第二話(二)



 やがて吾輩はクシュンの手に載せられ、偉大なるメッツナーの徒たる神官たちが住む邸へとやって来た。鼻王の城の裏にある百坪ばかりある石壁の西洋館である。瀟洒さっぱりとした心持ち好く日の当る所だ。しばらくそのままにしておくと、クシュンは階段の一段ずつで陰鬱な溜息を吐きながら登って、三階にある自分の部屋へと引込んだ。


「はあ。まさか猫を飼うことになるなんて」


 クシュンの部屋は陽気に暖かそうであるが、気の毒な事には毛布だけが春らしくない。製造元では白のつもりで織り出して、唐物屋とうぶつやでも白の気で売り捌いたのみならず、クシュンも白と云う注文で買って来たのであろうが――白の時代はとくに通り越してただ今は濃灰色なる変色の時期に遭遇しつつある。この時期を経過して他の暗黒色に化けるまで毛布の命が続くかどうだかは、疑問である。今でもすでに万遍なく擦り切れて、竪横たてよこの筋はあきらかに読まれるくらいだ。しかしクシュンの考えでは一年持ち、二年持ち、五年持ち十年持った以上は生涯持たねばならぬとでも思っているらしい。随分呑気な事である。


 寝台の上の気の毒な毛布に腰掛たクシュンは吾輩を鼻の先に持ち上げて云った。


「でもね、あなたもとんだご迷惑でしたでしょうね、猫さん」


 実の所そうでもない。吾輩はあの時死んでいた訳なのだからむしろこの人間には感謝すべきかとも思っている。そんな訳でにゃあにゃあと鳴いてやるとクシュンは可笑しそうに笑った。


「あらやだ。人間の言葉がお分かりになるとでも云うのかしら。そうですね、異世界からメッツナーの魔法術で召喚されて来た猫な訳です。お分かりになっても至極真っ当な気がします」


 ここで吾輩は図らずともクシュンという人間を少しばかり見直すこととなった。


 ちょっと読者に断っておきたいが、元来人間が何ぞというと猫々と、事もなげに軽侮の口調をもって吾輩を評価する癖があるのは甚だよくない。いくら猫だとて、そう粗末簡便には出来ぬ。よそ目には一列一体、平等無差別、どの猫も自家固有の特色などはないようであるが、猫の社会に這入はいって見るとなかなか複雑なもので十人十色という人間界の諺はそのままここにも応用が出来るのである。目付でも、鼻付でも、毛並でも、足並でも、みんな違う。髯の張り具合から耳の立ち按排、尻尾の垂れ加減に至るまで同じものは一つもない。器量、不器量、好き嫌い、粋無粋の数を尽くして千差万別と云っても差支さしつかえないくらいである。そのように判然たる区別が存しているにもかかわらず、人間の眼はただ向上とか何とかいって、空ばかり見ているものだから、吾輩の性質は無論相貌の末を識別する事すら到底出来ぬのは気の毒だ。同類相求むとは昔からある諺だそうだがその通り、餅は餅屋、猫は猫で、猫の事ならやはり猫でなくては分らぬ。いくら人間が発達したってこればかりは駄目である。いわんや実際をいうと彼等が自ら信じているごとくえらくも何ともないのだからなおさらむずかしい。


 そんな一人間であるクシュンから元来享受すべき相応の扱いを受け吾輩は少しばかり気をくしておった。そんな訳で吾輩がまたぞろにゃあと鳴いてやるとクシュンは云ったのである。


「ここは猫さんがいらした世界とは異なる世界なのですよ。サンドレアと云い、ここは先程のゴルトン王が治めておられるゴルジアスターゼ城であります。《人間族最後の砦》などと仰る方もいるようです。何故ならば――」


 クシュン曰く、せんだってじゅうから人間族は魔族と大戦争をしているそうだ。吾輩は日本の猫であり、今に至ってはクシュンの猫なのだから無論人間族贔屓である。出来得べくんば混成猫旅団を組織して魔族共を引っ掻いてやりたいと思うくらいには肩入れしている。


「そうなのです。ですからこそ異界より蛮勇なる強者を招入れて我ら救国の雄となっていただかんとメッツナーの儀式を執り行った訳です。そうそう、メッツナーとは私共の信奉するありがたい神の聖名みなにございますよ」


