第十三話(二)



 吾等われら勇者様御一行に与えられた大部屋を出てまがり角を曲りもう一曲りすると、突当つきあたりの部屋から何やら騒がしい声が聴こえて来る。何となしに聞き覚えがない事も無いと記憶を探っているとはたと思い当たった。ははあ、あすこにおわすは鼻王の御令嬢ではあるまいか。御令嬢はしきりに喋舌しゃべっているが相手の声が少しも聞えないのは、おそれ多くて声も出ない故だろう。


御前おまえは何度云ったら分るんだい。明日ね、行くんだからね、あたしの馬を出しておいておくれ、いいかえ――分ったかい――なに分らない? おやいやだ。馬を出すんだよ。――なんだって、――出せない? 出せないはずはない、出すんだよ――いやいや御冗談をだって――何が御冗談なんだよ――いやに人をよ。全体御前は誰だい。従者長だ? 従者長なんぞじゃ訳が分らない。馬屋番に馬を出せって御云いな――なに? わたしで何でもうけたまわります?――お前は失敬だよ。あたしを誰だか知ってるのかい。エギスタだよ。――く存じておりますだって。ほんとに馬鹿だよこの人あ、お前はよっぽど愚物ぐぶつだね。――仰せの通りだって?――あんまり人を馬鹿にすると首を切ってしまうよ。いいのかい。困らないのかい――黙ってちゃ分らないじゃないか、何とか御云いなさいな」


 しばらく耳を澄ませて見るも何の返答もない。令嬢が遂に癇癪かんしゃくおこして机を叩くと公牛狗ブルドッグおどろいて急に吠え出す。これは迂濶うかつに出来ないと、急に飛び下りて花台の下へもぐり込む。


 やがて年老いた胡麻塩頭の従者長が恐縮至極の体で額の汗を手巾ハンケチぬぐいながら出て来たので、吾輩は素知らぬ顔でするりと部屋の中へと這入はいりこんだ。あたりに充満する花のかおりにくらくらするが、いささか季節外れらしく甘ったるくて気色きしょくが悪いばかりである。


 またトン、トントンと叩く音があり若い女中メイドが控えめにやって来おった。まだ腹立ちの治まらない令嬢は開いた口に牡丹餅ぼたもちたとえにあるように早速噛み付く事にめたようである。


「おや御前いつ総髪ポニーテイルったの」若い女中は一息ついて「今日にございます」となるべく単簡な挨拶をする。「生意気だねえ、女中の癖に。そうして新しい肩巾スカーフで結わいたじゃないか」「へえ、せんだって御嬢様からいただきましたので、結構過ぎて勿体ないと思って行李こうりの中へしまっておきましたが、今までのがあまり汚れましたから出して参りました」「いつ、そんなものを上げた事があるの」「先だって城下へいらっしゃいまして、新しいのを御求め遊ばしたので――妾しには地味過ぎて古めかしくて嫌だからこれは御前に上げようとおっしゃった、あれでございます」「あらいやだ。善く似合うのね。にくらしいわ」「恐れ入ります」「褒めたんじゃない。にくらしいんだよ」「へえ」「そんなによく似合うものをなぜだまって貰ったんだい」「へえ」「御前にさえ、そのくらい似合うなら、妾しにだっておかしい事あないだろうじゃないか」「きっとよく御似合い遊ばします」「似あうのが分ってる癖になぜ黙っているんだい。そうしてすまして結わけてるんだよ、人の悪い」令嬢の口から剣突けんつくめどもなく連発される。このさき、事局はどう発展するかと謹聴している時、扉向うから「エギスタ、エギスタはおるか」と大きな声で鼻王が令嬢を呼ぶ。令嬢はやむを得ず「はいここに。ここにおりますわ」と部屋を出て行く。吾輩より大分大きな公牛狗ブルドッグが顔の中心に鼻と口を引き集めたようなつらをして付いて行く。無論、吾輩も抜け抜けとその後ろをそろり付いて行く。


