第七話(一)



 吾輩がこの世界に呼ばれて以来多少有名になったらしく、猫ながらちょっと鼻が高く感ぜらるるのはありがたい。


 ある朝クシュンのもとへ一枚の絵端書えはがきが来た。これはクシュンの交友某肖像画家からの物であるが、上部を赤、下部を深緑ふかみどりで塗って、その真中に一の動物が蹲踞うずくまっているところをパステルで書いてある。クシュンは例の文机でこの絵を、横から見たり、たてから眺めたりして、素敵な色ねという。すでに一応感服したものだから、もうやめにするかと思うとやはり横から見たり、竪から見たりしている。と思ったら、小さな声で一体何をかいたのでしょうと云う。


 クシュンは絵端書の色には感服したが、かいてある動物の正体が分らぬので、さっきから苦心をしたものと見える。そんな分らぬ絵端書かと思いながら、寝ていた眼を上品に半ば開いて、落ちつき払って見ると紛れもない、吾輩の肖像だ。肖像画家だけに形体も色彩もちゃんと整って出来ている。誰が見たって猫に相違ない。少し眼識のあるものなら、猫の中でも他の猫じゃない吾輩である事が判然とわかるように立派に描いてある。このくらい明瞭な事を分らずにかくまで苦心するかと思うと、少し人間が気の毒になる。出来る事ならその絵が吾輩であると云う事を知らしてやりたい。吾輩であると云う事はよし分らないにしても、せめて猫であるという事だけは分らしてやりたい。


「うーん。マダナイさんはお分かりになりますか」


 無論分かるにまっている。しかるに吾輩は絵端書と同じポーズを取ってみせる。クシュンはしばし吾輩と肖像を見比べた後、再び唸り出した。これはまったくもって見込みがない。


 せんだってはクシュンの許へ南洋の名産である干魚をわざわざ吾輩の名宛で届けてくれた人がある。だんだん人間から同情を寄せらるるに従って、おのれが猫である事はようやく忘却してくる。猫よりはいつの間にか人間の方へ接近して来たような心持になって、同族を糾合きゅうごうして二本足の神官と雌雄を決しようなど云う量見は昨今のところ毛頭ない。それのみか折々は吾輩もまた人間世界の一人だと思う折さえあるくらいに進化したのはたのもしい。あえて同族を軽蔑する次第ではない。ただ性情せいじょうの近きところに向って一身の安きを置くは勢のしからしむるところで、これを変心とか、軽薄とか、裏切りとか評せられてはちと迷惑する。かような言語を弄して人を罵詈するものに限って融通の利かぬ貧乏性の男が多いようだ。


 こう猫の習癖を脱化して見るとキャリコやが師シュバルツの事ばかり荷厄介にしている訳には行かん。やはり人間同等の気位で彼等の思想、言行を評隲ひょうしつしたくなる。これも無理はあるまい。ただそのくらいな見識を有している吾輩をやはり一般猫児の毛の生えたものくらいに思って、クシュンが吾輩に一言の挨拶もなく、干魚をわが物顔に喰い尽したのは残念の次第である。これも不平と云えば不平だが、クシュンはクシュン、吾輩は吾輩で、相互の見解が自然異なるのは致し方もあるまい。吾輩はどこまでも人間になりすましているのだから、交際をせぬ猫の動作は、どうしてもちょいと筆に上りにくい。ラビリス嬢の評判だけで御免こうむる事に致そう。


「そうそう。この間、王様宛にマダナイさんについて分かった事を書にまとめて送りました」


 道理で件の「粛啓しゅくけい」が見当たらぬ訳だ。続きはどうしたとクシュンに抱上げられた格好で吾輩はにゃあと鳴いて前脚でしきりに催促する。


「それがですね。ラビリスがマダナイさんこそ勇者猫様だと市井のあちらこちらに触廻ふれまわったのが王様のお耳にも入っている容子ようすで、改めて自分の眼でも検分したいと申されておりまして」


 鼻王め、ようやくもって吾輩の事を只の野良ではないと考えを改めたようである。あの時辛棒した人の気も知らないで、無闇に野良呼わりは失敬だと思う。元来人間というものは自己の力量に慢じてみんな増長している。少し人間より強いものが出て来ていじめてやらなくてはこの先どこまで増長するか分らない。


「再び勇者召喚の儀を執り行うにしても、一と年の歳月が要るでしょう」神経性胃弱のクシュンは思わぬ失態を思い出し鳩尾辺りをしきりに擦りながら続けた。「それまでこのゴルジアスターゼ城が安泰とも限りません。魔族の大侵攻は増すばかり。ですから早急にマダナイさんの御力を見極める必要があるのです。私程度の力量では無理でも神官長であればきっと、と」


 とは云え何も状況のまずい時に特に吾輩を担出かつぎださなくっても、よさそうなものだ。人間はこう云う按排あんばいに矢鱈と神仏英雄勇者様を頼みにする癖があるから困る。こちとら未だに御師匠様の稽古場で一体全体何が起きたものか見当がついておらんのである。相手が鼠賊程度であれば造作もないやもしれんが、魔族だ何だと云われても今一つピンと来ない。


 吾が友であり吾が師と仰ぐシュバルツの弁を借りるなら吾輩には多少の見込みがあるそうで、真剣勝負の師匠相手にも一爪二爪入れるくらいの余裕が生まれておる。二ひき共あまりに熱中しておったものだから、すわ喧嘩と勘違いした冒険者宿の女将おかみが大慌てで木桶の冷水をざぶりとぶっかけおった。それほど鬼気迫る奮迅ぶりだった事がうかがい知れよう。


 寒さを覚えぶるりと身を震わすと、クシュンは困ったように笑う。


「実の所、私もどのような話しになるかを知りません……。ただ王様が勇者猫様だと判じたにせよ、よもやマダナイさん一疋ぎりで送り出す事はしないでしょう。仲間がりますからね」


 少なくとも案内人は要るであろう。吾輩の知見はこの城下の内のみのものである。外の世界がどんなものだかは知りもせんし、人間族に仇なす魔族の総本山いずこたるや皆目見当もつかぬ有様だ。


「魔族の王、今代こんだいの魔王たるボッティヌスはあまりに強大な力を持っておるのです。万一そうなったとしても敵う相手かどうか……いやいや、そうはならぬよう私からも進言しますから」


 御誂おあつらえ通りになっては、ちと困る。死ぬと云う事はどんなものか、まだ経験した事がないから好きとも嫌いとも云えないが、ポリバケツの中へなら落ちた事がある。あの時の苦しさは考えても恐しくなるほどであった。あの苦しみが今少し続くと死ぬのであろう。


 キャリコの身代りになるのなら苦情もないが、あの苦しみを受けなくては死ぬ事が出来ないのなら、誰のためでも死にたくはない。



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