第十五話(二)



 鏡は己惚うぬぼれの醸造器であるごとく、同時に自慢の消毒器である。もし浮華虚栄ふかきょえいの念をもってこれに対する時はこれほど愚物を煽動せんどうする道具はない。昔から増上慢ぞうじょうまんをもって己を害し他をうた事蹟じせきの三分の二はたしかに鏡の所作しょさである。始めて鏡をこしらえた人も定めし寝覚のわるい事だろう。しかし自分に愛想の尽きかけた時、自我の萎縮した折は鏡を見るほど薬になる事はない。妍醜瞭然けんしゅうだ。こんな顔でよくまあ人でそうろうりかえって今日まで暮らされたものだと気がつくにきまっている。そこへ気がついた時が人間の生涯中もっともありがたい期節である。


「はあ、何でノゥだと云わなかったトジュロー」


 まさに今一人雪隠トイレで鏡のなかを見つめたままのトジュロー君は、正面に写る冴えない風采ふうさいのトジュロー君に向かって無遠慮に問質といただす。


わずかの金と地位に踊らされるの身の哀れさよ。――そう思うだろうね君も」


 上手く忍んでおったつもりの吾輩に向けてトジュロー君が尋ねる。とうに看破されておるのなら無闇に苦心していても無駄である。吾輩はのそりのそりと花台の下から歩み出た。


「そうとも、僕は両人ふたりの事よりもクシュンをえらんだのだ。あの王に逆えば城抱えも御破算になりかねんから。さりとてあの両人の事も僕は好いている。まったく愚中の愚だよ僕は」


 自分で自分の馬鹿を承知しているほどとおとく見える事はない。この自覚性馬鹿の前にはあらゆるえらがり屋がことごとく頭を下げて恐れ入らねばならぬ。トジュロー君は鏡を見て己れの愚を悟るほどには賢者である。たのもしい男だ。これもラビリス嬢からさんざやり込められた結果かも知れぬ。


「しかもあの令嬢は両人の所へ来たいそうだが、ついぞどちらなるかを聞損ねてしまった。さて、コルドーウインドどちらの事だろうか。宴終りの時分、僕はかなり酔うておったから」


 ――覚えておらぬ、そう困り顔で云う。吾輩も実の所、鼻王の云うひと悶着なるものに対して一向いっこうおぼえがない。はて、何があったろう。あの両人が朧月夜に魅入られてしきり喉を鳴らしていた所までは覚があるが、それがどうした、と云う按排あんばいである。


「コルドーには尊敬畏服の念がある。いささか生真面目で融通の利かない所もありはするが、それでもい男だ。ウインドはあのとおり軽薄粗忽そこつで鼻持ちならん事も無いではない。さりとていやじゃないさ。安穏として飄然ひょうぜんとしながら智慧ちえもある。やはり善い男だと思っているとも」


 吾輩は、にゃあ、と一声鳴いてやった。


「だろうとも。君とてわかっている。だからこそ悩ましい」


 これには吾輩些かおどろかされた。もしかしてトジュロー君は遂に猫族のことばを解するようにまで至ったのであろうか。しからば――吾輩は今一度、にゃあ、と鳴いて見る。


「ふむ。確かに令嬢はまれなる美人だろうさ。しかし僕にして見ればまるで興味は沸かん。何せ僕のおもいはただクシュンにのみ向いているのだからね」


 いやはや、まるで見込違いの見当違いもいい所である。そんな事はどうでもよろしい。


 吾輩は雪隠でいくら懊悩おうのうした所でどうにもならんのだから朝餉あさげを頂戴して早々出立したらいかがかと進言申上げたのみである。恋うも恋わぬもトジュロー君の手前勝手にするが善い。


 吾輩は呆れ半分に三度みたび、にゃあ、と鳴く。


「アハハハ、違いない。早速戻って準備をするとしよう」


 ん?――だんだん吾輩にも通じておるのか通じておらんのか判然としなくなって来た。


 一人と一疋いっぴき連立つれだって鼎人さんにんの待つ大部屋に戻ると四五人の女中メイド達が朝餉の準備最中であった。そこでトジュロー君はこの先の旅路の計画を一同に披露することにした。


「朝餉が済んだらゴルトン王に拝謁して一流作とやらの武具一揃を貰い受け、その足でいよいよもって魔王討伐に出向こうと思っておるのだけれど、皆宜しいだろうかね」

 残る鼎人は神妙な面持でうなずき返した。まず口を開いたのはコルドーである。

「どちらを目指しますか」

「僕は北を目指すのがいと思う」トジュロー君は古めかしい地図を取出すと、朝餉の椀を手で退けるようにして円卓の上に広げて見せる。「鉱山勤で永らく南方のナインスにおったのだけれども、――この辺だ。あちらは滅多の事でも無い限り魑魅魍魎ちみもうりょう化物のたぐいうたことがなかった。僕にはどうにも魔王の棲む気色けしきがないと見えた」

「東西はいかがです?」

 次なる語はウインドである。意外にも大真面目な顔付をしているので驚ろいた。

「東には大海、西は大砂漠がある。いずれも人も住まぬ土地柄ゆえ魔物の風説も然程さほど多く聞かれない。やはり可能性はすくないと思われるね」

 最後にクシュンが云う。

「ならば北方があやしかろうと仰るのね、トジュロー」

「うむ」トジュロー君は今一度鼎人の顔をかわがわる見つめて告白する。「かつての魔王の居城も北方の山脈の奥深くにあったと聞く。――昔々の話しだがね、それでも無闇に徘徊うろつきまわるよりは大分だいぶマシだろう。吾等われらはこの四人ぎりなのだから方々巡る余地もない。――いやいや失敬、無論分っているとも四人と一疋だったっけ」


 左様。

 吾輩を失念してはならんと、にゃあ、と一際高く鳴いておく。




 吾等は今一度トジュロー君が指し示す一点を見つめる。


 メゴシュー山――そこは、神と魔が邂逅するとわれる人跡じんせき未踏みとうの地であった。



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