第二十話(二)



「マダナイさん! おぼれてしまいますよ!」


 ぐぐっと濡れそぼってすっかり細くみすぼらしくなった吾輩はクシュンの手に抱きかかえられていたのであった。


「どうも御姿が見えないと思ったら……。ああ、本当に良かった! ね、貴女あなた御陰おかげよ?」


 クシュンは泣笑いの表情を浮かべつつ自らの足元に視線を向けた。

 そこにいたのは――。




「ああ、勇者様、勇者様! 本当に良かった!」

「……キャリコさん、か?」




 かっかと水を吐き出しうめくばかりの吾輩の身体をクシュンがそっと降ろすと、三毛猫のキャリコさんは吾輩の身体を飛びつくようにひしと抱き締めた。触れた一点からキャリコさんの温度が冷えた吾輩の身体にじわりと沁み広がって行く。ふと見るとクシュンは気を利かせたつもりで姿を消しておった。


「一体どうしてここにおいでなので?」吾ながら間抜けたといだと呆れたがそう云ってみる。

「勇者様御一行の御帰りを祝してうちの御師匠様も舞踊りを披露にうかがっておりましたの」


 ――なるほど。云われればそうだったかも知れない。


「そうか」と吾輩は少しきまりがわるそうに告げる。

「それで勇者様に一目御逢いしたいと探しておりましたら、露台バルコニーの方へお出になるのをお見掛けして――本当に心配しました、近くに丁度あの人間が――勇者様の御主人がお出ででしたので、それはもう必死に――」

「ははあ」

「ははあ、ではありません! 私怒りますよ!」とキャリコさんは激しくいきどおった。そのあまりの剣幕けんまくに吾輩が少々おどろきことばを無くしていると、キャリコさんは平静を取戻し云った。

「お帰りなさい、勇者様」

「ありがたい。実に勿体もったい無い語です」


 刹那、吾輩の脳裏にはまざまざと魔王との一戦が蘇る。




 実に怖ろしい相手であった。あの時吾輩は平静を失い、何処か変になっておったのだろう。れが誰れだかも思い出せなくなり、何を成すべきかも危うく忘れかけておった。




 それを今一度思い出させ奮起させたのは――キャリコさんの美しい姿だった。




 吾輩の眼の前に優雅に坐り、立てた尻尾を緩やかにひだりにまわして微笑んでいるのはまごうことなくあの刹那自然思い浮かんだキャリコさんの姿である。しかし思えば思う程吾輩の心の臓は締め付けられ苦しくなる。何故ならばキャリコさんは――。


「シュバルツもおおいに心配しておりました、よろしく云うてくれ、と申しつけられましたわ」

「そうですか」と吾輩は狼狽を隠し切ったつもりで素気無すげなく告げる。「吾が師は息災そくさいですか」

「ええ、元気ですよ。早くわせろとうるいの何のって」

 キャリコさんは首の鈴の音と同じ美麗な音で笑い立てる。ますます吾輩は憂鬱になる。

「いや――お逢いするのは止めておきましょう」

「なんですって?」

 キャリコさんは驚ろきのあまり飛上がった。吾輩は慌てて失礼に当たらぬよう付加える。

「されど夜なかでしょう」

「今すぐでなくても宜しいでしょう。どのみち逢わずにはいられませんから」

「何故です?」

「何故、とお聞きになりましたの? あら、いやだ!」

 妙である。キャリコさんは大層ご立腹の容子ようすである。

「もう、勇者様はオタンチン・パレオロガスですわ!」

「なんだって?」

 今度飛上がる羽目になったのは吾輩である。キャリコさんは頬を膨らませてそっぽを向く。

「以前お話しになったでしょう? とうとう意味は教えていただけませんでしたけれど……。でも、オタンチン・パレオロガスはオタンチン・パレオロガスです! いけずです! もう私のおもいならとっくのとうに伝わっていると思うてましたのに!」

「ち――ちょっと待ってください、キャリコさん」

 吾輩はすっかり訳が分らなくなってしもうた。

「ですが失礼ながら、キャリコさんはシュバルツを恋うておるのでしょう?」

「それはそうですわ、恋うております。世間一辺倒いっぺんとうには」


 しかして続く語に吾輩は仰天する事になる。






「――だって父ですもの。そりゃあ恋いますよ。そうじゃございません?」






「父――上と仰いましたか?」これは吾輩である。だったと思う。自分でも判然とせん。

「ええ」とキャリコさんは急に不安気な容子を見せた。「あら嫌だ、私も父もすっかり告げたつもりでいましたのに。父も申しておりました――全てを承知の上で来たのだな、と問うたと。勇者様は、そうだ、と仰ったと」




 吾輩は呆れてしまった。吾が身の愚かさに。とんだ思い違いに。

 そして笑ってこう告げた。




「僕も頑愚がんぐだな。まったくもってがたい」

「そうですわ、もう」とキャリコさんはくすくす笑う。


 天には煌々こうこうたる月が吾輩達を見下ろしておった。

 吾輩はキャリコさんの眼を見つめてそっと告げる。


「月が綺麗ですね」

「ええ、本当に」


 それからどちらともなく鼻先を寄せてそっと触れる。




 ああ、何という宇宙的活力か。

 げにこの世は――素晴らしい。




「本当に月が綺麗だわ、ねえ勇者様」


 キャリコさんがうっとりと告げる所に吾輩はにやりとしてこう囁いてやる。




「吾輩は異世界転生した猫であり勇者猫である。――しかし勇者猫はもうこれぎりで御勘弁いただきたいね。名前は「マダナイ」、この世界一幸福な猫の名だ」



<完>

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吾輩は異世界転生した猫である 虚仮橋陣屋(こけばしじんや) @deadoc

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