第八話(一)



 さてさて続きである。

 鼻王は憮然ぶぜんとした顔付きでこういおった。


「あのクシュンとラビリスがどう云う訳か異世界より招入まねきいれたる野良猫に肩入れをするのだ。この猫様は勇者マダナイの生まれ変わりなのです、などとほのめかすそうでな」

「ほのめかす? 只の猫なのでしょう?」とトジュローは驚いた顔をする。

「ふむ。何でもあざがあると云うたか」

「痣? 痣くらいなんです。痣くらいありましょう。そんな乱暴な事を云ったので?」

「云ったどころではない、ちゃんと第二読本の中に書かれておると云う事らしい」

 むつかしい顔をしている所を見ると、鼻王は第二読本なんたるかを御存知らしい。

「困りますね、ほかの事と違って、こう云う事はたといあれが専門家だとはいえみだりに容喙ようかいするべきはずの事ではありませんから。そのくらいな事はいかなラビリスでも心得ているはずですが。一体どうした訳なんでしょう」

「そこでだ」

 鼻王はだいうなずき云った。

「君は学生時代からクシュンやラビリスと共に学び、今はとにかく、昔は親密な間柄であったそうだから依頼するのだが、君両人ふたりに逢ってな、ついでにその勇者猫様とやらにも拝顔して真偽を見極めて来てくれんか。紛れなく真実とあらば無論喜んでお迎えするし、ラビリスの方の一身上の便宜も充分計ってやる。しかしむこうむこうならこっちもこっちと云う気になるからな――つまりそんな我を張るのは当人の損だからな」

「ええ全くおっしゃる通り愚な抵抗をするのは本人の損になるばかりで何の益もない事ですから、く申し聞けましょう」

「それからクシュンだが……だんだん聞いて見ると学問も人物も悪くもないようだから、もし当人が精進するのであらば近い内に神官長の側控に据える事が出来るかも知れんくらいはそれとなくほのめかしても構わん」

「そう云ってやったら当人も励みになって精進する事でしょう。宜しゅうございます」

 トジュローはさもありなんと大真面目な顔で応じた。

「ああ、どうか、御面倒でも、一つ願いたい」

「かしこまりました」

 トジュローは最後にもう一度頷いて見せると立ち上がった。

「今日は神官勤も休みとの事ですからこれからまわったら、きっと部屋におりましょう。近頃はどこに住んでおりますか知らん」

「ここの前を右へ突き当って、左へ一丁ばかり行くと神官宿舎がある。そこだ」

「それじゃ、つい近所ですね。訳はありません。このままちょっと寄って見ましょう。なあに、大体分りましょう標札を見れば」


 おっと。トジュロー君が御光来になる前に帰らないと、少し都合が悪い。談話もこれだけ聞けば大丈夫沢山である。石壁を伝降り石塀を乗越え衛兵共の陰から往来へ出て、急ぎ足でうちへ帰って来て何喰わぬ顔をしてベッドの上でうずくまる。


「あら、マダナイさん。どちらから御帰り? また御師匠様の三毛猫の所かしら?」


 まったく暢気のんきなものだ。クシュンは不相変あいかわらず文机に向かって何やら書いているのだか書いていないのだかの手を休め、吾輩を抱きかかえてにこりと笑う。ふむ、こうして見ると人間にしては悪くない。愛嬌がある。神経性胃弱がなければなお善かろう。


 部屋の鍾鈴ベルがチリン、チリン、チリリリリンと鳴る。さておいでなすったぞ。


「やあ。久し振りだね、クシュン」

「トジュロー? トジュローなのね? あら驚いた! さあそこにお座りになって」


 クシュンが更紗さらさの座布団を床の前へ直して、どうぞこれへと云って姿を消した跡で、トジュロー君は一応室内を見廻わす。壁に掛けた掛毛氈タペストリーや、文机の隅に置かれた白磁に活けた含羞草ミモザなどを一々順番に点検したあとで、ふとクシュンの勧めた布団の上を見るといつの間にか一ひきの猫がすまして坐っている。申すまでもなくそれはかく申す吾輩である。


 この時トジュロー君の胸のうちにちょっとの間顔色にも出ぬほどの風波が起った。この布団は疑いもなくトジュロー君のために敷かれたものである。自分のために敷かれた布団の上に自分が乗らぬ先から、断りもなく妙な動物が平然と蹲踞そんきょしている。これがトジュロー君の心の平均を破る第一の条件である。早晩自分の所有すべき布団の上に挨拶もなく乗ったものは誰であろう。人間なら譲る事もあろうが猫とはしからん。乗り手が猫であると云うのが一段と不愉快を感ぜしめる。これがトジュロー君の心の平均を破る第二の条件である。最後にその猫の態度がもっともしゃくさわる。少しは気の毒そうにでもしている事か、乗る権利もない布団の上に、傲然と構えて、丸い無愛嬌な眼をぱちつかせて、御前おまえは誰だいと云わぬばかりにトジュロー君の顔を見つめている。これが平均を破壊する第三の条件である。


 これほど不平があるなら、吾輩のくび根っこを捉えて引きずりおろしたら宜さそうなものだが、トジュロー君はだまって見ている。堂々たる人間が猫に恐れて手出しをせぬと云う事は有ろうはずがないのに、なぜ早く吾輩を処分して自分の不平を洩らさないかと云うと、これは全くトジュロー君が一個の人間として自己の体面を維持する自重心の故であると察せらるる。もし腕力に訴えたなら三尺の童子も吾輩を自由に上下し得るであろうが、体面を重んずる点より考えたならこそ二尺四方の真中に鎮座まします猫大明神を如何いかんともする事が出来ぬのである。


「……」


 トジュロー君は時々吾輩の顔を見ては苦い顔をする。吾輩はトジュロー君の不平な顔を拝見するのが面白いから滑稽の念を抑えてなるべく何喰わぬ顔をしている。


「ほら座って頂戴。あら――」


 吾輩とトジュロー君の間に、かくのごとき無言劇が行われつつある間にクシュンは盆に湯呑と適当にみつくろった茶請を持ち席に着いたが、すぐさま吾輩の襟がみを攫んで赤子の如く抱きかかえてしまった。とんだ興覚めである。



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