第三話(二)



 稽古場の内で御師匠さんがリズミカルに手を打ち鳴らしてカウントを取る。「よろしい音でしょう」とキャリコは自慢する。「宜いようだが、吾輩にはよくわからん。全体何というものですか」「あれ? あれは何とかってものよ。御師匠さんは踊る前にあれをするのが大好きなの。……御師匠さんはあれで五十二よ。随分丈夫だわね」五十二で生きているくらいだから丈夫と云わねばなるまい。吾輩は「はあ」と返事をした。少し間が抜けたようだが別に名答も出て来なかったから仕方がない。


「一体あなたの所の御主人は何ですか」

「あら御主人だって、妙なのね。御師匠さんだわ。奉納舞踊の御師匠さんよ」

「それは吾輩も知っていますがね。その御身分は何なんです。いずれむかしは立派な方なんでしょうな」

「あれでも、元は身分が大変かったんだって。いつでもそうおっしゃるの」

「へえ元は何だったんです」

「何でもゴルトン王の叔父にあたるシルバン辺境伯の妹の御嫁に行った先きのおっかさんの甥の娘なんだって」


 そうして暖かい日差を浴びて寝転びながらいろいろ雑談をしていると、彼女は吾輩に向って左のごとく質問した。


「きっと勇者様は今までに鼠を何匹も捕った事があるのでしょうね」


 智識ちしきはそこいらの猫よりも余程発達しているつもりだが腕力と勇気とに至っては比較にはならないと覚悟はしていたものの、この問に接したる時は、さすがに決まりがくはなかった。けれども事実は事実でいつわる訳には行かないから、吾輩は「実は……捕ろう捕ろうと思ってまだ捕ってないのです」と答えた。キャリコは彼女の鼻の先からぴんと突張っている長く美しいひげを震わせて控目ひかえめに笑った。


「それは驚きだわ! あなたは勇者様なんですもの大分捕ったものかと思っていたわ」

「それが一ひきたりとも捕っておりません」

「あらまあ」


 ますますもって決まりが悪い。キャリコは不相変あいかわらずの無邪気さでもって云う。


「去年の大掃除の時ですよ。うちの御師匠さんが稽古場の拭掃除をしようと戸棚の物を引摺ひきずり出したら、そこに隠れていた鼠が面喰って飛び出したことがあってね」「ほう」と感心して見せる。「何鼠とは云っても少し小さいやつだから、とっちめてやる気で追っかけて稽古場の隅へ追い込んだんですよ」「うまくやったね」と喝采してやる。「ところがいざって段になるときーきー鳴いて牙を剥くものだからあたし恐くなってしまって……。それからってものは鼠を見るともう恐ろしくって恐ろしくって」彼女はここに至ってあたかも去年の恐怖を今なお感ずるごとく前足を揚げて鼻の頭を覆い隠した。吾輩も少々気の毒な感じがする。ちっと景気を付けてやろうと思って「しかし鼠も君みたいな猫に捕まるのなら本望だろう。君なら鼠を食いはせず逃がしてやるのだろうし。そんなつまらないことをせずとも十分色つやがいのだから」キャリコの御機嫌をとるためのこの質問は不思議にも反対の結果を呈出した。「嫌よ、考えたくもないわ! いくら空腹だからって鼠を食うだなんて――人間ときたら皆猫は鼠を捕って食うと思ってるのだから始末に悪いわ」彼女は喟然きぜんとして大息していう。「でもね、捕った鼠を角の道具屋へ持って行くと鉄貨五枚くれるそうよ。道具屋じゃ誰が捕ったか分らないからその度にくれるって話だわ。うちの御師匠さんなんかはちっとも興味がないみたいだけれど。それでも猫が捕った鼠で得しようだなんて人間てのはていの善い泥棒だわね」さすがのキャリコも呆れた容子ようすで大欠伸をして見せる。


 吾輩は猫ではあるが大抵のものは食う。キャリコのように贅沢は云える身分でない。従って存外嫌は少ない方だ。クシュンの食いこぼした麺麭パンも食うし、飴菓子のもなめる。こうものはすこぶるまずいが経験のため菜っ葉の酢漬けを二切ばかりやった事がある。食って見ると妙なもので、大抵のものは食える。あれは嫌だ、これは嫌だと云うのは贅沢な我儘で到底神官の家にいる猫などの口にすべきところでない。


 さて鼠はどうだろう。縁あって今まで生物を食う羽目になったことがないのでまるで分らない。人間が食うものであれば猫でも食えるに違いないと思うのだが、はて人間は鼠を食うのであろうか。彼の懐しき「猫々飯店」でもクシュンの家でもとんと見かけたことはない。ただ同じ食うでもどぶ鼠だといささか臭いような気もする。せめて同じ食うなれば団栗どんぐりやら椎の実やらを鱈腹たらふく食って丸々と肥えた野鼠の方が味も臭いも大分いと思うのである。


 稽古場の中で奉納舞踊の御囃子の音がぱったりやむと、御師匠さんの声で「キャリコやキャリコ、御飯よ」と呼ぶ。キャリコは嬉しそうに「あら御師匠さんが呼んでいらっしゃるから、私帰るわ、よくって?」わるいと云ったって仕方がない。「それじゃまた遊びにいらっしゃい」と鈴をちゃらちゃら鳴らして窓傍までかけて行ったが急に戻って来て「あなた大変色が悪くってよ。どうかしやしなくって」と心配そうに問いかける。まさかどぶ鼠を捕って食う事を思案していて具合を損ねたとも云われないから、


「何別段の事もありませんが、少し考え事をしたら頭痛がしてね。あなたと話しでもしたら直るだろうと思って実は出掛けて来たのですよ」

「そう。御大事になさいまし。さようなら」


 少しは名残り惜し気に見えた。これで元気もさっぱりと回復した。いい心持になった。


 しかしながら猫といえども社会的動物である。社会的動物である以上はいかに高く自ら標置ひょうちするとも、る程度までは社会と調和して行かねばならん。


 クシュンやラビリス嬢、神官長やあの高慢ちきな鼻王めが吾輩を吾輩相当に評価してくれんのは残念ながら致し方がないとして、吾輩はこの珍妙な異世界において勇者猫たる活動すべき天命を彼の偉大なるメッツナーより受けてこの娑婆しゃばに出現したほどの古今来の猫であれば、非常に大事な身体である。大事を成しとげようとせむ時は小事を軽んじることなかれとは些細な油断が大失態を招くぞと云う諺である。また杜甫をもって曰く、弓を挽かんとせば当に強きを挽くべし。箭を用いんとせば当に長きを使うべし。人を射んとせば先ず馬を射よ。


 ――吾輩はとうとう鼠をとる事にめた。



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