第十二話(一)



 忍び込む度が重なるにつけ、探偵をする気はないが自然鼻王一家の事情が見たくもない吾輩の眼にえいじて覚えたくもない吾輩の脳裏に印象をとどむるに至るのはやむを得ない。


 鼻王が顔を洗うたんびに念を入れて鼻だけく事や、奥方様が――鼻王夫人は夫に似合わず乙に澄ました高く鼻のとがった女である。単に鼻のみではない。顔全体がこじんまりとしている。小供こどもの時分より磁器人形ビスクドールごと要用ようようされ、何世代にもわたってうんと可愛がられてとうとう魂まで宿した付喪神つくもがみかくありなんとあやしまるるくらい整った顔である。至極しごく穏かで危険のない顔には相違そういないが、何となく変化にとぼしい。いくら怒っても整った顔である。――その奥方様が道端の雑草もどきのみを食して肉やさかな一向いっこう食わん事や、反対に肉か肴しか口にしようとせん鼻王を蛮族のようだと難詰なんきつする事や、それを給仕がおかしがって料理番に話す事や、料理番がじゃあ俺はこの先一体何を作ればいいのだと懊悩おうのうする事や、――一々いちいち数え切れない。


 近頃は門番の横をこっそり通り抜けて、石塀の陰から見上げて石窓が開け広げれられて物静かであるなと見極めがつくと、徐々そろそろあがり込む。もし人声がにぎやかであるか、石窓の内から見透かさるる恐れがあると思えば石壁を東へまわって台所の横から知らぬ間に回廊へ出る。悪い事をした覚はないから何も隠れる事も、恐れる事もないのだが、そこが人間と云う無法者にっては不運とあきらめるより仕方がないので、もし世間が熊坂長範ちょうはんばかりになったらいかなる盛徳の君子もやはり吾輩のような態度にずるであろう。鼻王は堂々たる一国の主であるからもとより熊坂長範のように五尺三寸を振り廻す気遣きづかいはあるまいが、うけたまわところによれば人を人と思わぬ病気があるそうである。人を人と思わないくらいなら猫を猫とも思うまい。して見れば猫たるものはいかなる盛徳の猫でも彼の邸内で決して油断は出来ぬ訳である。しかしその油断の出来ぬところが吾輩にはちょっと面白いので、吾輩がかくまでに鼻王城の門を出入するのも、ただこの危険が冒して見たいばかりかも知れぬ。それは追ってとくと考えた上、猫の脳裏を残りなく解剖し得た時改めて御吹聴ふいちょうつかまつろう。


 おや、見知った滑らかな顔がおるではないか。

 あれはトジュロー君に相違ない。だが随分と覇気の感ぜられぬ容子ようすで声まで弱っておる。


「あの……。昨日の件で再び参ったのですが、王様のことばは本心なのでしょうか」

「本心? どういう意味かね」

「あの猫様を魔王討伐に向かわせるとう事です。昨日おっしゃった」

「無論だ云ったとも。ああ云ったな」

 吾輩が魔王討伐に?――鼻王の奴、乱心したのではあるまいか。少なくとも正気ではない。

「勇者が勇者たる確かなあかしを立てたのだ。ならば魔王をも倒せるかもしれん」

「ですが――猫ですよ! ただの猫です」とトジュロー君はおおいに驚き声をあげる。鼻王はあからさまに御自慢の獅子鼻から鋭く熱気を噴き出した。

「只の猫がいくつも加護を授かっていようものなら城の守護兵は残らず猫に変えてしまうぞ。只の猫ではないそこいらの野良ではない事はその眼で見て来た御前おまえが一番わかっておろうに」

