第十二話 始動(三)

 翌朝、部屋に射す朝日の眩い光でカエルムは目を覚ました。寝台から身を起こし窓を開けると、涼やかな風が鼻腔を通る。磯の香りは祖国シレアには無いものであり、異国にいるという実感を強く思い覚ます。

 水平線から昇ったばかりの太陽に、海は黄昏とはまた違う明るい輝きに満ちていく。潮騒に答えてかもめが啼き交わし、海原へ飛んで行った。絵のごとき情景に、カエルムは緊迫した今の状況を一瞬だけ頭の隅へ追いやり、眼の前の美しさにしばし見入った。

 ほんの短い休息を終えて窓を閉め、身を整えると、カエルムは部屋の扉へ耳を寄せた。廊下を行く足音は聞こえない。そっと扉を開けて外の様子を窺う。人の気配は無い。

 さすがに朝から勝手に部屋を出歩くのはまずいだろうかと、少しばかり躊躇する。とは言っても出るなと言われたわけでもない。大体、ロスには別の部屋が与えられたのだ。見つかって問いただされたら、従者に用向きがあるとでも何とでも理由をつければ向こうも文句は言えないだろう。

 そう判断すると、カエルムは細く開けた扉をするりと抜けて、音を立てないようそれを閉めた。


 ***


 天空儀のある部屋とは反対方向へ足を向ける。極力、靴音が鳴らないように意識すると自然に歩みが遅くなるが仕方ない。自室へ確実に戻れるようそれぞれの廊下の装飾と曲がり角を頭に入れつつ、露台へ向かう道はどれだったか記憶を辿る。

 いくつかの分かれ道を曲がり階層を一つ上がったあたりで、カエルムは違和感を感じた。全身の神経を緊張させ、四方へ意識をやる。

 ——尾けられている。

 摺り足の動きを速め、廊下が十字に交差するところを素早く右に折れる。壁に身を寄せ、後方から来る者の気配を窺った。しかし向こうもすぐに追っては来ない。

 ——こちらが進まないのに気づいて……?

 これでは埒が明かない。探り合いが続くだけだ。そう判断すると、カエルムは靴底を床に規則的に打ち付けた。

 すると、もと来た廊下の床にも、微かに靴を滑らせる音がする。そしてよく磨かれた窓の硝子に人影が映って揺れた。

 ——なるほど。

 ふっと緊張がほどけ、肩の力が抜ける。心せずして口元に笑いが浮かんでくるのに気づく。

「おはようございます。随分と早起きですね」

 カエルムはさっと角から身を現し、相手の姿を正面から捉えた。先方は驚きを露わにその場で硬直したが、それも束の間ですぐに自然な対話の形へ体勢を崩した。

「こちらはうまやに餌をあげに行っていたので」

 高い声にわざとらしさが混じる。まだまだだな、とカエルムは苦笑した。むしろ微笑ましい。確かに数年前の妹に似ているかもしれない。そう思うと廊下を戻り、スピカと対話できる位置まで近づいた。

「我らの馬も貴女あなたが? 助かりますね。ありがとうございます」

「どういたしまして……王子様は何してるんですか?」

 背が小さいので、スピカは上目遣いでこちらを見上げる。くるりとした瞳は可愛らしいが、そこにはカエルムの真意を読み取ろうという猜疑の念が浮かんでいた。昨夜、青年が見せた鋭さを思い出させる。

 カエルムは肩を竦めた。

「昨日、あの青年に海が見える露台に案内してもらいましてね。不思議に光る水面があったでしょう。美しくて、頭に残りまして。随分と朝早く目が醒めてしまったものですから、もう一度見に行きたいと思って部屋を出たのですけれど」

 心底困った風なふりをしてみせると、スピカの方はちょっと意外だと瞳を開き、それから呆れたふうに溜息をついた。

「……だからってやたら城の中歩き回るなんて。うるさいのに文句言われちゃうわよ。あの明かりなら露台以外からでも見えるけど、朝にはあそこは……」

 やれやれと首を振りながら、スピカは咎め口調になっていくのを抑えもせずに言ってのけた。

「そろそろ城の中もみんな起き出すし、お部屋にいた方がいいんだと思うの。それに」

 ——今は駄目か?

 内心、この幼い尾行者の気を変えて、どうやって露台まで案内させようか思案し始める。

 だが、スピカが懐から取り出した物を見た途端、カエルムの気も変わった。

「これ、届いてました。王子様、お部屋で見た方がいいんじゃない?」

 差し出されたのは小さな書状。それを細く丸めている紐は、鮮やかな紅葉の色——。

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