第一話(二)
吾輩がこの中華料理店に住み込んだ当時は、主人以外のものにははなはだ不人望であった。どこへ行っても跳ね付けられて相手にしてくれ手がなかった。いかに珍重されなかったかは、名前さえつけてくれないのでも分かる。吾輩は仕方がないから、出来得る限り吾輩を入れてくれた主人の
主人に鶏肉を持って来いと云うと、主人がへえと恐る恐る鶏肉を持って出る。李さんが来たから、李さんに
声のした方を見てみると、四五匹の猫が寄り集まっていた。その内にいる一層ふくよかな体躯をした猫が双眸の奥から射るごとき光を吾輩の矮小なる額の上に集めて、「おめえは一体何だ」と云った。一団の頭目にしては少々言葉が卑しいと思ったが、何しろその声の底に犬をも
「一体猫と龍とはどっちがえらいだろう」
「龍の方が強いに決まっていらあな。お前のとこの主人を見ねえ、まるでぶくぶく太っただけの豚だぜ」
「君も中華料理屋の猫だけに大分太っているな。中華料理屋にいると御馳走が食えるからね」
「なあに俺なんざ、どこの国へ行ったって食い物に不自由はしねえつもりだ。てめえなんかも路地裏ばかりでごろごろ寝ていねえで、ちっと俺の後へくっ付いて来て見ねえ。一と月とたたねえうちに見違えるように太って強くなれるぜ」
「追ってそう願う事にしよう。しかし店は『猫々飯店』の方が『昇龍軒』より大きいように思われる」
「べらぼうめ、店なんかいくら大きくたって腹の足しになるもんか」
彼は大いに癇癪に障った様子で、
「よおし。てめえがどれだけのモンか試してやろうじゃねえか」
「遠慮をしておくよ。君は大層強そうだからね」
「やってみなけりゃ分かるめえ。ほれ、そこのポリバケツの上で相撲を取るってのはどうだ」
弱ったことに一番取る流れになってしまった。少々なら自信がないこともないのだが、相手がこの白龍ともなればそうも上手くいくまい。まずまず勝てはしない。適当に組み合って、適当に負けてしまおう、そう考えたのだった。
「うーん。うーん」
「うーん。えいやっ」
我に帰ったときは水の上に浮いている。苦しいから爪でもって矢鱈に掻いたが、掻けるものは水ばかりで、掻くとすぐもぐってしまう。仕方がないから後足で飛び上っておいて、前足で掻いたら、がりりと音がしてわずかに手応があった。ようやく頭だけ浮くからどこだろうと
水から縁までは十二センチもある。足をのばしても届かない。飛び上っても出られない。呑気にしていれば沈むばかりだ。もがけばがりがりとポリバケツに爪があたるのみで、あたった時は少し浮く気味だが、すべればたちまちぐっともぐる。もぐれば苦しいから、すぐがりがりをやる。そのうちからだが疲れてくる。気は焦るが、足はさほど利かなくなる。ついにはもぐるためにポリバケツを掻くのか、掻くためにもぐるのか、自分でも分りにくくなった。
その時苦しいながら、こう考えた。こんな
「もうよそう。勝手にするがいい。がりがりはこれぎりご免
と、前足も、後足も、頭も尾も自然の力に任せて抵抗しない事にした。
次第に楽になってくる。苦しいのだかありがたいのだか見当がつかない。水の中にいるのだか、厨房の中にいるのだか、判然しない。どこにどうしていても差支えはない。ただ楽である。否、楽そのものすらも感じ得ない。日月を切り落し、天地を粉砕して不可思議の太平に入る。吾輩は死ぬ。死んでこの太平を得る。太平は死ななければ得られぬ。
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