「だからと云って無闇に魔王討伐に担ぎ出すと云うのは感心しません」

「同じ猫でも勇者猫たれば必然と云うもの」鼻王一向に採りあおうとしない

「それよりやっぱり神社の拝殿へ彫り付けられてる方が無事でいいと思いますが」

「何がいものか。神仏頼みで魔王の脅威が消失きえうせるくらいならとっくにそうなっている」

「真の勇者を召喚すべきかと進言します。のパートロクロスのような」

「それがおいそれと出来んから云うておるのだろうに」

 鼻王はげんなりとした顔付をして見せた。それから鼻をこすって何かの記憶をり出す。

「パートロクロスと云えば死んだそうだな。気の毒だ、いい腕の男だったが惜しい事をした」

「さぞ腕は善かったのでしょうが、老いからは何人なんぴとも逃れられませんよ」

「腕は善かったが、飯をく事は一番下手だったぞ。焦げくさくってしんがあって儂も弱った。御負おまけに肴はいつもなま焼でな。腹を下しやせんかと怖ろしくって食われやせん」鼻王は昔々の不平を記憶の底からおこす。「わしが王になる前にともだって戦場いくさばに出たことがあってな」

左様さようで」とはトジュロー君。さっきから鼻王が無遠慮に話し立てるのを聞くたんびにトジュロー君は不安の様子をする。鼻王は少しも気が付かないから平気なものである。

彼奴きゃつめの言草いいぐさがな。こうだ――吾輩は剣術をきわめしものだから天地間の優れた御業みわざはなるべく記憶しておいて将来の参考に供さなければならん、飯焚きだの、風呂焚きだのと云う些末さまつは剣術に忠実なる吾輩ごときものの手をわずらわすべきところでないと平気で云いおった。儂もあんまりな言草だと思ったから彼奴めの目の前で食い掛けのわんを叩き割ってしまった」

「お怒りになったでしょう」

「ところがそうでもない。腹くちくなったのであれば結構などと抜かしおってさっさと割れ欠けを焚火の内に放り込んで燃してしまって素知らぬ顔を極めこんでおる。大した逸物だよ」

「ははあ。左様で」


 いよいよもって吾輩はトジュロー君の事が気の毒になってきた。この様子ではいつまで嘆願をしていても、とうてい見込がないと思い切ったトジュロー君は突然かの偉大なる頭蓋骨を石床の上にしつけて、うちに秘めたる決意を鼻王に向けて申し述べる。


「やはりお考え直しいただけませぬでしょうか。あまりに無謀で無体です」

「またぞろ勇者猫のはなしか。どうしろと申すのだ」

「願わくばおめください」

「そんな論理がどこの国にあるものか」

「なければ隣国から都合して貰えばいいでしょう」トジュロー君は自棄になって言い返す。

「君は先日大賛成だったじゃないか。今日はいやに軟化しておるぞ」

「軟化なぞしておりません、僕は決して軟化しておりませんがしかし……」

「しかしどうかしたんだ。なあトジュロー、君も城仕えの末席を汚す一人だから参考のために言って聞かせるがね。あのマダナイなにがしなる猫、あの猫を天下の勇者英雄とあがたてまつるのは、少々提灯ちょうちん釣鐘つりがねと云う次第で、本来なれば一国の王たる儂が冷々黙過する訳に行かん事だと思うんだが、たとい鍛冶師の君でもこれには異存はあるまい」

「それはそうですが――」

「君がそうまでいやがる理窟はとうに見当が付いておる」


 鼻王はいよいよもってトジュロー君の心の臓に狙いを定めたようだ。


「あの旧友たる女神官クシュンの事をおもんばかっておるのだろう。いかな勇者猫なれど只一疋いっぴきで送り出す訳にもいかぬ。そうなれば伴が要る。これは道理だ。さすればまずまずもってクシュンを他に候補はおらん。その事を君は厭がっておるのだろう、つまり惚れておるのだ、違うかね」


 こうなってはトジュロー君をかすのも殺すのも鼻王の意のままである。なるほどトジュロー君は単純で正直な男だ。


 じきトジュロー君は無言のままこうべを垂れて訣別の意を表した。鼻王は「帰るのか」と云った。トジュロー君は悄然しょうぜんとして足を引きずって大広間を出た。可愛想に。打ちゃって置くと巌頭がんとうぎんでも書いて華厳滝けごんのたきから飛び込むかも知れない。



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