ず行うようにと強いられたもので、体内に取り入れたナノマシンが骨や筋肉を作り変える作用を補助するとともに、成長痛にも似た関節の重さや筋肉の痛み・骨の違和感を軽減する意味があるらしい。

 実際、『種』を授かった五人全員に歩行や動作が鈍くなるという現象が発生したし、握力が落ちたみたいに箸やスプーンを落としたりなどがあった。

 テツオの組んだスケジュールでは、『種』を授かった翌日には滋賀県に移動してくる予定だったようだが、とてもバイクを運転できる状態ではないと判断し、大阪で二日間のホテル生活を経て、この貸し別荘までやってきたのだ。

「やあ。関心だな」

 体操が終わった頃、相変わらずの派手な青い制服を着込んだ篠崎と木村が現れた。

「おつかれさんです。わざわざ申し訳ない」

「いやいや。たまには田舎に来てみるもんだな。空気がうまいよ」

「そう言ってもらえると助かるかな。俺達もバイクで走っててちょっと気分転換できたからね」

「それは大事なことです。体の中のことと考えてしまって凝り固まってしまうと、良くない影響が起こりえます。精神面とのバランスが取れてこそです。素晴らしい」

「はは。ありがとう」

 社交辞令で交わしていたテツオと篠崎の会話に、やたら真面目な木村の講釈が紛れ込んでテツオは苦笑した。

「……瀬名くんの姿が見えないな?」

 体操を終えて休憩している面子に、瀬名が居ないことを篠崎が気にした。

「ああ、別のお願い事をしている先鋒さんと打ち合わせに行ってるんだよ。もうそろそろ戻ってくると思うよ。そのスキに飯にしようか」

「ういっす!」

 篠崎に答えながら立ち上がったテツオが食事を提案したので、残りの少年たちは順に腰を上げて賛成の意志を示す。

「じゃあ、瀬名くんが戻ってきたら最終検査にしよう」

「頼んます」

 篠崎の穏当な発言にテツオは軽く頭を下げて、邸内へと歩き始める。

 テツオが篠崎や木村と雑談をする後ろで、真は紀夫とバイクの話で盛り上がる。

 だが最後尾で田尻だけが黙したまま、篠崎と木村の後ろ姿を懐疑的な目で見続けている。

 紀夫との会話の合間にそんな田尻の様子が視界に入ったが、あまり見せたことのない田尻の表情に真は声すらかけられぬまま一行は邸内のダイニングへと着いた。

 いつの間にかテツオが食事の手配も済ませていたらしく、ダイニングテーブルには五人分の食事が用意されていて、盛り付けこそ使い捨ての紙容器だが、食べ盛りの少年五人が満腹になりそうなボリュームがある。

 さすがに一時的な訪問で員数外の篠崎と木村は席を外し、別料金の冷蔵庫のお茶をもらってリビングでくつろいでいる。

「……そういえば、五人分ってことはあと一人が瀬名さんだから、モリシャンさんはどうするんですか?」

 真は食事が始まるあたりから気になっていた違和感を聞いてみた。

 テツオがお茶で口の中の物を飲み下してから答える。

「ん。アイツは別の用事があるらしいから、どっか行ったよ」

「どっかって。テツオさんにも行き先言わないとか、いいんすか?」

「いいんじゃね。ぶっちゃけモリサンがウチのメンバーかって言ったら曖昧だし、その割に惜しげなく情報くれたり色んな人を紹介してくれたりするからな。会社でいうアレだ。社友とか、社外オブザーバーとかだ。アイツを束縛しないぶん大事な話はしないし、ウチにメリットあるうちはデメリットじゃないからな」

 聞きとがめて追求したのは意外にも紀夫だったが、テツオが語ったフランソワーズ・モリシャンの位置付けが互いに利用し合うような感覚だったので、返す言葉がなくなってしまった。

「アイツのことは気にするだけ疲れる。どっかに情報が漏れるかもって心配するくらいなら、漏れる以上の情報を吐き出させたらいい。そんくらいの扱いでいいよ」

「……分かりました」

 紀夫を納得させるためか、あえてテツオは策謀のような言葉を付け足したので、紀夫は承服するしかなかった。

 真も、自分の素朴な疑問が抗争を控えた組織の会話のような空気が漂うキッカケになったことを後悔しつつ、黙って食事を進めるしかなかった。

「ただいま。お! うまそ♪」

 全員が黙ったまま重い空気の中で食事をしているところへ、やたら陽気に瀬名が入って来た。

「お帰りなさい」

「おつかれっす」

 真と紀夫の迎える言葉もそこそこに、瀬名は嬉しそうに椅子に腰掛けて早速料理を頬張り始める。

「どうだった?」

 言葉少なに問うたテツオに、瀬名は一瞬だけ親指を立てて答える。

「ん。お疲れさん」

 また短く瀬名を労い、テツオはナプキンで口元を清めて離席してしまう。

「……カッケー」

 何気ないやり取りだが、憧れのチームのリーダーとその幹部の通じ合った関係に、真は思わず感動の声を上げてしまっていた。

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