第十九話(二)



 油断なく構える吾等われら勇者様御一行の前に、遂に魔王ボッティヌスは顕現けんげんせり。


 奇観きかんである。

 それを超すでも劣るでもない。奇観中随一の奇観であろう。


 コルドーのべんを借るならば「怖気を振るう気配をまとった不定形の常闇とこやみ」であり、またウインドの弁を借るならば「大なるゆえに果てまで見通せぬほどの醜悪なる水泡」であり、またクシュンの弁を借るならば「直視するのもはばかられるけがれ奸邪かんじゃの混合集合体」であり、またトジュロー君の弁を借るならば「ぬらぬらとしたうろここぶに一面覆われたこの世のもの全てと異なる奇怪な巨人」であった。


 僭越せんえつながら吾輩の見聞を披露すると「牛か馬のごとくでありさかなの如くでもある蜥蜴とかげと虫の合いの子の御親戚筋ごしんせきすじ」と云った風采ふうさいであろう。これでは全体何やら判じ得ないと思う。しかしながらそれはかく申し上げる吾輩とて同じ思いである。


 先陣を切ったのはウインドである。一瞬にしてかぶらを取ってつがい、よっぴいてひょうふっと放つ。その手に握りしは彼の一流作長弓「竜舌弓ドラグ・リングァ」、音無おとなしで放たれた鏑は周囲の淀みを吹飛ばさんとかける。されど手応えは無い。


 続くコルドーが魔法杖「樹精之杖メリアス・ロッド」を構え真言を唱えるや、業火が出立いでたち魔王の大なる身体をたちまち包み覆い隠す。ごうごうと狂乱する炎にさしもの魔王であろうと五体無事では済むまいと思うておると、只一振りでゆめまぼろしの如く消去きえさってしもうた。


 クシュンは錫杖「愚陀仏之杖グダブツ・ワンド」を捧げ持ち自身の信仰心如何程いかほどかを存分に示して彼の偉大なるメッツナーの御加護を頼みにする。あたりは束の間眩いばかりの温かな光が降り注ぎ、魔王の穢と奸邪なるを断罪せんと容赦なく逼る。されどこれもまた思うような効を得ない。


 トジュロー君は長剣「光輝之剣クラウ・ソーラス」をさやより抜払ぬきはら旋風つむじかぜの速度で吶喊とっかんする。自ずと内から輝き光る刀身が仄暗ほのくらき闇の中で流星の尾を長く棚引たなびかせ刹那のきらめきを吾等の眼に写す。だがやはりごうとも通じない。かえって魔王の放つ凶撃を招き危うく返討かえりうちうところを慌てて退く。


「まるで通じぬとは……到底信じ難い」とトジュロー君はおそれをあわわにする。

「余の姿を一眼見ればすぐ分る訳だ。それをかくのごとく騒ぎ立てるのは必竟ずるに貴様等の愚の証たるもの。余の力の強大なるを思い知りかんがえを改める気になったか」魔王はこれで吾等勇者様御一行が大抵の手立てをえたものと見て得手えて勝手がってな要求をする。「余は寛大である。生きとし生けるもの全てに等しく寛大である。今一度貴様等の振舞いの愚なるやを思い直すが善い。さもなくば無様に無残にここで灰燼かいじんせ。さあ――さあ」


 なるべくここは好加減に魔王の鋭鋒えいほうをあしらって無事に切り抜けるのが上分別であろう。


 いらざる抵抗は避けらるるだけ避けるのが当世で、無要の口論は封建時代の遺物と心得ている。人生の目的は口舌ではない実行にある。自己の思い通りに着々事件が進捗すれば、それで人生の目的は達せられたのである。苦労と心配と争論とがなくて事件が進捗すれば人生の目的は極楽流に達せられるのである。いかな魔王とてそれは同じ思いであったろう。


 しかし、だ。


 にゃあ。


「ん? ――それは何か?」


 事件が十中八九まで成就したところへ、吾輩なる常規をもって律すべからざる、普通の人間以外の心理作用を有する風来坊的猫様が飛び込んで来たので少々その突然なるに面喰っている容子ようすである。まさか知らぬ訳でもあるまいと思っていると――そのまさかもあるやも知れん。


「御存知ないのですか。畏れ多き魔王様ともあろう御方が」たちまちウインドが持前の軽薄さをもって軽口を叩いた。その実ウインドの足は震えてまるで収まりが尽かぬようだったのだが、ここを逃さじと一念奮起する。「まさかまさかのそのまさか。全ての生きとし生けるものと仰りながら、それは何かとは何かの聞き間違いで御座いましょうか」

「無論知っておるとも、余は魔王なるぞ」と魔王仰るが、尊大なることばにはわずかげりが見える。

「そうで御座いましょう。そうでしょうとも違いない」どこまでもウインドは調子良く話しを合わせる。「さすれば此処ここにおわすのが「猫」と云う希少的存在であり、この世でただ一疋いっぴきの生残りだと云う事も当然御承知でしょうなあ」

「疑うておるのか」

「いえいえ。疑うてなぞおりませぬよ。至極当然でしょうとも」とウインド。「となれば無論、この「猫」の鳴声の美麗なるやも御存知の筈。かく云う私めはそこそこ名うての吟遊詩人でして歌には多少なりと自信が御座いますれど、この「猫」にはかないっこ御座いませんね」

