第二十九話 凶兆(二)

 顔に焦りを露わにして姿を見せたロスの手の内に、カエルムは筒状に巻かれた書簡をみとめた。指の隙間から垂れる紅葉色の組紐。ロスが何か言いかけて口を開いたのを、小さく首を振って制する。

「あ、ロス様ももう、見るところは終わりましたか」


 クルックスはカエルムの仕草には気が付かなかった様子だ。特に勘ぐる風もなく、屈託のない語調でロスに声を掛けた。会話の口火が向こうから切られたのを幸いに、ロスは書簡を胸の前に出して存在を知らしめる。


「スピカのおかげで。それより、国から書簡が来ています。取り敢えずこちらを殿下に読んでいただかなくては」

「私の部屋も近いが、この位置だと……」

「自分の部屋の方が近いです。従者である私の部屋に殿下をお連れするのを、咎めることもないでしょう? この城、広くてさすがに脚も疲れてきてますし、早めに腰を落ち着けたいので」


 シレア城の若干名以外がロスを見れば恐らく、主人の前で休憩を申し出るなどと全く迂闊な輩に見えただろう。しかし暢気のんきに見えるのはあくまで他国の城にいる以上、体面を保っているだけである。普段、特に外交の場において、ロスがカエルムのいる前で第三者相手に主人をおいて口を出すことは滅多にない。そのロスが自ら提案するあたり、カエルムには今のこの様子からして相当な焦りがあるのは明白だった。


「それは構わないと思いますけれど……ではロス様の御部屋までお送りしましょうか」

「いえ、それは……」


 そうロスが言い淀んでいる間にスピカがクルックスに走り寄り、何か言おうと袖を引っ張った。クルックスが膝を折ってスピカと身長を合わせてやると、顔の位置に近くなったクルックスの耳元にスピカが何か囁いた。するとすぐに青年が立ち上がって言った。


「分かりました。では、後でお部屋の方へ夕餉の頃に伺います。私達も、夕刻の仕事を済ませねばなりませんので」


 型どおりに、だが昨日今日見たよりも心持ち速い礼をとると、クルックスはスピカの肩を押して回れ右させ、二人を残してロスの部屋とは反対側へ歩き出した。去っていく後ろ姿を見つめて、カエルムの蘇芳色の瞳が鋭く光る。


「気付いたか」


 人のいない廊下で話し声はよく響く。二人の足音がほとんど聞こえなくなってから、カエルムは囁いた。


「ええ」


 ごく一瞬だった。瞬きほどの刹那、クルックスの眼に驚愕が走り、歯を食いしばるように下瞼が歪められたのは確かだった。スピカが何かを言った直後だ。

「あの二人は問題ないと思っているが。何かしら隠し事があるらしいな。警戒するに越したことは無いが……まず、書簡それの話から聞こうか」


 ***


 肖像画の並ぶ部屋から二つ曲がった廊下の並びに、ロスの居室が用意されていた。扉の上の絵画は渡り鳥と、安息を意味する瑠璃萵苣るりじさの花。もとより客間のためにあつらえられた部屋か。

 室内はカエルムの居室よりやや狭い。だがそれでも、寝台脇の小卓のほかに、部屋の中央には食事を取るのに十分な大きさの円卓と背もたれを持つゆったりした椅子が二脚ある。


 中に入り扉をしかと閉めると、ロスは手の内にある書簡を主人に渡した。それをすぐに開くと、カエルムは立ったままで組み紐を解く。瞳だけが文面を追って動き、ある一点で止まった。

 しばらく黙したまま書簡を見ていたカエルムが、息を吐きながらゆっくりと腰を下ろした。


「シレアの、地下水にまで変事が起きるとはな……」


 シレアの地下水——それは王城地下の一室に古くから存在すると伝えられている湧水である。岩で囲まれたそこでは、絶えず細い水が岩の間から流れ出て部屋の中に池を作っている。その量は天候やシューザリエ川の水量に左右されることはなく、常に一定で、増えることも減ることもない。温度すら変わらず、軒先に氷柱つららのできる厳冬にも凍ることがなく、夏には外気の暑さに疲れた手を癒す。この不思議な、あたかも貯水池のような部屋を誰がいつ作ったのかは、時計台と同じくいかなる書物にも伝えられておらず、口承すら聞いたことがない。


 その一定不変たるシレアの地下水までも、流れを止めた——そう、王女からの伝達には書いてあったのだ。

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