 耶蘇やそ教にも仏教にも回々ふいふい教にも属さない無信心の吾輩であるからして、いわんやメッツナーなどという神は至極当然見知りもせぬ。無論えらいもえらくないもありがたいもありがたくないも知らぬ訳なのだから、教えられた所で無闇に念仏なぞ唱えることもなかろうと思う。あの時ポリバケツの内で南無阿弥陀仏と唱えてみても到底助からぬのだから、神も仏もメッツナーも皆似たようなものであろう。


「いえ。私とて猫さんが悪いと申し上げている訳ではないのですよ。ただ至らなかった自らと自らの信心を恥入るのみです。はあ、ほとほと弱りました。どうもこうもございません……」


 吾輩の主人となったクシュンの職業は神官だそうだ。城から帰ると終日自室に這入ったぎりほとんど出て来る事がない。余所のものは大変な勉強家だと思っている。当人も勉強家であるかのごとく見せている。しかし実際は余所のものがいうような勤勉家ではない。吾輩は時々忍び足に彼女の暮し振りを覗いているが、クシュンはよく転寝うたたねをしている事がある。時々読みかけてある経典の上に涎をたらしている。彼女は胃弱でくだんの鼻王やいけ好かない神官長に叱責されるたびゴロゴロと猫の如く腹を鳴らしている。その癖に大飯を食う。大飯を食った後で止せばいいのに甘味を食う。散々っぱら食うた後で経典をひろげる。二三ページ読むと眠くなる。涎を本の上へ垂らす。これが彼女の毎夜繰り返す日課である。吾輩は猫ながら時々考える事がある。神官というものは実に楽なものだ。人間と生れたら神官となるに限る。こんなに寝ていて勤まるものなら猫にでも出来ぬ事はないと。それでもクシュンに云わせると神官ほどつらいものはないそうで彼女は友達が来る度に何とかかんとか不平を鳴らしている。


 吾輩がクシュンの部屋に住むようになってからはじめて黒縁丸眼鏡の女神官がクシュンを訪問した。彼女は座につくと劈頭へきとう第一に「大層なあの儀式であんたがお招きした猫様はどう?」と口を切った。クシュンは平気な顔をして「はじめて猫を飼ったのだけれど、なるほど今まで気のつかなかった毛色や、眼の輝きの精細な変化などがよく分るようよ。さすがはメッツナー様のお招きした猫ね」としきりに感心する。女神官は笑いながら「実はね、それは只の猫様ならぬ勇者猫様なのだよ」と真面目腐って頷いて見せる。「何が」とクシュンは揶揄からかわれている事に気がつかない。「何がってあんたの飼っている猫様さ。あんたがそんなに不信心だとは思わなかったわ!」と大憤慨の体である。吾輩は寝台でこの対話を聞いて苦笑せざるを得なかった。この女神官はこんな好加減な事を吹き散らして人を担ぐのを唯一の楽にしているらしい。神経胃弱性のクシュンは眼を丸くして問いかけた。


「もう、そんな出鱈目ばかりいって! もし王様が聞いていたらどうするつもりなの」


 あたかも人を欺くのは差支さしつかえない、ただ化けの皮があらわれた時は困るじゃないかと感じたもののごとくである。女神官は少しも動じない。


「なにその時は別の猫様と間違えたとか何とか云うばかりよ」


 と云ってけらけら笑っている。


 この女神官は黒縁の丸眼鏡は掛けているがその性質が神官に似つかわしくないところがある。クシュンは黙って自分にはそんな勇気はないと云わんばかりの顔をしている。女神官はそれだから無闇に召喚の儀式を執り行っても駄目だという目付で、


「しかし冗談は冗談だけど、猫様というものは実際神秘の塊なのだよ、クシュン君。彼の高名なる芸術神、タータラは自らが使役する従者たちにメッツナーの御姿を拝顔したくば猫を見給えと教えた事があるそうだよ。なるほどこうして――よっと――目まぐるしく変幻する瞳を覗込んでいると、なかなかにして趣深い闇の深淵が広がっているぜ。あんたもなお注意して観察して見給えきっとこの世界の真理を悟るまでに至るから」

「また欺すつもりなんでしょう!」

「いえこれだけはたしかだね。実際奇警きけいな語じゃないか。偉大なるメッツナーの勇者召喚の儀によって猫様が招入れられるなんて。猫様でもいい、そういう事だわね」

「なるほど奇警には相違ないわね」とクシュンは半分降参した。


 しかしクシュンはまだ当分この世の真理を悟るまでには至らぬようだ。



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