「ほう」魔王は素気無い振りを気取っておるがいささかの興味を隠しきれておらなんだ。「しかしだ、それならば先程しかと聞いたぞ、にゃあ、とか云うておった。存外ぞんがい大した代物しろものではない」

「アハハハ御冗談を」とウインドはいけしゃあしゃあと淀みなく受ける。「先刻のは語に極っていまさあ。この「猫」は語も喋れば鳴声も出すんですぜ、御存知でしょうに。いかにもそんな事をやりそうな面構えでしょう、いやにひげなんか生やして」

「う、うむ、しからん奴だな」


 魔王め、髯を生やして怪しからなければ猫などは一疋だって怪しかりようがないだろうに。


 しかしウインド呆れるほどになかなかの演技巧者である。さりとてこれも決して長く続く事はあるまい。弁舌による戦況は吾輩の眼球めだまのように間断なく変化している。永持はすまい。


 吾輩は首を巡らせウインドを見つめ祈念きねんする。猫語をまるで解さぬ人間なれど、岩をも通す一念なれば通じようと考えた。只一遍いっぺんで良い。この時この瞬間を他において一生涯通じんでも構わぬ。只吾輩の決意と覚悟はどうにか通じて欲しい。


 ウインドは――にやりと笑い確かにうなづいたのだ、吾輩はそれをしかと見たのである。


「それでは早速お聞きになってはいかがでしょう。ええ、何分なにぶん猫の鳴声はちいさいものです、鼻先に寄せてそっと耳をそばだてなければなりませんよ。辛防しんぼうしてお待ちになれば、やがて美麗なる鳴声を上げるでしょうとも。ささ、御遠慮なさらず」とウインドは歌うように魔王を誘った。

「そうくな、余は勿論知っているとも」


 魔王は慌てを悟られぬよう些か早口で言い放つと、吾輩に向けて蛸の触手のような熊手のようなぬるぬるもじゃもじゃを恐る恐る伸ばしててのひららしきぬめぬめを差出した。吾輩は無邪気を装って二三度においを嗅ぎつつ――気色きしょくが悪いので嗅ぐ振りだけである――そのぬめぬめに乗る。やがて吾輩を乗せたぬめぬめは平底船ゴンドラの如くゆっくりと浮上する。




 そして、吾輩は見たのだ。


 魔王の奇観中の奇観である顔を。




「どれ、猫よ猫よ。余に御前の美麗なる鳴声を聞かせてはくれまいか。さあ」




 吾輩は真に恐怖する。


 今や眼前に迫った暗黒の淵を覗き見、その淵の奥から暗黒が覗き返しておる事に、この矛盾なる現象の説明を求め、ちっぽけな灰色の脳味噌に御伺いを立て、一向いっこうらち明かぬので尻尾大明神より御宣託あるやと期待し、遂には無信心のこの吾輩をしてあろうことか神仏やの偉大なるメッツナー某にまで御伺いをたてまつる決心をするもついぞ何一つ得ることが出来んかった。




 次第に吾輩の頭は混沌として理窟も道理も分らなくなる。


 やあ、あすこにおわすはどこの誰れだい、と人間共の事すら判じ得なくなってくる。あのうぐいす色をした極楽鳥もどきは誰れだったか。死神の手下らしき常闇の外套ローブを来た奴はえらく辛気臭いじゃないか。やたらぴかぴかの剣を振りかざす炭鉱夫になぞ知人はおらん。何だい、あの泣き女は腹でも下したんじゃあるまいか。無闇にぼんやりとしてくる。ふわふわしてくる――。






 刹那、一疋の愛しき猫の姿が吾輩のゆめうつつの中に浮かび上がった。


 ――そうだ。吾輩は〇〇〇〇の幸福の為に成すべきを成さねばならん。






 御前が世界の全てを欲するなど吾輩が不承知だ。吾輩はこの世の不可思議に誘われ、いにしえよりの絆をもってね上げたる二十八サンチの弾丸だ。この弾丸が一たび時機を得て爆発するなら、――爆発するだろう――!


 


「さあ、鳴いて見せよ!」




 魔王の声が銅鑼どらの音の如く響き渡ったその時その瞬間、吾輩は自然後足二本で立ち上がる。そして魔王の眼前で両の手を勢良く打鳴らした。


 ――これぞ吾が師直伝の必殺、猫騙し哉。


「な――なんと!?」


 これにはすっかり驚ろかされて魔王は暫し茫然自失とする。深淵の奥の彼奴の口らしき場所がぽっかりと空いた。吾輩は九郎くろう判官はんがん八艘跳はっそうとびよろしく迷うことなくその奥の奥目掛けて飛び込む。控えし仲間達の悲痛なる叫びが遠くに響く。






 ――ああ、人間族の友共よ。おさらばである。

   吾が命、捨てがまるは今なり






 永劫にも感ぜらるる落下の内、吾輩は全神経を集中して必死に真言を唱えた。


「――南無八幡大菩薩!」


 直後、荒れ狂う白光の奔流がこの場の全ての者の眼を灼々しゃくしゃくと焼き尽くさんばかりに爆発す。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る