第六話(一)



 帰りにいつもと違う道を通り抜けようと思い路地から顔を出すと、にぎやかしい店先に置かれた木樽のその上に大きな猫が前後不覚に寝ておった。かれは吾輩の近づくのも一向いっこう心付こころづかざるごとく、また心付くも無頓着なるごとく、大きないびきをして長々と体を横えて眠っている。出入りが盛んな店先でかくまで平気にられるものかと、吾輩はひそかにその大胆なる度胸に驚かざるを得なかった。


 彼は純粋の黒猫である。


 わずかに午を過ぎたる太陽は透明なる光線を彼の皮膚の上にげかけて、きらきらする柔毛の間より眼に見えぬ炎でも燃え出ずるように思われた。彼は猫中の帝王とも云うべきほどの偉大なる体格を有している。吾輩の倍はたしかにある。吾輩は嘆賞の念と、好奇の心に前後を忘れて彼の前に佇立ちょりつして余念もなく眺めていると、静かなる風が、石垣の上から出たる西洋楢オークの枝を軽く誘ってばらばらと二三枚の葉が木樽の上に落ちた。帝王はかっとその真丸の眼を開いた。今でも記憶している。その眼は人間の珍重する琥珀というものよりも遥かに美しく輝いていた。だが右眼しかなかった。彼は身動きもしない。しばらくして一つぎりの琥珀が吾輩を捉えた。


「おう。見かけない顔だな。お前さん、名乗る名はあるか?」


 彼は吾輩が勇者召喚の儀式の手違いからこの世界に来た事を知らんと見える。一から説明してやりたいが到底できるものでもないから、まず一応の挨拶をしておこうと決心した。


「名前はマダナイ。よろしくお願いする」

「ほう」


 吾輩は尻尾を立てて左へくるりとわす。彼は尻尾を立てたぎり挨拶もしない。


「マダナイと来たか。それがどれ程重い意味のある名だかは知っているんだろうな?」

「ではちょっとうかがうが、その重い意味と云うのはどう云う意味かね」

「やはり知らぬか。お前にその資格があるのかと問うているのだ。勇者として相応しいな」


 相応しいかどうか自分でも分からぬので、面とむかったまま無言で立っておった。いささか手持無沙汰のていである。すると突然彼は大きな欠伸を一つして延びをすると木樽から降りた。


「俺の名はシュバルツと云う。今でこそこの冒険者宿「竜の鱗亭」に身を置く身だが、かつては人間どもと旅をし各地を渡り歩いて有象無象うぞうむぞう魑魅魍魎ちみもうりょう様々打ち倒しては名を上げたのだ。その代償にこの片眼を潰されちまったってえ訳だが微塵も後悔は無え」


 シュバルツは腕まくりの代りに右の前足をかに肩の辺まで掻き上げた。


「そうか。君がシュバルツか。君の噂はキャリコからも聞き及んでいるな」

「ほう。知っているか。ならばすべて分かっていて来たものと受け取っていのだな?」


 今や眼前にまで迫ったシュバルツは吾輩に向けて熱いのをしきりに吹きける。人間なら胸倉をとられて小突き廻されるところである。少々辟易へきえきして内心困った事になったなと思っていると、シュバルツは嘲りながら四つ足を踏張る。吾輩は挨拶のしようもないから黙って見ている。突然後足で乾いた土塊を吾輩の頭へばさりと浴びせ掛ける。吾輩がおどろいて、からだの土塊を払っている間にシュバルツは身を翻して再び木樽の上でごろりと横たわった。


「いやはやお前さんはからきしだな。まったくなっとらん。喧嘩のやり方をまるで知らんな」

「吾輩は喧嘩をしに来たつもりではない。気紛れに此処ここを通って帰ろうと思っただけさ」

「それでもだ、マダナイの成り損ないめ」


 シュバルツは失望と怒りを掻き交ぜたような声をして云った。


「勇者たる者いつ何ん時でも備えねばならぬ。諺にも男子たる者一と度敷居を跨げば七疋ななひきの敵りと云うだろう。勇者ともなれば尚更だ。常勝無敗の心意気がるのだ」

「百戦百勝は善の善なる者にあらず、とも云いますよ」

「ほう、智恵ちえはそれなりにあると云う事か。まったく恐れ入る小僧め」


 シュバルツは豪胆な笑い声を上げたかと思うと一つぎりの琥珀を細めて検分するように吾輩を見た。それなりに彼の興味をいた容子ようすである。


「なるほど似ているな」とシュバルツがさも感心したらしく云ったので「何がです」と吾輩は問うて見る。


「何だって、お前さんの尻にゃ大きな黒いあざがあるのだ。知ってるか」

「いいや」と吾輩は途端むず痒さを覚えて云った。自分で自分の尻を眺められる者なぞあるまい。よほど長細ければ別だろうが。

「生まれたときからあるのか、それとも近頃に出来たのか」とシュバルツが聞く。もしやあちらからこちらにくるときに出来たのであるまいかと口へは出さないが心の中で思う。

「いつ出来たんだか判然とはしませんな、痣なんざどうだっていじゃありませんか」

「どうだって宜いって、自分の尻だろうが」とシュバルツはさも可笑しそうに笑う。

「自分の尻だから、どうだっていんですよ」と云ったが、さすが少しは気になって右廻りにくるくると廻った。「ううむ、こんなじゃ確かめようが無い」と吾輩は少しく弁護する。

「知らなかったならそれまでのことよ。全く今日まで知らなかったと見える」

「で、その痣がなんだってんです」

「勇者マダナイにもあったのだ。お前の尻にあるのと同じぶっ違いの二つ剣に似た痣がな」

「御覧になったので?」

「馬鹿な事を! さしもの俺もマダナイにった事なぞないにまってる」

「痣は見ればすぐ分るじゃありませんか、最初から承知で喧嘩だなぞと仰ったんですか」

「それは承知さ、承知には相違ないが判然としないから揶揄からかってやったのだ。勇者相手に喧嘩をしてはならんと云う法はあるまい」

 シュバルツは平然と云い放った。吾輩にとってはいい迷惑である。

「おい、マダナイの成り損ない。今度からここに来て俺から戦法を学ぶ気はあるか。お前さんは延びる見込みがある。なあに礼には及ばん、お前さんにとっても損はないだろうからな」


 その後吾輩はシュバルツを師と仰ぎ、度々彼と邂逅することになるのである。



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