第十一話(二)



 トジュロー君とコルドーウインドの帰ったあとは木枯しのはたと吹きんで、しんしんと降る雪の夜のごとく静かになった。花曇りに暮れを急いだ日ははやく落ちて、表を通るサンダルの音さえ手に取るように響く。隣の通りで明笛みんてきを吹くのが絶えたり続いたりしてねむい耳底に折々おりおり鈍い刺激を与える。外面は大方おぼろであろう。群青餅を喰い損ねてからにした腹ではどうしても休養が必要である。


「今日はなんだか私まで疲れてしまいました。何もしておりませんとうのにね」


 そうお道化どうけて笑うクシュンだったが、さぞや心配だったのだろう、吾輩がくだんの群青餅先生と奮闘している間中、神経性胃弱がここぞと活力を得てごろごろと腹が鳴り通しだったのを覚えておる。まったく世話の妬ける主人である。


 吾輩はベッドに腰掛けているクシュンの膝上に音も無く駆上がり、礼儀正しくすわり込んでにゃあと鳴いてやった。それからごろごろの音の根源たるへそあたりにうずくまって丸くなる。こうすれば少しは神経性胃弱もマシになろうと思っての行動である。


「ふふふ。本当にお疲れ様でした、マダナイさん。御立派な活躍でしたよ」


 吾輩を優しく撫でるクシュンの手は何だかふわふわくすぐったい。ようやっと猫族の扱いがさまになってきたようである。だが、もそっと下がよろしい。そうそう尻尾大明神の付根つけねい。


 やがて夕餉ゆうげの時分となった。


「はい。マダナイさんもお食べになって下さいね。奮発しましたから」


 膳の上を見ると、丸々太ったさかなの焼いたのが一疋いっぴきある。これは何と称する肴か知らんが、何でも昨日あたり御台場おだいば近辺でやられたに相違ない。肴は丈夫なものだと説明しておいたが、いくら丈夫でもこう焼かれたり煮られたりしてはたまらん。多病たびょうにして残喘ざんぜんを保つ方がよほど結構だ。吾輩は早速肴をちょっと突っついたが、なかなかにしてうまい。たちまちクシュンも吾輩も満腹になる。満腹になれば眠くなる。極めて自然で道理な現象である。


 にゃあ。


 さすがに春の灯火は格別である。天真爛漫ながら無風流きわまる光景の裏に良夜をしめとばかりとこしげに輝やいて見える。ぼんやりと見つめながらもう何時だろうと室の中を見廻みまわすと四隣しりんはしんとしてただ聞えるものはクシュンの寝息のみである。――夜は大分更けたようだ。


 クシュンの癖として寝る時は必ず小本をたずさえて来る。しかし横になってこの本を二頁と続けて読んだ事はない。ある時は持って来て枕元へ置いたなり、まるで手を触れぬ事さえある。一行も読まぬくらいならわざわざ提げてくる必要もなさそうなものだが、そこがクシュンのクシュンたるところで毎夜読まない本をご苦労千万にもベッドまで運んでくる。思うにこれはクシュンの病気で贅沢な人が竜文堂りゅうぶんどうに鳴る松風の音を聞かないと寝つかれないごとく、クシュンも書物を枕元に置かないと眠れないのであろう、して見るとクシュンに取っては書物は読む者ではないねむりを誘う器械である。活版の睡眠剤である。


 今夜も何か有るだろうとのぞいて見ると、赤い薄い本がクシュンの桃色の唇の先につかえるくらいな地位ちいに半分開かれて転がっている。クシュンの左の手の拇指おやゆびが本の間に挟まったままであるところからすと奇特にも今夜は五六行読んだものらしい。いやはや。


 さて、吾輩も眠るとしよう。

 本日は格別に疲れてしまった。


 明日の事は明日考えたら宜しかろう。




 ◆◆◆




 ライプニッツの定義によると空間は出来得べき同在現象の秩序である。いろはにほへとはいつでも同じ順にあらわれてくる。柳の下には必ずどじょうがいる。蝙蝠こうもりに夕月はつきものである。しかし頼まれもせんのに毎日毎日飽きもせず牡蠣かき朴念仁ぼくねんじんたるクシュンの所を冷やかしに来訪するラビリス嬢はこの排列より唯一外れたものであろう。


「さてさて。君等の冒険行はどうだったかね、クシュン君」

 手前勝手にベッドに上がり込んで胡坐あぐらきながらラビリス嬢は口火を切った。

「あらやだ。あの両人ふたりからお聞きになったのでしょう」

「聞いたは聞いたがね。私は君のことばを聞きたいと思ってこうして参上仕ったという訳さ」

 ラビリス嬢がにやにやしながら吾輩を見おったものだから、話してはいけぬ話してはいけぬとあごと眼でクシュンに合図する。悲しいかなクシュンには一向意味が通じない。

「何とか皆無事に帰ってこれましたよ」

「それだけかね」

「それくらいのもんですよ。そうそう大仰おおぎょうにする事もございませんでしたから」

「勇者猫様のはなしはどうした。そいつを忘れちゃ画竜点睛を何とかと云う奴じゃないか」

 ラビリス嬢粗方あらかた話しの続きを分かっておる癖に知らぬ存ぜぬで通すつもりらしい。

「スライムが出たんですよ。もう善いでしょう」とクシュンは重たそうに口を開く。

「そりゃ結構だな」

「何が結構なものですか。他人事ひとごとだと思って」

「いやいや、自分事だとも。本来なら私も同行する手筈だったのだからね」

虚言うそばっかり」

「君とトジュローの邪魔をしちゃいかんだろうと泣く泣く辞退したと云うのに虚言とはひどい」

「またそうやって揶揄からかうつもりなんでしょう。おおいやだ!」


 朱に染まった頬を張りぷいと明後日あさっての方へ首を振りながらクシュンが云うと、ラビリス嬢は本日最大のにやにや笑いを披露しつつこう締めくくる。


「近日中に珍報があるだろうとも。珍報とは真の珍報さ。正札せいふだ一厘いちりんも引けなしの珍報さ」



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