第十話(二)



 薄暗がりの闇の奥でトントンと二返にへんばかり軽くあたった音がする。はてな松明も灯さず人の来るはずがない。大方鼠か何かだろう、鼠ならもう捕らん事にめているから勝手にあばれるがよろしい。――またトントンと中る。どうも鼠らしくない。鼠としても大変用心深い鼠である。住居すまいたる神官宿のなかの鼠は、日中でも夜中でも乱暴狼藉ろうぜき練修れんしゅうに余念なく、憫然びんぜんなるクシュンの夢を驚破きょうはするのを天職のごとく心得ている連中だから、かくのごとく遠慮する訳がない。今のはたしかに鼠ではない。吾輩の背中の毛が靴刷毛くつばけさかさすられたような心持がする。




 しばらくは足音もしない――いや、またトントンと中った。




「……今何か仰った、トジュロー?」

「しっ。今回は聞き間違いじゃない。何かる」

 トジュロー君は手の内の剣を握り直して吾輩を見おった。吾輩はしたりとうなずいて応じる。

「やれやれ。どうやら勇者猫様はとうにお気付きづき容子ようすじゃないか。魂消たまげたな」

 らんことはわんでも宜しい。

「来ます」とコルドーが眼前に杖を構え魔法術を唱える準備を始める。


 しばらくするとそれはのたりのたりと我等われら一行の前に姿を見せた。


「ス、スライムじゃないか。これはいかん」


 ウインドのことばにある「すらいむ」と云うのは良く分らんが、「猫々飯店」でいつだか見た通りの餅が、いつだか見た通りの色でごつごつした石床に膠着こうちゃくしている。白状するが餅というものは今まで一辺いっぺんも口に入れた事がない。見るとうまそうにもあるし、また少しは気味がわるくもある。特にこいつは初夏の群青の空色に似て格別に不味まずそうである。


「あ、危ないですよ、マダナイさん!」


 クシュンが何やら云うておったが、吾輩は構わず細波さざなみのように盛んに震える群青餅のそばまで近寄って前足で掻き寄せて見た。爪を見ると群青餅の上皮が引き掛ってねばねばする。嗅いで見ると釜の底の飯を御櫃おひつへ移して七日ばかり放っておいた時のような酸っぱいかおりがする。食おうかな、やめようかな、とあたりを見廻す。幸か不幸か止め立てする者は誰もいない。食うとすれば今だ。もしこの機をはずすと今度の正月までは餅というものの味を知らずに暮してしまわねばならぬ。


「おいおいおい。猫様は一体何をしようと云う気だ。相手はスライムだぞ」

「どう仕留めるか思案されているのでしょう。そうですとも」とクシュンは応じる。


 吾輩はこの刹那に猫ながら一の真理を感得した。「得難き機会はすべての動物をして、好まざる事をももってせしむ」吾輩は実を云うとそんなにこの群青餅を食いたくはないのである。否群青餅の香と様子を熟視すればするほど気味が悪くなって、食うのが厭になったのである。この時もしクシュンが止め立てしたなら、トジュロー君の足音がこちらへ近付くのを聞き得たなら、吾輩は惜気もなく餅を見棄てたろう、しかも餅の事は来年まで念頭に浮ばなかったろう。


 ところが誰も来ない、いくらしていても誰も来ない。早く食わぬか食わぬかと催促されるような心持がする。吾輩はわずかに濁った群青餅の中を覗き込みながら、早く誰か来てくれればいいと念じた。やはり誰も来てくれない。吾輩はとうとう群青餅を食わなければならぬ。最後にからだ全体の重量を餅の内へ落すようにして、あぐりと餅の角を一寸ちょっとばかり食い込んだ。


「なんと! 噛み付いたぞ」「しかし相手が悪い。溶かされちまいませんか」


 このくらい力を込めて食い付いたのだから、大抵なものなら噛み切れる訳だが、驚いた! もうよかろうと思って歯を引こうとすると引けない。もう一辺いっぺん噛み直そうとすると動きがとれない。餅は魔物だなとかんづいた時はすでに遅かった。沼へでも落ちた人が足を抜こうと焦慮あせるたびにぶくぶく深く沈むように、噛めば噛むほど口が重くなる、歯が動かなくなる。歯答えはあるが、歯答えがあるだけでどうしても始末をつける事が出来ない。噛んでも噛んでも、三で十を割るごとくどうしても割り切れない。


「苦戦しているようです」「く溶かされないもんだ。どうなってるんだいこりゃあ」


 この煩悶はんもんの際吾輩は覚えず第二の真理に逢着ほうちゃくした。「すべての動物は直覚的に事物の適不適を予知す」真理はすでに二つまで発明したが、餅がくっ付いているのでごうも愉快を感じない。歯が餅の肉に吸収されて、抜けるように痛い。早く食い切って逃げねばならん。煩悶のきわみ尻尾をぐるぐる振って見たが何等なんらの功能もない、耳を立てたり寝かしたりしたが駄目である。考えて見ると耳と尻尾は餅と何等の関係もない。要するに振り損の、立て損の、寝かし損であると気が付いたからやめにした。


「あの……助けに行った方が善くありませんかね」「いや、来るなと仰っているようですよ」


 ようやくの事これは前足の助けを借りて餅を払い落すに限ると考え付いた。まず右の方をあげて口の周囲をまわす。撫でたくらいで割り切れる訳のものではない。今度はひだりの方をして口を中心として急劇きゅうげきに円をかくして見る。そんなまじないで魔は落ちない。辛防しんぼうが肝心だと思って左右かわがわるに動かしたがやはり依然として歯は餅の中にぶら下っている。ええ面倒だと両足を一度に使う。すると不思議な事にこの時だけは後足二本で立つ事が出来た。何だか猫でないような感じがする。猫であろうが、あるまいがこうなった日にゃあ構うものか、何でも餅の魔が落ちるまでやるべしという意気込みで無茶苦茶に顔中引っ掻き廻す。前足の運動が猛烈なのでややともすると中心を失って倒れかかる。


 刹那第三の真理が驀地ばくち現前げんぜんした。


「危きに臨めば平常なしあたわざるところのものを為し能う。これ天祐てんゆうという」




 ――吾天祐をけたり。




南無なむ八幡はちまん大菩薩だいぼさつ――!」


 迷うことなく吾輩が唱えると、あの夜と同じくただならぬ物音を立てて白光が炸裂した。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る