第二話(一)



 ふと眼を開いてみると、吾輩はくだんのポリバケツの内ではなく冷えた石床の上でごろりと大の字になって惚けていたのだった。


「ははあ。これはひょっとすると夢のなかで夢を見ていたのに違いないぞ」


 こんな失敗をした時には内にいて李さんなんぞに顔を見られるのも何となくばつが悪い。いっその事気を変えて例の公園にでも出向いて甲羅干しでもしようかとむくり起き上がるとはたしてそこには――。




「お、おい、神官クシュン! これは一体どういうことなのだ?」

「そ、それが……私にも皆目見当が尽きませぬ」


 いずれも聞き及びのない声である。顔を赤に染めて憤慨する男の眼前で、クシュンなる女神官は落ち着かぬ様子で袖先より下がりし紫色めいた房をしきりに弄っている。


「お、畏れながら我が王よ。私めは確かに彼の地より蛮勇たる逸物を呼ばんと陣を組み、古より伝わりしメッツナーの魔法術を唱えました。ですが……ここに現れたのは猫にございます」

「ふん。なるほどそれはもっともだ。実にその通りだ」


 かの鋭どい声の所有主は天鵞絨ビロードの二枚重ねを石床へ擦り付けながら吾輩のそばへと歩み寄る。年は五十の上を少し超したくらいだろう。禿上った生え際から前髪が堤防工事のように高くそびえて、少なくとも王冠の長さの二分の一だけ天に向ってせり出している。眼が切り通しの坂くらいな勾配で、直線に釣るし上げられて左右に対立する。鼻だけは無暗に大きい。人の鼻を盗んで来て顔の真中へ据え付けたように見える。その鼻はいわゆる獅子鼻で、ひと度は精一杯高くなって見たが、これではあんまりだと中途から謙遜して、先の方へ行くと、初めの勢に似ず低く広がって、下にある唇を脅かさんとしている。かく著しい鼻だから、この男が物を言うときは口が物を言うと云わんより、鼻が口をきいているとしか思われない。吾輩はこの偉大なる鼻に敬意を表するため、以来はこの男を称して「鼻王」と呼ぶつもりである。


「猫だな。薄ぎたない猫だ。こればかりは曲げようがないな。ふん」

「はい。仰せの通り猫にございます」


 鼻王の奴め、「薄ぎたない猫」とは随分酷評をやるものだとなお耳を立ててあとを聞く。


「何がメッツナーだ。それで招き入れたのが猫ばかりとは招き猫ならぬ招かれ猫ではないか」

「随分うまいことを仰いますね。アハハハ」

「アハハハではない。余は大いに憤慨しているのだぞ!」


 彼の偉大なるメッツナーが一体何者であるかは吾輩には知る術もなかったのだが、銅鑼の音の如き鼻王の一喝でたちまちクシュンは見るからに萎れて縮こまった。


「貴様は道化か」


 と鼻王は尋問した。大気焔である。奥歯で噛み潰した癇癪玉が炎となって鼻の穴から抜けるので、獅子鼻が、いちじるしく怒って見える。


「い、いえ道化ではございません。この城付の神官めにございます」

「うそをつけ。城付の神官が勇者召喚に失敗する奴があるか」

「しかしこの通り召喚の陣を組み、ちゃんと儀式通りメッツナーの魔法術を唱えております」

「にせものだろう。城付の神官ならなぜ無闇に猫を呼び込んだ」

「つい呼び込んでしまったのです」

しからん奴だ」

「以後注意しますから、今度だけはお許し下さいませ……」

「一と年もかけた準備がすべてパァだ。これだけはどうにもならん。ふん!」


 吐き捨てるようにいい鼻王は最後に恨めしそうに吾輩を睨み付けてもう一度ふんと云うと、足音を荒げて部屋を出て行ってしまった。残されたのはすっかり萎れたクシュンと似たような見慣れぬ儀式装束を纏った神官が四五人ばかりであった。


「これはどうした間違いなのでしょう。神官長様、彼の地より現れしは猫です。猫です」

「ううむ、私にも道理が分らん。ほとほと弱った。ゴルトン王を怒らせてしまった」

「そうですね」とクシュンは考える。考えれば分ると思っているらしい。

「今はとにかく、再び儀式を執り行う準備をしなければなるまいよ。それも早急にだ」

「猫はどうするのです」

「猫は君が連れて帰るべきだな。彼の地より招き入れたのはほかでもない君なのだからね」

「何ですって?」

「幸いにしてメッツナーの徒たる吾々神官の教義では生物いきものを飼うのを禁じておらず……」

「なるほど。少し待って下さい。神官長様の邸でこの猫をお預かりになられて……」

「そうじゃない、君たち女神官の賃借している宿舎であれば問題なかろうと云う訳だよ」

「どういう事です?」

「どうもこうもあるまいよ。つまりそういう事だ」

「よろしい分りました」


 仕方がないから降参をした。吾々は時とすると理詰の虚言うそかねばならぬ事がある。クシュンは恨めしそうに吾輩の顔を見たが、吾輩は素知らぬふりを決め込み、失敬して両足を前へ存分のして、首を低く押し出してあーあとだいなる欠伸あくびをした。



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