第十話(一)



 元来クシュンは平常枯木寒巌こぼくかんがんのような顔付はしているものの実のところは決して男子に冷淡な方ではない、かつてる小説を読んだら、その中にある一人物が出て来て、それが大抵の男子には必ずちょっと惚れる。勘定をして見ると往来を通る紳士の七割弱には恋着れんちゃくするという事が諷刺ふうし的に書いてあったのを見て、これは真理だと感心したくらいな女である。


 そんな女が何故牡蠣かき的生涯を送っているかと云うのは吾輩猫などには到底わからない。或人あるひとは神官と云う聖職のためだとも云うし、或人は失恋のためだとも云うし、或人は胃弱のせいだとも云うし、また或人は臆病な性質だからだとも云う。しかしラビリス嬢のるのだか無いのだか判然としない艶話つやばなしを毎度真面目腐った顔付きでうらやまし気に拝聴する事だけは事実である。


 さて、クシュン、トジュロー君のわびしい両人ふたり旅だったものが冒険者宿でコルドー、ウインドを加えた四人旅となり、晴れて目的の地に向うことに相成った。――吾輩?――吾輩のことはわざわざ勘定に入れんでもよろしい。


「ねえ、トジュロー? これからどちらに参るのでしょう」

「一番近い洞窟が手頃だと思ってね。そちらに」

「となるとラクーンでしょうか」とコルドーが手にした杖をかざして質問をする。

「そうなるな。それにしても君等きみらには済まない事をしたよ」

「おっと。そいつは先程の御婦人の一件ですかね」と今度はウインドが面白がって質問した。

「うん。あれは実にずうずうしい女だ。吾輩は暇がないが興味だけはあると剛情を張るのさ」

「同行したいとおっしゃってましたが」

「いやいや。あれに――ラビリスに騙されてはいけないよ。端っからそんな気は毛頭ないのだから。昔からまるで変わっておらんからね」

「昔から、ですか」

「そうとも。約束なんか履行りこうした事がない。それで詰問を受けると決して詫びた事がない何とかとか云う。エピクタス魔法学校の庭に禊萩リスラムが咲いていた時分、この禊萩が散るまでに一端いっぱしに皆揃って冒険行をしようと云うから、駄目だ、到底出来る気遣きづかいはないと云ったのさ。するとラビリスの答えに、私はこう見えても見掛けに寄らぬ意志の強い女である、そんなに疑うなら賭をしようと云うから、僕は真面目に受けて何でも樽ごとの蜂蜜酒ミードおごりっこかなにかにめた。きっと冒険行なぞする気遣はないと思ったから賭をしたようなものの内心は少々恐ろしかった。僕に一樽の蜂蜜酒なんか奢る金はないんだからな。ところが先生一向準備する景色がない。七日立っても二十日立っても腰を上げない。いよいよ禊萩が散って一輪の花もなくなっても当人平気でいるから、いよいよ蜂蜜酒に有りついたなと思って契約履行をせまるとラビリスすまして取り合わない」

「何とか理窟をつけたのよね」とクシュンが相の手を入れる。

「それで? 一回も行ったことがないのですか?」

「無論さ、その時あれはこう云ったとも。吾輩は意志の一点においてはあえて何人にも一歩も譲らん。しかし残念な事には記憶が人一倍無い。蛮勇なる冒険行に同行しようとする意志は充分あったのだがその意志を君に発表した翌日から忘れてしまった。それだから禊萩の散るまでにしかる準備が出来なかったのは記憶の罪で意志の罪ではない。意志の罪でない以上は蜂蜜酒などを奢る理由がないと威張いばっているのさ」

「なるほど一流の特色を発揮して面白いですな」

 ウインドはなぜだか面白がっている。これが利口な人の特色かも知れない。

「何が面白いものか」とトジュロー君は今でも怒っている容子ようすである。

「はいはい御気の毒様、それだからその埋合せをするために私とマダナイさんがいるじゃありませんか。まあそう怒らずに参りましょう。ラビリスの御陰おかげで両人と巡り合ったのですから」

「ラビリスはくるたびに珍報をもたらす女だから油断が出来ん。今日も何が起こるか」

「可哀そうに、そんなに嫌うものでもないわよ」

 クシュンは当らず障らずの返事はしたが、何となく落ちつきかねて、吾輩のうなじのあたりを神経的にいじっている。悪くはない心地だがさりとて格別良い心地でもない。どうせやるならもそっと上か相当下の方がありがたい。


 やがて一行は山肌にぽかりと口を開けた洞窟の入口へと辿着たどりついた。うらぶれ傾いた木製の表札にはラクーン洞窟なる名と、それに連なる幾許いくばくかの警告文が書かれておったらしいが幾星霜いくせいそうの風雨にりて所々かすれて読めなくなっておる。鉛色の曇天が輪をかけて侘しさを増長する。


「随分と寂しい所ね、ここは」

「そう馬鹿にしたものでもないよクシュン」とトジュロー君は柳に受けて、あたりに漂う陰鬱たる気配を誤魔化ごまかそうとする。「市井の冒険者は皆手習てならいにここを訪れると云う由緒正しき洞窟でね。今日は空いていて都合が宜しい。勇者猫様の初冒険行だものなお宜しいじゃないか」

「はぁそんなものですかね」

「中に巣食う怪物共は皆一様に低級ですからね。御心配なさらずとも宜しいかと」

「そうですとも。僕の有望な友人が連中の機鋒きほうを折ってやりますから」

「まったく不相変あいかわらず調子の良い友人だよ君は」とコルドーはおおいに不平な気色を両頬にみなぎらす。

「ともあれ早速這入はいってみよう。準備はいかね?」


 トジュロー君が先陣切って薄暗がりに足を履入ふみいれる。手にはめらめらと燃え盛る松明を持ち、その頼りないあかりがごつごつした岩肌をてらてらと照らしておる。吾輩はと云うとクシュンの過保護的抱擁から脱し、灯の届く範囲をのそりのそりと歩いていく。


 北方の神々について書かれた「詩のエッダ」や「古エッダ」と呼び習わされる古書物によれば、神々に災いをもたらす者たる予言を受けし怪物狼フェンリルを戒めばくせんと黒小人ドヴェルグが製作したグレイプニルなる魔法の紐があったそうだ。悪名高き狼フェンリルはそれまでにこしらえられた戒めと縛を残らず引き千切ってしもうた。いよいよの者の扱いに弱った神々が最後に作らせたのがグレイプニルであり、それは猫の足音、女の髭、岩の根、熊の腱、魚の息、鳥の唾液から作られたと云う。だからこの世にはそれらは粗方無くなってしまい存在せんという訳だ。吾輩も御多分に漏れず恩恵にあやかって、何処をどう歩こうが音もせず御蔭様で自由気ままでいられる。猫も馬鹿に出来ないと云う事を、どたばたと騒々しく足音を鳴らす高慢なる人間諸君の脳裏に叩き込みたいと考える。


「君何か云ったかい」とトジュロー君は突然コルドーに対して奇問を発する。

「いいえ何も」

「じゃあ君等か」

「云ってないわ」「云いやしませんよ」と後列のクシュンとウインドが答える。




 さもありなん、何か申したのは吾輩である。


 何故か?――と問われれば吾輩の自慢の髭がちりちり震えておったからに他ならなかった。



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