第五話(一)



 今日は上天気の休日というのに、クシュンはのそのそ寝台から這出はいでて来たかと思えば、陽射ひざしに斜断された窓際の文机へ洋墨と羊皮紙を並べて、しきりに何か唸っている。大方草稿を書きおろす序開きとして妙な声を発するのだろうと注目していると、ややしばらくして筆太に「粛啓しゅくけい」と書いた。「粛啓」とはクシュンにしては少し大袈裟過ぎているがと思う間もなく、彼女は「粛啓」を書き放しにして、新たに行を改めて「過日偉大なるメッツナーの儀式にて招きたる猫について此処ここに記す」と筆を走らせた。しかし筆はそれだけではたととまったぎり動かない。


「うーん」

 クシュンは声に出して唸って見せるが、やはり筆は動こうともしない。


 おりから部屋の鍾鈴ベルがチリン、チリン、チリリリリンと鳴る。大方来客であろう。吾輩は出ない事にめているのだから、平気で、もとのごとくクシュンの膝にすわっておった。するとクシュンは吾輩を降ろしたものかどうしたものか困った顔付をして木扉の方を見る。しばらくすると木扉の向こう側で「あたしよ、あたし」と云う。ははあ、あの聞き及びのある声の主は黒縁丸眼鏡の君、のラビリス嬢に違いない。


 ラビリス嬢という女はクシュンと同じ神官であり、学校通いをしていた頃からの縁であったそうだが、学校を卒業して、何でも儀式巫女たるクシュンよりいくぶんマシな魔法術の研究員になっているという話しである。この女がどういう訳か、よくクシュンの所へ遊びに来る。来ると自分をおもっている男が有りそうな、無さそうな、世の中が面白そうな、つまらなそうな、凄いような艶っぽいような文句ばかり並べては帰る。クシュンのような男付合いの苦手な朴念仁ぼくねんじんを求めて、わざわざこんな話しをしに来るのからして合点が行かぬが、色恋話しとは無縁極まるクシュンがそんな談話を聞いて時々相槌を打つのはなお面白い。


「やあ、クシュン君。こんな上天気の日に部屋にこもってなにをしようというんだね?」

「いや特に何という事もないのだけれど。でもまあ、そうね、この猫様について気付いた事等をここいらで一つ王様にお知らせしておこうかと思ったものだから」

「ほほう。それで何か分かった事があるのかね?」

「それが……これと云ってある訳でもないものだから、はてどうしたものやらと」

「なんだいそりゃ、アハハハハ」


 ラビリス嬢は失望と困惑を掻き交ぜたような声をして、勝手知るクシュンの部屋に這入り込んで笑った。吾輩も同じ心持である。やはり人間如きでは猫の事は到底分からぬと見える。


「たまにはそこいらに出掛けて見たらどうかね? い考えも浮かぼうってものだよ」

「もう少し。もう少しで浮かびますから。ラビリスはそちらで勇者猫様と遊んでいて下さい」

「君、まだ勇者猫様とお呼びしているのかい? あれは何、ただの冗談だよ。アハハハハ」

「いえいえ。そんな事ある筈がありません。勇者猫様は勇者猫様ですよ。さあさあ」


 はからずもラビリス嬢の接待掛りを命ぜられて無愛想な顔もしていられないから、にゃあにゃあと愛嬌を振りいて膝の上へ這い上って見た。するとラビリス嬢は「いやあ少しばかり肥ったんじゃないかね勇者猫様、どれどれ」と無作法にも吾輩の襟髪をつかんで宙へ釣るす。「あと足をこうぶら下げては鼠は取れそうもないな……どうだいクシュン君、この勇者猫様は鼠を捕るのかい?」と吾輩ばかりでは不足だと見えて、隣りでうんうん唸っているクシュンに話しかける。「うーん。まだ鼠を捕ったのを見たことはないわね。でもね、よく筋向いのリリーさんの稽古場に出入しているようだから、案外踊りを踊って見せるんじゃないかしら」とクシュンは飛んだところで吾輩の私的生活を暴く。吾輩は宙乗りをしながらもキャリコの事まで勘付かれているのではあるまいかと少々極りが悪かった。ラビリス嬢はまだ吾輩を卸してくれない。「なるほど踊りが得意そうな顔をしているよ。クシュン君、この猫は油断のならない相好だなあ。確かあすこには雌の三毛猫がいた筈じゃないか。まったく隅に置けない勇者猫様だ。むかしの草双紙にある踊りの得意な色男に似ているとは思わないかい?」と当たらずとも遠からじの勝手な事を言いながら、しきりにクシュンに話しかける。クシュンは迷惑そうにとうとう筆の手をやめてそばへ寄って来る。


