第二十話(一)



 吾輩は――。






 吾輩は異世界転生した――。






 ――ん?






 の世とはかくのごとくガタガタと忙しなく振動するものであろうか。時折ときおり、ごとん、とおおいに揺れては吾輩の心の臓を寒からしめる。真っ暗で眼も利かぬ有様と云うのにさかさに落とされれば到底無事には済むまい。もうちぃとばかりそろりと運んで欲しい。


 それにだ。三途の川の渡守わたしもりの奴め、いやに吾輩の背をでたがる。そう撫でてばかりではかい漕手こぎておろそかになろうに。ははあこれは、吾輩が人ならぬ猫だけに渡賃わたしちんを一銭も持たぬ素寒貧すかんぴんゆえわざとのんびりしておるのではなかろうか。これ止めんか、こしょばくてたまらん。


「あら。――起きたようですね、マダナイさん。御無事で何よりです。どうなるものかと」


 ぽたりぽたりと少々熱い雨が降っておる。

 おまけに塩辛い。


「あの後、総出で探したのですよ。もうあたりひどい有様で……。でも、やっと見つけました」


 れなるは――吾が主人、クシュンではないか。


 吾輩はのそりと身体を起してあちこち見廻す――トジュロー君、ウインド、コルドー、そしてクシュン。誰れ一人欠くことなく勢揃えしておる。皆一様に笑顔を浮かべ、そしてやはり塩辛い雨を降らせながら順繰りに吾輩を抱き抱えては無闇に撫で廻し頬擦りをして嬉しがった。


「やはり生きておったか、勇者猫様よ! 僕は信じておった、おったのだ!」とウインドが感極まって天を仰ぎ叫んだ。ちとやかましいが大目に見るとしよう。「あの時あの刹那、僕は確かに君の声を、切なる願いを聞いたのだ。ああ、もし君が命を落とそうものなら僕は永劫えいごう悔やんだろうとも! 僕は僕の聞きしことばを信じ、君を信じたのだ。あれは間違いではなかった!」


 これには吾輩おどろかされた。よもや人間相手に語が通じるとは夢にも思わなかったのである。確かに願った、一心不乱に無我夢中に我武者羅がむしゃらに願った。それは無駄ばたらきではなかったのだ。


「そう、君は確かに云ったとも。この身に流るる勇者の血が彼奴きゃつ調伏ちょうふくせよとささやくのだと!」


 やれやれ。――どうやら吾輩の思い過ごしの買い被りであったようだ。


 しまいに洋琵琶リュートを掻き鳴らし朗々と歌い始めたウインドと吾等を乗せた馬車は元来た道をゆるりゆるりと辿って進み行く。




 ◆◆◆




 吾等勇者様御一行帰還の噂は瞬く間に広がりゴルジアスターゼ城の鼻王の耳に届いた。


「よくぞ戻られた、勇者一行よ! 大儀であった!」


 吾等が城に着く頃には当に宴の準備が出来上がっておった。まったくもってこの世界の人間は余程宴が好きで堪らぬものと見える。


 しかしながら呑気のんきと見える人々も、心の底を叩いて見ると、どこか悲しい音がする。


 気楽かも知れないがラビリス嬢の世の中は絵にかいた世の中ではない。ただラビリス嬢のたくらみどおりトジュロー君と吾が主人クシュンは幼馴染をやめてとうとう夫婦めおとになると宴の場で宣言した。これが順当である。しかし順当が永く続くと定めし退屈だろう。コルドーと御令嬢は互いのおもいを明らかにし鼻王をおおいに弱らせた。恋は宇宙的の活力であるからして只一人間国の王に過ぎぬ鼻王ごときでは止め立てする事なぞ出来る道理はないのである。鼻王なお不満気な容子ようすであったものの、じき宇宙的法則にあらがう事の非を悟るであろう。


