第六話(一)
帰りにいつもと違う道を通り抜けようと思い路地から顔を出すと、
彼は純粋の黒猫である。
わずかに午を過ぎたる太陽は透明なる光線を彼の皮膚の上に
「おう。見かけない顔だな。お前さん、名乗る名はあるか?」
彼は吾輩が勇者召喚の儀式の手違いからこの世界に来た事を知らんと見える。一から説明してやりたいが到底できるものでもないから、まず一応の挨拶をしておこうと決心した。
「名前はマダナイ。よろしくお願いする」
「ほう」
吾輩は尻尾を立てて左へくるりと
「マダナイと来たか。それがどれ程重い意味のある名だかは知っているんだろうな?」
「ではちょっと
「やはり知らぬか。お前にその資格があるのかと問うているのだ。勇者として相応しいな」
相応しいかどうか自分でも分からぬので、面と
「俺の名はシュバルツと云う。今でこそこの冒険者宿「竜の鱗亭」に身を置く身だが、かつては人間
シュバルツは腕まくりの代りに右の前足を
「そうか。君がシュバルツか。君の噂はキャリコからも聞き及んでいるな」
「ほう。知っているか。ならばすべて分かっていて来たものと受け取って
今や眼前にまで迫ったシュバルツは吾輩に向けて熱いのを
「いやはやお前さんはからきしだな。まったくなっとらん。喧嘩のやり方をまるで知らんな」
「吾輩は喧嘩をしに来たつもりではない。気紛れに
「それでもだ、マダナイの成り損ないめ」
シュバルツは失望と怒りを掻き交ぜたような声をして云った。
「勇者たる者いつ何ん時でも備えねばならぬ。諺にも男子たる者一と度敷居を跨げば
「百戦百勝は善の善なる者に
「ほう、
シュバルツは豪胆な笑い声を上げたかと思うと一つぎりの琥珀を細めて検分するように吾輩を見た。それなりに彼の興味を
「なるほど似ているな」とシュバルツがさも感心したらしく云ったので「何がです」と吾輩は問うて見る。
「何だって、お前さんの尻にゃ大きな黒い
「いいや」と吾輩は途端むず痒さを覚えて云った。自分で自分の尻を眺められる者なぞあるまい。よほど長細ければ別だろうが。
「生まれたときからあるのか、それとも近頃に出来たのか」とシュバルツが聞く。もしやあちらからこちらにくるときに出来たのであるまいかと口へは出さないが心の中で思う。
「いつ出来たんだか判然とはしませんな、痣なんざどうだって
「どうだって宜いって、自分の尻だろうが」とシュバルツはさも可笑しそうに笑う。
「自分の尻だから、どうだって
「知らなかったならそれまでのことよ。全く今日まで知らなかったと見える」
「で、その痣がなんだってんです」
「勇者マダナイにもあったのだ。お前の尻にあるのと同じぶっ違いの二つ剣に似た痣がな」
「御覧になったので?」
「馬鹿な事を! さしもの俺もマダナイに
「痣は見ればすぐ分るじゃありませんか、最初から承知で喧嘩だなぞと仰ったんですか」
「それは承知さ、承知には相違ないが判然としないから
シュバルツは平然と云い放った。吾輩にとってはいい迷惑である。
「おい、マダナイの成り損ない。今度からここに来て俺から戦法を学ぶ気はあるか。お前さんは延びる見込みがある。なあに礼には及ばん、お前さんにとっても損はないだろうからな」
その後吾輩はシュバルツを師と仰ぎ、度々彼と邂逅することになるのである。
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