第十二話(二)



 事実はおぼえがなくても存在する事があるから困る。世の中には悪い事をしておりながら、自分はどこまでも善人だと考えているものがある。これは自分が罪がないと自信しているのだから無邪気で結構ではあるが、人の困る事実はいかに無邪気でも滅却する訳には行かぬ。


 吾輩はどうやら真の勇者猫であるとう事らしい。

 これが事実である。


 虚言うそまことかはいずれであってもそう大差ない。吾輩は不相変あいかわらず理窟も道理も分からぬ有様なので、どちらでもいわいと窮屈な境遇を脱却した超然的猫のつもりでおったのだが、トジュロー君がその眼でしかと見届け鼻王がそうだそうだと認め、ラビリス嬢が第二読本なる古書を引合いに出して吾輩こそ勇者猫様に相違ないとおっしゃるのであればそれが真実となり事実となる。


 しかしこの無体な仕打ちは一体どこの馬の骨の仕業であろうか。


 仮令たとい無信心の吾輩であってもこの時ばかりは神仏を疑いたくなってきた。となるとあやしきはのメッツナーなにがしである。吾輩の尻に鎮座まします尻尾大明神でも南無なむ八幡はちまん大菩薩だいぼさつでもない、メッツナーでなければならぬ。


 古代の神は全智全能とあがめられている。ことに耶蘇ヤソ教の神は今日までもこの全智全能のつらかぶっている。この地サンドレアにおいてはメッツナーが彼に相当すると云う。しかし俗人の考うる全智全能は、時によると無智無能とも解釈が出来る。こう云うのはあきらかにパラドックスである。しかるにこのパラドックスを道破した者は天地開闢てんちかいびゃく以来吾輩のみであろうと考えると、自分ながら満更な猫でもないと云う虚栄心も出るから、是非共ここにその理由を申し上げて、猫も馬鹿に出来ないと云う事を、高慢なる人間諸君の脳裏に叩き込みたいと考える。


 天地万有は神が作ったそうな、して見れば人間も神の御製作であろう。現に聖書とか云うものにはその通りと明記してあるそうだ。さてこの人間について、人間自身が数千年来の観察を積んで、おおい玄妙げんみょう不思議がると同時に、ますます神の全智全能を承認するように傾いた事実がある。それはほかでもない、人間もかようにうじゃうじゃいるが同じ顔をしている者は世界中に一人もいない。顔の道具は無論きまっている、おおきさも大概は似たり寄ったりである。換言すれば彼等は皆同じ材料から作り上げられている、同じ材料で出来ているにも関らず一人も同じ結果に出来上っておらん。よくまああれだけの簡単な材料でかくまで異様な顔を思いついた者だと思うと、製造家の伎倆ぎりょうに感服せざるを得ない。よほど独創的な想像力がないとこんな変化は出来んのである。一代の画工が精力を消耗して変化を求めた顔でも十二三種以外に出る事が出来んのをもって推せば、人間の製造を一手で受負った神の手際は格別な者だと驚嘆せざるを得ない。到底人間社会において目撃し得ざる底の伎倆であるから、これを全能的伎倆と云っても差し支えないだろう。人間はこの点において大に神に恐れ入っているようである、なるほど人間の観察点から云えばもっともな恐れ入り方である。


 しかし猫の立場から云うと同一の事実がかえって神の無能力を証明しているとも解釈が出来る。もし全然無能でなくとも人間以上の能力は決してない者であると断定が出来るだろうと思う。神が人間の数だけそれだけ多くの顔を製造したと云うが、当初から胸中に成算があってかほどの変化を示したものか、または猫も杓子しゃくしも同じ顔に造ろうと思ってやりかけて見たが、とうていうまく行かなくて出来るのも出来るのも作り損ねてこの乱雑な状態に陥ったものか、わからんではないか。彼等顔面の構造は神の成功の紀念きねんと見らるると同時に失敗の痕迹こんせきとも判ぜらるるではないか。全能とも云えようが、無能と評したって差し支えはない。


 彼等人間の眼は平面の上に二つ並んでいるので左右を一時に見る事が出来んから事物の半面だけしか視線内に這入はいらんのは気の毒な次第である。立場を換えて見ればこのくらい単純な事実は彼等の社会に日夜間断なく起りつつあるのだが、本人のぼせ上がって、神に呑まれているから悟りようがない。製作の上に変化をあらわすのが困難であるならば、その上に徹頭徹尾の模傚もこうを示すのも同様に困難である。ダ・ヴィンチに寸分違わぬ聖女の像を二枚かけと注文するのは、全然似寄らぬモナ・リザを双幅見せろとせまると同じく、ダ・ヴィンチにとっては迷惑であろう、否同じ物を二枚かく方がかえって困難かも知れぬ。弘法大師に向って昨日書いた通りの筆法で空海と願いますと云う方がまるで書体を換えてと注文されるよりも苦しいかも分らん。


 人間の用うる国語は全然模傚主義で伝習するものである。彼等人間が母から、乳母から、他人から実用上の言語を習う時には、ただ聞いた通りを繰り返すよりほかに毛頭の野心はないのである。出来るだけの能力で人真似をするのである。かように人真似から成立する国語が十年二十年と立つうち、発音に自然と変化を生じてくるのは、彼等に完全なる模傚の能力がないと云う事を証明している。純粋の模傚はかくのごとく至難なものである。従って神が彼等人間を区別の出来ぬよう作り得たならばますます神の全能を表明し得るもので、同時に今日のごとく勝手次第な顔を天日にらさして、目まぐるしきまでに変化を生ぜしめたのはかえってその無能力を推知し得るの具ともなり得るのである。


 吾輩は何の必要があってこんな議論をしたか忘れてしまった。元を忘却するのは人間にさえありがちの事であるから猫には当然の事さと大目に見て貰いたい。とにかく吾輩は肩を落として歩くトジュロー君の背中を視界の端に置きながら、神官宿へ戻る道すがら稽古場の窓枠から顔を覗かせるキャリコに偶然出喰わしたのである。


「あら勇者様、どうしましたの。随分とふさいでいらっしゃるのね」

「やあキャリコさん。参ったな、そんな風采ふうさいをしているつもりはないのだけれど」

「立派なひげしおれてますわ。ほら」


 キャリコは先日見た鈴を鳴らして吾輩のそばまで降りてくると、ほらご覧なさいとばかりに吾輩の髭の先を前脚でちょいちょいと突いて見せた。吾輩は思わず眼をパチクリする。


「そうかな。そうかもしれんが――」

「ウフフ。そうですとも。勇者様の事なら横丁の占者より当てて見せましょう」


 キャリコは立てた尻尾を滑らかに右廻りに廻し、吾輩の周りを右廻りに廻って天鵞絨ビロードのごとき暖かな毛を擦り寄せる。たったそれぎりの事で吾輩を悩ませていた労苦は束の間消失きえうせた。


 この時、とある感想が自然と胸中に湧き出でたのである。なぜ湧いた?――なぜと云う質問が出れば、今一応考え直して見なければならん。――ええと、その訳はこうである。




 ――やはり吾輩はキャリコをおもっている。




 吾輩は覚悟する。吾輩が勇者猫と云うのが事実とあれば、それに相応ふさわしくありたいと。最初の最初からそう呼んでくれたキャリコの為にもそうありたいそうあらねばと決心したのだ。


「キャリコさん、御陰おかげで迷いが消えた。吾輩は魔王をらしめに出掛ける事にめたよ」



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