終章 旅の終わり
石壁に囲まれた部屋の中は、水面に落ちる滴の音さえしない。
何ものも動かない。時が止まったように。
そもそも時間は「流れている」ものなのだろうか。それは人間の意識でしかないのかもしれない。
しかしそれでも、「過去」という名で呼ばれる瞬間は積み重なっており、「未来」と呼ばれる瞬間のことは我々にはわからない。そして「時」と呼ぶものの流れる方向が定まらなければ、自己の生命が辿る道も見失ってしまう。
川が常に上流から下流へ、山の頂から海へ向かって流れるように、過去から未来へというその決まった方向が、我々の意識の中にある「時」を、留まることも遡ることもせぬものとする。そして初めて「時間」という名の秩序が生まれる。
四方もまた、同じ。
自らを支点と定め、在る処、向かうべき処を名付け、定める。
自らの場が失われたとき、均衡は崩れ、向かう方向を失ったとき、流れは滞る。
時の歩みは、草木を育む天の陽と共にある。
大地を潤す川が目指す先は、海だ。
手の上で光るテハイザの宝。海の色を閉じ込めた碧玉と、水に生きる桜珊瑚。シューザリエ大河の行き着くところに、その二つはある。
そして秩序を守り、国の人々の安寧の地を約束する者、向かうべき未来を指し示すべき者は——
水流の途絶えた石壁を見据え、カエルムは留め具を水面へ放り投げた。
弧を描いて飛んだ碧玉の
耳に蘇るのは、規則的な律動を生む、祭りの鈴と鼓の音。
——時計台へ……!
***
——国の主、南の十字に向き合いて、石を投ず。子孫続く拠り所とせんと、己が立つ地を定めん。
この地に降り立った祖先は、天の星辰に照らし合わせ、この城の位置から——自らの立つところを基準として、四方を求めた。
——水に投げ入れた石は、海に漕ぎ
窓の外に身を乗り出す。テハイザ王の顔に熱風が吹き当たり、舞い踊る火の粉が視界を遮る。思わず瞼を閉じてしまいたくなる熱気に抗い、水平線の上に広がる薄明の空に、白い光の粒を探す。暁色の天空の中でも、輝きを失わない星がある。
星影を火焔の向こうに認める。
——いまいちど、四方を。
上空へ昇る炎の渦の中心めがけて神器を投げる。石が手を離れた瞬間、勢いを増した炎の舌が眼前に襲いかかった。
*
全ての感覚が失くなった。そう思ったのと、ほぼ同時である。
秋の澄んだ夜気を突き抜けて、鐘楼の鐘の音が響きわたった。
*
テハイザ王は炎の熱から顔を庇った腕を離した。自分を襲った火柱は消え、目の前に広がるのは暗い海。そして彼方の水平線すれすれに燦然と輝く、南十字星。
*
空気を微かに震わせる鈴と鼓の音が、白夜の中に秩序を作り出す。
その微弱な振動を身に感じながら城下を馳せる。
全身に走る、刹那的な衝撃。それと同時にカエルムの耳が、頬の横を抜ける風の音の中に懐かしい響きをとらえた。
顔を上げれば、尾根に走る
妙なる音は城下を抜け、森林を通り、人に聞こえぬ調べに変わっても、風に乗って遥か
*
火柱の消えた窓辺に駆け寄って、テハイザ王は真下の海を見た。月明かりを映さぬ新月の海でただ一つ、三方を壁に囲まれた中で、水面が陽光のごとく光彩を放っている。先に見た漆黒の闇は消え、煌々たる輝きの中には一点の曇りすらない。
円い光の輪の上に、細長い石が浮かび上がった。波のない水の上で石片は僅かに振れ、動きを止めた。石の先が指す先には、南十字星。
室内へ振り返ると、誰の手も触れぬまま天球儀が回り始めている。球はかすかな音も立てず急速に自転を続け、やがてぴたりと止まった——止まったように見えた。
「南」の文字盤のすぐ上で、十字の線が蝋燭の灯を受けて輝く。
球面に描かれた無数の星屑は、海上の夜空に散りばめられた星々の位置を写し出していた。
*
鐘楼の鐘の音は、十二回。いま一瞬前までの過ぎた日の終わりと、たったいま訪れた新たな一日の始まりを告げる。
悠然と立つシレアの時計台が眼前に近づく。美しい文字盤の上で、二つの針が揃って真上を指している。
時計台の踊り場に、祭の衣装に身を包んだ妹王女が見えた。こちらに気づいたのか、王女の細い手が高く上がる。
月の姿のない新月の夜。また今日から新しく、天の巡りが始まる。
吸い込まれそうな深い空に、秋の星辰がまばゆく煌めいた。
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