吾輩は異世界転生した猫である

虚仮橋陣屋(こけばしじんや)

第一話(一)



 吾輩は異世界転生した猫である。名前は「マダナイ」。


 実に珍妙な名前であると吾輩も思うが、欲をいっても際限がないから新たな生涯この神官の家で「マダナイ」と名乗る猫として終わるつもりだ。




◆◆◆




 どこで生まれたかとんと見当がつかぬ。


 いや、少なくとも今いるこの世界ではないことだけは確かである。何でも薄暗いじめじめした所でにゃあにゃあ鳴いていたことだけは記憶している。


 吾輩はここではじめて人間というものを見た。


 しかもあとで聞くとそれは「自宅警備員」という人間中で一番勤勉な種族であったそうだ。この自宅警備員というのは警備すべき自宅に籠ってひたすら職務にまっとうし、時々我々を捕まえて欲望の赴くままにもふもふしたり気紛れに猫缶を与えたりするという話である。しかしその当時は何という考えもなかったから別段偉いとも賞賛に値するとも思わなかった。ただ彼の手のひらに載せられてすーっと持ち上げられた時、何だかふわふわとくすぐったい感じがあったばかりである。


 手のひらの上で少し落ち着いて自宅警備員の顔を見たのがいわゆる人間というものの見始めであろう。この時、妙なものだと思った感じが今でも残っている。第一毛をもって装飾されるべきはずの顔がつるつるして、まるで薬缶やかんだ。その後、猫にもだいぶ遭ったがこんな珍妙な風体をしたものはスフィンクスくらいであろう。のみならず顔の真ん中があまりに突起している。そうして大して高くはないであろう鼻の穴からぷうぷうと煙を吹く。どうもむせっぽくて実に弱った。これが人間の嗜む煙草というものであることをこの頃知った。


 この自宅警備員の家でしばらくはよい心地で過ごしておったが、しばらくすると「お袋」なる人間が吾輩を目敏く見咎め、「あんた、ニートの分際で猫なんて拾ってきて、もう」と喚き散らした。ニートというのは自宅警備員の英名であったようだ。これほど「必要ニード」な人間が「自宅警備員ニート」と呼び習わされ、たかだか点のあるなしだけで理不尽に叱責されるとは、人間の世界の理は実に難解である。


 しばらくお袋と言い争いをしていた自宅警備員であったが、「あたしが猫アレルギーなの知っているでしょう。それに飼うのなら餌代くらい自分で働いて稼ぎなさい」という一言にとうとう黙り込み、婦人用自転車の前かごに吾輩を放り込んで非常な速力で運転し始めた。自宅警備員が動くのか、自分だけが動くのか分からないが無闇に目が回る。胸が悪くなる。到底助からないと思っているとようやく停車し、最後にもう一度だけ名残惜しそうにもふもふを済ませた自宅警備員にそっと地面に降ろされた。


 一つ大欠伸をして振り返ると、自宅警備員はいない。あの恐ろし気なお袋さえ姿を隠してしまった。その上、今までの所とは違ってやたらと暗い。はてな何でも様子がおかしいと、下生えを掻き分けて這出はいでてみると、とても広い。吾輩は居心地の良い自宅警備員の家から近所の公園の草叢の中へと棄てられたのである。


 ようやくの思いで草叢から這い出すと大きな池がある。吾輩は池の前に坐ってどうしたらよかろうと考えてみた。別にこれという分別も出ない。しばらく鳴いてみたら自宅警備員がまた迎えに来てくれるかと考えついた。にゃあにゃあと試みにやってみたが誰も来ない。そのうち池の上をさらさらと風が渡って湖面の丸い月を乱す。腹が非常に減ってきた。鳴きたくても声が出ない。仕方がない、何でもよいから食い物のある所まで歩こうと決心をして、そろりそろりと池を左に回り始めた。苦しいのを我慢して無理矢理に歩いて行くと、ようやくのことで何となく大勢の人間の行き交う通りへと出た。あの薄暗くてよい匂いの漂う狭い路地に這入ったらどうにかなると思って、とある中華料理店の裏手にもぐり込んだ。


 縁は不思議なもので、もしこの中華料理店「猫々飯店」と巡り合っていなかったなら、吾輩はついに路傍に餓死したかも知れんのである。「猫は猫と惹かれ合う」とはよく云ったものだ。無論そう云ったのはこの吾輩に他ならない。


 さて中華料理店の裏手へは忍び込んだもののこれから先どうしていか分からない。矢鱈いい匂いが漂うので余計に腹が減る。仕方がないからとにかく匂いのする明るくて暖かそうな方へ方へとあるいて行く。今から考えるとその時はすでに店の調理場の内に這入っておったのだ。ここで吾輩は彼の自宅警備員と恐るるべきお袋以外の人間を再び見るべき機会に遭遇したのである。


 第一に逢ったのがさんである。これは前のお袋より一層癇癪持ちの方で吾輩を見るや否や「アイヤー」と怪鳥のごとき叫びを上げ、首筋をつかんで表へ放り出した。いやこれは駄目だと思ったから目をねぶって運を天に任せていた。しかしあたりを漂ういい匂いにはどうしても我慢が出来ん。吾輩は再び李さんの隙を見て厨房へと滑り込んだ。すると間もなくまた投げ出された。吾輩は投げ出されては滑り込み、滑り込んでは投げ出され、何でも同じ事を四五遍繰り返したのを記憶している。その時に李さんと云う者はつくづくいやになった。


 吾輩が最後につまみ出されようとしたときに、この店の主人が「騒々しい何アルか」といいながら出て来た。李さんは吾輩をぶら下げて主人の方へ向けて「この宿なしの野良猫がいくら出しても出しても厨房へ入って来て困るアルよ」という。主人は顎の下の山羊のような白い毛を捻りながら吾輩の顔をしばらく眺めておったが、やがて「そんなら内へ置いてやるアル」といったまま奥へ這入はいって中華鍋を振り始めた。李さんは口惜しそうに吾輩を厨房の隅へ放り出した。かくして吾輩はついにこの中華料理店を自分の住家と決める事にしたのでアル。いかんつい釣られてしまった。


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