 ウインドに至っては――水に住む人か、山に住む人かちと鑑定がむずかしい。先日舞跳ぶ蝶を無邪気に追うのが何とかとか云うておったが、今まさにこの時も若い女中達に得意になって洋琵琶を聞かせてはしきりちょっかいをかけておる。生涯洋琵琶を爪弾つまびいて只一人の恋い人が死ぬまでに見つかれば結構だ。しかしこの極楽鳥めにそれを求むるのはちと厄介やも知れん。


 猫と生れて人の世に住む事もはや二年越しになる。自分ではこれほどの見識家はまたとあるまいと思うものの、本来ならば吾輩のようなろくでなしはとうに御暇おいとまを頂戴して無何有郷むかうのきょう帰臥きがしてもいいはずの運命であった。諸先生の説に従えば人間の運命は自殺にするそうだ。油断をすると猫もそんな窮屈な世に生れなくてはならなくなる。恐るべき事だ。何だか気がくさくさして来た。ウインドの蜂蜜酒ミードでも飲んでちと景気をつけてやろう。


 露台バルコニーへ出てみる。秋風が吹き込んだと見えてランプはいつの間にか消えているが、月夜と思われて冷たい白光が降る。コップが盆の上に一つきり、その内に琥珀色の水が半分ほどたまっている。硝子ガラスの中のものは湯でも冷たい気がする。まして月影に照らされた液体の事だから、唇をつけぬ先からすでに寒くて飲みたくもない。しかしものは試しだ。猫だって飲めば陽気にならん事もあるまい。


 思い切って飲んで見ろと、勢よく舌を入れてぴちゃぴちゃやって見ると驚いた。何だか舌の先を針でさされたようにぴりりと甘い。人間は何の酔興でこんなものを飲むのかわからないが、猫にはとても飲み切れない。これは大変だと一度は出した舌を引込めて見たが、また考え直した。もし人間共のように前後を忘れるほど愉快になれば空前の儲け者で、近所の猫へ教えてやってもいい。まあどうなるか、運を天に任せて、やっつけると決心して再び舌を出した。


 すると妙な現象が起った。始めは舌がぴりぴりして、口中が外部から圧迫されるように苦しかったのが、飲むに従ってようやく楽になって別段骨も折れなくなった。それからしばらくの間は自分で自分の動静を伺うため、じっとすくんでいた。次第にからだが暖かになる。眼のふちがぽうっとする。耳がほてる。歌がうたいたくなる。猫じゃ猫じゃが踊りたくなる。ふらふらと立ちたくなる。起ったらよたよたあるきたくなる。御月様今晩はと挨拶したくなる。どうも愉快だ。


 陶然とはこんな事を云うのだろうと思いながら、あてもなく、そこかしこと散歩するような、しないような心持でしまりのない足をいい加減に運ばせてゆくと、何だかしきりに眠い。寝ているのだか、あるいてるのだか判然しない。眼はあけるつもりだが重い事夥しい。こうなればそれまでだ。海だろうが、山だろうが驚ろかないんだと、前足をぐにゃりと前へ出したと思う途端ぼちゃんと音がして、はっと云ううち、――やられた。


 我に帰ったときは水の上に浮いている、これではあの時と同じではないか。苦しい。苦しいが出るに出られぬ。掻けるものは水ばかり、あがりたいのは山々であるが上がれない。この辛苦を再び味わう事になろうとは。






 ――その時苦しいながら吾輩は考えた。






 この異世界、サンドレアにおける吾輩の役目は無事果たされたのだ。勇者勇者と持ち上げられ、遂に魔王を討伐せしめた。だが逆に考えてみるが善い、魔王亡き世界で勇者は必要なのかと――否不要であろう。そうか、そう云う事か。メッツナーの奴め上手い事考えたものだ。


 次第に楽になってくる。苦しいのだかありがたいのだか見当がつかない。

 吾輩は死ぬ――。




 南無なむ阿弥陀あみだぶつ――。



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