第十五話 思惑(三)

 居室から出て廊下を行く途中、男は沈黙を守っていた。靴音が廊下に響くだけで、男の考えや立場が分からない。その寡黙さは冷静に戦況を見る軍人の落ち着きを思わせた。

「失礼ですが、貴方は?」

 ロスが質問したいと全身で訴えているのも感じて、カエルムは尋ねた。

「近衛師団長をしております。王をお守りする身として」

 そう答える男の声には感情が無い。会話を続けることのできる回答でもなく、部屋に着くまで再び沈黙が続いた。




 二人が通されたのは昨日と同じ部屋だった。部屋の中央にある国の宝たる天球儀は、依然として昨日見た時と同じ位置で止まり、示す天の地図は何も変わっていない。

「それでは、しばらくここでお待ち下さいますよう。すぐに戻ります」

 そう言う近衛師団長は面でも被っていそうな無表情で、一言たりとも口を挟む隙もなく、カエルムとロスは部屋に残された。ロスは手持ち無沙汰に室内を歩き回り、装飾や天球儀を眺める。

「シレアにはない珍しいものっていう点を除いても、改めてみると不思議な気分になりますね」

 ロスは天球儀に近づいてしげしげと眺めた。常に自転するという事実を知らずに一見しただけでは、精巧な作りこそ他に類がないとはいえ、それを除けば普通の天球儀である。しかし部屋に満ちる重々しい沈黙の中、その文字盤の金文字が放つ光の煌めきは、奇妙にも不穏に思われるから不思議だ。

「言ってみれば、ただの機械に過ぎないのにな。これが止まったからと言って現実の方位が変わるわけでもない」

 所詮は意識の中での問題であるはずだ。それにも関わらず、モノの異常に狼狽うろたえるのは何故だろうか。自国の時計に重なるものを感じながら、カエルムは窓の外へ視線を投げた。曇天の下、海の色は暗澹たる灰青を見せ、水平線は昨日見せた光を失っている。

「ん?」

 沖の方から岸へ視線を動かし、カエルムはふと、部屋の斜め下の位置に件の水面が見えるのに気がついた。海の中で切り取られたような水面。確かにスピカの言うように、昨夕の輝きはなく、波一つなく雲間から僅かに射し入る太陽の光を反射するだけである。

 光が消えると言うのが本当だとは、話に聞いても実際に見ないと分からないものだ。眩い発光がなければ神秘的な雰囲気は感じられず、ただ単に城の建築の一部として在るものとすら思われる。

「お待たせ致しましたな、シレアの王子」

 疑問を抱きながら水面を注視していたところで、カエルムの背後の扉が開かれた。近衛師団長を後ろに従えた大臣だった。威圧的な態度は昨日から全く変わらない。

「いえ、部屋の造り自体が我々には珍しいので、待った気は致しません」

 カエルムはにこやかに応えた。その次に、眼光で相手を射抜く。

「それで、貴国の陛下は」

 もしかすると王が来るかと淡い期待がないわけではなかったが、はじめに大臣が現れるのはまずまずカエルムには想定内のことだ。

 大臣は僅かたりとも動じずに、淡々と答えた。

「昨晩より、この天球儀の異常に対してどのような策を取るべきか、陛下と共に諸官総出で審議しているところです。陛下は寝る間も惜しんで業務に当たられております」

「それはお気の毒ですね。せめて御休憩をなさらないと良い案も浮かびますまい。どうです、陛下の心労を和らげるためにも、共に昼食でも」

 食事くらいはとられるでしょう、と言外に問う。それも分かっただろう。大臣は首を横に振った。

「申し訳ないが目下、貴殿のお相手をするほど御心の余裕は今の陛下にはおありでない。この時分に貴殿にお会いしては、無礼に値するやもと気を揉んでいらっしゃる」

 大臣はそこで言葉を切り、しばし瞼を閉じた。再び開けられた目には芝居がかった明るさが宿った。

「貴殿も二、三日、テハイザ宮にくつろがれるのが良いと。そのような若さで政治ばかりに没頭するのも不健康ですからな。しばし日頃の務めを忘れて御滞在なされば、と」

 思いも寄らぬ提案に、横で聞いていたロスは唖然とし、咄嗟に立場を忘れて口を開こうとしてしまった。だが、カエルムの鋭い声が発せられる方が先だった。

「過分な御心遣いですが結構です。こちらはすでに事前に書状を出し、貴国からこの日程での謁見について確約を賜っている。私どもも国での務めがございます。一刻も早く会談に入るのと、御目通りを先送りされることと、どちらが貴国の誠意により感謝するかなど、お解りでしょう」

 言葉こそ丁寧だが、カエルムの声は相手を刺す氷柱の如く冷ややかだ。

「貴国の状況を理解していないつもりはありません。しかし国王陛下御自身からそのお言葉すら拝聴出来ないとは。これ以上、陛下がお出ましになるのを先延ばしされるようでしたら、貴国テハイザの誉れ高い義気ぎきに傷がつくのでは」

 大臣は口を引き結び、ぎり、と歯軋りを立てた。静かな部屋の中でその音は思いがけず響いたが、カエルムは無視した。相手が口を開いたところを遮って言い放つ。

「明日まで、そちらの仰る通りにお待ち申し上げましょう。ただし、条件がございます」

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