「よいかエギスタ、明日は勇者一行を歓待する宴を執り行うでな。御前も粗相そそうの無いように」

「勝手ですわ! それにいつでも粗相するような云いまわしじゃありませんか」

「勝手も何ももう極めた事だ。王族たるもの常に民の為に尽くさねばならぬ」

「王は御父様じゃありませんか。妾しには関わりござんせん」

「御前は儂の娘で王女だぞ。無関係な事なかろう」

「嫌ですよ、知りません」と令嬢はご立腹である。「明日は馬で遠出しますから」

「駄目だ、ならん」と鼻王がにべもなく言捨てると、腕組したままの令嬢は言ここに至って感に堪えざるもののごとく、口惜くやしそうに紅涙こうるいした。


 人間を研究するには何か波瀾がある時をえらばないと一向結果が出て来ない。平生は大方の人が大方の人であるから、見ても聞いても張合のないくらい平凡である。しかしいざとなるとこの平凡が急に霊妙なる神秘的作用のためにむくむくと持ち上がって奇なもの、変なもの、妙なもの、異なもの、一と口に云えば吾輩猫共から見てすこぶる後学になるような事件が至るところに横風おうふうにあらわれてくる。


 令嬢の紅涙のごときはまさしくその現象の一つである。かくのごとく不可思議、不可測の心を有している令嬢も、従者長や女中と話をしているうちはさほどとも思わなかったが、鼻王に一方的なとがいましめを受けるやいなや、たちまち死竜に蒸汽じょうき喞筒ポンプを注ぎかけたるごとく、勃然ぼつぜんとしてその深奥にして窺知きちすべからざる、巧妙なる、美妙なる、奇妙なる、霊妙なる麗質を、惜気おしげもなく発揚しおわった。しかしてその麗質は天下の女性に共通なる麗質である。ただ惜しい事には容易にあらわれて来ない。否あらわれる事は二六時中間断なくあらわれているが、かくのごとく顕著に灼然しゃくぜん炳乎へいことして遠慮なくはあらわれて来ない。


「妾しは不自由ですわ……。市井の民共が何と噂しているか知っておりまして? 天下の我儘わがまま者だと。はンとんだお笑い草ですよ。これほどまでに不自由な身でありますと云うのに」

「そんな不遜ふそんな口を利く者はおらんだろう」しかし鼻王のことばは自ら吾輩たちに向けてそう口走っているのだから何とも頼りない。「欲しいものは与えてやっとる」

「それが不自由だってんですよ。妾しが手にするものは皆御父様が恵んでくれたものじゃござんせんか。妾しが自分の手で手に入れたものなんてありゃしない。何にも」

「どこに違いがあるのかさっぱりだ」

「分らなきゃもう結構です」

 首を捻る鼻王の眼前で、令嬢は潸然さんぜん一掬いっきくの涙を紫色の洋袴スカートの上におとすばかりであった。


 吾輩は例の忍び足で再び扉の隙間から廊下へ出て、急いで主人の部屋に帰る。いささか寂寞せきばくの感はあるが、探険はまず十二分の成績である。


 帰って見ると主人は寝台ベッドの上で何か沈吟のていで筆を執っている。ところへ此度こたびの騒動の主犯たるラビリス嬢が飄然ひょうぜんとやって来る。「おやおや。辞世の句でも作っているのかね。面白いのが出来たら見せたまえ」と云う。「ちょっと! 貴女の御陰でこちとら散々ですよもう!」とクシュンは口を開くや怒鳴り散らした。「散々? れの事だい」「誰れのか分らないのかしら」「誰れだか分らなければ侘びようも無いな。さてどちらにいらっしゃるか」と問う。「私です、私とトジュローですよ」とクシュンは落ちつきはらって答える。「昔しのように伴だって出掛けられるんだから感謝してくれても好いだろうに。さて、肝心のトジュロー君はどちらかね?」「行ったらひどい目にいますよ」「妙な話しだな。私には意味が分からんね」とラビリス嬢はうそぶいた。さすがに呆れてクシュンは噴き出す。「それにしてもどうやって王様にマダナイさんが勇者だと信じ込ませたのかしら」「虚言うそじゃない。しかと書いてある」「そうそう第二読本でしたっけ」「ぜかえしてはいかんよ」ラビリス嬢は大道占者の如き厳めしさでうなずくと、にやりと笑ってこう付け加える。「まあまあ上手くやりたまえよ。君の如き無味乾燥女はこうでもしなきゃてこでも動かんのだからな。鳴かぬ蛍が身を焦がすなんてのはちと古いぜ」「もう! 御節介者なんですから!」


 クシュンは真っ赤になって恥入るばかり。やれやれである。



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