「そうそう。勇者猫様について一つばかり考えがあるのだけれど」

「ほほう。拝聴しますよ」

「いつまでも勇者猫様とお呼びするのは少し具合が悪くないかしらと思って」

「ナール」とラビリス嬢は引張ったが「ほど」を略して考えている。「では、さぞ勇者猫様に相応しい名前を考えたのだろうね? 聞かせてもらいたい」

「マダナイ、と云うのがよろしいかと思います」

「マダナイ、か。随分と大きく出た物だなあ」


 ラビリス嬢は興味深気に黒縁丸眼鏡の位置を直して身を乗り出した。


「マダナイと云えば、われらの信奉するメッツナーの苦難に満ち満ちた旅路を守護した伝説的英雄の名前だな。魔族側に移って論じるならば、奴等めの行使する魔法術の内には至極頻繁にマダナイと申す字が見えるから余程忌嫌いみきらわれていたものだと見える。賢者ワイトストーンの説によるともし魔族的魔法術を受けた人間が、万一勇者英雄のたぐいである時は同様にマダナイの字を織り混ぜ込まないとまるきり効果が出ないのだそうだ。まあそれが真実かは知りもしないが、悪くすると毛筋ほども傷を負わないので、三〇〇年前に彼の有名な勇者、寡黙なるダニル=クレーグが魔王アウカーディズスと戦った折に辛くも勝利を収められたのは魔王の行使した必殺の魔法術にマダナイの字がなかった為なのだとも云われているくらいなのだよ」

「本当に詳しいのね、ラビリスは」


 ラビリス嬢はこんなところへくると急に元気が出る。


「いつもながら驚かされます。普段は虚言うそやら冗談ばかり口にする癖に」

「アハハハハ。いやねクシュン君、まだまだ面白い事があるのだよ英雄マダナイについての話しには。メッツナーの曰く、英雄マダナイは人間でありながらも人間ではなかったのだとさ。神格的存在であったが故にそう云う事もまた等しく正しいのだろう。案外英雄マダナイこそ猫であった可能性すら容易に論じられるのだよ。それ此処におわす勇者猫様と同じくと云う事だな。ほら見てみたまえ、始めて出逢った時から感じていた事だがこの勇者猫様は向こうの世界でも大分苦難の道を歩んで来たものと見えてなるほど漂泊者らしい風采ふうさいをしているじゃないかね。あちら風の洒落しゃれた言回しをするならヴァーガボンドーと云う奴だ」

「なるほど。で、あちら風ってどちらの事ですかね」

「あちらはあちらだよ。意味も何にもあるもんか」

「教えて下すってもいいじゃありませんか、あなたはよっぽど私を馬鹿にしていらっしゃるのね。きっと人が物を知らないと思っていつもの冗談をおっしゃったんでしょう」

な事を言わないで、早く書物を片付けてしまうが好い。早くせんと出掛けられない」

「どうせ今から書いたって間に合いやしませんもの。それより、ヴァーガボンドー等と云う言い回しをするあちらとやらについてを教えて頂戴」

「うるさい女だな、意味も何にも無いと云うのに」

「いいです。そんならもう聞きません」

「それじゃ早速出掛けよう」


 ラビリス嬢は吾輩を抱え降ろしてふいと立つ。クシュンはしばし口惜しそうに頬を膨らませていたものの、引き下がって神官装束の上に羽織るトゥイードの上衣を引掴ひっつかんで後を追う。両人ふたり共何にもなかったかの如き笑顔を浮かべて部屋を後にする。吾輩はただ一ひき残される。



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