第四話(二)



 吾輩はすでに十分寝た。欠伸あくびがしたくてたまらない。さっきから小便がもようしている。身内の筋肉はむずむずする。最早もはや一分も猶予が出来ぬ仕儀しぎとなったから、もうおとなしくしていても仕方がない。キャリコに退さがるよう告げ、心をめ稽古場の真中で仁王立ちになる。


「さあ来い。鼠どもめ」


 れを合戦かっせんの合図と戸棚の口から弾丸のごとく飛び出した者が、くる間もあらばこそ、風を切って吾輩の左の耳へ喰いつく。これに続く黒い影は後ろにまわるかと思う間もなく吾輩の尻尾へぶら下がる。またたく間の出来事である。吾輩は何の目的もなく器械的に跳上はねあがる。満身の力を毛穴に込めてこの怪物を振り落とそうとする。耳に喰い下がったのは中心を失ってだらりとが横顔にかかる。護謨ゴム管のごとき柔かき尻尾の先が思いがけなく吾輩の口に這入はいる。屈竟くっつい手懸てがかりに、砕けよとばかり尾をくわえながら左右にふると、尾のみは前歯の間に残って胴体は板張りの壁に当って、床板の上に跳ね返る。起き上がるところを隙間なくかかれば、まりたるごとく、吾輩の鼻づらをかすめて戸棚の縁に足をちぢめて立つ。彼は戸棚の上から吾輩を見おろす、吾輩は稽古場から彼を見上みあぐる。


 距離は五尺。


 その中に月の光りが、大幅たいふくの帯を空に張るごとく横に差し込む。吾輩は前足に力を込めて、やっとばかり戸棚の上に飛び上がろうとした。前足だけは首尾よく戸棚の縁にかかったが後足は宙にもがいている。尻尾には最前の黒いものが、死ぬとも離るまじきいきおいで喰い下っている。吾輩は危うい。前足をえて足懸あしがかりを深くしようとする。懸け易える度に尻尾の重みで浅くなる。


「ああ勇者様!」


 キャリコの悲痛なる叫びが遠くに響く。


「かくなれば――」


 棚板を爪で掻きむしる音ががりがりと聞える。これではならぬと左の前足を抜き易える拍子に、爪を見事に懸け損じたので吾輩は右の爪一本で棚からぶら下った。自分と尻尾に喰いつくものの重みで吾輩のからだがぎりぎりと廻わる。この時まで身動きもせずにねらいをつけていた棚の上の怪物は、ここぞと吾輩の額を目懸けて棚の上から石を投ぐるがごとく飛び下りる。吾輩の爪は一縷いちるのかかりを失う。三つのかたまりが一つとなって月の光をたてに切って下へ落ちる。




南無八幡大菩薩なむはちまんだいぼさつ――!」


 すべてが深夜にただならぬ物音を立てて死物狂いの吾輩の魂をさえ寒からしめた。




 ニュートンの運動律第一にいわくもし他の力を加うるにあらざれば、一度ひとたび動き出したる物体は均一の速度をもって直線に動くものとす。もしこの律のみによって物体の運動が支配せらるるならば吾輩の身体はこの時に伴なる二鼠と運命を同じくしたであろう。さいわいにしてニュートンは第一則を定むると同時に第二則も製造してくれたので吾輩は危うきうちに一命を取りとめた。運動の第二則に曰く運動の変化は、加えられたる力に比例す、しかしてその力の働く直線の方向においておこるものとす。これは何の事だか少しくわかり兼ねるが、吾輩の頭が破壊されなかったところをもって見ると、ニュートンの御蔭おかげに相違ない。




 ――否、そうではなかったと見える。




 そろりと閉じた眼を開き見ると吾輩の尻尾に食いついつくものはかげも残さず消失しているではないか。頭上から吾輩目懸けて飛び下りた怪物にしても同様だ。いない。どこに失せたものやらとぐるり頭を巡らせて見ると彼等は稽古場の隅の方で仰向けに引っ繰り返ったままひげ一本動かさない。その様は名匠と誉高いひだり甚五郎じんごろうの彫りしものの完全なる模倣とまで云えよう。


「はて一体どうなったんです?」

「いやだ! あたしの方が聞きたいくらいですわ!」


 吾輩は余程間抜けた面をしていたのだろう、見るなりキャリコはひそやかに声を荒立てた。しかしだ。憤慨ふんがいされたとて吾輩にはとんと理屈が分からぬのである。はてな神風でも吹いたものやらはたまた無闇に八幡神なぞ持ち出したものだから「我きてくだおろすべし」と逆賊ぎゃくぞくども征伐せいばつされたものだろうか。いやいや元来不信心な吾輩であるからして都合よく神威に頼ろうとも「無道の者掃除そうじょすべし」との託宣たくせん下って罰を食うても少しもおかしくない。


「そりゃもう驚きましたわ!」


 キャリコは薄闇から出て来て吾輩の鼻の先にぴたりと坐る。


「勇者様がなにやら御題目を唱えた途端、あの鼠共がすっ飛んで行きましたのよ。ぴかり、どん、ってな具合に。ねえあなた、まるで覚えがございませんの?」

「うーむ。それがまったくもって」

「ああ、さすがは勇者様ですわ。ほら鼠共が慌てて退散していくじゃありませんか。これぞまさしく勇者様たるあなたに授けられし御力に相違ありません。ええそうですとも」

「うーむ」


 判然としないながらも顛末てんまつの一部始終を見ておったキャリコの言に異を唱えるのもはなはよろしくないから一しきり唸って見せる。だがそれだけの事である。不相変あいかわらず理屈も道理もさっぱりだし、ぴかり、どん、も何のことやら分からない。分からない尽くしでもが身の無事だけは確かだ。そう思った途端に再び小便がもようしてきてむずむずと吾輩の身体のなかを震わせた。


「ともかく吾輩は帰るとするよ。そろそろ寝る時分かと思うから」

「そうなさいまし。さようなら勇者様。ありがとうございました」




 かくして御師匠様の稽古場にて毎夜繰り広げられていた大騒動は幕を閉じたのである。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る